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『熊楠研究』第一号合評会

1999年3月27日、於田辺市民総合センター会議室

(この時の写真が『熊楠研究』のページにあります。)

《ミナカタ通信第15号 (1999.7.20 発行) 掲載》

千本  原田さんから言われて『熊楠研究』第一号の合評会の司会を引き受けることになりました。大蔵経、新聞という私の興味に引きつけて、二つのテーマを選びました。その結果として、飯倉先生の「南方熊楠と大蔵経」と原田さんの「テクストとしての南方熊楠」、その関連として安田さんの「南方熊楠の新聞切り抜き」を取り上げることになります。それぞれのテーマを40分程度ずつとして、その後の時間、それ以外の論文についても議論したいと思います。

 飯倉照平「南方熊楠と大蔵経」について

(レポート:千本英史)   

千本  それでは飯倉先生のご論文から始めます。メモを用意しましたのでご覧下さい。

     全7章からなりますが、第7章は早くも第二号で書くことの予告が入っていまして、中身としては1〜6章までの展開になっています。飯倉先生の文章はていねいで、じわじわと責めてくる文章、という構造のようです。

     第1章と第2章は実は同じテーマで、第1章で輪投げのように輪をかけておいて第2章でぎゅっと絞られる。第3章と第4章でも、第5章と第6章でも同じで、3で輪をかけて4で絞り、5で輪をかけて6で絞る。結局、1、2は高野山との出会いということが書いてある。そして3、4は『法苑珠林』との出会いについて書いてあって、5、6は『法苑珠林』との引用関係のことが書いてある。この構造自体もやはり飯倉先生らしくて、最初は柔らかいところから始まり、徐々に仏教に入っていって、最後はデータがずらずらと出てくるわけです。

     1、2では若い十二・三歳の熊楠が和歌山で高野山の宝物書を見るということ、それから、その二年後に始めて高野山に行く。そのあたりはさすがに全集を頭にたたき込んでいる強みで、全集の中の文章がいろいろ使われながら、老いた犬、遊君、小姓、奥の院の橋、ハエ、川音、女の歌声という風景、そして音を挙げながら、十五歳の熊楠少年がこういう柔らかいところから仏教に近づいたことがわかる楽しいところになっています。3、4のところなどでは()に囲まれた文章が出てきますが、これは飯倉先生のコメントの部分で、これだけとってもきわめて有用な情報が、ですます調で書かれているのでつい騙されてしまいますが、断定的な調子でバシバシと出てきます。

     まず東京時代の蔵書目録には仏教関係の本が見あたらず、『珍事評論』のものが初めてである。『法苑珠林』については、1827年に出た版を用いたという指摘があります。次に第5、6章の『法苑珠林』の引用関係はこの論のメインですが、熊楠が『法苑珠林』を手がかりに仏教に触れていった様子がよくわかるようになっています。それから、アメリカ時代の熊楠がすでに説話の比較研究に対する関心を抱いていたことはたしかであるという指摘、ロンドン時代になっても説話研究に本格的に手を広げていない、という指摘などが出てきます。

     ちなみに116頁あたりでは説話の類話をさかんに引いてくるのだ、という指摘がなされていますが、この頃の説話研究の流れについてちょっとメモにまとめておきました。これはフィンランドのアールネが1913年に出した『昔話の比較研究』を参照にしたものですが、日本では関敬吾が1969年に訳を出しています。熊楠のロンドン時代、1900年前後を基準として考えますと、まず出ていたのはグリム兄弟のアリアン説です。『こどもと家庭の昔話』は1812から1857年にかけての刊行で、熊楠が生まれた時には兄弟は二人とも死んでいます。このアリアン説は、「昔話は古代アリアン神話の最後の反響であって、そのはじまりはアリアン民族の共同の原郷土に見出される」としています。それを否定したのがゲッティンゲンのサンスクリット学者のベンファイで、1859年3月に出た本の中でインド起源説を唱えています。これは、「ほとんどすべて(除イソップ)の昔話はインドから出た。インドでは仏教がそれをつくったのである。そうして昔話はインドから、主として文献の媒介によって全世界に移動した」という考え方です。これに対して反論が出てくるのは人類学者によってで、タイラーとラングなどです。「原始的な考え方や信仰や空想は、すべての民族において非常に似ているので、その結果、いろいろな地域で独立に類似の昔話が発生した」という考え方です。つまり熊楠がシンデレラ物語などを発表していた頃は、人類学説は出てきたばかりで、ベンファイ説などが主流であったわけです。現在の我々には昔話の独立発生説は常識の域に入っていますが、当時の熊楠にとってはそうであったわけではないということを確認しておきたいと思います。

     話を戻しますが、お配りしたリストに出しましたが、「ダイダラボウシの足跡」から未発表の「釜ゆでの刑」までが『法苑珠林』との関係で書かれたという指摘があります。それから、1913年からは120巻本の使用が始まっていること、そして、初期の頃は仏教関係の語句を調べるために使っていたのが、後半生では説話の出所として用いられていることなど、貴重な指摘がなされています。

     (この後、論文中で触れられた処女の初夜の汗に関して、典拠となった『源氏物語』を現在の国文学者がどのように解釈しているかについての解説がなされる。『源氏物語』のこの場面は、必ずしも初夜の汗ではなく、その意味では熊楠の引用には問題があるという指摘。)

  質疑応答

原田  説話を比較する場合に現在はいろいろ細かく見る訳でしょうが、当時はどのようなやり方だったのでしょうか。

千本  インド・ヨーロッパ語族の発見は衝撃的でしたから、当時はともかく仏典に出てくればすべてインド起源ということになっていました。熊楠は、そういう一方的な解釈に対してはおそらく懐疑的だったはずです。現在の説話研究でもこの問題は完全に解決がついた訳ではなく、一部は伝播論で説明しますが、多くは多元的に解釈します。当時はインド一辺倒ですが、イソップは例外でした。イソップはかなり重層的にできていまして、当時からこれは仏典以前のもので、逆にそこから仏典に入ったものがある、という意識はあったようです。現在はイソップ説話をやる場合にはどの版から収録されたものかを全部チェックしてやっています。

原田  熊楠の場合地域的にかなり離れたものを比較していますが、現在のように学問的に厳密にやるようになったのはいつ頃からですか。

千本  アールネが1913年にこの本を出した後、アールネとトンプソンの略称であるATをつけたAT番号というもので説話の類型を分ける方法が確立されます。日本で用いられている関敬吾の昔話集成も、このAT番号を記載しています。アールネよりむしろ英国のトンプソンがオーガナイザーとしてこの方法を広めたわけです。日本では柳田國男に基づいて弟子の関敬吾が出した全6巻の『日本昔話集成』が基礎になります。つい最近『日本昔話通観』が出て、今後はこれが基礎になるはずです。

原田  そうすると熊楠はそういうやり方には目は配っていないことになりますか。

千本  熊楠はフィールドでの採集はやっていないですからね。

飯倉  熊楠が大蔵経を参考にし出したのは柳田との交流が始まった頃ですね。たぶん日本で文献研究をやるのに、英国でのフォークロア研究につなげて学問的な土台にするために大蔵経の筆写を始めたのではないかと思っています。ただ、実際には効果的に活用されているとは言い難いところがあります。芳賀矢一の本の書き込みや、『田辺抜書』を調査する必要がありますが、予測としては意外に生かされていないのではないかな。

原田  つまり、熊楠はヨーロッパの説話研究の方法論とは切り離されていたわけですか。

飯倉  当時の水準から言えば、よっぽど丹念に見ていないと使わないのではないかな。

松居  同時発生と伝播の問題に関して、熊楠が同時代の研究をどのくらい参考にしたかはかなり微妙な問題ですね。どうも熊楠自身、確固とした自信はなくて迷っているように見えます。熊楠のもともとの関心は同時発生にあるようで、アメリカ時代のメモや「東洋の星座」ではそうした方向で議論が進められています。その後、「さまよえるユダヤ人」はインドからヨーロッパへという、当時のインド起源の学説にちょうどはまるような論も書いていますが、この有効性に関して、帰国後かなり迷っている跡があります。一旦柳田宛の書簡などでは伝播説を採ったことに対して、自分では間違いだったというようなことを書いているのですが、その後『ネイチャー』にイタリア人が熊楠説を擁護する資料を報告していて、それでやっぱり正しかったんだ、という風に思ったりしています。たしかに説話に関して熊楠はアールネ&トンプソンのような本流を勉強していないところはあるんで すが…

千本  本は持っていませんか。

松居  持っていないですね。

川島  ラングは一冊だけある。

松居  ただ、そうしたヨーロッパの説話研究から熊楠が切り離されていたかというとそうではなくて、文通相手のA・C・リーというボッカチオの研究者などを通じて情報を得ているところがある。たとえば、柳田宛書簡には、笑い話の類型は13しかない、というリーの説が引用されていますが、これなどはA・C・リーとアールネ&トンプソンとの同時代性から来る情報の流れなわけです。だから、熊楠とヨーロッパの説話研究とは、直接噛み合っていなくても、微妙な共鳴関係を持って展開しているというように考えた方がよいだろうと思います。

武内  それに関連した質問ですが、同時発生説を熊楠が考えたのは彼自身のオリジナリティでしょうか、タイラー、ラングの影響でしょうか。

飯倉  論文の「大日本時代史」が早いのですが、そこでは伝播、同時発生で例を分けて書いています。どの学説かというのは、読んだ本との関連で言わないとたしかではないですが、あまりはっきりと理論的には考えていないように思います。南方にしてみれば、共通の要素を指摘すればそれで足りるという気持ちもあったのではないでしょうか。

松居  ラングやタイラーが現れたから同時発生説が初めて出てきたというわけではないように思いますが…

千本  それはそうですね。むしろもともと同時発生説があったのを、グリムなどが伝播説を出してひっくり返した、というのが本当でしょうね。

川島  説話研究がアカデミズムの中で成立したのは、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてということですか。

千本  方法論としてはグリムが最初でしょうね。

川島  そういう方法論は、自然科学では雑誌上の議論で確立されますね。研究者の仕事は学術雑誌に発表することだという観念があって、熊楠の場合はそこから外れています。熊楠の場合は近代的なアカデミズムという意味ではある種の欠落があるように思われます。

千本  19世紀の場合は雑誌によるアカデミズムは形成されていないようにも思いますが。グリムの時代あたりでは学会も設立されていませんし。

松居  『法苑珠林』に戻りますが、熊楠はどうやって読んだのでしょうか。

飯倉  英国時代に大英博物館で見たようですね。

千本  「大蔵経」は法輪寺で借りていますよね。

原田  「大蔵経」は田辺時代に初めて読んだということですか。それ以前に読んだ可能性はありますか。

飯倉  ないですね。『法苑珠林』などは英国時代に読んでいるという記録がありますが。

松居  「東洋の星座」などでも『大集経』のような仏典を『酉陽雑俎』から引いていますね。

吉川  熊楠が「大蔵経」を読んだ跡は残っていますか。

中瀬  法輪寺の「大蔵経」には、一カ所熊楠の書き込みが残っていますね。前の人が誤って一巻欠けていると書いたのを訂正したものです。

吉川  あれを二度も三度も読んだというのは本当ですか。

中瀬  神社合祀反対運動の際に心を鎮めるためにやった写経のようなものだと思います。

飯倉  結構必要な箇所を抜き出しているという印象が、私にはあります…

原田  ちょっと整理したいのですが、和歌山・東京・アメリカ・ロンドン時代に仏教関係のものを読んでいたのは、思想的な観点から、興味のあるものを読んでいたということですか。

武内  読み出すのはアメリカ時代ですね。英語で読んでいたのではないかな。

原田  えっ、英語ですか。

武内  英語の訳を漢文でどう直すか悩んでいますから。

飯倉  ミシガン大学は東洋文献の豊富なことで有名ですから、そこで読んでいた可能性はありますね。日記にはそういう記述は見あたらないのですが…

松居  土宜法竜と会ったときの熊楠の仏教の知識は、主に英語で書かれた仏教論から来ていて、そこで主に漢文仏典で知識を得た法竜とお互いに知っていることをつき合わせて、それが面白かったんじゃないかな。

千本  東京時代のコレクションには仏教書はないですか。

武内  ないですね。それは間違いない。宗教関係は6冊ありますが、大したものではありません。

原田  そうすると、西洋に行って、そこで仏教を発見したということになりますね。

武内  そうですね。僕はキリスト教に対する反発だと思うのですが。

松居  たしかに当時のヨーロッパの宗教論はキリスト教の優位を説くものが多いですからね。

千本  あっ、そろそろ時間ですね。司会を忘れてしまっていました。要するに英訳仏典、仏教論の問題が出てきたわけですね。これはおもしろい。

 原田、安田論文について

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(レポート:川島昭夫)   

川島  原田さんの論文、安田さんの論文、いずれも面白く読ませていただきましたし、私自身も目を開かされる気持ちがいたしました。タイプは違いますがいずれも新聞をテーマにしており、こうしたものが出会うということ自体も興味深く感じました。

     ここでは時間の都合もあって原田さんの論文を中心にします。この中で原田さんは、編集者原田と批評家あるいは歴史家原田という二つの顔を交互に見せているように思います。おそらく出発点はこれから新しい全集をどのように編纂をしていくというプラクティカルな動機にあるのでしょうが、一足飛びに結論に到達できるであろう所を、批評家あるいは歴史家としての目から捉えなおして紆余曲折を経ながら進められています。その点では、安田さんの論文が良質の報告として非常に簡明でわかりやすく書かれているのに対して、原田さんのものは渦巻くように書かれていてやや論をたどるのに苦労が必要かと思います。新聞で安田さんの論が大きく取り上げられていますが、指摘された死と性に対する関心や新奇なものへの関心に、新聞記者として共鳴した部分もあるでしょうが、要するに非常にわかりやすいから取り上げやすかった、それに対して原田さんのものを記事にするのは、記者も頭を抱えてしまうかもしれません。

     まず編集者原田は、これまで出された二つの「全集」と呼ばれるものの評価を行い、そこから脱落したものを捉えようとしています。編集者としては、読んだもの、集めたもの、話したもの、書いたものの総体としての熊楠という宇宙の境界、どこまでを「熊楠」とするのか、ということを決定する必要があるわけです。そして従来の全集の中で欠落したのは、新聞掲載文章であったことが指摘されています。その脱落の背景として、熊楠の知的な活動を評価しようとした二種類のテクストの見方の対立があったと原田さんは書いています。

     全集に結実していくのは、熊楠の高弟、小畔、上松、雑賀の見方だったわけですが、熊楠の娘婿だった岡本清造氏は違う見方をしていたという指摘を原田さんはしています。乾元社版で新聞掲載記事が欠落したのは、編集者自身の言葉によれば雑誌掲載論文との重複があるとされていますが、原田さんはこれに疑問を突きつけている。むしろ新聞掲載文の戯作めいた部分、過激な罵倒の部分、猥雑な部分を抑圧しようというのが本当の理由だったのではないか。これに関しては、平凡社版の編集にあたった長谷川氏自身が後に後悔を示していますが、原田さんはこうした部分こそが熊楠の肉声に近いのではないかとしています。これが第一章。

     第二章では、熊楠が偽名を使わなかったという定説を、神話化として批判しています。中瀬先生や新井勝紘、そして岡本清造なども、熊楠が偽名を使ったことを指摘しています。この第二章は、後で展開される匿名新聞記事や談話を装った記事に関する論の前触れとなっています。第三章は、神社合祀反対運動への熊楠のコミットに関して時間を追ってまとめられています。猿神社の取り壊しに衝撃を受けた熊楠が、リスターとの書簡の中で問題への自覚を深め、実際に関わっていく様子が書かれることになります。第四章では、代議士中村啓次郎の神社合祀に関する質問が熊楠によって書かれたものであることなど、熊楠の「テクスト」が広がりを持つものであることが語られます。さらに新聞などを舞台とした熊楠の自己演出が語られていますが、その演出そのものを原田さんはテクストとして解釈しています。第五章では『牟婁新聞』掲載の熊楠談となっている記事の多くが熊楠が自身で書いたものであろうという推測がなされています。

     さて、この時期に熊楠が起こした合祀賛成派の集会への乱入事件は有名ですが、実はこれは熊楠自身によって予告されたものであったこと、そこまで熊楠は自分自身を追いつめた、ということを原田さんは指摘しています。これを原田さんは、大逆事件によって『牟婁新報』が捜索を受けるというような当時の政治的な緊迫と関連しているとします。ただし、この部分について、私は原田さんの論には少々飛躍がありすぎるように思います。つまり、熊楠のパフォーマンスが、自分の身辺に危機が迫ったから行われたものである、という論理は本当に証明ができるものなのでしょうか。私にはこれは、検証を許さない断定であるという気がしてしまいます。たとえば、熊楠が自分自身に関わる危機に直面していなかった時期というものもありますが、その時期にはこうしたパフォーマンスをしていないのか、というと疑問を持たざるを得ない。私には、熊楠のようなタイプの人物にとっては、諧謔や自己演出はむしろ日常的な振る舞いではなかったかと思われます。

     たとえば私は原田さんの論文を読みながら、社会主義者の山崎袈裟也や宮武外骨のことを思い浮かべたのですが、こうした人たちは徹頭徹尾戦闘的な姿勢を貫いています。私には熊楠はこうしたタイプの人と思われます。たまたま熊楠にはそうした面ではない部分、つまり論文執筆のような部分があるからむしろごまかされてしまいますが、むしろこうした状態こそが本来の姿で、とりたてて解釈の必要のないもともとの部分と考えても良いのではないでしょうか。 少々準備不足で申し訳ないですが以上です。ご本人からお聞きしたいのですが、「テクストとしての南方熊楠」とは熊楠が自分を解釈させようとしている態度を指しているわけですか。

  質疑応答

原田  うーん、たしかに熊楠には本質的に諧謔性があるとは思います。ただ、宮武外骨などとはちょっと違う部分があって、熊楠の中ではシリアスな部分とそうでない部分が交互にあらわれているような印象がありますがね。

川島  ただ、『牟婁新報』における熊楠のような新聞メディアの利用の仕方は、同時代の中で突出しているわけではない、ということを私は言いたいのですが。

千本  そこでちょっと情報を集めたいのですが、新聞というものに対するとらえ方は世代によってどのように違うのでしょうね。

川島  安田さんはスポーツ新聞にたとえていますが、たしかに現在のような日本の大新聞のあり方の方が世界的に見れば異例ですね。英国の新聞の歴史を見ても、逸脱したものへの関心が見て取れる。ニュース報道の原型というのはそういうものであって、しかもそうした新聞が政治的にも過激な主張を掲げるわけです。

千本  『牟婁新報』は何部くらい売れていますか。

中瀬  3万部ですかね。三日に一回でています。

川島  あっ、熊楠の記事は三日ごとに出ていると思っていましたが、新聞自体が三日に一号なんですね。じゃあ毎回書いているんだ。(笑)

千本  切り抜きも大事ですが、全体の中で熊楠が何を捨てて何を取ったのか、全体のイメージをつかみたいものですね。

松居  熊楠の文章のスタイルは、『珍事評論』から「ロンドン私記」、『牟婁新報』と結構パターンが似ていますね。いつも自分がどんなに惚れられているか、なんてことですね。しかし、パターンは同じながら、一応進歩の跡が見えます。(笑)最初は男前で惚れられる一方だったのが、「ロンドン私記」には女の科白への転換がある。そしてこの「先生の御姿」では当時のモガの文体になっているわけです。(笑)

原田  (笑)熊楠の文章だと思うんですがね。いくつか牟婁新報の文章をたどっていくと、他の書き手との比較をすると文章の調子に違いがあるので。他の人では書けない文体と内容という以外ないですね。自分で自分を説話化していく、神話化していくという部分があるわけですが、その語りがね。普段から、それに類したことを言っているんだと思うんですが。

中瀬  中山太郎の伝記なども、嘘ばかりだと熊楠は言いますが、一方では認めていますね。熊楠自身がヨタ話をしていたから一方的に否定もできないのでしょうね。(笑)

川島  原田さんの言いたいテクストとは、そういう原テクストみたいなことなんでしょか。

原田  そうですねえ。

松居  ただ、確かにさっきの「先生の御姿」のようなテクストが本当に熊楠のものかどうか証明するのは難しいですね。原田さんの論文は熊楠像の地平を広げたことは事実だけれど、実証的なテクスト・クリティークとしてどこまで確立できるかは微妙ですね。

武内  それで言えば、中江兆民を校定した時に井田さんが言っているように、その人の独特の文体を見つけるという問題も出てきますね。

飯倉  やっぱりそういうことが原田さん必要ですよ。

千本  原田さんとしてはテクストの範囲を広げたいという方向ですね。

原田  そうですね。『牟婁新報』に関しては広げるだけの理由があると思っています。また、そうしないと解けないことがあると思っていますがね。

(文責・松居竜五)

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