大字柳川の北部、金華山の北およそ400mの斜面にある。柳川の枝郷。
以下は町史より当地の概要。
江戸時代6戸。その後増減があり明治初め5戸、昭和には9戸となった。
姓は鈴木・松田。
田は南又・徳沢(とくざわ・とくさわ)付近にあるだけで、切留にはなく、集落の周囲は畑になっている。この畑はもとカノ畑(焼畑)で、粟・蕎麦・大豆・小豆などを耕作していた。周囲では盛んに行われていた青苧(カラムシ)は、集落の近くだけで生産量はあまりなかった。養蚕は盛ん。冬の仕事としてアクヤキ(生木を焼き、灰を作るもの。染料の助剤となる)があった。
製炭は明治26年頃より始まり、大正に入り盛んになり、昭和10年代が最盛期。9戸中8戸が従事。
村の北側に山神社があった。
町による集落移転事業により、昭和51年に無住となった。当時の4戸のうち、3戸が町により造成された住宅地に移転。(ただし国勢調査では以下のとおり)。
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昭和35 |
昭和40 |
昭和45 |
昭和50 |
昭和55 |
昭和60 |
平成2 |
平成7 |
戸数 |
8 |
7 |
5 |
1 |
1 |
1 |
1 |
0 |
人口 |
58 |
42 |
23 |
2 |
2 |
2 |
1 |
0 |
訪問は青柳集落より徳沢を経由。初め最短距離の矢引沢(やびきざわ)集落からの訪問を試みたが、早々に道が崩落しており通行不可であった。集落には現在でも簡素な家屋や小屋類が建ち、現在でもいくらかの往来が窺える。集落の東では墓地(写真10)、北東では神社の祠(写真12)が見られた。墓地では先述の鈴木・松田いずれの姓も確認できた。
訪れていたかつての住民によると、多い時で9軒。やはり集落移転事業により無住となったとのこと。主な収入は養蚕で、ほか炭焼き、副業としてナメコ栽培なども行っていたという。水田(自給用)も僅かにあった。呼称は主に「キリトメ」で、副次的に「キリドメ」も用いられる。現在でも時おり訪れる世帯も多いという。