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◆高原木(こうばらぎ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「男體山」(昭和21.2)を使用したものである

所在:日光市足尾町(あしおまち)
地形図:中禅寺湖/男体山
形態:川沿いの台地に家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約750m
訪問:2019年5月

 

 渡良瀬(わたらせ)川(松木川)と仁田元川・久蔵川の合流部付近、右岸側の高台にある。現在の銅(あかがね)親水公園のすぐ南。
 鉱山施設の敷地内であるため公園の遊歩道から俯瞰したのみだが、対岸の県道沿いには説明看板(写真3)が置かれ、往時の様子を窺うことができる。以下はその全文。


 銅山社宅が並ぶ高原木 往時のようす

 川向うの台地が「高原木」というところで、その昔天正18年(1590)に小田原の武士、斎藤大和守(やまとのかみ)・山城守(やましろのかみ)の兄弟が浪人となり、やがて足尾に来て足尾郷14か村を支配し、後に弟の山城守がこの高原木村に住んで仁田元・松木・久蔵・赤倉村を治めてから開かれたといわれている。
 慶長15年(1610)に足尾に銅山が発見されてから、各所で採鉱が行なわれるようになり、宝永2年(1705)に幕末の大思想家、佐藤信淵(のぶひろ)の祖父信景(のぶかげ)(農政学者)が仁田元で錫山を発見し、その後錫山を銀山にしようと仁田元・高原木の住民の招きで、日光に来ていた信淵の父信季(のぶすえ)(農政学者)は信淵を伴なって天明4年(1784)に来山したが、信季の客死に遭い実現できなかった。
 明治になり足尾銅山再開発とともに廃石堆積場となり現在の台地が築かれ、同40年(1907)ごろ銅山社宅が建ち賑わったが、昭和21年(1946)から徐々に撤収され2〜3年後に無人となった。

 


写真1 集落跡を望む


写真2 付近の擁壁の銘板。「高原木」と見える


写真3 説明板

写真4 説明板より。往時の様子

 

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