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◆鈴木新田(すずきしんでん)地区



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「東京東南部」(大正8.1)を使用したものである

 

 「鈴木新田」は現在の東京国際空港(通称羽田(はねだ)空港)敷地内にあった村名および大字名。のちの羽田穴守町羽田江戸見町羽田鈴木町(現在の羽田空港一丁目・二丁目付近)の前身。以下は資料から主な歴史をまとめたもの。

 従来要(かなめ)島と呼ばれた出洲を、羽田猟師町(―りょうしまち)(※1)の名主、鈴木弥五右衛門が中心となって開墾した。天明年間(1780年代頃)より始まり、文化12(1815)年に事業が完成。新田開発に従事した農民もこの地に住み着いた。新田開発の従事者は近在農村の分家が多かったが、中でも大森(おおもり)村からの者が多かった。判明している15軒のうち11軒が大森出身者で、現在でもその子孫のほとんどは羽田に在住
 鈴木弥五右衛門は猟師町を子に譲り、文政2(1819)年頃にはのちの穴守稲荷を勧請。新田内に邸宅を構えて隠居し、後事を養子に託した
 明治22年、鈴木新田村・羽田猟師町・糀谷(こうじや)・下袋(しもぶくろ)村・浜竹村・萩中(はぎなか)村が合併し、羽田村(のち羽田町)が誕生、
鈴木新田村域は羽田村の大字鈴木新田となる。昭和7年羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町・鈴木御台場(すずきおだいば)に分割
 
明治5年102戸598人
 終戦後の昭和20年9月13日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は羽田の飛行場の引き渡しを申し入れる。21日には穴守町・江戸見町・鈴木町の住民に48時間以内の立ち退きが命じられた。これにより約1,200世帯3,000人が移転を余儀なくされ、土地はアメリカ空軍により接収された
 間もなく「ハネダ・エアベース」が建設され、昭和22年9月、空港用地も鈴木御台場・羽田御台場・猟師町御台場(※2)までを埋め立て拡張、同年外国の民間航空会社が乗り入れるようになる。日本の民間航空会社は昭和26年に運航を再開
 昭和27年一部が
返還され、以後運輸省航空局の管理下に置かれる。名称も「東京国際空港」に改称。
 昭和33年6月30日全面返還
 昭和42年5月1日、羽田穴守町・羽田江戸見町・羽田鈴木町・鈴木御台場・羽田御台場・猟師町御台場は羽田空港一丁目および二丁目となる

※1 主に現在の羽田二丁目・六丁目付近
※2 3箇所すべて鈴木新田の東、東貫(とうかん)川を挟んで島になった部分。現在の羽田空港二丁目の東南端。競馬場や日本特殊製鋼会社の工場があった。なお競馬場は昭和2年7月、現在の羽田中学校に羽田競馬場として開設。昭和7年7月鈴木御台場に移転し、昭和13年廃止された

 

 

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