『熊楠研究』第三号

編集後記

◇幸福な時期というものは、こんな風に終わりを告げてしまうものなのだろうか。昨年六月に南方文枝さんが亡くなった。資料研究会は、もともと田辺を訪れた私に、文枝さんが直接に書庫の調査を依頼されたことから始まったものである。以後、南方熊楠邸保存顕彰会の援助のもと調査の規模が拡大した後も、一回の調査のおわりに一度は、かならず文枝さんを囲んで、その数日間の成果を語り合うことで私たちはそのことを確認してきた。◇新しい南方熊楠全集の第一巻をお見せしたい、と文枝さんに何度も話してきたが、その約束は果たせなかった。『熊楠研究』の創刊をかろうじて報告できたことがせめてもの救いといえるかも知れない。今は、ご冥福を祈るとともに、私たちの調査の行く末をお見守り下さいとすがるような気持ちである。◇本年四月より、松居は滋賀県瀬田にキャンパスのある龍谷大学国際文化学部に移り、本誌の編集を担当する事務局も移動することになります。(松居)

◇南方熊楠がみずからの旧邸に残した膨大な資料を、後世に伝えようとする文枝さんと、南方熊楠邸保存顕彰会事務局、それに私たちの資料研究会との奇妙なトライアングルは、あっけない終わりを迎えた。◇この十年に及ぶ資料の調査整理は、傍目からはうかがいにくい状況の中で続けられた。興味のあるところだけを、虫食い的に調査を行っているのではないかという疑問には、今後の研究所設立と、そこでの資料公開において、お答えするしかない。この調査が一部の研究者を益するためのものではないことを、いつかご理解いただけるであろう。◇と同時に、この調査に対する、文枝さんの揺るぎない意志に支えられ、私たちは調査中、ある愉楽を満喫したことを、告白しておかなければならない。◇資料研究会は、公開のための資料の整備、目録の完成を待って、三年後には正式に解散することを予定している。熊楠に対するあたらな研究が展開される日を、文枝さんのみならず、研究会も待ち望んでいる。『熊楠研究』には、そのつなぎ手となる役割が期待される。(原田)

◇母屋の二階に保存されていた雑誌から田辺高女時代の文枝さんの詩文を採録した。補習科時代の和歌の「夕ぐれに咲くうす紅の名なし草さびしく生きるわれに似たるも」にはじまる三首に心を動かされた。年相応の感傷といえばそれまでだが、その背景には中瀬氏の描かれたような状況があった。さらに熊楠亡きあとの戦中・戦後の十年を、文枝さんはどんな思いで生きたのだろうか、と考えた。最近どことなく元気のない邸の楠の木に、その見てきた歳月をささやくように語ってほしい、と切実に思った。◇今号には、十数年前にやりかけた仕事をやっと片づけ、しめきりをおくれせて掲載してもらった。三十年前の自分の仕事が、どんなに中途半端なものであったかを改めてつきつけられた気持ちだったが、同時にこんな索引が何かの役に立つだろうかという不安もあった。この作業の前に『田辺抜書』の大蔵経目録を作っていて分かったのは、熊楠が物を書くために利用したのは、そのごく一部だという事実であった。しかも、その独特な読み方は、熊楠の世界の奥行きの深さをあらためて感じさせてくれた。(飯倉)

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