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◆上閑蔵(かみかんぞう)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「井川」(明治44.4)を使用したものである

所在:川根本町千頭(せんず)
地形図:寸又峡温泉/井川
形態:山の斜面に家屋が少数集まる
標高:約960m
訪問:2020年10月

 

 寸又(すまた)川の左岸、上閑蔵沢の北の斜面にある。
 林道(寸又川左岸林道)は一般車輛通行止めで、時間の都合で断念(2007年)。
 町史によると、離村直前で望月家・大村家の2軒。それぞれ千頭の大間(おおま)に移転。また元禄16(1703)年の検地帳には、「上かんそう」として1戸の屋敷があったことが分かる。

 2020年、左岸林道より訪問。林道沿いにかつての林業の宿舎(写真2)が見られるが、この付近が集落跡。道上には石垣がまとまって見られ、屋敷跡が1箇所確認できた。尾根筋の林道沿いには「おばぎりぼつ」の看板(写真9)が立ち、この道下では何かの小屋が見られた(写真10)。さらに下って傾斜が緩やかな範囲を探索してみたが、特に何も見られなかった(写真11)。
 続いて集落から離れ尾根筋を登ると、やがて平坦な土地が現れ始め、低い石垣が断片的に見られるようになる。石垣が途切れる高さまで登って引き返したが、この辺りで神社の跡と思われる場所を確認。しかし分教場(後述)の跡は特定できず。
 また上閑蔵沢付近の林道下にも何かの跡地が見られるが(写真24)、林業関係のものだろうか(1970年代の航空写真には何かの建物が確認できる)。

 なお町史には、「閑蔵の分校のそばに神社があり、大きな杉・檜があったのを覚えている」といった記述(尾崎出身者への聞き取り)や、「海抜約一二〇〇メートルの山間の地に、(略)分教場が建設され…」という記述があり、当地後方の尾根上に建設されたことが窺える。
 東側(ひがしがわ)分教場は、大正8年4月開設。それまでは大間小教場の校区であったが、遠隔地であり義務教育を免除されていた。その後湯山発電所の建設に伴い就学児童が増加したため、昭和10年3月新校舎落成。昭和16年3月閉鎖。在籍児童は大間分教場に移管となった。児童数は開設時7名、大正14年4名、昭和5年11名、同8年24名、同9年29名、同15年5名。
 ただし旧住民と共に分教場跡地に訪れた際の記述の中で、「そこは尾崎の手前、林道から五〇メートルほど下ったところで…」というものや、増築に関する記述の中で「大雨の日などは閑蔵方面からの通学は厳しかったようで…」というものもあり、位置については釈然としない(上日向に存在している時期もあったのだろうか)。


◆追記

 2024年2月、閲覧者様より当地に関するメールをいただきました。
 いただいた情報によると、分教場は開設時には上閑蔵に所在。のち昭和期に湯山ダム関係者の児童の増加があり、日向の屋敷を改装し新校舎にしたとのことです(営林署勤務・谷田部英雄氏の著書および温泉旅館翠紅苑初代オーナー・望月恒一氏の著書からの出典)。
 この場を借りてお礼申し上げます。

 


写真1 集落遠景(写真中央付近)

写真2 宿舎

写真3 農地跡

写真4 貯水設備(宿舎に水を供給するものか)

写真5 屋敷跡

写真6 写真5の遺構

写真7 石垣

写真8 「おばぎりぼつ」付近の林道

写真9 「おばぎりぼつ」の看板

写真10 道下の小屋

写真11 緩やかな尾根の先端

写真12 尾根上で最初に見える石垣(以下尾根上の高所)

写真13 写真12の平坦地

写真14 写真13の段差

写真15 遺構

写真16 石垣

写真17 何かの跡

写真18 写真17の遺構

写真19 神社拝殿跡?

写真20 拝殿本殿間の石段?
 
写真21 神社本殿跡?
 
写真22 写真21近くの巨木

写真23 写真22根元の石仏。「貞享四夘年二月十一日 望月…」などとある

写真24 何かの跡(以下上閑蔵沢付近)

(写真25 上閑蔵沢橋)

(写真26 写真25の親柱。「かみかんぞうさわはし」と見える)

(写真27 閑蔵沢に架かる朝日(あさひ)橋。上閑蔵沢橋と連続する)

(写真28 写真27そばの看板)

 

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