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◆升沢(ますざわ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「關山峠」(昭和22.5)を使用したものである

所在:大和町吉田(よしだ)字升沢・檀ノ下・松場
地形図:升沢/関山峠
形態:緩傾斜地に家屋が集まる
離村の背景:公害(騒音)
標高:約340〜450m
訪問:2023年5

 

 大字吉田の北西部、花川(この付近での呼称は荒川)(鳴瀬川支流)と升沢川の間に挟まれた緩傾斜地にある。
 現在は学校(吉田小学校升沢分校)の建物が「升沢森の学び舎」として残るほか、小屋が1軒ほど。家屋の痕跡は見られない。校地から県道を挟んだ向かいには山神の石塔が建つ。また集落内には仙台防衛施設局の管理要地である旨を示す看板が多く立てられ、演習場に関連した移転であることが窺える。

 資料『升沢にくらす』によると、地区に隣接する陸上自衛隊王城寺原演習場の実弾演習に伴う騒音のため、平成9年に集団移転事業が開始されたとのこと。
 
沖縄県で行われていた米軍の実弾演習に伴う付近住民の負担を軽減させるため、平成8年に国内5箇所において分散実施することが決定し、このうちの1箇所が王城寺原演習場であった。
大和町では砲撃音が激甚な地区を対象に移転補償等の措置が講じられ、これを受け升沢地区(升沢・下原新田種沢)の住民は集団移転の要望を提出した。
 
升沢地区の主な生業は、木流し(※)(昭和22、3年頃まで)・薪炭の生産(昭和20年代まで盛ん)、副次的に農業(稲作・畑作)。ほか鍬柄や下駄の粗型などの木製品の製造を行う家もあった。また自給の狩猟や川漁も行われていた。
 なお稲作が各戸に普及したのは、政府により稲作が奨励され開田が行われた昭和30年代以降で、それまでは少数の家が行っているのみであった。
 
「升沢地区世帯分布図」(平成12年6月当時)には、概ね東側より早坂・千葉・佐々木・武田・田中・早坂・早坂・早坂・早坂・根元・早坂・曽根・小川の各家と無記名の家3戸が記されている。ほか診療所・旧升沢分校・権現茶屋・宮城大学セミナーハウス・墓地がある。
 
土地台帳での屋敷地数は、明治末期8軒。
 また
字檀ノ下は明治時代に開拓が行われた場所で、当初は2戸ほど。
 当地には
吉田小学校升沢分校があった。これは明治35年に設置された嘉太神分教場升沢出張所が起源。大正6年升沢分教場となり、早坂氏宅敷地内の建物を仮校舎とする。大正13年11月校舎新築。昭和50年には防音校舎が落成。平成6年閉校。平成8年からは宿泊研修施設「森の学び舎」として転用された。
 
旧道沿いには「八幡様」が祀られており、2つの石祠と数基の石碑がある。また墓地跡付近にはかつて曹洞宗の宗源院があった。中興寺(町内吉岡)の末寺で、開基は慶長17(1612)年とされ、明治初年までには廃寺になっている。

※ 川の流れを利用し、山から伐り出された木を下流に運搬する作業

 また資料『わが町25年大和町』によると、昭和33年7月電気導入。昭和44年4月升沢へき地診療所開設。昭和51年12月。升沢簡易水道給水開始。
 
昭和40年代後半、山村振興事業により特産生産物団地の育成を目指して、升沢高冷地野菜栽培圃場2haが造成された。また昭和50年代、升沢地区において葉タバコ団地1haの造成事業が行われ、気象的な悪条件を克服して定着。升沢分校改築事業は、防衛庁補助事業として着工されたもの。

 


写真1 屋敷跡

写真2 屋敷跡


写真3 学校跡(升沢森の学び舎)


写真4 山神

写真5 地名表示

 

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