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南方熊楠と「デカメロン」

『岳父・南方熊楠』第一章より》

          (一)

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 暑中休暇中にかねて計画していた南方熊楠英文随筆の出版の準備をすすめて来たが、なかなか捗らず、予定の半分どころで、ちょっと一服、駄筆を弄して魯文を草し、いささか熊楠の博学多識の一端を伝えることにしよう。

 「デカメロン」といえば、みなさん先刻ご存知の通り、イタリヤは文芸復興期、ダンテ、ペトラルカと並んで高名のボッカチオの作。

 古今東西の風流滑稽談を面白く編集して、一流の麗筆と特異な書き振りとで一世を風摩し、その後今日に至るまで大きな影響を各方面に及ぼし、文芸史上甚だ意義の高いものがあるが、ことに人生百般をそのあるがままに眺めて、中世期から伝えられた教会の聖僧達の勿体振った偽善を素破抜いて、人の心とは坊主達の言っているようなものではごわんせん、世の道理とは実はしかじか、こんたもンじゃと、自然の性情をはっきり示しているところ、なかなかもって人生の機微を穿っているなどと軽くいなせるものではない。

 それなればこそ、熊楠、早くから、この「デカメロン」をイタリヤ語の本で隅々まで読み通し、自分でも相当にこれを利用してもいる。南方熊楠全集十二巻中のあちこちに、「デカメロン」風の風流譚と一脈相通ずる話の見ることが出来る。筆者は、今になって遺憾に思っているが、この全集には、晩年の軽い筆致の小品、短文が収録されたかったし、また編集上の都合で載録を断念したものが多く、もし出版が出来るならば、続南方熊楠全集十二巻が出来そうである。

 さて、ここで、南方の多くの随筆と「デカメロン」とを比較、考証してみようなどと、一かど文学者めいた大それたことをしようとする気はサラサラ、露ほどももっていない。ホンの些細なことを記して、熊楠の学殖のほどを示そうとするまでである。

    (二)

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 ここで取りあげようとするのは、「デカメロン」の一節、すなわち、その第九日の第三話、――「シモーネ先生は、ブルーノや、ブッファルマッコや、ネッロの懇請によって、握り屋のしまとんぼ、カランドリーノという男に、妊娠していると思いこませ、分娩せずに、快癒する薬を調製してやり、お礼に去勢した牡鶏と多額の金とを投げ出させて、まんまと三人の悪友達に可惜財産を編し取らさせる」という一話――である。

 話の筋をかいつまんで記せば、カランドリーノという極めて吝薔な男が、叔母の死去で転り込んだ僅かの二〇〇リラの遺産を大金と思うて、ヤレあそこの土地を買おう、いやこっちの土地に、ああでもない、こうでもないと、その都度友達に厄介をかけるばかりでなく、友達にいい目を見せてやるでもなかったので、今までにだって少しも友達をよろこばせたりなどしなかった上に、今度という今度ばかりはと、業を煮やした三人の友達が何とか、一つ彼奴をかついでやらなけれゃ、腹の虫が納らねェと、そこは三人寄れば文殊の智恵、カランドリーノの勘定で鱈腹食べる好計をめぐらした。

 翌朝、カランドリーノが家から出るのを待ち伏せて、三人の一人が「カランドリーノ君、今日は、君、昨夜、何か悪い夢でも見なすったのかネ、いつもとはちがって、まるで別人のようだョ、心配するこたァ、ないンだろうがネ」と持ちかけると、可哀想に、小心老のカランドリーノ、すっかり心配になって、足も重く、ノロノロと歩いていくと、別の一人が、「カランドリーノ君今日は、君はよっぽどどうかしてるよ、マア何でもないンだろうが、半分死んでるように見えるネ」とおどしたので、もうすっかり、いけなくなってしまっているところへ、もう一人の友達が、「やア、カランドリーノ君、なんだい、その顔は、まるッきり死んじまったようじゃないか、どうなんだい、気分は、え、もう家へ帰って、早く臥った方がよいネ」と親切ごかしに出鱈目を並べ立てた。カランドリーノは、もうすっかり病人になったように、躰中が熱っぽたくなり、家へ帰り匆々、寝室に入り、妻君に、

 「こっちへ来て、よくかけておくれ、わしはとても体の具合が悪いンだから」。

 そして、三人の友達のいう通りに、自分の小水を女中にもたせて、名医のシモーネ先生のところに送り届けた。一人の友達は、さき廻りしてシモーネ先生のところへ行き、実はこれこれ、しかじかとすっかり話をして、先生の鞄を持って、カランドリーノの家にとってかえしたが、このシモーネ先生も中々したたかの食わせ者、すっかり病人になりきって、「どうも腹の具合が変挺子で、平常と調子がちがって」と寝込んでいるカランドリーノの傍に腰をかけて、脈をとり、あちらこちらと型通りの診察をすませ、しばらくしてから、そこに妻君のいるのにも一向頓着なく、首をかしげて、サモ子細ありげな顔で、こう言いました。

 「フーム、こりゃ大変じゃて、ねェ、カランドリーノ君、友人に話すつもりで、儂ゃ、思い切って言うンじゃがネ、驚いちゃいけないよ、君は、外にどっこも悪くはないンだがネ、おめでたなンだよ、ソー、つまり、君は妊娠しているンだヨ、ただそれだげで、他にはどうということアないソだよ」。

 これを聞いて、カランドリーノは、驚くまいことか、いや、驚くどころか、世にも情ない、悲しい顔をして、大声たてて、妻君に向って、言い出しました。

 「アア、アア、テッサ、これはお前のせいだよ、お前はいつだって、上にばかりなりたがっていたんだ。わしが言っていたとおりだ。

 矢っ張り、お前のせいだよ、わしがこんなに腹の具合が、どうも、ああ」と、嘆息をもらしました。

 常日頃貞淑のこの妻女は、良人がそう言うのを聞くと、恥かしそうに真赤になって、うつむくと、なんとも言わずに、部屋から出て行きました。

 気も顛倒せんばかりに驚き、全く意気悄沈の気の毒なこの病人は、さらに、くどくどと愚痴っていましたが、

 「ああ、とんだ目にあっちまった。どうしたらいいンだろう。子供をどうやって産むンだろう。一体俺のどこから子供は出るンだろう。どうだい、うちの家内が淫らなばっかりに、わしはきっと死んじまうよ……」と歎きました。

 傍に集って来た三人は、カランドリーノのこの言葉を聞いて、吹き出したくなって、お腹がはち切れそうでしたが、それでも、じっと我慢をしておりました。カランドリーノは医師に身を投げ出して、どうすればよいのか、是非お助けをと懇願、嘆願しましたので、シモーネ先生は厳かに、彼にこう申しました。

 「カランドリーノ、そう気を落して貰っては困るネ。だって、お蔭様で、わしたちはそのことに早く気がついたンだからネ。それに、今日は、医術も進歩してネ、わしがちょっくら手当をすると、数日で癒してあげられるンだよ。だが、少しはお金をつかわなくちゃ、いけないよネ」。

 カランドリーノが申すには、

 「エエ、先生、そりゃあ、そうでしょうとも、わしはここに二百リラのお金をもっております。こりゃ、叔母の遺産でして、わたしゃ土地を買おうと思っとりましたンだが、わしが子供を産まなくてすむンでしたら、全部お入用なら、全部でも、どうか、先生、おとりになって下さい。わたしは、女たちが子供を産むのに、かなり大きなあれをもっているのに、一且産む段になると、とても大騒ぎをするということを聞いております。わたしはそんなものはもっとりませんし、自分でそんな苦しい目にあったら、お産をしないうちに死んじまうと思います。ああ、どうしたらいいのか、先生、お教え下さったら、どんなことでも致しますじゃ、これ、この通り」と、頭を畳に、おっとイタリヤには畳がなかった、寝台になすりつけるようにして、頼み込みました。

 シモーネ先生、勿体振って、

 「サア、もう心配をなさらぬことじゃて、とてもよくきく、それで飲み易い水薬を君のために特別に調合して、さしつかわそう。それは三朝で、腹の中のなにもかもをきれいに溶かして流して呉れる妙薬じゃ。それで、君はもうびんびんしちまうよ。

 だが、君も、今後は無分別なことをせず、妻君の尻に敷かれるようなことのないようにして二度とこんな馬鹿げた目にあわないようにするンだよ。さて、その薬をつくるのに、上等の肥えった去勢鶏が三番いに、その外に色々なものがいるンだ。ああ、ちょうどよい、そこに三人がいるから、一人に五リラずつでもやって、そんなものを買いに行かすとしよう。

 明日の朝、君のところへその水薬を送り届けてあげよう。大きなコップになみなみと注いで、一回に一杯ずつ飲むンだネ」。

 カランドリーノはこれをきいて、すっかり安心。「先生、おっしゃる通りにします」といって、シモーネの言う通りのお金を差し出しました。

 三日たってから、医者と三人の仲間が見舞にやって来ましたが、医者は彼の脈をとって、物静かに、鷹揚な態度で、

 「カランドリーノ君、君はすっかり癒っているよ。もう安心して、なんでも仕事に出掛けでもよろしい。もう病気だなンて言って家にいなくて、いいンだよ」。

 カランドリーノはよろこんで、起きあがり、イソイソと自分の仕事に出掛けました。そして、誰か話相手が見附かると、いつもきまって、シモーネ先生は偉い名医で、自分に美事な治療を施して呉れて、ちっとも痛みを感じさせないで、三日間で自分の妊娠をなおして呉れたと、誉めそやしました。また、三人の仲間は、巧みに、彼の吝薔に鼻をあかすことが出来たので、ホクホクしておりました。貞淑な彼の妻女、テッサだけがその後はどうも御機嫌がよくなかったらしいです。

 「デカメロン」の第九夜、第三話は、ざっとこんな筋ですが――筆者が少し省略したり、文言を変えたりしている点、おゆるしを願いたい――この話はボッカチオの創作というよりは、一三二〇年頃に事実行われた騙瞞であったともいわれており、後のイタリヤの「デカメロン」研究者達の中には、「ボッカチオが創作したとも、何かの書物から抜きとったとも思われない」話として、右の話を取扱っている人もいる。

 さて、この話の中には、ヤマが三つあると見ることもできよう。

 筆者は、二十世紀の医術の進歩を示す無痛分娩のことを指しているのでもなげれば、日本で戦前まで御法度であったのに、戦後に開放された優生相談とかいう施療法を連想しようとしているのでもない。そんなの、あんまり文学的でもないし、高尚でもない。

 ヤマの一つは、全篇の筋となっている騙りの面白味、吝薔者がまんまと瞞着されて、有り金を差出さされたという点。

 ヤマの二は、男が妊娠して陣痛を味わねばならない――シモーネの頓智で作り出されて、同じく彼の智恵でうまく治療して貰えたから、実際には苦痛を味わずにすんだのだが――ということ。

 第三のヤマは、この馬鹿げた男の妊娠ということが、その本人の口から女上位という交合態位の結果だということが明らかにされたこと。

     (三)の一

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 ボッカチオの「デカメロン」については、その後沢山の研究書が出ているが、その中でも、エー・シー・リー『「デカメロン」、その源泉と類話』(ロンドン、一九〇九年刊)は優れたものの一つであろう。

 他の多くの研究書も同様であるが、このリー氏の「デカメロン」もボッカチオの「デカメロン」の数多くの風流講の一つ一つに、東西古今の文献を渉猟して、その淵源をなしているか、もしくは淵源となっていると推定せられる譚話、事実や事実伝、伝説を調べさらにボッカチオの「デカメロン」と同系、同類の、よく似た譚話や物語りを集めたもので、引用参考文献の多い点でも、その他の点でも、すぐれていると思われる。

 熊楠遺蔵図書の中にも、このリー氏「デカメロン」があって、それには熊楠のいつもの例の通りに、「明治四十三年五月十二日、ロンドンより郵着、代十二志六片、内郵税八片也、紀伊田辺にて南方熊楠蔵」と毛筆で自書、大きな蔵書印を捺している。熊楠は田辺にあって、この新刊の葉書を直接に海外注文して取寄せ、発刊直後に読んでいるが、そのあちらこちらに、これも熊楠一流のやり方なのだが、欄外に毛筆の細字で傍記、添書を施している。それらを拾い読みしていると、熊楠全集収録の数多い随筆の中の色々な記事と符合を合する点の多いことも判って来て、興味が深い。ここではそんなことをセンサクしている暇もないので、単刀直入に、件の第九日、第三話のところを開けてみることにしよう。

 まず、エー・コリングウッド・リー氏の記しているところを摘記するに、男の妊娠というもとの話について、「この第三話は野蛮人の間に古くから行なわれ、今もなお広くひろまっている習慣、すなわち妻が分娩をはじめると、その夫も産屋に籠って、自分も陣痛を苦しみ、妻女と自分との位置を交替させる動作をするという習慣に関係している」と首書している。この蛮人間の習慣は多くの人類学者や民族学者によって発見、報告せられて、確証を与えられているが、一体この話がどうして文芸復興期時代のボッカチオの智恵袋に納まるようになったのか、筆者は、人類学や人種学や民族学や民俗学が、ひろく世界の隅々の野蛮未開の人間の生活風習を知って、系統的に研究するようになったのは、大体十九世紀後半以後に属することと思い合わせて、不思議に思っている。もっとも、ギリシャ、ローマ時代にも欧人のアフリカ土人との接触や、東洋人種との接触があったから、例えばギリシャ時代の地理書などにも、異邦人の生活、習慣の記録が見られるし、ローマ時代のあの名高いプリニー「博物誌」にも数多の異国、異邦人の生活、風習が詳細に記されているから、当時地中海を舞台とする海運の中心、東西交通の要路にあったイタリヤに、それらの遠方の国々、処々の世相や風俗が色々と伝えられていたには相異なかろうが、いずれにせよ、ボッカチオの如き上流社会に属する文学者がこの野蛮人間の風習をどうして自分の智恵袋の中に納いこんでいたのか、知識の伝播力の大きいことに驚かされる。この風習の理由については学者間に色々の話があるようであるが、同情ストライキも行なわれる今日の時代からかえりみても二人して楽しんでつくった結果の苦労を、二人して頒かち合うというのはまことにもって極めて民主的であるというべく、男女相愛の快楽の玄妙極致の醍醐味を浅墓にも目方にはかって、その都度都度では女は七分、男は三分で、男の方に歩がわるいが、女は分娩の苦痛と哺乳の苦労を負わねばならぬので、長い間をならしていえば、男女相方三分と三分で、平等だ、神の摂理は公平じゃと、とんだところで平等主義を唱えている最近の粋筋のお偉方達よりも、行動的に民主主義を実践している、と推賞すべきではあるまいか。

     (三)の二

 リー氏は、この風習そのものについて、マックス・ミューラーの研究書、タイラーの「原始文化論」や「人類初期の歴史と文明の発展に関する研究」ローデの「ギリシャ、ローマ時代研究」等をあげているが、これらはいずれも十九世紀末期の刊行書である。それ以外に、リー氏は、この風習について、それはストラボー「地理書」三の四の一七に訳されており、今もなお無知な社会層においては、妻女の陣痛がはじまるとその夫が分娩の苦痛を負う風習が行なわれているとも記している。また、フランスの古い時代の民謡などにも、この風習がうたいこまれていると、十八世紀、十九世紀のフランス文学研究書の中から多くの例証を引いている。

 次に、男が腹の具合が妙にふくれて来るという馬鹿げた話については、リー氏は、色々な話を持ち出している。

 十二世紀中頃にイギリスで大いに繁昌した「フランスのマリーの詩」の中に農夫の胃脆に甲虫がは入り込んで彼と彼を診察した医者とに、てっきり農夫が妊娠したのだと信じこませる、という一節がある。また、この話は鼠を活かせる旅人の話の擬作だともいわれ、もっとよく似た話が「修道僧の妊娠」と称せられている話にあると示されている。この話というのは一本気の単純な若い修道僧が全然男女自然の和合の道を一向に存せず、愛戯の何たるかを弁えなかったので、男が下になると身ごもるものなンだと訓えこまれて、そう信じこんでしまう話である。この話は「デカメロン」のあのカランドリーノの話によく似ているが、その施療法がちがっている。妊娠した修道僧は、牝牛が妊むと、その尻をしたたかに打擲すれば、早産するということを聴かされていたので、自分もそうしようと思うて、森の中に駆け込んで、われとわが身にひどい鞭をあてていると、一匹の兎が自分の両股の間を走り逃げたのを見て、こいつこそ自分の産んだ赤児だと信じ、その跡を直ぐに追っかけたが、とうとう捕まえそこねてしまった。そこへ来会わせた修道僧が彼を狂人と思い、連れ帰って一室に閉じこめ、そして世間の人々も、この気の毒な修道僧を重病人扱いをした。

 旧いドイツの詩の中にも、こんなのがある。

 王の姫が妊娠して陣痛を訴え初めたとき、その父王も病褥に横たわる身となり、その小水を姫に、与えて、医師に療法を訊ねさせようとしたが、姫はそれをひっくりかえしてしまって、外にどうする手だてもなくて、落胆した。結局のところ、父王は、ちょうどカランドリーノがその妻女から上に乗られたと謀ったと同じやりかたを王妃から受けたと、いともありがたいみことのりを、のたまわらせ給うたので、前の話のように、打擲して治療することになった、という話である。

 このところの欄外に、熊楠は、毛筆で「茶臼のこと」と註記している。同様の話は「新々珍談」の中にもまたドイツで一五五五年に出刊の「豆本」の中にも載せられているが、話の筋は大分ちがっている。

 また、こんな話もある。一人の金持紳士が病気で臥っていて、その血をとって娘にわたし医家に行って病状を診察するように命じたが、娘は父親の血と自分の血とを取り替えて医者の許へ持って行ったので、父親が妊娠しているという医師の診察となって、とうとう娘が自分の秘密を告白せねばならなくなった、これと同じ話は外にもある。

 リー氏は、なお種々の書籍を渉猟して、この「デカメロン」の第九日、第三話と同系もしくは同類の話を数多く採録しているが、ローマの惨虐王ネロ帝が母公に犯した罪の罰として蛙を生かせた話と、それに関する多くの話を載せている。

 カランドリーノが自分が妊娠するようになった理由をその妻女に帰せしめて訴える段は、前にも類話のあることを記しておいたが、この風習や、ことに東洋においては妻の妊娠を避ける方法としてよく行なわれている女上位の風習については、ピエトロ・デラ・ヴァレの「旅行記」(一八四三年刊)やラムシオ「旅行、航海記」(ヴェネチヤ、一五八八年刊)の中の数多くの旅行談の中にも記されてある。

     (四)

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 リー氏『「デカメロン」、その源泉と類話』について、余り多く書きすぎたようである。筆者がこの一文を草した所以は右の最後に記した点、すなわち東洋において避妊の目的で女上位をたのしむ風習があることが、一五八八年刊のラムシオの「旅行、航海記」に記載されているという一段が、実は南方が著者リー氏に教示したところに拠るという点である。

 このことは、ちょうどこの個所の欄外に、熊楠自身「此一条は南方熊楠より著者え注意せしもの也」と添書を施していることによって、明らかである。いまのところ何時、何処から(ロンドンでか、帰朝後田辺からか)、どんな方法で「著者え注意」したのか具体的なことは、筆者には不明であるが、南方がラムシオの「旅行、航海記」を早くから読んでいて、イタリー、スペイン、ポルトガルの航海船が世界の彼方此方から伝えた珍談奇談を織っていたことは南方熊楠全集十二巻中の多くの随筆を見ても明らかで、また前記ラムシオの「旅行、航海記」からの引用も多い。

 ところで、日本語でもそうであるが、現代文を読めても源氏物語は読みにくい。十六世紀頃のイタリヤ語は、イタリヤ語とはいうものの、現代のイタリヤ語とはまた別のイタリヤ語で、中々読み難い。英文だってそうで、英語のエライ先生が中世英文を読みかねる。マルコ・ポーロの研究者として内外に著名な岩村忍氏が、かって「南方先生は、ユールの『マルコ・ポーロ』にせよ、あの当時にあれだけの古いイタリヤ本を読みこなしていられるので、それだけでも並々ならぬ学者である」と讃嘆していたが、いま右のように、リー氏の如き博学者も南欧諸国の古書にまで注意が行き届かず、熊楠から注意を受けた「この一条」を補足しているのである。ことは些細なことのようである。南方の学殖の深いこと、智識の該博なこと、東西古今の図書文献に通じていることは、この一事をもってしてもその一端をうかがい知ることが出来る。(昭和三十三年八月一十八日)

(昭和三十三年八月三十一日〜九月『紀伊民報』)

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