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◆弁天(べんてん)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「鵡川」(昭和44.3)および内務省地理調査所発行の同地形図「苫小牧」(昭和21.11)を使用したものである

在:苫小牧市弁天
地形図:上厚真/鵡川 勇払/苫小牧
形態:海沿いの平坦地に広く家屋が散在する
離村の背景:最終は工業地帯の開発
標高:数m
訪問:2014年5

 

 市の東部、海岸沿いで勇払(ゆうふつ)川と厚真町との境界に挟まれた地域。北は柏原静川に接する。
 
市史によると、入植の開始は大正末期から昭和にかけてのことで、それ以前は沿岸の「浜弁天」に漁業関係者が季節的に訪れていた場所であったとのこと。漁業が主体の海側(「浜弁天」)と酪農が主体の陸側(初期開拓の「旧弁天」、戦後開拓の「弁天開拓」)があり、両者に交流はほとんどなかったという。地名については勇払川左岸に弁天社が建てられたことがあり、付近にあった沼を「弁天沼」としたことから辺り一帯をこう呼ぶようになったよう。

 以下に主な流れを記す。

 幕末より苫小牧沿岸ではイワシ漁が栄えており、浜弁天(当時は「トユウフツ」)付近では明治末期から数人の漁師により漁撈が行われてきた。大正13年、岩手出身の沢口氏がイワシを求めて浜厚真より当地に入地し、これが現在の弁天地区最初の定住者となった。
 昭和初期、酪農目的で
進藤氏が入植し、旧弁天の最初の居住となる。のち数人の入植者があったが、営農は苦労が絶えなかったよう。
 昭和19年、字名の「弁天」が制定される。地名の以来は「本字内ニ辨天沼ト稱スル瀉湖(※)アリテ其ノ縁辺ヲ辨天ナル小名ヲ以テ呼バルルニ付辨天ト名付ク」。
 昭和22年2月28日、戦後の緊急開拓事業により6戸が後の弁天開拓地区に入地。以後入植者が続く。昭和24年6戸、25年2戸、26年3戸、27年7戸、28年15戸、29年5戸、30年7戸、32年2戸、33年5戸、35年2戸、36年1戸、39年1戸(昭和45年まで)。
 当初は低湿地であったため開拓が捗らなかったが、昭和29年頃から客土事業を開始、昭和38年頃には約80%が完了し、土壌は劇的に改良された。
 昭和28年・29年・31年の冷害・凶作により、産業の主体は畑作から酪農に重点を置いた混合農業となる。また市による牛の貸付制度もあり、酪農地帯として着々と基盤を築いていった。
 浜弁天ではイワシの減少に伴い、昭和30年より新たにサケ・マスの定置網、シシャモ・ホタテ・ホッキ漁へと転換。
 昭和38年頃、セリ沼を水源とした水道管の敷設開始。当初は弁天開拓の家屋のみであったが、かなり遅れて旧弁天へも供給。しかし浜弁天にまで敷かれることなく、離村まで井戸水であった。

 昭和44年に新全国総合開発計画が閣議決定されて以降、苫小牧地区にも工業地帯を開発する計画が立てられる(該当地区は弁天・柏原静川。昭和46年には弁天開拓団の解散式が行われ、浜弁天でも
昭和51年度中に立ち退きが完了。

※ 市史の引用原文ママ。「潟湖」の誤りか


 現地で陸側・海側ともに家屋の類はいっさい見られず。ただし陸側では、後年になって造成されたと思われる農地が散見される。なお弁天沼の東を南北に走る細い未鋪装の道路があるが、JR日高本線と交わる箇所に「開拓道路踏切」があり、この道路が開拓団にとって主要なものであったことが窺える。国道との交叉点には、市史に記述のあるバス停「弁天開拓口」があったのだろうか。施設としても、字の東南部に苫小牧東港の港湾施設、東北部に石油備蓄基地があるのみで、全体的に非常に閑散としている。

 


写真1 農地(左)と建物跡(右)

写真2 写真1の建物跡

写真3 農地

写真4 同

写真5 弁天2号橋

写真6 屋敷跡付近(現在は農地)

写真7 石油備蓄基地

写真8 浜(以下浜弁天)

写真9 何かの遺構

写真10 屋敷跡付近。浸蝕。奥は港湾施設

 

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