◆戸土(とど)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「小瀧」(昭和30.7)を使用したものである
所在:小谷村北小谷(きたおたり)
地形図:雨飾山/小滝 越後大野/小滝
アクセント:トド
形態:山中に家屋が集まる
標高:約540m
訪問:2015年11月
大字北小谷の北部、新潟県との県境付近にある。
長野県の集落であるが、新潟県からのアクセス(県道225号)が一般的。村内からは、横川・殿行より鳥越峠を越え長い道のりを歩かなければならない。
村誌によると、中股・押廻を含め、昭和33年24戸123人、同43年23戸79人、同51年5戸13人、同60年4戸9人、平成4年3戸7人。
また資料『小谷の民俗』によると、明治初年に14戸。うち赤野家12戸、杉山家・後藤家が1戸ずつ。土着は赤野と和田。屋号は「向(むこう)」「古屋(ふるや)」「大屋家(おゝやけ)」「おもや/あたらしや」「新屋(あらや)」「しも」「下(した)」「新屋敷(あらやしき)」「杉山(すぎやま)」(杉山家)「田の向(たのむこう)」「小屋家(こやけ)」「上坂」(赤野家1戸と後藤家は空欄)。また上向組・下向組・下戸土組に細分されていたよう。全戸が新潟・糸魚川の善導寺(浄土真宗)の檀家であった。当地には講を行うお堂があり、善導寺から賜った立派な仏像も納められていた。昭和2年の大火や度々起こる地辷りにも影響が及ばず、信仰もますます深まったという。
当地は地辷り(この辺りの言葉で「ヌケ」)が起こりやすい地質であるため、3回4回と移動をした家もある。集落の地形も昔から見るとだいぶ変わっているとのこと。
水利が悪く水田も少なかった。明治41年、杉山久吉氏の主導で用水路の開鑿を開始(信越用水)、戸土から8kmほど上流の前沢から水を引き、糸魚川和泉(いずみ)の辺りまでを灌漑する大規模なものとなった。
押廻・中股とともに新潟の経済圏であり、結びつきも強かったよう。古くは戸土・押廻・中股・横川・殿行は越後の領地であるという山口(やまぐち)村(現在の糸魚川市山口等)の言い分と、信州の領地であるという小谷村の言い分が長いこと対立していた。元禄13(1700)年、山口村が小谷村を相手取り幕府に訴えたが、同15年信州側の主張が全面的に認める判決が下る。現在もこの決定に従って県境が定められている。
以下は学校の変遷。
明治7? |
戸土支校開設 |
明治 |
戸土簡易小学校となる |
明治25 |
大網尋常小学校戸土分教場となる |
明治41 |
北小谷尋常小学校戸土分教場となる |
明治45 |
北小谷尋常高等小学校戸土分教場となる |
大正 |
校舎移転 |
昭和5 |
校舎移転 |
昭和16 |
北小谷国民学校戸土分校となる |
昭和22 |
北小谷小学校戸土分校となる |
昭和36 |
校舎移転 |
昭和46 |
休校 |
昭和49 |
閉校(HEYANEKO氏調べ) |
なお北小谷中学校戸土分校が昭和24年2月より併設され、同43年に本校に統合された。
校地の位置は4度変更している。2番目の校舎は屋根がいくらか新潟に張り出しており、雨が降ると「信州の雨だれが越後に落ちているぞ」と越後の人に言われたという逸話がある。3番目の校舎は2階から海が望めるため、長野県で海の見える唯一の学校として知られた。また同じ頃には隣接する糸魚川市大久保(おおくぼ)の児童も通学し、この状況は終戦後まで続いた。
付近で会った方(大久保の縁者)の話では、分かるもので12軒。赤野(あかの)家が多かったとのこと。 現地は数軒の家屋が建てられているが、屋敷跡に建てられた別宅も多い。屋敷跡も散在し、屋号「新屋敷」の赤野家跡には屋敷跡の碑が建てられている(写真7)。最近の地形図に記されている記念碑は、杉山久吉氏の頌徳碑(写真8)。当地にあった北小谷小学校および中学校の戸土分校の跡地には、学校跡の碑(写真9)と戸土の碑(写真10。平成23年11月、戸土・押廻・中股(※1)有志一同による設置)が建てられている。また集落南西には「境ノ宮(さかいのみや)諏訪神社」(写真14)があり、県の無形民俗文化財である「式年薙鎌打ち神事」(※2)にゆかりがある。
※1 碑では「中俣」の表記
※2 諏訪大社下社の宮司が神器の薙鎌2振を持ち、1振を中谷大宮諏訪神社に奉献、もう1振を当地もしくは中股小倉明神の神木に打ち込むというもの。起源は定かではないが、元禄時代には既に行われていた記録がある(説明板より要約)
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