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◆道満(どうまん)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「東京西北部」(大正8)を使用したものである

所在:戸田市内谷(うちや)・美女木(びじょぎ)
地形図:赤羽/東京西北部
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:本文参照
標高:数m
訪問:20016年3月

 

 大字内谷の西部。荒(あら)川の旧流路左岸にあった地区。西側の一部である高鳥地区と、他の大部分を占める道満地区からなる。
 
以下は市史および資料『美女木・下笹目の民俗』より当地の概要。

 同地は、大正・昭和の2度に亘って大規模な移転が行われ無住となった。大正のものは荒川の改修に伴うもので、高鳥地区より8戸、当時の荒川に近い世帯が移転した(ただし1戸は道満の別の場所に移転)。大正時代の移転世帯の内訳は以下のとおり。

  地区 屋号 移転先 備考
1 高鳥 石田 市内美女木  
2 水村 浦和市内谷(うちや)【現・さいたま市南区】 大地主
3 水村 道満 道満地内の移転
4 石田 タビヤ 美女木  
5 茨野 センダイサマ  
6 秋元  
7 秋元 シンヤ  
8 栗原 イドヤ  

 荒川改修後集落は堤外に取り残され、また流路の直線化で増水の勢いが増したことがあり、常に水害の危機に晒されていた。さらに河川法の適用地域となり、居住がありながら土地は原則として耕地としての利用のみという矛盾に直面する。再三に亘り政府に土地の嵩上げを陳情したが、河川法を理由にこれは認められなかった。改修後の大きな水害は、昭和3年・同13年・同16年・同22年(カスリーン台風)など。
 昭和28年、ようやく国より移転費用が計上され、移転が現実のものとなる。しかし翌年の3月末までに退去という慌ただしいものであった。少数の反対者があったものの、各戸美女木や下笹目を中心に宅地を購入して移転した。なお農地はそのまま利用することができ、昭和56年に市および建設省が買収するまで耕作が続けられた。
 以下は昭和時代の移転世帯の内訳。高鳥地区・道満地区の境界は当方で判断しかねたため、ここでは地区の別は割愛した。なおNo.12は、屋号より鑑み大正のNo.3と推測される。

  屋号 移転先 備考
1 町田 美女木  
2 水村 ニシノシンヤ  
3 宇田川 タケヤマ  
4 水村 ヤマノカミ  
5 市谷
6 水村 センゴヤ  
7 峰岸  
8 宮崎 市内下笹目(しもささめ)  
9 市谷 ヨロズヤ 美女木
10 水村 シンタク  
11 土屋 トウフヤ  
12 水村 アタラシイウチ  
13 竹内 (記載なし) 墓守
14 萩原 タマヤ 美女木  
15 市谷 ソウメヤ
16 市谷 ケサノクチ
17 江川  
18 中村 ゴンベドン  
19 服部  
20 秋元  
21 宮崎 オオヒガシ  
22 鈴木  
23 市谷
24 中尾 ショウジンバ  
25 町田 ゴイシバ  
26 峰岸 アズマヤ 集団移転以前に転出
27 奥墨 イシャドン  

※ 同書内の別の表「移転費用の分配」では「市ヶ谷」となっており、正しくはこちらか。なお「市ヶ谷」もしくは「市ケ谷」は、戸田市に集中する希少姓

 当地の川べりには円光寺という寺院があったが、流されてしまったという
 農業は稲作が中心であったが、戦前には養蚕も盛んであったため桑畑が広がっていたという。宅地や集落内の堤防(ハタガコイ)には洪水に強い竹を植えていたが、重瀬のように竹の栽培・加工は行っていなかった。
 当地の中心部には墓地があり、大正の移転の際には大野の墓が隣に移設されている。昭和の移転の後も家によってはこの墓に参っていたが、昭和58年に全部の墓が笹目五丁目の慈眼寺に移された。

 現在は「彩湖(さいこ)・道満グリーンパーク」および荒川貯水池(彩湖)、荒川と彩湖を隔てる堤防の用地となっている。重瀬との境界に沿った部分が集落跡で、園内ではバーベキュー広場や南駐車場が集落跡に当たる。屋敷跡等の痕跡は確認できないが、いくらか残る竹林は集落の名残といえる。

 


写真1 園内の集落跡付近。奥はバーベキュー広場


写真2 藪


写真3 藪にて。シュロは宅地の名残?


写真4 竹林と樹木。往時の名残?


写真5 西側の集落跡付近。高鳥?


写真6 同。池

 

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