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◆愛宕下(あたごした)



※ この地図は、地理調査所発行の1/25,000地形図「中禅寺湖」(平成11.5)を使用したものである

所在:日光市足尾町愛宕下(あしおまち―)
地形図:中禅寺湖/男体山
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約710m
訪問:2005年・2019年5月

 

 渡良瀬(わたらせ)川の左岸にある。赤倉(あかくら)地区の北。かつて足尾銅山の社宅があった。
 2005年訪問時はレポート対象としなかったため記録を残していないが、この時は無住となった長屋の住宅が多数残っていたことを記憶している

 2019年訪問時には、南端の現住家屋1軒・空家1軒を除く全ての建造物が撤去。防火壁と石垣が残る社宅跡には、
大型の新しい倉庫(写真1中央)が1棟建てられていた。なお車道沿いには複数の石仏を収めた祠(写真4)があり、賽銭箱には「愛宕下地蔵尊」とある。
 以下は現地の説明板(写真22)より。


 足尾銅山社宅愛宕下 往時のようす

 江戸時代の愛宕下は赤倉村字「坂詰(さかづめ)」という地名で農家が3戸あったが、明治20年に松木から起った大山火事で焼失し、以後草っ原となっていた。その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人達の飯場が建てられたが、工事が終ると撤去された。次いで同40年代になると対岸の製錬所の社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋(あかながや)」と呼ばれるようになり、大正10年(1921)に久蔵の社宅がこの地に移されるなど変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1959)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾製錬(株)設立時(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、昔日を偲ぶ“つわものどもの夢の跡”となりつつある。

 


写真1 集落入口


写真2 寄合所跡付近


写真3 道下の敷地への降り口。写真右奥方向には三養会(生協)・浴場があった


写真4 祠


写真5 社宅跡


写真6 防火壁


写真7 消火栓とホース格納庫


写真8 住宅跡


写真9 同

写真10 集落入口(枝道より)

写真11 消火栓

写真12 階段

写真13 住宅跡

写真14 同

写真15 同

写真16 同

写真17 道

写真18 防火壁

写真19 広場

写真20 水道施設?

写真21 同

写真22 説明板

写真23 説明板より。往時の様子

 

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