鶴ヶ城跡(龍巻山鶴ヶ城、増賀城)

鶴ヶ城跡

南北朝時代、北朝方に付いてその功績を認められ、山地(さんじ)荘の領主となった玉置下野守直虎が築城。以後、山地玉置氏の本城となり、この玉置氏は山地氏とも呼称された。城研究家水島氏によると鶴ヶ城は和歌山県下でも稀にみる城砦としての形態が保たれているそうです。

天正13(1585)年8月、山地郷は豊臣秀吉の紀州征伐軍に襲われて小又川、神又、平ヶ城鏡ヶ城宮代の各陣地でことごとく敗戦し、十一代目弥惣左衛門太夫は嫡男竹松丸と眼下の平ヶ城の変貌を見下ろしていた。

突如、戦死した伊藤甲斐守の舎弟三之丞が鉄砲隊を伴って、城の背から侵入、弥惣左衛門は討ち死にし、嫡男の竹松丸は四天王の一人松本之を伴い、牟婁郡兵生村に敗走したと伝えられている。


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