『熊楠研究』第一号

編集後記

◇南方熊楠邸での調査は、書庫のなかでメモをとる苦行をつづける二、三人のほかは、離れの一室で膝をつきあわせて作業をする。誰かがこれは重要なものだと発言すると、それはたちまちみんなの話題となる。調査の成果として残されるものは、蔵書や標本の目録、さらに著作の集成であろうが、その過程で整理された資料や、それらのもつ問題点を何らかの形で公表し、多くの方々の共有としたい。そんな動機から、本誌は企画された。 ◇当面は資料研究会のメンバーが中心になるであろうが、いずれは多くの人たちにも誌面を開放する態勢を作りたいと検討中である。この刊行物についても、次号からは希望者に実費で頒布することができるようにしたい。一年に一冊くらいになる予定だが、希望者は事務局あてに連絡してくだされば、次号刊行のさいには通知をさしあげる。(飯倉)

◇南方熊楠邸の調査は、朝九時から夕五時までである。春と夏の休みに五日間ずつ、おこなわれる。いつも資料の山にのみこまれ、あっという間に終わってしまう毎日である。私が事務局としてやっていることは、調査が順調にいくための事前の準備と、調査後の調査結果の取りまとめである。また、調査期間中に勉強会や熊楠ゆかりの地の見学等の日がある。こうした段取りもする。しかし、食事の後は会長の意向により、連日、先生方の親睦を深めるための会が催される。ここでは会長がしきる。私は会長の言うまま、操り人形となって、歌ったり踊ったりして先生方の座興に供するのである。「弁士中止!」 ◇第一号は先生方のご協力によって、順調にできあがった。第二号ということになるが、できるなら、次は長谷川興蔵氏の南方熊楠遺稿集を、と思っている。ただし、これは自費出版になるかもしれない。皆さま方のご支援を乞うところである。(原田)

◇柳田國男全集も折口信夫全集もゆうに三十巻を超えているのに、これまでの南方熊楠全集が全十二巻であったのは何故か。答えはいたってシンプルで、書簡などのかたちで書かれたものが多い熊楠の資料が、弟子の多かった柳田・折口ほどは整理されておらず、未公刊のまま残された資料が膨大な量に達するからである。平凡社版全集や八坂版日記、そして上松蓊・宮武省三・毛利清雅宛書簡集など、現在までに公刊されているものの分量は、実は計算してみると熊楠が残した文章のうちの著作と呼びうるものの総体の三分の一にも満たない。もはや新しいかたちで資料の再編纂が行われない限り、熊楠の研究は進みようがないところまで来ているように思われる。はたして二十一世紀の熊楠研究は十全な資料に基いて展開していけるのかどうか。日暮れてなお道遠し、という感じがすることも事実ではありますが……(松居)

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