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◆奥巣原(おくすはら/オクスワラ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「大野」(昭和22.2)を使用したものである

所在:大野市巣原(すはら/スワラ)字上出(うえで)・親川(おやがわ)・南出(みなみで)・下南出(しもみなみで)ほか
地形図:宝慶寺/大野
アクセント:オクスハラ・オクスワラ(単に「巣原」と呼ぶ場合はスワラ
形態:谷沿いから山中にかけて家屋が集まる
離村の背景:災害、のちダム建設に伴う孤立化
標高:約550〜600m
訪問:2012年11月

 

 大字巣原の中部やや東寄り、雲(くも)川右岸の斜面にある。
 以下は市史および「角川」より集落に関する記述。

戸数・人口は巣原全体(羽付上野含む)で、明治5年47戸302人、同44年55戸395人、大正9年64戸418人、昭和5年47戸302人、同44年55戸395人、大正9年64戸418人、昭和5年58戸384人、同30年67戸478人。昭和40年の豪雨による被害で他集落が離村し、当集落は孤立。翌41年全戸が離村した
明治期の主な生業は林業で、ほか生産は少ないがオウレン・ヨモギ・紙を産した。農作物として自給用のアワ・ヒエ・キビ・ソバ、大豆・小豆を栽培。米は皆無であった。なお「角川」には焼畑・植林・炭焼き・養蚕・紙漉きに従事とあり、これは後年のものか
神社は神明社。離村に伴い大野市下据(しもしがらみ)に西谷神社を創立、他集落の神社とともに合祀された
学校の沿革は以下のとおり

 明治10.7  開校
 明治23  巣原尋常小学校となる
 明治37  熊河温見に分校設置
 昭和16  巣原国民学校と改称
 昭和22  巣原小学校と改称。巣原中学校併設
 昭和41  小学校・中学校休校

 昭和43

 小学校・中学校廃止

 また中島に展示されている集落の地図(昭和30年頃)には、山崎13・山口7・池端5・吉田5・久保4・岩田2・尾上2・尾崎・川端・中南・長谷川・南口・宮本・山田各1の計45戸のほか、道場(寺号のない仏教施設)や川沿いの低地に水力発電所が記されている。なお尾崎家は菓子を取り扱っていたよう。

 現地の建物は作業小屋が数棟と、学校近くには離村後に建てられたと思われる小さな家屋や大型の建物が見られる。学校跡には門柱がしっかりと残されており、校地には「故さとの碑」(写真8)が立つ。また集落上部にはさながら公園のような広場(写真13)があり、東屋や人工的な小川が作られている。
 以下は「故さとの碑」(昭和44年建立)の全文。


 昭和四十年九月十四日全村域に亘り襲つた千粍余の集中豪雨が因となり数十戸は愛惜の情を断ち切り村を離れた
更に昭和四十一年下流防災目的のため真名川ダムの建設が決定各部落のすべてが離村し当部落は社会生活から孤立することとなるため幾百星霜統けられた伝統の厂史をとじ先祖伝来より想い出深い山河と別離の悲運にあう
移住にあたりふるさとの碑を由緒あるこの地に建立当時の在住者の名を記し永えにこれを伝う


 なお当集落から3kmほど南東にある「平家平(へいけだいら)」についても述べる。戦後に開拓が行われたようだが、その時に定住者があったかどうかは読み取れず(市史より要約)。
 ―「平家平」は平家の伝説が残る地で、平家の財宝を隠したと伝わる平家窟がある。言い伝えでは、平家敗北の際に300余人がここに隠遁し家屋を構えたという。7、80戸の家と2寺院(東の坊・西の坊)・神明社があった。財宝が尽きたことや農地に適さない環境であったため次第に離散し、集落は滅びた。神明神社と平家踊・歌は巣原に残り、仏は池田町水海(みずうみ)の誠徳寺へ移ったという。昭和の開拓以前にも、礎石や陶磁器の破片などが出土している。昭和30年頃、食料不足や次男三男対策として、国・県村一体となり土地造成が行われたが、痩せた土壌・寒冷な気候等による悪条件や、生活物資の不足のため3分の1の入植者も得られずに荒廃した。

 


写真1 遺構(手前)と小屋

写真2 屋敷跡

写真3 湧水池と小屋

写真4 神社跡?にて。瓦

写真5 墓碑

写真6 何かの建物

写真7 学校跡

写真8 碑

写真9 小屋

写真10 道路沿いの石垣

写真11 遺構

写真12 小屋

写真13 広場

写真14 神社。以下
中島にて

写真15 学校

 

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