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◆丸山(まるやま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「樽前山」(昭和31.11)を使用したものである

所在:苫小牧市丸山
地形図:支笏湖温泉/樽前山
異表記:十三哩(じゅうさんまいる)・一
三マイル(本集落旧称)
形態:道沿いに家屋が集まる
標高:
約230m(本集落)
訪問:2014年5

 

 市の北西部、勇払(ゆうふつ)川流域にある
 市史によると、明治時代より無住となるまで一貫して山林事業と深く関わってきた集落であったよう。初期は王子軽便鉄道(後述)の駅名である「十三哩」と呼ばれていた。集落及びその周辺への居住は明治の中期頃と推測され、以来、山林事業に従事する人々によって集落は営まれてきた。
 以下に大まかな流れを記す。

 明治29年6月、神戸の津田氏が「北海工場」というマッチの小函素地工場を設立。元来のヒノキやスギ・コマイ等をに代わり、安価なエゾマツに着目したものであった。
 本格的な造林事業の開始は
明治37年。地区の一角にエゾマツが植栽され、これは苫小牧営林署内における造林事業の端緒でもあった。当時は苗畑を作らず、山中から苗を探し集め植え込み現場近くで仮植したのち植栽していた。この年より始まった植林は、明治42年を除き毎年実施されている。
 明治41年4月、王子製紙株式会社により水明郷の水力発電所工事の資材や労働者を運搬する目的で、馬車軌道が完成。8月には機関車が導入され、王子軽便鉄道(いわゆる「山線」)が誕生した。鉄道は御料林からの木材の輸送にも利用されたほか、
大正11年より一般乗客の乗車が許可されると、集落の住民や労働者、支笏湖の観光客の足となった。
 
大正期において、十三哩駅周辺には飯場・事務所・造林小屋などが集まっており、大正末期には御料林の宿泊所が丸山に移転、丸山集落の基礎が確立されることとなる。作業員は十三哩に拠点を置き、主に山で寝泊まりする形態を取っていた。一定期間山中で作業・生活した作業員は、再び山線で苫小牧へと戻っていった。
 大正6年より、植栽する苗は苗畑で育成されたものが採用される。大正13年には帯状の林間苗畑が開設され、これは苫小牧営林署内で最も古い歴史を持つ(丸山苗畑)。ここで育成された苗は、丸山のみならず各地に運ばれ植林された。
苗畑の作業員は、丸山地区の女性をはじめ、山線を利用して入山して人々であった。この林間苗畑は、昭和35年に終了。
 
昭和17年秋、山火事の見張りを目的とした監視小屋を丸山山頂に完成(丸山遠見)。戦時中は防空監視も兼ねることとなったが、終戦後は本来の目的に戻った。
 昭和15年より官行斫伐事業が始まり、同年夏に丸山事務所が設置された。御料林の伐採にあたったのは各地の山を渡り歩き生業としている「山子」で、当地には約20名ほどが入山。山線沿線には大規模な土場が出現し、材は山線に積まれ苫小牧へ運ばれた。
 
昭和19年より字名「丸山」が誕生。明治以降使用されていた「十三哩」という地名は廃止され、丸山が正式な集落名となった。由来は、「本字ノ北西ニ丸山ト称スル標高三二七米四(市史引用の原文ママ)ノ山アリテ樽前ノ裾野ノ異彩ヲ添フル所ヨリ名付ク」。
 
昭和22年御料林は廃止され、国有林となる。
 
昭和22年4月から9月にかけて、樺太からの引揚者約40世帯が入植。夏期は営林署の労働者、冬は失業保険の受給(一部は出稼ぎ)で暮らしていたが、2、3年後には市内の引揚者住宅へ移転していった。
 
昭和28年から30年頃まで、苗畑作業員として出稼ぎ労働者の出入りがあった。毎年4月頃から10月頃まで働き、冬期は故郷へ帰るといったもの。
 
昭和29年9月、台風15号により厖大な風倒木が発生。この処理のために丸山ほか周辺には復旧造林のため大勢の入居者があった。風倒木処理は昭和32年まで行われ、カラマツを主体とした大規模な復旧造林は同35年に終了。昭和31年から35年頃までは、丸山が最も栄えた時期である。
 
昭和25年、苫小牧と支笏湖の間に自動車道路が完成。同年中には市営バスの運行が開始され、またトラック輸送の便も改善。王子製紙も専用バスを運行することとなり、昭和26年8月、山線は廃止された。
 刊行当時(昭和51年)頃の
戸数は20戸程度で、その大半が営林署の職員および作業員。
 当地にあった学校の沿革は以下のとおり。

 昭和24.2.18  苫小牧東小学校丸山分校開校
 昭和26.4.1  独立。丸山小学校となる
 昭和57.3.31  閉校(碑より)

 また当地の神社(丸山神社(は、大正12年の関東大震災の際、復興材を伐り出していた山子が、安全祈願のために丸山中腹に勧請したもの。のち昭和16年に現在地へ移転した。
 
なお地図画像中の「勇振」はかつて十二哩駅があった場所で、大正期には御料林造林飯場や王子発電所および保線の関係者の宿舎が各2軒あったという(写真10)。
 「角川」によると、昭和35年66戸295人、同45年35戸126人、同57年には無住となったとのこと。

 現地では国道より東側で、学校跡の碑(市および丸山町内会・丸山小学校同窓会による設置)のほか屋敷跡を1箇所確認。区劃されたような開けた空間は、かつての苗畑だろうか。また国道より西側では、営林署関係と思われる倉庫や集合型の住居が現在も残されている。植林された場所でも住居の痕跡がいくらか見られた。
 なお手持ちの地形図では、字の南東、勇払川沿い(十二哩駅跡からおよそ12km下流)に「丸山」の表記で神社と数棟の建物が記載されている(下の画像)。未訪問で詳細は不明。

 


写真1 集落風景(以下国道より東)

写真2 学校跡の碑


写真3 屋敷跡


写真4 管

写真5 倉庫と住宅(以下国道より西)

写真6 小屋

写真7 遺構

写真8 遊具

写真9 穴

写真10 十二哩駅付近(勇振)


画像 「丸山」
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「千歳」(昭和43
.12)を使用したものである

 

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