戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆長棟(ながと)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「東茂住」(昭和29.6)を使用したものである

所在:富山市長棟
地形図:東茂住/有峰湖
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約1,000m
訪問:2011年6月

 

 町の東南部にある。
 訪問は岐阜県神岡町【現・飛騨市】の林道より茂住(もずみ)峠を経由。集落に到達すると、まず道路脇に小さな祠が見える(写真1)。さらに道に沿って進むと神社・石仏群が見られる(写真2・3)。道路西側の藪の中では、いくらかの屋敷跡や墓地跡(写真5)も確認できた。古い地図の「学校」(後述)の位置は少し開けた平坦地になっており遺構らしきものも見られる。寺院は特定できなかったが、小さな平坦地がそれか。
 
町史によると、ここに住んでいた7戸の人々は、
岐阜県神岡町(【現・飛騨市】)大津山(※)に住み、鉱山夫として働いている(刊行当時)という。鉛山発見以前(元和年間)には農家が3軒。
 また
以下は鉱山に関する記述。

寛永3(1626)年、大山左兵衛により鉛山が発見される
最盛期は開坑から正保頃までの約20年間。この間は家数300軒、山小屋800軒といわれた
以降は衰微。鉛価格の暴落等で生産額は減少、労働者の生活は困窮し、多くの者が離散した。寛文5(1665)年には家14軒・山小屋22、3軒。延宝8(1680)年家30軒・飯場20軒
しばらく家数は20軒台で続いたが、享保18(1733)年の飢饉により6軒に減少(これらの多くは明治まで残る)
文政4(1821)年、鉛山は藩の直営となるが再興せず

 資料『有峰の記憶』によると、郡内では有峰とともに学制制定以降就学免除地であったが、明治39年「特殊教育所」を設置。全国的にも稀な措置。大正14年5月13日、福沢小学校長棟分教場となる(※)
 資料『村の記憶』によると、大正12年6月の家は以下のとおり(■は本文でも判読できていないもの)。

屋号 備考
猪谷 清三郎 以下左岸
山口  
寺■ 弥五平  
猪谷 平右エ門  
山村 碁右エ門  
助三郎  
増田 弥七  
池原 (記載なし)  
村上  
増田 作右エ門  
三田 伝次郎 以下右岸
船山 太郎助  
中町 権平  
森田  
瀬川 ■平  

 ほか金比羅社・名称不明の神社・子安観音・観音堂が記載されている。
 なお大字長棟は近世の新川(にいかわ)郡太田荘の長棟村。明治22年福沢村(のち大山町)の大字となる。明治20年32戸。大正3年の洪水で戸数15戸となり、同15年10戸。昭和5年10戸56人(角川)。

※ 廃止時期は「角川」で昭和16年、『村の記憶』で昭和10年。また同年を廃村時期としている

 


写真1 祠

写真2 神社

写真3 石仏

写真4 屋敷跡の遺構

写真5 墓の跡

写真6 「学校」付近の遺構

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ