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◆地蔵平(じぞうだいら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「秦野」(昭和22.2)を使用したものである

所在:山北町世附(よづく)字笹小屋?
地形図:中川/秦野
異表記:大又
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:事業の移転
標高:約600m
訪問:2009年3月

 

 世附川の支流、大又(おおまた)沢(地形図では「大股沢」)の上流にある。
 地元の方(浅瀬(あさせ)集落在住)の話によると、かつては17軒。住民は林業従事者がほとんどだが、炭焼きを行う家もあった。無人になったのは今から42年前(1967年?)。学校(三保(みほ)小学校大又分校)があり、教師が2人在籍していた。地蔵がある辺りの前に、校舎や宿舎があったという。また地蔵平から浅瀬まで軌道が設けられ、物資が運ばれていた。
 
現地には神社(山の神社?)(写真1)・地蔵堂(写真2)・「遭難者精魂碑」(大正9年建立)・「大震災殉難者精靈碑」などの碑(写真3)があり、屋敷跡(写真4)も確認できる。なお浅瀬集落から先は、一般車は通行できない。

 以下は町史より引用。

・集落の形成・消滅
 明治期には既に集落が形成されていたが、大正9年の水害により一時壊滅したといわれる。その後荒廃した林地の復旧事業に伴い、地蔵平を中心に大又沢流域に集落が形成されていった。流域の戸数は一時200を超える。
 流域の居住地のうち、特に地蔵平付近のことを「大又」と称した。
 昭和9年には浅瀬集落から軌道が敷かれ、木材や木炭などを運搬していた(昭和35年廃止)
 昭和25年には営林署の
事業が水ノ木方面(世附川上流部)に移動し、家々は次第に分散。町が山を降りることを勧め、土地を斡旋、このとき残っていた5戸すべてが世附の中畑へ移転した(昭和39年)。僅かに営林署宿泊所の管理者が残ったが、1年後に転出。集落は消滅した。
・生活
 帝室林野局の仕事を請け負っていた野沢氏を頼って、同郷の富山県から出稼ぎに来る人が多かった。ほか静岡県や山梨県から来る人もあった。
 仕事は倒木の搬出や治山・植林・製炭が中心。
 斜面の僅かな耕地に自家用の農作物が作られていた。大正期には一部に水田もあったが、大雨で流されたという。
 明治時代末期に発電所の取水口工事が行われた経緯で、大又沢には早くから電気が引かれていた。また行商も頻繁に往来していたため、生活は大変であったものの十分に維持する基盤はあった。
・地蔵
 もともと地蔵平に地蔵があったわけではなく、かつてはセギノ沢(大又沢上流部の支流)に祀られていた。子育てに験がある。昭和30年現在地に移転。地蔵堂は昭和24年・32年に修理が行われ、平成8年に新築された。
・分校
 大正12年開校。事業の移動とともに水ノ木や大又沢の「小枝」に移転したこともあるといい、最後に地蔵平に移った。最も多いときで40名ほどの児童が在籍。大滝沢からも78人の子供が通っていたこともある。昭和35年廃校。

 また雑誌『かながわ風土記』には、小田原市文化財保護委員の中野氏が、武田家に仕えた有力な家柄の末裔・雁丸(がんまる)氏の古文書を解きに同家を訪れるエピソードが記されている(49号・50号「箱根丹沢秘伝帖 まぼろしの村、地蔵平」)。当時(戦前)は20戸ばかりが暮らし、どの家も製炭や伐採などの山仕事に従事していたことが窺える。昭和10年前後が世附奥地での山仕事の全盛期であったとのことで、中野氏が訪問したのはこれをやや過ぎた頃であった。

 


写真1 神社


写真2 地蔵堂


写真3 石碑


写真4 屋敷跡


写真5 遺構

写真6 住宅地跡

 

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