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◆内野(うちの)



※ 概ね明色部
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「古河」(明治42.12)を加工し使用したものである

所在:栃木市藤岡町内野(ふじおかまち―)
地形図:古河/古河
形態:川沿いの低湿地に家屋が散在する
離村の背景:公害・水害および遊水地の造成
標高:約15m
訪問:2014年3月

 

 町の南部、現在の渡良瀬(わたらせ)川と群馬との県境に挟まれた場所にある現在の渡良瀬遊水地内で、大まかに第1調整池から「史跡保存ゾーン」にかけての地域渡良瀬遊水地の造成に伴い離村。旧谷中村の3大字のひとつで、明治9-22年の下都賀郡内野村。なお地図画像の明色部が旧内野村の範囲(町史を参照にしている)(※1)
 町史によると、内野村は「下宮(したみや)郷8箇村」(※2)のうち横堤(よこづつみ)・鎌立(かまたて)・赤渋(あかしぶ)・篠山(しのやま)・西高沙(西高砂)(にしたかすな)・高沙(高砂)(たかすな)の各村が合併して成立。以下に各村の概要を記す。

・横堤村…元禄年間、下宮村の枝村として成立。下宮郷の最北。天保年間の「村鑑」によれば25戸105人。神社に八幡宮・太神宮があった
・鎌立村…野渡(のわた)村(現在の野木町野渡)の枝村として成立。「村鑑」によれば40戸179人。神社に山王社があった
・赤渋村…野渡村の枝村として成立。下宮郷8箇村の中では最小の村。寺社はなかった。江戸末期には無住となる
・篠山村…下宮
村の枝村として成立。下宮郷の西端。「村鑑」によれば35戸150人。神社に山王社があった
・西高沙(砂)村…下宮村の枝村として成立。「村鑑」によれば58戸263人。寺社に愛宕社・薬師堂・大正院があった
・高沙村…下宮村の枝村として成立。「村鑑」によれば49戸203人。神社に八幡宮があった

このうち赤渋村は無住となったため周囲の村に包含され、明治9年4月(※3)には5箇村が合併し内野村となる。

 また藤岡歴史民俗資料館およびパンフレットにある土地利用図には、神明宮・八幡宮・日枝神社といった神社や、佐平沼・大神沼といった沼が見られる。また農地は畑が多く、水田は北側に集中していることが窺える。

※1 現行の大字内野の区域は、旧大字恵下野の全域と同下宮の大部分を包括。旧村域とは大幅に異なっている
※2 のちの谷中村を構成する村々。ほか
恵下野村があった。旧谷中村のページを参照
※3 ただし資料館の展示では明治7年とある

 現在は遊水地として整備され、見渡す限りの葦原となっている。全域が渡良瀬遊水地の調整池となっており、河川の氾濫等の際には浸水。東側の水路に近い一角で墓の基礎のようなものが確認できたが、集落の痕跡はほぼ皆無に近いと思われる。
 なお先述の「史跡保存ゾーン」では役場跡をはじめいくらかの痕跡が残さているが、かつての内野にあたる部分ではこれといった痕跡は見られなかった。
 地内にある「旧谷中村合同慰霊碑」(写真8)には、各地から集められたと思われる多数の墓石が置かれている(写真9)。
 ちなみに大字の境域は県道より西側のごく狭い区域を含んでおり、大字全体としては1世帯が現住。遊水地の造成時、当該箇所は境界未設定となっており、実質的な内野には含まれていなかったと思われる。

 


写真1 横堤地区の案内板


写真2 集落風景


写真3 同


写真4 同


写真5 墓の跡?


写真6 同


写真7 何かの遺構


写真8 慰霊碑


写真9 墓石群

 

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