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◆奥山(おくのやま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「東茂住」(昭和29.6)を使用したものである

所在:富山市奥山
地形図:東茂住/有峰湖
形態:山中に家屋が集まる
標高:約750m
訪問:2011年6月

 

 町の西南部、長棟(ながと)川右岸山中にある
 訪問は長棟林道より。奥山発電所の送水管に到着後、脇の階段を利用。地形図にはこの送水管と合流し、のち集落方面へ延びる山道が描かれているが、それらしい道はまったく見当たらない。上端到達後、適当な場所から上部へ向かうと、桧峠から集落まで延びると思われる昔の道へ合流。尾根上の地蔵(写真2)の元にたどり着いた。古い地図では集落までが県道として描かれており、道幅も意外に広い。かつては荷車も通ったのだろう(現在の県道は大字大双嶺の荒屋敷まで)。
 道は笹藪や草藪で荒れており、人の往来がある様子はない。やがて杉の植林地に入るが、この付近が集落跡。農地跡と思われる平坦地が段々になって広がり、何かの穴がいくつも集まっている場所もある。屋敷跡は推測に留まったが、古い石臼なども見つかった。なお町史によると、奥山字川平割2番地乙に熊野神社がある。
 「角川」によると、村民は炭焼きや長棟鉱山のボッカ(歩荷)をしていたが、のち全村木地屋に。飛騨から入った木地師もおり、2軒が小椋姓を名乗った。木地製品は岐阜県船津町【のち神岡町、現・飛騨市】・富山市へ送られ、のち直接京都とも取り引きされた。児童の通学は福沢(ふくさわ)小学校小坂分校。郵便物は夏期にしか配達されず、昭和11年には無家となったという。
 資料『村の記憶』によると、無人化は昭和32年(話者は最後の1軒の住民)。炭焼きや木地屋の仕事のほか、畑では豆・野菜・蕎麦などを作った。米も作れたが、水が冷たいので3分の1は水を温めるための田だったという。筆者は反射板の巡視路から訪問したとのことで、こちらのほうが行きやすいよう。
 大字奥山は近世の新川(にいかわ)郡太田荘の奥山村。明治22年上新川郡福沢村(のち大山町)の大字となる。明治9年14戸。明治30年頃8戸、大正中期3戸。昭和5年3戸23人(角川)。

 


写真1 送水管にて。「奥山P/S水槽昇り口」とある

写真2 尾根上の地蔵

写真3 集落への道

写真4 屋敷跡?

写真5 屋敷跡?

写真6 水場?

写真7 石臼

写真7 何かのかけら

写真9 農地跡

写真10 同

 

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