◆尺別(しゃくべつ)炭礦
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「音別」(昭和46.4)を使用したものである
所在:釧路市音別町尺別原野基線(おんべつちょうしゃくべつげんやきせん)
地形図:直別/音別
形態:川沿いに家屋や施設が多数集まる
離村の背景:産業の衰退 標高:約40m
訪問:2013年6月
町の南部、尺別川沿いにある。
以下は町史より、主な沿革。
明治42 |
(鉱区発見。翌年に鉱業権が設定され試掘されたが、本格的な採炭は行われず) |
大正7 |
椎葉氏に鉱業権を譲渡、10月開坑。北日本鉱業株式会社創立 |
昭和3 |
三菱鉱業株式会社が権利や施設を買収。同社の雄別砿業支所となる |
昭和9 |
自家発電が水力発電に切り替わる |
昭和10 |
大和鉱業株式会社より浦幌炭礦を買収 |
昭和14 |
尺浦通洞の開鑿に着工(同17年竣工) |
昭和16 |
出炭量最多(約41万8,700トン) |
昭和19 |
炭砿整備要綱に基づき休坑。九州の炭礦へ業務転換 |
昭和21 |
10月、採炭再開
12月、財閥解体により三菱鉱業より分離。雄別炭砿鉄道株式会社創立。同社の雄別砿業所尺別炭砿となる |
昭和24 |
雄別砿業所より分離独立、尺別砿業所となる |
昭和41 |
出炭量戦後最多(約33万9,000トン) |
昭和45 |
閉山 |
学校の沿革は次のとおり。
(小学校)
大正8.8 |
尺別尋常小学校附属尺別炭砿特別教授場設置(炭礦地内神楽町) |
大正13.3 |
神楽町に校舎移転 |
昭和6.1 |
尺別炭砿尋常小学校となる |
昭和7.12 |
旭町に校舎移転 |
昭和8.4 |
高等科併置。尺別炭砿尋常高等小学校となる |
昭和16 |
尺別炭砿国民学校と改称 |
昭和22.4 |
尺別炭砿小学校と改称 |
昭和45.7 |
閉校 |
(中学校)
昭和22.5 |
尺別炭砿中学校開校。小学校校舎の一部使用 |
昭和25 |
校舎完成 |
昭和45.7 |
閉校 |
なお尺別炭砿幼稚園が、昭和31年小学校敷地内に開園。昭和45年5月休園、6月廃止。
神社は大山誠見神社。当時の経営者であった北日本鉱業株式会社により、大正9年勧請。当初神楽町、のち緑町付近に移転した。閉山とともに廃止。
現在炭住街跡は広く牧草地に転用され、往時の痕跡はあまり残っていない。道路脇の橋台・給油所跡・丘陵の集合住宅等がその姿を残す。なお中心付近には「復興記念」の碑(写真5)があり、炭礦の歴史を物語っている。以下はその全文(※1)。
當礦ハ大正七年十月開礦以來業界ノ浮沈ニ拘ワラズ順調ナル發展ヲ遂ケ殊ニ昭和十四年以降浦幌炭礦トノ綜合運營ヲ企圖シ〓(※2)期的擴張工事ヲ施行着々搦Yノ歩ヲ進メ居リシニ時局ノ推移ニ依ル産炭輸送ノ隘路啓開成ラズ昭和十九年八月一時操業ヲ休止スルノ已ムナキニ至リタリ
斯クテ全從業員ハ擧ゲテ九州地區炭礦ヘ轉シ奮勵中終戰ニ遭遇シ再轉
雄別炭礦ニ在リテ故山ノ再興ヲ念願待機シ居リシガ昭和二十一年五月復興ニ着手スルニ當リ遂時當礦ニ復歸シ往時ノ■(※3)業ヲ望ミ得ルニ至レルモノナリ
※1 碑に刻まれた風化しそうな文字が、塗料で復元されている
※2 〓は左が画、右がりっとう。「劃」の代替だろう
※3 下部が「皿」のみ判明。「盛」か
さらに「移転誌」と題し、この碑が移転された経緯が綴られている(昭和60年、尺別炭砿閉山15周年交流会準備委員会による)。以下はその全文。
我が故郷、この地 尺別炭砿は大正7年採炭開始以来半世紀にわたって多くの人々の生活の詩(ルビ:うた)を綴りつづけてきたところであり、この山峡には数多くの喜怒哀楽と想い出が生きつづけている。
とくに尺別炭砿は第2次大戦時には休砿山に指定され 戦後復興には炭砿関係者は勿論のこと地域住民あげての期待と協力の結実によるものである。
この碑はそのときを祝して建立されたものである。
しかるに昭和45年2月国のエネルギー政策により閉山の破局を迎えるに至った。
昭和60年8月開催の閉山15周年交流会を記念し 土地所有者成田氏の特段の御理解と多くの方々の御協力を得て前建のところより現地に移転したものである
市街地を過ぎ道道の終点より奥に進むと、川の両岸に多くの礦山関連の施設跡が確認できる。
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