(1996.12.25〜12.27)
《ミナカタ通信7号 (1997.3.21発行) 掲載》
調査終了後、1996年12月27日午後3時より、記念館一階の会議室にて調査についての報告を行った。
(記録・編集 原田健一)
小峯 自筆の写本と江戸時代の版本の調査を今回は中心に行いました。かなりのところまでは行えたと思いますが。それから、内容的な問題もありますが、やはり保存上、マイクロ化をしておいたものが多いことは言っておきたいですね。
飯倉 えーと、前回も行っていますから。だいたい合わせればかなりのところまで終わっています。ただ、どうしても手分けしてやっていますから、多少の精粗のばらつきがありますので。その辺の凸凹をならす必要があるわけです。かなり拾えたはずですが、まだ多少はあるかもしれません。あと、目録刊行のための作業としては、とりあえず『南方叢書』や『課余随筆』の内容について丁寧に追っていく作業はいいでしょう。その内容をすべて目録に載せるのは難しいかもしれない。
小峯 しかし、『南方叢書』『課余随筆』は重要ですね。この二つのシリーズはアメリカ・イギリスと持って行ってます。しかも、ちょくちょく余白に書き込みをしていますからね。しかも、帰ってきてからも書き込みをしている。
飯倉 見ていると、あっちの余白、こっちの余白と別の冊子に一続きのものを書きついでいるね。
小峯 その意味でも邸のものと合わせた総合的な調査が必要ですよ。そこらへんのことも考えると、資料の傷みが進んでいることもありますし、今後のためにもマイクロ化は必要でしょう。保存状況の悪いものは実物で見るのも恐いものもありますしね。マイクロ化し、そのマイクロ化したもので校合しながら作業を行っていった方がいいでしょう。
原田 どちらにしても、こうした抜き書きやノート類は記念館のものだけで完結するわけではありませんから、邸と相互に合わせてみてはじめて分かることがあるでしょうね。
飯倉 邸にある写本やノート類との関連をある程度言わないと、その価値が十分にわからないということがあると思います。熊楠さんの中学時代や東京時代の勉強の過程ですから、そこら辺の関係をみていかないといけないですしね。こちらにはその点でかなり価値のあるものが来ているといっていいわけです。
原田 それでは標本類の方にうつります。松原先生と千葉先生は今日、朝帰られましたので、私の方でお聞きし理解した範囲で報告させていただきます。
まず、鉱物・岩石標本は当時は、それなりの価値があったろうということです。明治の始まったばかりの頃ですから、外国にしかない鉱物もありましたし、集められた標本は熊楠にとっても初めて見るものだったのでしょう。多分、学ぶための本としては羽山兄弟との関わりで出てくる、デナの『普通金石学』を使ったのでしょう。現在残っている標本ケースは帰国してから作ったものでしょうが、デナの分類にしたがっているように見えます。いつ、分類・整理をしたかは難しい問題ですが、どちらにしても、帰国した時点でこの方法で行っているわけです。しかし、そのことはそのまま熊楠における鉱物・岩石学の限界も示すことになります。熊楠が明治の始めに学んだ鉱物・岩石学はまだ近代以前の錬金術や冶金学といった化学の影響の強いものだったわけです。熊楠には『化理学諸薬品蔵目』というノートが残されていますが、そのなかで鉱物・岩石があつかわれていますしね。しかし、一九〇〇年代に入ると鉱物・岩石学はより物性に基づいた研究に入り、近代的な学問の大系をつくりはじめるわけです。その意味では熊楠はそれ以前の世界に属しています。江戸時代の木内石亭の『雲根誌』なんかの世界に熊楠はどこかで接続しているわけです。また、それに見合うように標本の中に人工物も多く含まれています。
そんなところで、えーと、それでは、貝類について。
長谷川 貝類の標本は名前、採集地、採集日が付いていませんので、標本としての価値はあまりないと言っていいでしょう。また、貝の並べ方もある分類に基づいているわけではありません。しかし、残された貝の九割は名前が分かりましたし、どこでとれたかもほぼ推定できます。採集地はこの近辺および、那智辺りのものだと思われます。ただ、二十点ほどでしょうか、アメリカ・キューバ産のものがあります。これについては、今回は文献をもってきてませんので、一部不明のものと合わせ一時的にお借りして調べさせていただきたいと思います。あと陸産の貝類については、地域性がありますので自分では難しいところもあるのですが、今回は後藤伸先生に名前をつけていただきました。
なお、蟹・エビなどの甲殻類については写真撮影を行いましたので、それでその大部分は同定作業を行うことができるかと思います。また、ウニ等の棘皮動物、化石等については量も多くありませんので、それぞれの専門家に送り同定作業を行うことができるかと思います。
長谷川 まず、アメリカの顕花植物の標本は土永夫妻、後藤岳志、安田でやったのですが。あれは、どっちかというと図鑑代わりに使ったというか、そんな感じですな。きちんと作られている押し葉標本のシリーズに、自分で作ったものを、これは人に同定作業されているものですけど、入れているようやね。ただ、当時と今と、学名が変わっている可能性があるので、調べる必要があるかもしれんな。
橋爪 えーとですね、これは表記を書き写す作業なわけですが、その表記に文字抜けがあったりといったものがあるんですよ。それを補ったりということが必要です。
原田 やってみると、非常に読みにくいものがあって、写すこと事態がたいへんですね。どうしたらいいですかね。全体のやっと五分の二ぐらいですか。ある程度、専門家にやってもらった方がいいのか。今の学名と照合する必要があるのか。
吉川 今の学名とかなり違いがあるのですか。
長谷川 ものによってはありますね。シダなんかは大きく変わっています。
長谷川 しかし、それをやるとなるとかなりたいへんですしね。これはこれで、ひとつの大系にのっているわけですから、学名はそのままにしておいて、表記はオリジナルによったとするという形でいいんではないですか。
後藤岳志 表記の細かいミスは、後でチェックをかければかなり訂正ができるでしょう。
吉川 標本としてどれくらいの価値があるかということはどうでしょうか。
後藤岳志 うーん、図鑑代わりのものですから、それほどのものではない。熊楠がどういう風に植物学の勉強をしたかという過程が分かるというものでしょう。
(補足:南方邸にはアメリカ時代に植物採集の時に携行した手沢本 Asa Gray, "Manual of the Botany of theNorthern United States" 1868, A.W.Chapman "Flora of the Southern United States" 1872 等があるので、こうした文献を参照すると作業がより進むかもしれない。次回の南方邸の調査の時に、今回写し取ったデータと比較検討したい。)
長谷川 日本人で外国で昆虫についてはじめて文章を書いたのは熊楠なんですよ。ですから、熊楠はその面では昆虫学者として見られてもいるわけです。それで、記念館の昆虫標本は南方邸のものと一緒のものです。一つだけこちらに来ているわけです。比較的残っているものを展示ようにもってきたわけでしょう。邸のものと合わせるとかなり興味深いものが採集されていると言っていいでしょう。
原田 淡水産藻類プレパラート、米州産諸菌標品集については基本的には萩原先生にみていただき、どう作業をすすめるかを決めたいと思います。ただ、プレパラートは剥離してしまったものもありますので、記載を写すといった点に重点をおいて作業をすすめることになるでしょう。
原田 これはひとつの提案にすぎないですが、調査の方も進んできましたので、目録の刊行というのはひとつの大きな目標ですが、調べる過程のなかでいろいろなことも分かってきているわけですから、それについて書いた簡単な館報というか、リーフレットみたいなものを出してみたらいいと思います。A4かB5で一・二枚程度のもので館収蔵資料の簡単な紹介をするものですね。年に一回か二回程度でいいでしょうが、調査したことを広めていくことも必要でしょうし、そうして出していけば積み重ねにもなっていきますから。
飯倉 よく博物館にはあるものですね。置いといて、来館した人で興味をもっている人がもっていってもらう形ですね。
かえってそういうリーフレットなんかの方が、紹介的にいろいろ書くことができていいでしょうね。ワープロかなんかで打って、オフセットで刷れば安くできるでしょうし。
こちらでも、ある程度のお手伝いはできますので、そこら辺も今後、ご検討いただいたらいいですね。