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◆小滝(こだき



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「足尾」(昭和21.11)を使用したものである

所在:日光市足尾町(あしおまち)
地形図:足尾/足尾
離村の背景:産業の衰退

 

 渡良瀬(わたらせ)川の支流、庚申(こうしん)川に沿い、かつての小滝坑を中心とした鉱山集落。
 概ね
宇津野・花柄・文象(古足尾)・小滝・銀山平(ぎんざんだいら)5地区からなる。小滝坑があって栄えたが、昭和29年小滝坑閉鎖、社宅撤去となった。(角川)

 

 

≪宇津野(うつの)

形態:川沿いに家屋や施設が集まる
標高:約630m
訪問:2009年3月

 

 小滝地区に入って最初にある。宇津野橋の手前までの地区。かつて火薬庫(明治42年完成)や少数の住宅があった。
 現在は、何かの建物がいくつか残っている(写真1〜3)。
 文献『足尾銅山小滝の里』によると、選鉱所から運ばれた廃石(ズリ)を捨てる堆積場や火薬庫があったとのこと。火薬庫が置かれたのは明治42年頃。

 


写真1 建物


写真2 建物


写真3 建物

 

≪花柄(はながら)

異表記:花柄平(地形図)
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約650m
訪問:2009年3月

 

 宇津野の上流、宇津野橋から古足尾(こあしお)橋までの地区。
 
「角川」には「わずかの住宅が散在する」とあり、現在も滝沢橋付近の道沿いに数軒の空家がある。かつては専徳(せんとく)寺という寺院もあった。
 
町郷土誌によると、専徳寺は明治42年に真宗大谷派の説教所として創立(山号は光昭山)。大正11年寺号を受ける。昭和29年閉山により廃止。
 文献『足尾銅山小滝の里』によると、道の両側には商店が並び、明治・大正期は文象とともに栄えていたという。下花柄(現在の庚申ダム付近)には明治期に大工・豆腐屋・菓子屋・料理屋・旅人宿・畳屋・雑貨屋など、大正期になると酒醤油店、薪炭材木商などもできた。上花柄(梅(うめ)橋より北)は明治期に人力車・餅屋・桶屋・按摩・薪炭材木商・料理屋・土木・などがあり、大正期には芸妓屋などができた。

 

 

≪文象(ぶんぞう)

形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約700m
訪問:2009年3月・2019年5月

 

 古足尾橋より北側の地区。下流より文象・畑尾(はたお)・新長屋・広道路(広道地)(こうどうじ)の小地区があり、畑尾には発電所、新長屋の北には学校(小滝小学校・第三中学校)がある。広道路は、案内板より所員社宅・申武館・倶楽部があったことが分かる。
 以下は『足尾郷土誌』より小学校の沿革。

 明治26  私立足尾銅山尋常高等小学校小滝分校開校(※1)
 明治34  独立。代用私立小滝尋常高等小学校となる
 明治40  代用期間終了
 大正3.4.1  私立古河足尾銅山小滝尋常高等小学校と改称
 昭和16.4.1  私立足尾銅山小滝国民学校となる
 昭和22  小滝小学校となる。公立移管(足尾町立)
 昭和30(※2)  原小学校小滝分校となる

 昭和31(※2)

 閉校

※1 校名は日光市のウェブサイトより
※2 日光市のウェブサイトより。郷土誌本文でも経緯は記載されているが、年次と出来事の関連が分かりにくい表現となっている

 また以下は中学校の沿革と生徒数の推移。

 昭和22.4.1  第一中学校小滝分校開校
 昭和23.4.1  独立。第三中学校となる
 昭和28  閉校

年度 昭和22 昭和23 昭和24 昭和25 昭和26 昭和27
6 13 24 28 17 21

3 9 22 22 24 19
9 22 46 50 41 40


 2019年、畑尾・広道路を訪問。畑尾の橋は既に落ちているが、川へ降りる踏み跡もあり徒渉も可能。現地は防火壁が残るのみで、その他目立った痕跡はない。なお前回はよく確認しなかったが、古足尾橋付近にある人家は現住。

 文献『足尾銅山小滝の里』によると、銅山の社宅に近かったためたいへん栄え、商店や飲み屋が並ぶ繁華街を形成していた。地名の由来は、明治期に斎藤文蔵という人物が住んでいた事からという。文蔵氏は安永の頃の農民・斎藤市蔵の子孫で、市蔵氏は猿に嫁いだ娘の伝説(※)にまつわる人物であったといわれる。
 新長屋はもと廃石の捨て場であったが、宇津野に堆積場が造成された明治30年以降、整地され大正初期にかけて多くの長屋が建てられた。
 畑尾は製錬所から出たカラミなどで造成された平地で、役宅・鉱夫長屋のほか、小滝発電所があった。発電所の場所には元来小滝第三原動所があったが(明治20年末完成)、電力が不足し始めたため明治36年に発電所を新設。しかしこれも明治40年代から大規模な発電所が建設されため、大正5年に廃止された。
 広道路(広道地)には、初期には小滝製錬所が置かれていたが、
明治30年8月14日に廃止。当時煙害予防のため脱硫施設を建設するように命令があったが、本山・小滝で同時に大工事を行うことは困難であったため、本山のみに限定することとなった。跡地は浄水場の沈澱池・濾過池に転用。昭和初期の住宅図では、役宅・養成寮・プール・グランド・申武館などが記されている。プールやグランドは、もと沈澱池であったものを整備したり埋め立てたりしたもの。

※ ある猟師が庚申山中の深い谷で怪我をして動けなくなっていたところ、自分の娘を嫁がせる約束で猿に命を助けてもらった。3人の娘のうち末娘が申し出て猿との約束を果たしたが、後に山で猿になった娘を見かけ、泣いて山を降りた、というもの

 


写真1 学校跡(以下2009年撮影)


写真2 住宅跡(新長屋)


写真3 同


写真4 右岸の畑尾地区


写真5 畑尾橋の跡(左岸側)(以下畑尾。2019年撮影)

写真6 畑尾橋の跡(右岸側)

写真7 集落風景

写真8 防火壁

写真9 水路

写真10 遺構

写真11 遺構

写真12 石垣
≪広道路(広道地)≫

写真13 三養会(生協)跡

写真14 住宅跡の石垣

写真15 グラウンド

写真16 遺構

写真17 遺構

写真18 グラウンドの石垣と道

写真19 瀬戸物片(便器)

写真20 住宅跡

写真21 住宅跡

写真22 写真21の遺構

写真23 濾過池・沈澱池の石垣

写真24 濾過池・沈澱池付近

写真25 石垣

 

≪事業中心部≫

形態:川沿いに家屋や施設が集まる
標高:約750m
訪問:2009年3月・2019年5月

 

 小滝地区の中心地。小滝坑(廃坑)や選鉱所をはじめ、多くの鉱山関連施設や社宅・鉱夫住宅があった。現在は記念碑が建ち、往時を偲んでいる(写真1)。
 なお北夜半沢・南夜半沢・爺ヶ沢・二号地といった居住区があり、以下のような施設があった(案内板より)。

・事業中心部 事務所・配給所・小滝会館・青葉寮・索道の停車場など
・二号地 鉱夫住宅
・北夜半沢(きたやはんざわ) 鉱夫住宅
・南夜半沢(みなみやはんざわ) 鉱夫住宅・病院
・爺ヶ沢(※) 興亜寮(中国人捕虜収容所)

※ 文献『足尾銅山小滝の里』より、「じじ」までの読みは確定

 文献『足尾銅山小滝の里』によると、選鉱所は明治27年完成、大正9年9月廃止。病院(医局)は明治22年開設、明治41年に通洞(つうどう)医局が足尾鉱業所付属の本院となったため、小滝医局はその分院となる。閉山に伴い昭和29年8月廃止。

 2019年、二号地・北夜半沢・南夜半沢・爺ヶ沢を訪問。
 二号地は初期の旧小滝坑付近から、もしくは青葉寮付近から道が通じていたが、前者は道路拡張に伴う法面の工事により消滅している。
 北夜半沢の登り口も同様に法面工事により削られているが、新たに階段が作られ取り付きは容易。
 南夜半沢は橋梁(馬立(うまたて)橋)が既になく事業中心部から直接渡ることはできないが、北夜半沢経由での訪問が可能。爺ヶ沢も同様。

 

≪事業中心部≫


写真1 記念碑(以下2009年撮影)


写真2 精錬所跡


写真3 坑夫住宅跡

写真4 坑夫浴場跡

写真5 初期の小滝坑跡(以下2019年撮影)

写真6 旧小滝橋

写真7 旧小滝火薬庫跡

写真8 鉱盛橋跡。左は親柱

写真9 事業中心部の風景

写真10 製錬所・選鉱所跡付近

写真11 階段

写真12 階段

写真13 施設の遺構

写真14 青葉寮登り口

写真15 青葉寮跡

写真16 往時の風景
≪二号地≫

写真17 青葉寮付近から二号地へ通じる道

写真18 遺構

写真19 階段

写真20 住宅跡

写真21 水路の一部

写真22 住宅跡

写真23 瀬戸物片

写真24 階段(写真中央)。右は石垣の角部分が残ったもの

写真25 住宅跡の遺構

写真26 住宅跡

写真27 平坦地

写真28 何かを祀った跡?(崩れた灯籠のようなものが見える)

写真29 写真28境内の石仏

写真30 平坦地

写真31 県道へ降りる道。法面工事により途切れている。棒状のものは落石防護網の支柱

写真32 写真31から集落へ通じる階段(写真19へと通じる)
≪北夜半沢≫

写真33 集落への道

写真34 住宅跡

写真35 遺構

写真36 遺構

写真37 住宅地の石垣

写真38 遺構

写真39 遺構

写真40 住宅跡

写真41 遺構

写真42 遺構

写真43 整地ローラー

写真44 遺構

写真45 住宅跡

写真46 遺構

写真47 住宅跡

写真48 集落内の道

写真49 住宅跡

写真50 住宅跡

写真51 住宅跡

写真52 浴場跡?
≪南夜半沢≫

写真53 橋の跡(南夜半沢側)

写真54 病院跡の階段

写真55 病院跡

写真56 病院跡の遺構

写真57 同。小便器の足置き

写真58 同。便器

写真59 住宅跡の石垣と道

写真60 住宅跡

写真61 同

写真62 同

写真63 道と石垣

写真64 住宅跡

写真65 道と溝

写真66 階段(集落内の道)

写真67 住宅跡

写真68 同

写真69 同

写真70 同

写真71 同

写真72 同

写真73 溝

写真74 階段

写真75 住宅跡

写真76 住宅跡

写真77 往時の風景。左下は馬立橋
≪爺ヶ沢≫


写真78 南夜半沢から爺ヶ沢へ通じる道


写真79 集落入口(以下爺ヶ沢左岸)

写真80 住宅跡

写真81 階段(集落内の道)

写真82 遺構

写真83 住宅跡

写真84 同

写真85 橋の跡

写真86 石垣(以下爺ヶ沢右岸)

写真87 浴場。浴室の一方

写真88 同。浴室のもう一方

写真89 住宅跡

写真90 遺構

写真91 住宅跡

写真92 階段(集落内の道)

写真93 住宅跡

写真94 住宅跡

写真95 同

写真96 同

 

≪銀山平(ぎんざんだいら)

形態:川沿いの台地に家屋や施設が集まる
標高:約770〜820m
訪問:2019年5月

 

 小滝中心部の上流、概ね銀山橋以北の地区。
 現在は宿泊施設や公園が整備され、訪問者も多い。銀山橋のすぐ北側には往時の住宅群跡があり、僅かな痕跡が散見される。以下は現地の説明板より。


 足尾銅山の用材基地 銀山平

 明治24年(1891)にこの地で探鉱を進めていたところ銀が採掘されたので「銀山」と称していたが、小滝坑の発展とともに同35年に「小滝索道」(12q)が敷かれ廃石が運ばれて、平地ができたので「銀山平」とした。更に同37年「根利(ねり)索道」(10.1q)、同38年「京子内(きょうこない)索道」(3.48q)の停車場を設け、東洋一を誇る大製材所を開設し、足尾銅山の用材の一大基地として、最盛期は200人程が従事した。同42年頃は140戸の社宅も有したが、昭和14年(1939)に製材所も索道も廃止し、総ての施設が撤去され静かな平地のみが残った。


 また現地には猿田彦神社(写真27-29)が祀られ、現在でも年間行事が行われている。説明板によると、明治23年小滝坑の山神社として建立されたが、昭和29年廃坑の際に本山の山神社に合祀。のち猿田彦神社の遥拝殿となったとのこと(本社は庚申山付近にある)。
 さらに公園から道を挟んだ高台には、
中国人殉難烈士慰霊塔(写真35)がある。説明板によると、太平洋戦争の末期に中国から強制連行されてきた257名のうち、銅山での労働で109名が死亡したとのこと。

 


写真1 集落風景。道路の両側は住宅(銀山平長屋)跡

写真2 住宅入口

写真3 遺構

写真4 遺構

写真5 遺構

写真6 遺構

写真7 遺構

写真8 遺構

写真9 遺構

写真10 遺構

写真11 住宅跡

写真12 住宅跡

写真13 遺構

写真14 遺構

写真15 遺構

写真16 遺構

写真17 住宅跡

写真18 遺構

写真19 遺構

写真20 遺構

写真21 遺構

写真22 遺構

写真23 住宅入口

写真24 往時の社宅跡

写真25 温泉旅館施設

写真26 丁石(58丁目)

写真27 神社。鳥居と参道

写真28 同。拝殿

写真29 同。本殿

写真30 石垣(建物は公園の施設)

写真31 銀山平公園

写真32 公園入口の丁石(右下。69丁目)。立札には「磐裂神社から庚申山まで114丁」とある

写真33 慰霊碑

写真34 階段

写真35 慰霊塔

写真36 祠

写真37 国民宿舎

写真38 往時の製材所

 

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