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◆柵瀬(さくのせ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「一關」(昭和22.5)を使用したものである

所在:一関市川辺(かわべ)字柵瀬・中里(なかさと)字下大林(しもおおばやし)
地形図:一関/一関
異表記:柵ノ瀬(旧版地形図)・柵の瀬(橋梁:柵の瀬橋)・作瀬(独立村時代の表記)
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:遊水地帯化に伴う退去
標高:約20m
訪問:2018年11

 

 旧市域の東部、北上(きたかみ)川左岸にある。現在の一関遊水地(第1遊水地)内。現在の大字の領域では大部分が川辺の所属だが、県道を挟んだ南東の一部が中里に亘っている。
 国土交通省岩手河川国道事務所のウェブサイトによると、一関遊水地は昭和22年のカスリン台風・同23年のアイオン台風による大水害を契機に計画され、昭和47年に事業に着手したとのこと。普段は水田などに利用され、洪水の際はここで水量を調整、市街地への水害を防ぐことを目的としている。なお現在も事業は継続中。
 また資料『北上川の昔と今』によると、第1遊水地の家屋移転は昭和51年12月より開始。

 遊水地内で耕作をしている方の話によると、もと20軒ほど。当地を含めた一帯の集落では、養蚕と農業(畑作)が主な生業で、現在と異なり水田よりも畑が多かったという。川沿いは氾濫による被害がある反面良質の土壌が堆積するため、畑作に適していた。商品作物として、人参・ゴボウ・菜種・小麦などを栽培。移転先については住宅の建設の話もあったが、結果としては銘々に移転することとなった。現在水田等の通い耕作に訪れているのはほとんどがかつての住民とのこと。

 市史によると、明治初期に川辺村(後の大字川辺)が誕生するまでは独立した「作瀬村」として存在していたことが分かる。安永風土記に記されている「正学(しょうがく)屋敷 四軒」とは、後年の正覚と思われる。寺社として稲荷社・山王社・観音堂があった。

 東北新幹線の線路より西側、同じく遊水地化で離村した他の集落は往時の雰囲気が皆無である中、当地では県道より北側で僅かに雰囲気が垣間見られる。屋敷跡と思われる場所も1箇所見られた。付近には北上川に柵の瀬橋が架かっているが、訪問時は新しい橋の架橋工事が進行中であった。

 


写真1 集落跡付近

写真2 同。道路は往時からのもの

写真3 屋敷跡?

写真4 古い電柱

写真5 集落跡付近

写真6 柵の瀬橋

 

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