◆豊沢(とよさわ)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「新町」(昭和22.1)を使用したものである
所在:花巻市豊沢
地形図:鉛/新町
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約280m(水面は約280m)
訪問:2017年5月
大字豊沢の中部、豊沢川(北上(きたかみ)川支流)沿いにある。現在は豊沢ダムの人造湖(豊沢湖)に水没。
資料『湖底をしのぶ 豊沢平和郷』によると、豊沢ダムの建設に伴い当時の45戸が離村したとのこと。
同書の「旧豊沢部落家屋配置図」によると、概ね下流より祖田・にらげ・小木戸口・前田・小木戸かまど・とべ戸・かきのそと・南・南かまど・善十郎かまど・庄治戸・やんべーど・西・末治・与助かまど・畑中・与助戸・義助戸・中野かまど・キヌ・中野・栄吉・かまば・とうふや・かまばかまど・かきね・善十郎・とべかまど・亀三■(印刷の掠れで判読できず)・大野・おみはし・南かまど・前田かまど・千坂(※1)(すべて屋号。時期は不明)。ほか学校・公民館・神社(出羽権現社および山の神社)がある。
集落のほとんどが高橋姓。豊織時代、武田信玄の家臣に高橋新助という人物がいて、九戸政実の乱で敗れ豊沢に逃げ隠れた。これが高橋姓の始まりと伝えられ、豊沢は高橋新助によって拓かれたものとされている。なお高橋氏の定住以前に、三ッ口に「三ノ股縫之助」という落人が住んでいたが、高橋氏と折り合いが悪く高橋氏に滅ぼされたと伝えられている。
※1 「旧豊沢部落家屋配置図」より。ここに記されているのは34戸だが、幕舘8戸・桂沢4戸を除いた水没移転補償の対象は45戸となっている
以下はダム建設の経緯。
昭和3 |
ダム予定地として「まごとろさわ」(※2)を調査 |
昭和8.7 |
花巻町長・湯口村長・湯本村長ら、ダム建設のための実地調査を県に陳情することを決定 |
昭和10 |
9月、豊沢住民により、豊沢川溜池設置反対大会を開催。10月、内務省・農林省に反対陳情を行う |
昭和13 |
稗和西部耕地整理組合設立。建設計画が本格化 |
昭和16 |
建設計画は県の告示となる。着工の運びとなったが、太平洋戦争により一時中止 |
昭和24 |
建設計画は県営から国営(農林省直轄事業)となり、計画再開。45戸が移転対象となる。10月起工式 |
昭和27.4.24 |
ダム移転補償契約調印 |
昭和30 |
計画が変更され水面が3mの嵩上げ。幕舘の8戸も移転となる(残された桂沢の4戸も移転補償の運動を続け、これが実現。移転費が予算化されることとなり全戸移転となった) |
昭和36 |
完成 |
※2 豊沢川支流で、現在の地形図では「マゴトロ沢」と表記されている河川を指すものだろう。桂沢地区より上流にある
以下は学校の沿革。
(小学校)
明治8.4 |
私立豊沢学校創立 |
明治22.4 |
二ツ堰尋常小学校豊沢分教場となる |
大正4.4 |
湯口尋常高等小学校豊沢分教場となる |
昭和12.4 |
前田尋常高等小学校豊沢分教場となる |
昭和22.4.1 |
独立。豊沢小学校となる |
昭和28.12 |
豊沢ダム建設に伴い、幕舘に移転 |
昭和41.11.30 |
閉校 |
(中学校)
昭和23.4.1 |
前田中学校豊沢分教室設置 |
昭和24.4 |
前田中学校豊沢分校開校(小学校に併設) |
昭和28.12 |
豊沢ダム建設に伴い、幕舘に移転 |
昭和29.4 |
独立。豊沢中学校となる |
昭和41.11.30 |
閉校 |
(児童数・生徒数)
年度 |
大正9 |
大正12 |
大正15 |
昭和5 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和20 |
昭和23 |
昭和25 |
昭和27 |
昭和30 |
昭和33 |
昭和36 |
昭和38 |
昭和40 |
小学校 |
49 |
49 |
44 |
37 |
63 |
52 |
57 |
66 |
63 |
55 |
36 |
34 |
14 |
13 |
8 |
中学校 |
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23 |
38 |
27 |
13 |
12 |
9 |
10 |
6 |
なお昭和21年8月15日電灯導入、昭和21年公民館落成。
主な生業は炭焼き・牧畜(牛)で、ほか田畑の耕作を行っていたよう。作物は稗・粟・大豆・小豆・そば・野菜類。寒冷地であったため、農業にはあまり適していなかった。
ダム湖周辺に往時の遺構は見られないが、豊沢トンネル(扁額は「豊澤隧道」)西側坑口付近や、またここから1.3qほど先の道沿いに石碑が置かれた広場がある。前者には慰霊碑・顕彰碑・平賀千代吉氏の頌徳碑があり、後者には「豊沢平和郷跡」の碑とその由緒を記した碑が置かれている。
碑によると、平賀氏は農業水利事業に貢献し、豊沢ダム建設の第一人者であったよう。また顕彰碑には高橋氏50名、藤井氏6名、千坂氏1名の名が刻まれていおり、幕舘・桂沢を含んだ往時の住民と思われる。
なお豊沢と幕舘の間には淡嶋神社(写真5)があるが、ダム建築後に和歌山市加太(かだ)の淡嶋神社を分祀したもので、集落由来のものではない。
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