◆道知畑(どうちばた)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「左澤」(昭和21.11)を使用したものである
所在:大江町柳川(やながわ)
地形図:貫見/左沢
アクセント:ドーチバタ
形態:緩い傾斜地に家屋が集まる
標高:約520m
訪問:2018年5月
大字柳川の北部、徳沢川(最上(もがみ)川二次支流)上流部の右岸側の斜面にある。柳川の枝郷。
以下は町史より当地の概要。
戸数は10戸。最も多い時で12戸。
田は少なく、カノ畑(焼畑)と山仕事で暮らしていた。明治初期に堰が作られ、集落南の川沿いが水田になった。焼畑では粟・蕎麦・稗などを耕作。山仕事では冬のアクヤキ(生木を焼き、灰を作るもの。染料の助剤となる)が行われていたが、製炭が本格化した明治末期には衰退。製炭は明治末期より始まり、国有林の払い下げがあった大正期に本格化。周囲で盛んに行われていた青苧(カラムシ)はあまりなく、養蚕が盛んであった。ほか下駄作りや木地挽があった。
道智上人がこの地に訪れ、大きな松の木の傍で休み、その近くに居を構え耕地を開き、その後大井沢から湯殿山へ行ったと伝えられる。上人がいたという道智屋敷跡には、明治31年に「道智山」の石碑が建てられた。
姓はほとんどが鈴木。ほか寒河江2戸、今野・伊藤が各1戸。
旧道の傍らに今熊神社があるほか、山神社があった。
昭和35年11戸64人、同40年10戸55人、同45年9戸32人。昭和45年11月無住となった。寒河江市に1戸、同43年山形市に1戸、同45年町内・寒河江市にそれぞれ4戸が転出。なお当時町では集落移転事業が計画され当地も移転対象に含まれていたが、実施前に無住となっている。
最近の地図でも地名と複数の建物、集落の位置口に墓地が記されているが、現在残っている建物は往時の付属建物1棟のみ。ほか複数の屋敷跡や先述の「道智山」の石碑(ただし現物は「導智山」の表記)(写真10)、神社跡(写真12)が見られた。墓地(写真15・16)では現在でも多数の墓石が見られる。なお古い地形図では南又との間の尾根上に神社の記号が記されているが、ここでは小さな石祠が見られた(写真18)。
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