◆重瀬(おもせ)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「東京西北部」(大正8)を使用したものである
所在:戸田市重瀬 地形図:赤羽/東京西北部 志木/東京西北部
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:本文参照
標高:数m
訪問:20016年3月
市の北西部。荒(あら)川の旧流路の右岸にあった地区。
以下は市史および資料『美女木・下笹目の民俗』より、当地の概要。
離村前は33戸。うち重瀬4戸・原通10戸・北地蔵木5戸・南地蔵木3戸・有毛1戸・山室4戸・渦(うず)3戸・奥渦(おくうず)3戸。ほか屋形船に居住し、漁撈や釣人の魚の調理を生業としていた船上生活世帯が3戸。以下はその内訳。
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地区 |
姓 |
屋号 |
移転先 |
備考 |
1 |
重瀬 |
小山 |
― |
市内美女木 |
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2 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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3 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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4 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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5 |
原通 |
小山 |
ハラノウチ |
〃 |
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6 |
〃 |
大貫 |
シンタク |
〃 |
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7 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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8 |
〃 |
大貫 |
― |
〃 |
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9 |
〃 |
大貫 |
― |
〃 |
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10 |
〃 |
蕪木 |
― |
〃 |
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11 |
〃 |
青山 |
ダイクサン |
〃 |
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12 |
〃 |
伊藤 |
― |
〃 |
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13 |
〃 |
蕪木 |
― |
〃 |
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14 |
〃 |
小山 |
ミセノウチ |
〃 |
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15 |
北地蔵木 |
小山 |
シンダナ |
〃 |
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16 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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17 |
〃 |
大貫 |
ネネガフチ |
〃 |
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18 |
〃 |
大貫 |
― |
〃 |
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19 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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20 |
南地蔵木 |
伊藤 |
ダイジン |
〃 |
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21 |
〃 |
小山 |
― |
〃 |
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22 |
〃 |
小山 |
カシチサン |
浦和市内谷(うちや)【現・さいたま市南区】 |
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23 |
有毛 |
蕪木 |
ノナカ |
美女木 |
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24 |
山室 |
霜田 |
ゲタヤ |
浦和市内谷 |
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25 |
〃 |
依田 |
― |
美女木 |
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26 |
〃 |
依田 |
― |
浦和市松本(まつもと)【現・さいたま市南区】 |
昭和17年移転 |
27 |
〃 |
伊藤 |
ヤマムロ |
美女木 |
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28 |
渦 |
依田 |
― |
〃 |
昭和17年移転 |
29 |
〃 |
伊藤 |
― |
〃 |
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30 |
〃 |
伊藤 |
― |
〃 |
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31 |
奥渦 |
大貫 |
タケヤ |
〃 |
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32 |
〃 |
伊藤 |
ウズノウチ |
〃 |
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33 |
〃 |
伊藤 |
タナノウチ |
〃 |
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(水上生活) |
島田 |
― |
東京・北区浮間(うきま) |
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(水上生活) |
吉田 |
― |
美女木 |
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(水上生活) |
鈴木 |
― |
浦和市松本 |
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昭和17年に2戸が個人負担で転出。その後昭和28、9年に残る31戸と船上生活世帯が転出(※)、無住となった。
当地は元来内間木(うちまぎ)村の大字下内間木(しも―)(現在の朝霞市下内間木)の一部で元来陸続きであったが、大正期の荒川改修により下内間木より分断、美笹村(現在の戸田市)の美女木地区と陸続きになった。このため大正10年に下内間木より分離し、大字重瀬として独立。昭和19年には美笹村に編入した。
荒川改修後集落は堤外に取り残され、新旧の流路に挟まれたことや流路の直線化で増水の勢いが増したことがあり、常に水害の危機に瀕することとなる。さらに河川法の適用地域となり、居住がありながら土地は原則として耕地としての利用のみという矛盾に直面する。再三に亘り政府に土地の嵩上げを陳情したが、河川法を理由にこれは認められなかった。改修後の大きな水害は、昭和3年・同13年・同16年・同22年(カスリーン台風)など。
昭和28年、ようやく国より移転費用が計上され、移転が現実のものとなる。しかし翌年の3月末までに退去という慌ただしいものであった。少数の反対者があったものの、各戸美女木や下笹目を中心に宅地を購入して移転した。なお農地はそのまま利用することができ、昭和56年に市および建設省が買収するまで耕作が続けられた。
氏神は重瀬地区にあった山王神社。明治の初め洪水で流され内間木村の氷川神社に合祀されていたが、昭和の初めに元の位置に復元された。移転と同時に美女木に移された。
明治の中頃まで重瀬地区に真言宗の西福寺が置かれていたが、洪水で流されたといわれる。
当地には北地蔵木地区に地蔵木の渡し(別名道満の渡し)と呼ばれる県営の渡船場があり、対岸の美女木地区とを結んでいた。河川改修後は重瀬の民営となり、地区の南西部(奥渦地区)に移動し下内間木と連絡。のち北西部(重瀬地区)に移動し上内間木寄りになった。
道満地区にかけて広い竹林があったため、古くから竹箒が特産品であった。これは竹が洪水に強く、広く植えられたことが大きい。
また資料『荒川の水運』や浦和市史によると、舟運の拠点であった河岸(かし)が置かれていたとのこと。地蔵河岸、あるいは内谷側では道満河岸と呼ばれていた。
現在集落跡は「彩湖(さいこ)・道満グリーンパーク」および荒川貯水池(彩湖)、荒川と彩湖を隔てる堤防の用地となっている。園内の「観賞池」および「道満河岸釣り場」を結ぶ曲線が旧荒川の痕跡で、概ねその西側から市境までが重瀬の区域。屋敷跡等の痕跡は確認できないが、随所に残る竹林は集落の名残といえる。
※ 『美女木・下笹目の民俗』より。ただし市史には昭和27年に3戸が個人負担で転出、その後残りの30戸が昭和29年に転出となっている
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