(1997. 7.31〜 8. 4)
《ミナカタ通信10号 (1997.10.12発行) 掲載》
調査終了後(1997年8月4日午後2時より)、南方文枝さんを囲み調査の報告を行った。
(記録・編集 原田健一)
原田 それでは調査の報告を一人一人していただくということで、お願いいたします。
飯倉 えー、柳田さんからの書簡を整理しました。これはすでに活字になっているわけですが、今回、一束になっていたものを再整理したところ、何通か白井光太郎さんや、松村任三さんのものがあったりします。また、南方二書を出したときの礼状というか、感想なんかを書いたものが何通かまとまってあったりという。これは直接、熊楠さんのでも柳田さんのでもないということでいままで除外されていたものでしょうが。当時の様子を知るうえで、貴重なものといえるでしょう。
あと、三田村玄龍宛書簡ですが、全部で52通ですが、活字になっていないのが何点かあるようです。今回は、活字になっているものとあわせる時間がなかったので十分にそこらへんができませんでした。雑誌に投稿する原稿を葉書に書いたりしてますので、論文とも合わせないと十分ではないので、そこらへんを次回資料をそろえてやれればと思っています。
松居 わたくしは海外来簡の再整理を行いました。那智時代の海外来簡をみていると、宛先は常楠さんになっていますね。そこから熊楠の所へ、那智、あるいは田辺へ送っています。これはどうも結婚して落ち着くまでそうだったようです。
それから、海外に熊楠が書いた書簡の調査がやはり必要だと思いました。個人の場合は難しいものもあるとは思いますが、例えば大英博物館宛のものもありますから、ここらへんのものを牧田さんなんかと相談しながら発掘していければと思います。
千本 まず、ロンドン抜書のマイクロ化が今回終わりました。これで、田辺抜書、日記と記念館の分も含めて無事、終了いたしました。
それで、小峯先生、わたくしとで中学時代、東京予備門時代のノート・抜書類の再整理を行いました。今回は80冊、次回に残り17冊を行って終了する予定です。なお、これについては引き続き、国文学研究資料館と提携し、マイクロ化をしていただくことを、ご検討いただければと思います。次回以降は蔵書の和綴じの書籍に引き続き入らせていただくつもりでおります。
武内 えー、博物館の仕事の都合で途中からの参加になりましたが。
カードを取っていなかった書簡、およびに来簡類の再整理を行いました。それで、熊楠書簡はもっぱら金山さんにやっていただきました。今井三子、岡田要之助、北島修一郎さんといった方がたのものですね。わたくしの方は来簡が主ですが、平瀬作五郎来簡50点ですか。あと、ばらばらと、その他の方々ですね。あと、写真類の整理が、これは途中ですね。
中瀬 岡本先生が起こされた日記の翻字原稿が今回、ワープロで三年分ほど入力され冊子になりましたので、大正7年の分ですが、校正をおこないました。三日間みっちりではありませんが、だいたい半年分は終わりました。やはりやってあるのがありますとたいへん助かりますね。
それで、面白い記事というのか。熊楠先生は日常的で、庶民的なことに非常に注意を払っている。たとえば、大掃除のきまりができたとか、下肥の汲み取り時間が制限されて朝早くなったとか。たいへん細かなことですが、そうした日常の変化というのは案外、記録に残りませんし、気付いてみたらそうなっていたというようなものですが。そういう慣習というか、歴史というものを構成していく微細なものをみているわけです。
熊楠先生の日記はそうしたものが、非常に多く記述されていますから、索引というか、今後そういうものが重要になっていくかと思います。
文枝 大掃除のときには、あそこの部屋に入れられておりましたね。「出てはいけません。」と言われて。「まだかあ、まだかあ」と言っておりましたねぇ。(笑)
中瀬 煤籠りというやつですな。じゃまな人はみんな、煤籠りで追い出す。最近はパチンコ屋に追い出すんですけど、(笑)
安田 えーと、先生の新聞の切抜きをやりました。全部が全部残っているわけではありあませんが。すでに昨年、ファイルに入れておきましたので、それを作成した目録と合わせて、ナンバーを付けていく作業です。
記事の内容が面白くて。昭和に入ると日本の軍備とかそういうことも切り抜いていたりしています。また、当時の新聞というのは今のワイドショーののりというんでしょうか。軽妙な筆で書かれていて、先生もこれを面白がっておられてようですね。ただ、もう少しこの作業はかかります。
原田 わたくしも、今の新聞の切抜の整理をしました。あと、ミナカタソサエティ当時の資料の整理をしました。すでに岡本先生の本を出す時にある程度、やっておりますが、その後に出てきたものもありますので、そうしたものを再整理しました。現在、岡田桑三さんの仕事をまとめる作業をしていますので、岡田桑三さんの方に残っている資料とあわせてもうすこし多角的に当時の状況を構成できればと思っています。
それで、ちょっと気付いたことですが、ミナカタソサエティ当時、書簡の翻字を文枝さんもやっていらっしゃったのですね。
文枝 はい、しました。
原田 岩田準一さんのものとか、
文枝 三人ほどでしました。
飯倉 そうですか。今まで、知りませんでしたが、こうしたことも記録しておかないといけないことでしょうね。
中瀬 日記を読んでまして文枝さんに少しお聞きしたいことがあるんですが。羽山さんおられますが、末の方がお医者さんをやっておられたようですが、兄貴たちの墓碑を書いてくれと依頼なさったようですが、これは何かお書きになったのですか。
文枝 書かなかったですねぇ。聞いたことがあります。
中瀬 そうですか。書きませんでしたか。書くんならなんか出てくるかなと思っていたのですが。そうですか。
原田 読んでると、日記は面白いですねぇ。文枝さんも随分、お兄さんの頭を叩いたりして、元気ですねぇ。
文枝 (笑)ええ、活発な女中さんがおりまして。わたし、蠅叩きもたされて、坊や泣いて、今日、帰ってきたの。敵討ちに行かされましたねぇ。蠅叩きでその子の頭を叩きに行くと言って。小学校に行きまして、休憩時間に叩いた男の子つかまえて「こら人叩くな」と蠅叩きでたたいて逃げてきました。(笑)
松居 いくつぐらいの時ですか。
文枝 四つぐらいのときです。兄は、気が弱かったものですから。泣かされて。
あの、小学校の裏門のところに大きな溝が、幅の広い。あれを、飛び越えてみろと、そんなこと言われまして、泣きながら帰ってきました。
中瀬 お堀が、昨日も言いましたが、そこに垣船があった。文枝さんの子供の頃はまだ、埋めないで堀が残っていました。船が浮かんでいましたでしょう。
文枝 船が残っていました。
松居 いやあ、これから日記の翻字が進むと楽しみですねぇ。文枝さんに読んでいただけるとまた思い出すことがおありでしょう。
文枝 子供の頃はたくさん友達がおりましたから。みな、遊びに来ました。本がいっぱいあったんですよ。絵本とか、童話の本とか。
武内 その本は誰がお買いになったのですか。
文枝 熊楠さんが買いました。
武内 ほー。やはり本は熊楠さんですか。
松居 そうした本はどうしました。
文枝 もう、どうなったんでしょうね。やってしまったんでしょう。
中瀬 小学校に寄贈していますね。グリム童話とか、一括して、どなたからもらったものでしょうが。
文枝 佐藤春夫さんのは女学校にたくさんもっていきました。
松居 佐藤春夫は嫌いだった言っておられたと、
文枝 世界が違うと。綺麗な世界ですねぇ。
原田 今回、中瀬先生に町内を案内していただいて、だいぶ田辺の町というのが分かってきたというか。昔は交通が船中心だったんですね。
中瀬 今度は大辺路と中辺路の分岐点の所を見てもらって。田辺の熊野古道に関した場所を中心に二回目をやりたいですね。
松居 鉄道の駅ができた時のことはおぼえていらっしゃいますか。
文枝 ええ、おぼえております。
松居 開通式みたいなことをしたんですか。
文枝 小畔さんがいっぱい勲章をつけて来ましたですよ。
中瀬 その日、小畔さん来て、車に乗せられて駅まで行ったんですよ、雑踏のなか、みんな。
文枝 迎えに行って、帰ってきましたら。ここにざーと勲章つけてました。
武内 小畔さんがざーと勲章をつけてたんですか。
中瀬 そうそう。小畔さんは日本郵船におったでしょ。鉄道から利用してくれそうなところに招待券を送ったんです。その招待券で一番電車でやってきて、すぐ帰るんです。
文枝 小畔さん、船に乗ってても、お偉いかったですから、勲章いっぱいつけてましたです。
武内 いや、さっき写真の整理していたら小畔さんの勲章つけた写真があったので、いつの時のかと思いまして。
松居 やはり鉄道ができてから、お客さんが多くなりましたか。
文枝 そうですね。みんな喜んで来ましたですよ。
松居 関西の方からですか。
文枝 東京からですね。友達が東京に多くおりましたから。
松居 文枝さんご自身はいつ鉄道にお乗りになりましたか。
文枝 開通したときですね。しばらくしてからですが。
松居 どこにいらっしゃいました。
文枝 新庄でした。その後に和歌山に行ったり。
熊楠さんは新庄に行きました。田上さんのところですね。