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第17回南方熊楠邸調査

(1998. 3.28〜 4. 1)

《ミナカタ通信12号 (1998. 5. 8発行) 掲載》

調査状況

調査終了後、南方文枝さんを囲み調査の報告を行った。
(記録・編集 原田健一)

[生資料について]

飯倉  イギリス時代に日本人から来ていた書簡を中心に整理しました。一日、調査に遅れたせいか、仕分けするところまではいったのですが。手紙でないものが多いので、それを分けるのにだいぶ時間がかかってしまいましたね。それから、南方植物研究所をつくろうとした時期の田中長三郎さんからの手紙がまとまって、ありまして。丁寧に見ていませんが、田中さんの書いている文章から察するに。南方さんからの手紙があれば、これはだいぶ迫力があるんじゃないかと思いますね。それで書目については川島さんの方で、やっていますのでコピーを取ってお渡ししましたので、後ほど整理されて報告されるんじゃないかと思います。昨日帰った武内さんの方はどうだったんですか。何か聞いていますか。

原田  書簡や、新聞の切り抜き。写真が多かったようですね。一度は整理してある箱をやっていますから、今回はそれほど新しい発見はなかったということでした。

松居  ちょっと質問なのですが、田中長三郎宛の熊楠書簡は今後、見つかるあてはないんでしょうか。

川島  実は、わたしも気になっていて。田中長三郎さんの最後の大学は府立大ですから、府立大に問い合わせて遺族の方にもし連絡がとれればと思うんですが。可能性はないんでしょうか。

中瀬  その前に、アメリカから帰って台湾に行っておりましょう。

川島  台北帝大ですが、私信とかプライベートなものは研究室には置かないと思うんです。やはり関係者、遺族の方か何かがおもちなのではないかと思うんです。蔵書は大学に置きますが。

松居  蔵書は台湾にきちんと残っているらしいですね。

中瀬  蔵書はいったん、ここに来たんです。ここで預かって、送り返した、という。

川島  ペンチッヒ文庫ですか。

中瀬  いえ、田中さんの蔵書です。

川島  そうですか。すごいものですが。

文枝  ちょっとの間、蔵にありました。

川島  そうですか。

松居  私の方は、前回に引き続いて海外来簡をやりました。全部は終わっていませんが、八割がたは終わったと思っています。以前、めぼしいものは読んで、紹介してたりしているんですけど、あまり重要でないと思っていたものの中にも読み返してみると重要なものがあって、けっこう面白かったです。最初はシュレーゲルの書簡とか大英博物館の関係のものとかを中心にしていたわけですけれど。今回は田辺時代というか、こちらに戻ってきてから、一通しか来なかった人のものでも、当時の事情とかが分かって非常に面白い。一番多いのは、ノーツ・エンド・クエリーズの熊楠の文章を読んで、それに関連した質問をしてきたり、あるいは自分の論文を読んでほしいというかたちで送ってきた書簡ですね。内容的にはさまざまで、あまりたいしたことのないものもありますし、研究者からのきちっとしたものもあります。簡単に内容を書き出しておきましたが、最終的には網羅的な内容調査が必要となります。あと、海外の書店からの伝票は膨大にあるんですが、これはコピーをとって、あとで川島先生の方で整理しリストを作っていただけることになっています。

[平凡社版全集の問題点]

原田  私の方は、今回は蔵書の和書の活字本のチェック作業を行いました。一度はやってあるものですが、どうしても誤りや分からないこともありますので、そこらへんを中心に行っています。それでですね、昨日、今日と橋爪君が遊びに来ていましたが。彼から聞かれたので説明しておきましたが。彼は神社合祀反対運動の熊楠が牟婁新報なんかに書いた文章をみたいといって来たわけですが。見た後で、平凡社の全集になぜ、この文章が載ってこの文章が載らなかったのですかというようなことを聞いてきたわけです。

    えー、私は一度しか長谷川興蔵さんと会ったことはありませんが。当時の資料や、これは飯倉先生に間に入っていただいて、平凡社の当時編集を担当した林澄子さんと松居さんともども会ってお話しをお聞きしたり、といったことなんかを総合するとですが。当時は時間もなく、まず、岡本先生の方である程度、整理されておられた資料をざっと見て、めぼしいものをがっさりもっていって、整理しておやりになられたということがあるわけです。そこで十分に内容を検討する時間がなかったという部分があった。これは、例えば長谷川先生も「珍事評論」を、なぜ平凡社の全集に収録しなかったのかということについてお書きになっているものからも推測できるわけです。また、紙幅の都合でこれ以上、長いものが載せられないとかいうこともあるわけでしょうし、他にも理由があったわけです。また、不備ということでいえば、例えば論文では南方邸にある雑誌をもとに調べて整理している。しかし、連載しているものなんかの場合、南方邸にその連載中の掲載誌がない場合は他の図書館等でおぎなっておかなければいけないわけですが、そうした作業を十分行っていないで、欠けたまま、その部分が抜け落ちたまま掲載されていたりといったようなこともあります。今から考えると、えっというような初歩的なミスがあるわけですが、これは意図的なことというより時間的な制約のなかでの抜け落ちといったことだと思います。

    ですから、平凡社の全集が完全なものだという風に考えると、どういうことなんだというようなことになるわけです。しかし、そうした時間的な制約のなかで制作されたものだということで見るとかなり了解できる部分があります。

    また、八坂書房で長谷川さんがまとめられた南方熊楠の日記も、岡本先生の翻字原稿を元に長谷川さんが手を加え、おやりになられたわけでしょうが、これも多分、同じように時間的な制約があったと思われるわけです。長谷川先生は日記が刊行された後も、死ぬまで日記に朱を入れられておられたとのことですから、やはり完全ではないわけです。

    もちろん100%なものというのは、たいへんむずかしいわけですが、現在、刊行されている日記は80〜90%の範囲のものということになるわけです。研究する立場からいえば、いかに間違いを少なくしていくかというのが課題になります。その意味では、やはり、もう一度、全集を編み直すということが必要になってくる。もちろんこれは、実際の資料にあたってみての実感なわけですが。

飯倉  新聞のは被差別部落の問題をどう扱うかということを、議論して決めないとむずかしいだろうね。

原田  そうですね。平凡社の全集については、当時の状況というのもあります。

[日記の解読について]

松居  日記については中瀬先生に見せていただきましたが、かなりありますね。

中瀬  そうですね。八坂書房のものは岡本先生の第一次原稿、それを元に長谷川さんの第二次原稿という二人の手が入っているということもあります。また、刊行された明治の部分については、内容的に簡潔な文章が多いんです。思い出したように一頁書いたのもありますが、二、三行しか書いてないものが多いわけです。ですから、内容さえつかめれば、そう大きな間違いは少ないわけです。

    えーと、ちょっと調査についても言わせていただくと、大正七年の日記を、岡本先生の原稿を元に入力したものを校正したわけですが、前回と今回の調査でやっと一年分校正が終わったわけです。これはかなりたくさんの朱を入れました。そこで今日、大正七年が終わったので、八坂書房さんのを校正するとどれくらいかかるかということを試しに、半日ほど明治四十四年をやってみたところ一月と二月を終えたわけです。こちらは朱は少ない量ですが、毎日一カ所か二カ所、必ずあります。やはり全部にわたって、読み直しやり直さないといけないという風に思うわけです。

川島  これは例えば、送りがなの間違いとか意味上はあまり変わらないものなのでしょうか。

中瀬  そうした変わらないものもあります。しかし、読み間違いもあります。例えば、地名なのに、そこへと読んでしまっているものがあります。そういうのは、やはり困るわけです。

原田  校正は知識がないとできないですから。人名、地名は特にそうですね。

川島  固有名詞は英語の場合も一番読めないですからね。

中瀬  例えば、間違いやすいのは、みなさん飛行機にのられてところは「馬の一原」というんです。ところが八坂書房のでは「馬人原」となっているわけです。よその人が読むと気の毒な、知っていれば何ということのないことなのですが。そういう間違いがあるわけです。長谷川さんはもう、大正はいいんだよと言っておったわけですが。たしかに量的にも多いですし、人事的なことが多いんです。子供さんの育児日記的なものがあったり。しかし、南方先生の人柄をみるのに、これからが面白いわけです。藤村の「千曲川日記」のようなものです。創作ぎりぎりのところに入るんです。猫がどうしたとか、鶏がどう遊ぶかとか、亀がどうものを食べたかという観察が続くわけです。日記の中身が変わってくるわけです。

松居  量的にはどうですか。

中瀬  多いです。それに三段に書いてあったり、ちょっとパズルを解くようなところがありますね。横文字のところがありますから、これはお手伝いいただかないと。

原田  あと、萩原先生や後藤先生のやっていただいている、標本の目録ができあがってくると、学名やそのへんの内容も読みやすくなっていくでしょうね。

飯倉  学名は、全集でも長谷川さんが分かるということでかなり手を入れていて、ぼくがみていてもそこまでやって大丈夫かなというのがありますね。分かるからこれは書き間違いだということで直したものが、だいぶある。

中瀬  方針を決めていただいた方がね、いいと思うんです。わたしは、南方先生が書いた通りやるのがいいんではないかと。南方先生は金崎卯吉の「卯」は「宇」だったりするわけですし、広畑さんの場合も「幡」という字を使ったりすることもあるんですね。これも、間違っているからと、凡て直してしまうと。南方先生がこうしたことに頓着しなかったということがね、直してしまうと分からなくなるわけで。(笑)

    あまりきれいに整理してしまうのもどうかなあと思いましてねぇ。

[新聞切り抜きについて]

原田  それでは安田君の方へ行こうか。

安田  新聞の切り抜きは山岸の方でデーターの入力をしてくれたわけですけど。ファイルに入っているものは今回で、凡て照合したわけです。あと、スクラップブックに貼ってあるのが残っているので、これをやれば、まずだいたい照合し終わるはずです。あと日記帳のなかにはさみこんだのが、今回も出てきましたが、次回も出てくる可能性があるわけですが、あとさほどの困難はないと思います。

原田  あと、安田君の作業が終われば、すでにコピーしたものが三部ありますので、これを整理して製本して、今後の調査や、研究所ができたときに閲覧、公開できるようにしたいですね。

[蔵書について]

川島  ようやく蔵書の洋書についてチェック作業が終わりました。田村さんが手伝ってくれたりしたおかげで、ようやく終えることができました。本自体を実際に見ないと分からないことは、分かりましたので今後は、これからはすでに公刊されているものや生資料の書籍の伝票などををつきあわせていくことをやって、南方先生の蔵書生成史のあとづけをしていきたいと思っております。

千本  まず、前回調査し残した生資料のノート類をやりました。それに引き続いて蔵書中和綴じの書籍をチェック作業を始めました。今年の夏には、生資料のノート類を中心に国文学研究資料館とのマイクロ化作業を行えればと思っております。

[再び、平凡社版全集の問題点について]

千本  ところで、さきほどの中瀬先生の言われた、字の問題ですが。データーのデジタル検索ということを考えると南方先生が書いたままのものと、整理したものの二つがあるといいなぁということになります。また、今後の研究ということを考えると、今後は、より画像データーが発達する可能性が高いので、画像データーが入力されていれば、パソコンを使ってさっとみることができるようになる。そうすると、今より活字だけで見るということだけではないようになります。となるとテキストレベルでの整理というのも検索ということを考えると重要になりますねぇ。これについては全集にむけて、まだ議論する余地があると思います。

それと、もうひとつは被差別部落の問題ですが。これは、わたくしの奈良でも新しい問題の中心になっておりまして、また、京都市が出資している被差別部落研究所では生資料は生資料のまま出そうという、最近の傾向があります。

原田  そういうのが受け入れられるようになってきていますか。

千本  五年前にはじめて、柏書房が近世の地図を出しましたが、そこには穢多村とかそういうのが載っているのですが、今まではそれを消していたのをそのまま載せました。学会でも受け入れられて、これが五、六年前ですが。解放同盟等運動の方もそういう方向に動いてますし、京都、奈良のレベルではじょじょにそうなってきていますので、紀伊半島の状況は分かりませんが、じょじょにそういう方向になっていくんだろうなと思っているわけです。

中瀬  それでいいますとね、田辺市は同和史を三冊出すんです。それで、これはさっきおっしゃられた、奈良、京都のような方向で出すんです。ただし、この近辺で、町史を出すのがあるわけですが、その資料を刊行する場合、上富田町ではそうした関係は伏せ字にしました。ですので、隣町で方針が違いますので、ここはちょっと半々ということになりますね。

飯倉  平凡社の時は、わたくしの手元の本にはどこをいじったか分かるようにしてあるのですが、被差別部落の問題に関していえば、「穢多」という字を切らないでひらがなにする。あきらかに切ったのは「紀州俗伝」中で、地名が出てくる一行を切ってというのがあります。新聞をどうするかというのはスペースの問題もあったのですけど、手に入れたものを網羅すると、どうしても被差別部落の問題をどうするかちゃんとしないといけない。わたしも長谷川さんに読んでみてと、長谷川さんの手元にあったものを見ましたが。ちょっとその問題を解決しないと、新聞に掲載した文書を全面的に載せるのは無理だという平凡社の判断もあって、そうなったわけです。新聞の文章を載せるには一度、その問題を議論しないと無理だと思います。

千本  公開のいろんなレベルというのがありますよね。どういう形でそれを出すのかということですね。例えば、先ほどの田辺市の同和史であるならば、資料として公開される必要があるでしょうし、もし、娯楽小説なら問題になるでしょう。ですから、全集にしても、研究所の閲覧にしても、どういうレベルのどういう公開なのかということが問われるわけです。

    ただ、熊楠の場合はセクソロジーと被差別部落の問題は他の民俗学者に比べて、大きな特色があると思うので、よく考えたいところです。

中瀬  学術的な研究の特集を組むのなら、ぼくはできると思うんですけどね。一般にただ流布するというんでは、誤解がね。

飯倉  やはり議論なり経過報告なりやっておいて発表するということですね。学会というか、そういう中で、全集が出る前にそうした問題について議論していく、

千本  それだけでシンポジウムをやっておかないといけないでしょう。

原田  えー。まあ、それでは通信でも、少しこの問題についての議論等も載せ、少しづつ考えていくようにしてみたいと思いますので、よろしくお願いいたします。


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