『南方熊楠を知る事典』 < [関連書籍紹介] < [南方熊楠資料研究会]
熊楠の父。和歌山県日高郡入野村(現・川辺町入野)出身。同地の向畑庄兵衛(庄太夫とも。明治十一年八十五才で没)の次男に生まれ、十三歳で和歌山市に出、福島屋の丁稚(でっち)、番頭を務めた。当時、島吉、佐助の名を持っていたという。雑賀屋(さいかや)に入聟(いりむこ)として迎えられ、襲名して弥兵衛を称した。熊楠によれば「父は養子に来りて間もなく家付きの妻に死なれ、跡にのこりし娘を抱きて途方にくれておりしところへ、小生等の生みの母がのちぞいに参り、さて小生等を生みし」という。はじめ金物商を営み、米穀商、金貸業と転じ再び雑賀屋を興した。熊楠によれば「年久しく金物商せし故、毎度京坂の人と交はり色々と経験、目が肥えおり、全く無筆ながら鋳物や金物彫の事はまことに小生等は神に通ぜるかとおもはるるほど」(上松蓊宛書簡、昭和六年二月十二日付)の人だったという。寡言篤行(かげんとっこう)の人で、三度賞辞を受けたともいわれる。
明治十一(一八七九)年、家督を藤吉に譲り弥右衛門と改名、明治二十二年には三男常楠と協力して酒造業をはじめ、南方酒造(現・株式会社世界一統)の基を築いた。常楠と共同して酒造業を興す時、弥兵衛は身代約十万円のうち半分を長男に与え、残り約五万円を五分し「父が一万円、熊楠、常楠、楠次郎に各一万円、姉熊に四千円」と頒(わ)け、「父の一万円と常楠の一万円とを合して二万円で酒造を営」んだ(田村密雄宛書簡、大正十四年一月十四日付)と、熊楠は人伝えに聞いている。
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熊楠の母。熊楠によれば紀州藩医師徳田諄庵(じゅんあん)の遠縁で、諄庵が罪を得て友が島へ配流されたとき、身辺の世話をした。その後、伯母聟を頼って直清(のうせい)という茶商に身を寄せていたのを弥兵衛が請うて後添えに迎えたという。
筆まめな人であったと見え、最近、熊楠の渡米前後の動静を記したすみの日記も発見された。この日記について触れておくと、縦十二・五センチ、横十八センチの和紙約五十枚綴りのもので、表紙に「明治十年 日記帳」、裏表紙に「明治十一年十月廿八日 南方すみ所蔵」とし、さらにその右肩に「明治十六年十月廿九日」と追記の年月日を入れたものである。内容から見て、明治十六年十月二十八日から同十九年十二月までの摘記と思われるが、明治十六年三月十八日に上京した後の熊楠の動静が把握できる興味ある記録である。以下目ぼしいものを抄記する。
ここまでの日記でわかることは、上京の当初、熊楠の東京での後見人は添田清兵衛で、熊楠は仕送りの金を添田から受取り使途を記入して家元へ報告していたこと、大学予備門進学は二月中旬に両親の許しがあったが、その前後にも健康を損ねていたこと、などなどである。
米国行きの許可がいつ出されたのか等については触れていないが、帰京後、数度の日高、湯浅行や十月二十七日、渡米のため和歌山を出立するようすなど、熊楠の日記を補足する記述が随処に見られるものである。
こうして、慈悲ぶかく熊楠の成長を見守ってきた母も明治二十九(一八九六)年、五十八歳でこの世を去った。
母の死をロンドンで聞いた熊楠は「その時にきてましものを藤ごろもやがて別れとなりにけるかも」という儀同三司・藤原伊周(これちか)の歌を引いてその死を悼(いた)み、弟から送られてきた、母の枕辺に兄弟が並んだ写真を見て自らを慰めた、という。
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熊楠の兄。明治十一(一八七八)年十月、父弥兵衛の退隠により家督を相続、弥兵衛を襲名した。熊楠の戸籍は、昭和三年六月の分家届まで藤吉とその長男弥太郎を戸主とする、和歌山市十三番庁七番地にあった。藤吉と妻・愛の長女くすゑ(明治二十一年生)は、熊楠から目をかけられた一人である。晩年、藤吉は和歌山を出て呉市西城町で没している。
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熊楠の同腹の姉。熊楠より三歳年上で、大正十三(一九二四)年夏、六十歳ばかりで「三味線を引きながら頓死」とある。この年に兄藤吉、それに姉くまと相ついで亡くなったことになる。くまは垣内家に嫁し、東京・小石川区竹早町(小石川植物園裏)の閑静な住宅地に住んでいて、その場所は熊楠の旧知・菊池大麓の旧宅跡で、向かいには美濃部達吉の宅がある、と熊楠は「上京日記」で述べている。
大正十二年九月一日の関東大震災の時、熊楠は、知人の罹災を聞くにつけこの姉の安否が気遣われ、東京にいる古田幸三郎に問い合せたところ、すでに和歌山市に帰っていると聞かされ、安堵した旨の書簡(田村広恵宛書簡、大正十二年九月十六日付)が残っているので、晩年は和歌山で過ごしたのであろう。
熊楠はことあるごとにこの姉の美貌を吹聴して「小生姉、和歌山で有数の美女なりしが」などという。姉の子、垣内善八もまた熊楠の自慢で「亡姉の忰(せがれ)は東大出の医博なり。震災中、黴菌課を専坦せし。此者も小生にやや似た無欲人にて、商人となって祖先の跡を続けんには不断多少の虚言を吐くを要す。これよろしからずとて累代の家業を主手代の忰に譲り、今は和歌山にて私立病院を営なみいる」と紹介し、この病院の開業にあたり「均善医院」の名をつけて前途を祝したという。
在英中の一八九九(明治三十二)年十一月の日記に、常楠からの書状によれば垣内善八氏死去云々、とある。開業医となったこの善八と同名であるのは疑問が残るが、姉くまの主人ではなかろうか。
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熊楠の実弟。東京専門学校(現早稲田大学)卒業。明治二十二(一八八九)年、卒業と同時に父弥兵衛と協同して酒蔵業を営み、「南方酒造」(現・「世界一統」)の基盤を作った。和歌山市議会議員などを務める。
東京遊学時代、常楠は同郷の学生と語らい『和歌山学生会雑誌』を発行し、その第一号には「日本ノ道徳 第一」、第五号に「男女同権新論」を寄稿している。その論調は、新時代の新道徳として西洋風の道徳がもてはやされているが、一国の習慣、道徳には歴史的、地理的要因があって発達したもので新道徳は自然の理に反するもの、また男女同権というが、天賦人権説は誤りで、女性の地位を向上させようとすれば、男子に劣らぬ知識と腕力を発達させることで、それには、女子教育と、女子の婚嫁の期を遅らせるなどして男女の力の差を少なくすることが必要なのではないか、といったものである。これを見てもわかるように、常楠は日本古来の道徳を尚(たっと)ぶ方で、それは家庭においても家長である父を思いやり、また兄に対しても絶対服従的な考え方をもっていた。東京専門学校卒業後もあと二、三年東京に留まって法律を学びたいという強い希望がありながら、年老いた父が和歌山で熊楠か常楠と組んで、新しい事業を興したいと熱望しているのを知ると、熊楠の海外遊学のためにも、ここは自分が犠牲にならなければ、と考えた末の帰郷であった。
臨終の前に、弥兵衛は姉くまに向かって「長男弥兵衛は早晩身代を破るべき者也。熊楠は学問で名を成すべきが、一生富人となる見込みなく、商業に縁無きものなり。常楠は極めて実体な者なれば、商業して大なる過失なかるべし。故に兄弟はみな常楠方を本家と心得べし」と言い遺した(田村密雄宛書簡、大正十四年一月十四日付)というが、弥兵衛は事業の初めから一族の将来を常楠の肩に負わせていたのである。
この後、常楠は毎度のように送金とその増額を要求してくる熊楠に対し、父の生存中は父の了解を得つつ送金し、時には兄をたしなめるのであった。在米中の明治二十二年八月発行の『珍事評論』第一号に、熊楠は「同市(注=和歌山市)湊紺屋町一番地南方常楠と申し、すてきに大きな邸宅を所持するものは、小生の賢弟に御座候て、目下お兄さんはそれより仕送りしてもらい居(おり)候」と書いているが、在英時代はもちろん、那智、田辺と大正十一年まで仕送りは続いていたのである。
この親密な兄弟に確執が生じたのは、大正十年に発足した南方植物研究所の寄付金二万円の拠出をめぐってで、常楠は毛利清雅の指示によって書いたまでだと主張し、話し合いが決裂した大正十一年十月を最後に、生活費の送金も絶え、没交渉となってしまったのである。
熊楠没後、紀伊新報社が開いた座談会(「南方先生を偲ぶ」昭和十七年一月)に出席した常楠は、「大正のはじめ(注=大正七年)和歌山にも米騒動が起って、富豪や酒屋が征伐された。ある酒屋のごときは相当手ひどくやられた。その噂があっちに伝わり、こっちに伝わり田辺までも聞こえたと見えて翌朝――あの頃は汽船しかなかったと思いますが――早速私方へ来てくれた。そして『青岸から歩いてくると巡査が誰何しよるし、お前とこは一体どうなっているかと思えば心配でならない、やっと此処(ここ)まで来れて安心だが、暴れものは来なんだか」と非常に心配して聞いてくれたので「お蔭で襲われなかった』というと『それはよかった、それはよかった』と喜んでくれました。あの時は本当に嬉しく思いました。純情にうたれました。」と話したあと、語を継いで「純情は非常に純情でしたが、一度イガミ出すと仕方がなかった」と回想している。このひとことが、常楠の、兄と隔たった歳月への無念を表しているように思われる。
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熊楠の妹。病弱であったことは母すみの日記等でうかがわれるが、熊楠の渡米の翌年九月五日、十六歳で死去した。妹の死を知ってほどなく熊楠は植物採集中のアンナーバーの深林で大吹雪に遭遇した。その時、生後四十日ほどの子猫が現われ足許で鳴いた。熊楠はこの小猫があるいは死んだ妹の生れ変わりかと思うとふびんになり、吹雪の中を抱えて走った。ようやく羊の放たれてある柵に来て、子猫を放ったが、その猫は、柵に沿うて熊楠の後を追っていつまでも鳴いていたという。「これを今もあはれなことと思ひ居る」と熊楠は回想している。
戸籍では「ふしゑ」であるが、熊楠の表記に従った。
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熊楠の末弟。のち西村家に入籍。兄熊楠を尊敬し、熊楠の在外中に蔵書、筆写本の整理に当っている。熊楠も九歳年下のこの末弟をもっとも可愛がり、在英中には楠次郎を呼び寄せて学問をさせたいと常楠に訴えたり、帰国後は自分の目にかけたお手伝いの女性を楠次郎の嫁にと奨めたりしたこともあった。
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天保八(一八三七)年三月、田辺組大庄屋田所顕周(けんしゅう)の次男に生まれ、十五歳の頃、和歌山の国学者本居内遠(もとおりうちとう)に和歌・国学を学び、十九歳で鳥山清と結婚、鳥山家を継いだ。
明治五年、学制がしかれると共に田辺小学校教師となり、同九年和歌山師範学校教員、同十二年、和歌山中学校教員と抜擢され、博物、作文などを教えた。南方熊楠が入学した年のことである。熊楠はのちに「和歌山中学生西田安太郎、日前宮の前より雨中傘さして通ると鼠のようなへんな物が田中より走り出て、西田氏が歩む下駄の下に入ってたちまち死に候。それを手にとると臭気甚(はなはだ)しきに驚き、中学校に持ち来り有名なる鳥山啓先生に見せ候ところ、ジャコウ鼠と判断され候」と当時を回想しているが、熊楠が「有名なる」と形容するほど鳥山は百科に通じ地理、洋学にすぐれて、著書も多い。明治二十年、東京華族女学校に理科教授として招かれ、大正三年、七十七歳で没した。
鳥山先生逝去
当町出身の国学大家鳥山啓先生は夙(つと)に東京に出て華族女学校、学習院の教授として徳望の隆々たるものありしが、十年前退官悠々晩年を楽しまれつつありしが、過般来病に犯され専ら静養中のところ、去月二十八日を以て溘焉逝去せられたり。長子譲氏早世せられ嫡男蕃氏継嗣たり。翁享年七十八歳、次男嵯峨吉氏工学士として東京に在り、三男嶺男氏又た工学士、現に東北帝国大学教授として令名嘖々(さくさく)目下札幌に在り、氏の令夫人すヾ代子は当町弁護士片山省三氏の令嬢なり(大正九年三月三日付)と報じ、その遺吟に、
かならずと云ひし人をや藤ばかま待ちてひもとく手枕の野辺 野辺にこそ咲くとは見えね小鉢にも園にも匂ふ朝顔の花などがあったと伝える。
海軍軍歌の軍艦マーチ「軍艦」の作詞者でもある。著書に『長庚舎(ゆうづつのや)歌文集』(全三巻)、訳書に『窮理問答』、『天然地理学』、『西洋雑誌』ほかがある。
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東京生まれ。首相、蔵相、日銀総裁などを務めた財政家。昭和十一年、いわゆる二・二六事件で暗殺された。
仙台藩の留学生として渡米(慶応三年)したこともあり、帰国後唐津藩英学教師などを務め、明治十一年、共立学校を再興、大学予備門入学志望者の学力向上の場とした。熊楠は、明治十七年、共立学校に入り高橋から英語を習った。「出京して共立学校に入った時、高橋是清先生が、毎日ナンポウと呼ばるるので生徒を笑わせ、ランボウ君と言わるるに閉口した」と回想する一文もある。
その後高橋は、文部省を経て、農商務省に入り明治十八年十一月に欧米に出張した。共立学校在勤年数などは不詳で、同校の「明治十一年以来本校教職員」の筆頭に高橋の名が誌されている。大正十一年、植物研究所の募金で上京した熊楠は首相官邸に高橋を訪ね、「往時を談じて、一笑ののち寄付金あり」と「上京日記」に記している。著書に『高橋是清自伝』(千倉書房、昭和十一年二月)がある。
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在米時代の熊楠の友人。「広東省広州府新寧県土名湍芬山太洋義村 江世平之子」と熊楠は江の出身地を書き留めている。熊楠の標本中に、ある地衣に注して「此品は江聖聡とて余零落してフロリダにありし日、厄介してくれたる八百屋主人が一日持来り与へられしなり。Presented by Gong Tong 一八九一年五月」と記している。
フロリダにあって熊楠の世話をした中国人はこの江にとどまらず楊牛、趙炎、梅彬廼ら十五人ほどの人々がいた。「フロリダにゆき、ジャクソンビル市で支那人の牛肉店に寄食し、昼は少しく商売を手伝い、夜は顕微鏡を使うて生物を研究す。その支那人おとなしき人にて、小生の学事を妨げざらんため毎夜不在となり、外泊し暁に帰り来たる。」という心遣いを見せて、こもごも熊楠の研究を応援したようだ。なかでも江聖聡とはとくにウマが合ったのだろうか、渡英にあたり記念の写真を撮ったり、ロンドンに渡ってからもよく書簡の往復をしている。なお、この時期、日本の留学生は、食うに困るとその地の中国人宅にころがり込んで世話になったようで、一八九一年七月三十一日の熊楠の日記に「ミチガン州の名は忘れしがタウンに、日本人三十余名あり、ハイスクールに行くが、皆な其府にある支那人方へ来り、米飯を炊しむ。これが為め債金数百金に上り、支那人大にくるしみおれり、其後のことは不知と。」と鄧*(とう)氏の話を書き留め、「予これを聞いて、此内には三好、高野、中川の三傑を始め多くの知人あるを思ひ出し、殆どふき出すほどをかしかりき」と記している。自分もまたフロリダにあって江をはじめとする中国の知人に迷惑をかけていることと重ね合わせて、身につまされる思いで聞いた話にちがいない。
*鄧「とう」: [登+おおざと]
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有田郡広川町出身。父は「稲むらの火」で名高い浜口梧陵。明治二十七(一八九四)年、東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科を卒業して同二十九(一八九六)年渡英、ケンブリッジ大学に留学した。熊楠の日記一八九七年二月二十八日に「中井氏を訪、巽(たつみ)、長岡及一週間前に着せし田島擔氏(故・浜口儀兵衛氏子)あり」と出るが、この時初対面。明治三十七年の総選挙で衆議院議員に当選、その後、実業界で活躍した。大正三年、徳川頼倫に同行して熊楠邸を訪れている。
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在英時代の熊楠の相棒。広島県出身。熊楠の「新庄村合併について(十二)」によると、高橋ははじめ、シンガポールで事業を興すという大井憲太郎について渡ったがこと成らず、日本領事館、藤田敏郎らが醵金(きょきん)して、本人の希望するロンドンへ送り出したという。その時、藤田は大倉組龍動(ロンドン)出張所支配人大倉喜三郎に紹介状を書いた。それには、「此高橋謹一なる者、先途何たる見込無御座候へども、達(たつ)て貴地へ赴き度と申に故、其意に任せ候間だ、可然(しかるべく)御厄介奉願上候」とあったという。大倉は高橋を雇い入れたが、暇さえあれば台所を手伝うふりしてビールを飲んで眠ってばかりいるので、大倉夫人から疎まれそこを出たという。その時大倉出張店に、熊楠の中学時代の恩師鳥山啓(ひらく)の息子、嵯峨吉が勤めていて、鳥山が熊楠なら世話好きだから面倒を見てくれるだろうと話したので高橋は大英博物館へ熊楠を訪ねてやって来た。明治三十(一八九七)年のことである。
熊楠は高橋をエドウィン・アーノルド男爵宅へ世話したが、ここでも酒を飲んでは大声で歌をうたったりするので追い出されてしまう。しかし、ロンドンへ来て二ヵ月ほど経っていて言葉もどうやら話し、また書くことができるようになっていたので、骨董商の加藤章造と組んで古道具の売買をして糊口をふさぐ術は心得ていた。
そのうち熊楠が、大英博物館で乱暴を働いたとして出入りが止められる。高橋は、報恩はこの時だ、一緒に商売をしようと言って熊楠に浮世絵の解説を書かせた。この商売が当って画家ウルナー女史が二十点を九百円という大金で買い上げて熊楠らを驚かせたことがある。
こうして一年あまりを過ごし、明治三十三年(一九〇一)九月一日、熊楠は帰国の途につくが、熊楠を見送ったのは、たった一人この高橋謹一だけであった。後日譚ではあるが、熊楠のもとへ大正十五年六月二十四日差出の加藤章造、富田熊作の連名の絵ハガキがロンドンから届いている。文中、ロンドンの近況を述べたあと、「高橋謹一の消息は不明」とあった。異郷で人知れず亡くなったのであろうか。
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幼名藤之助。東京都出身、紀州藩第十四代藩主茂承(もちつぐ)の養子(明治十二年)となり、明治三十九年、家督を相続し貴族院侯爵議員となった。明治四十四年南葵育英会を設立し和歌山の子弟の修学を奨励する一方、南葵文庫を開設、数万冊の蔵書を一般に公開した。日本図書館協会総裁、史蹟名称天然記念物保存協会会長などを歴任した。明治三十(一八九七)年、イギリスに遊んだ頼倫は、熊楠の案内で大英博物館を見学、孫文とも熊楠を介して出会っている。大正三年、十年の両度、頼倫は田辺を訪れ、そのつど熊楠と交歓している。大正十一年、南方植物研究所基金募集のため上京した熊楠に頼倫は一万円を拠出、感激した熊楠が大磯の別邸を訪れた様子は「上京日記」に詳しい。また頼倫没後、南葵育英会では、会報に「英国滞在中の徳川頼倫侯」と題する熊楠の回想を掲載した。
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孫中山、名は文、字逸仙、日本亡命中は中山樵(しょう)を名乗っていた。広東省香山(中山)県の農家に生まれ、広州や香港に出て医学を学んだが、のち、清朝打倒の革命運動に投じた。
一八九五年、第一次共和革命の失敗で日本・ハワイ・アメリカを経て一八九六年ロンドンに旧知の英人牧師康徳理を頼って滞在した。熊楠が初めて孫文と出会うのは一八九七年三月十六日、大英博物館の東洋図書部長サー・ダグラスの部屋で、それ以来、孫文がロンドンを去る六月三十日まで、毎日のように二人は会い、食事や見学を共にし、議論を闘わせている。別れに臨んで孫文が熊楠の差し出した日記帳の一ページにしたためたのは、「海外逢知音」の言葉である。孫文にとって熊楠はまさに海外で得たもっともよき理解者、共鳴者であったにちがいない。 孫文がロンドンを離れて三年後、熊楠もまたロンドンを発って帰国する。和歌山の弟宅に落ち着いた熊楠は、福本日南に孫文の動静を問い合せたところ、横浜旧居留地百二十一番に中山樵の名で潜伏していることを知った。明治三十三(一九〇〇)年十二月九日、熊楠は孫文に書簡を送り、折返し孫文からの返書があり、数度の書信の往復ののち、翌春二月十三日、孫文は和歌山に熊楠を訪ねた。この来訪の目的を熊楠は「孫は当時甚だ日本で失意地にあり(中村弥六、福本日南等がへんな事を企て、孫の名で不埒な事を行いしなり)。小生東京へ猪突して交渉でもしくるるものと思い面会に来りしらしく、所詮生(いき)るか死するかのさし迫った場合にありしなり。」(上松蓊宛書簡、昭和十五年三月五日付)と述べている。
この後、一九一一(明治四十四)年いわゆる辛亥革命で臨時大統領に推され、中華民国を発足させたが間もなく袁世凱に政権を譲った。孫文が臨時大統領になったのを機会に『和歌山新報』が熊楠兄弟と孫文の記念写真を掲載した。その記事を見て熊楠の訂正談が『牟婁新報』(明治四十四年十一月九日付)に出ている。
それによると熊楠は孫分との記念写真に触れて、
逸仙今一人の革命党員を随へ、中山樵と仮名して、龍動(ロンドン)一別以来の旧誼(きゅうぎ)を述べんため、横浜より和歌山え予を来訪され、大に芦辺屋で飲み、翌正午出立の際、三木橋西詰浅井写真舗で撮ったものぢや。逸仙龍動出発の際、見送り人は予とアイルランド人マルコ−ン二人で、マルコ−ンは現に革命軍に加はり居る。常楠方に二、三日逗留とあるが、実は富士源へ一夜泊まったきりぢや。最も彼写真でも明瞭なる通り、予その時三十五歳、孫は三十四歳で、予は中々美男子だった。嘘と思はば、例のお幾、栄枝等に聞いてみるがよい。又熊楠が言たとして、孫は大法螺(おおぼら)吹きで、口計(ばか)りの者と思ひ居たが今度の革命軍で男を挙げたとあるが、是(あ)れも誤聞で、熊楠が頃日或人に語りしは、伍子胥、楚の難を遁(のが)れ、君父の讐(あだ)を返さんとて、呉君に謁見せしも説行はれず、時可ならざるを見て、野に耕す事七年、一朝闔閭(こうりよ)のの即位に遇て、忽ち龍驤(りょうじょう)したこと其通り、大事を成さんとする者は、他人は素より、同志からも、丸で見落とさるるほど人の目を暗まさねばならぬ。逸仙如きも又大石内蔵之助抔(など)も到底物に成らぬと世論定まる迄、落ち着き居た所がエライ。だから予抔も一層酒を飲み、ぶらぶらする積もりぢやと云ふのぢや。(『牟婁新報』明治四十四年十一月九日付)
とある。
一九一三(大正二)年孫文は亡命のため来日、大阪その他で講演会をもったが、その時も熊楠との会見を希望したようで、「孫逸仙、小生に会見の由大阪毎日其他に見え和歌山辺大騒ぎなり」。しかし「予は少し快方なれど、今度孫逸仙の来訪をさえ好まぬほどにて身心甚だ不健康なり」というように、熊楠側に支障があって実現しなかった。 一九二五(大正十四)年、孫文は「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なおいまだ成功せず、同士よってすべからく努力すべし)」の言葉を遺して没。熊楠はこのすぐれた友人の葬儀の模様を伝える新聞を筺底(きょうてい)に収めていた。
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西牟婁郡田辺町(現田辺市)大字下屋敷町十一番地、田村宗造(当時、闘鶏神社宮司)と妻・里の四女に生まれた。戸籍名まつゑ。姉にシカ、いわ、繁枝、妹に広恵、菊重がいる。田村家は広恵が婿を迎えて継ぐことになる。熊楠の友人で田辺の医師喜多幅武三郎が月下氷人となり、明治三十九年七月二十七日に熊楠と結婚の式を挙げた。式場は旧城郭・錦水城跡に開業した錦城館で、新郎側の親族は姉くま、弟常楠が出席、新婦の方も父は病気で出られず姉妹が揃ってのつつましやかなものだった。この年、熊楠四十歳、松枝は二十八歳。在英時代から親交のあったディキンズからはダイヤに真珠をちりばめられた指輪が新婦に贈られた。
翌四十年熊弥出生、同四十年文枝出生、と一男一女をもうけてから松枝の気苦労はひとかたではなかった。「小生多年粘菌学をする為に、その時は只今の家とかはり、至って狭き家(注=藤木別邸)にすみし故、六七歳の兄と二三歳の妹を偕なひ毎日炎天に海浜えムシロ一枚もちて妻がつれゆき、終日遊ばせ、夜は帰宅して炭部屋の内に臥したる也。やかましくては小生の鏡検に妨げある故也。」(上松蓊宛書簡、昭和三年三月十八日付)という有様で、子どもの泣き声はもちろん、夜なべ仕事に近所で米を研く、その音がやかましいから止めさせよと、その使いまでさせられるのだった。が、それよりもっと松枝が心を痛めたのは神社合祀に反対して一切の研究を放擲(ほうてき)、県吏、郡長、村長、神官など合祀を進める面々になりふりかまわず怒りをぶちまける熊楠であった。「小生大山神社のことを懸念し、第一着に、当地の郡長を大攻撃し其余波をもって、日高と東牟婁、有田の諸郡長を討たんとかかりしも、妻は、そのことを大事件で宛かも謀反如きことと心得、自分(妻の)兄弟妹等官公職にあるものに、大影響を及ぼすべしとて、子を捨てて里へ逃げ帰るべしと、なきさけび、それがため小生は六十日近く期会を失し、大に怒りて酒飲み、妻も斬るとて大騒ぎせしこともあるなり」(古田幸吉宛書簡 明治四十三年四月十二日付)の状態であった。
この苦難の日々のことを松枝は忘れかね、後年(大正七年五月)神社合祀がようやく終息を迎えようとするときの熊楠の日記に、「朝早起、松枝を臥傍によび合祀一件本日十五日水野内相自ら合祀の非をいへり。然るに此事に付、予は殆ど九年を空費せる由をいひ、今後予の所行につき彼是(かれこれ)口入る可らざる由を語るに、大に叫びなき出す。下女と共にしばらくなだめ予は臥す」と出る。熊楠にとって、わたしは正義を貫いたのだ、どうだ、これを見ろ、といったところであろうが、松枝にとって、これによって蒙(こうむ)った精神的苦痛は熊楠の想像をはるかに超えるものがあったのである。
「ご進講」という熊楠の一世一代の晴れ舞台とさわがれる出来事も、松枝にとっては、新たな苦の種が生まれたにすぎない。そこで「拙妻は永々子女の病気のためにヒステリ−を起こしおり、今回のご説明の、御召しの、といふ事をあまり喜ばず。これは従来かかる慶事ある毎に、後日小生が色々と紛議を生ずる男なるを知悉(ちしつ)し居り、御召しの事すみて後ち、又々誰が不都合なりとか、何が気に入らぬとかつぶやき罵る場合を見越して、その際妻が尤も迷惑するを予知すればなり。故にかかる御内沙汰を服部博士より承りしを絶項の面目として、御召しを辞退すべしと勧め居り候。」(毛利清雅宛書簡、昭和四年五月十四日付)と熊楠に迫ってもいるのである。
母は小柄で温厚な性質であり、近所の子供達にも慕われ、世話好きであったが、どこかにぴりっとした芥子の味もあり“人の一生は、上を望めば限りもなく、下を見れば限りなし、いつもわが身の程を知れ”と諭され、我が儘は決して許されなかった。学者の女房には絹物は無用、かえって肩が凝る、とて、いつも糊のきいた質素な身なりで立ち働いていた。結婚当時は、父の研究室のまわりの乱雑さに、整理をしては、人の物に一切触れるな、と叱られ、庭掃除をしては、折角木の葉についた観察中の粘菌が消失したとて大に叱られ、毎日失敗の連続で途方に暮れたが、時を経るにつれ気むつかしい父の性質、癖を会得して、時には人形使いの役を、そして縁の下の力持ちを巧みに果たして、ひたすら学問一筋に生きる父の身辺に気を配り、いつも周囲の人たちや世間との交流に頭を悩ます様子がよく窺われた」(『父・南方熊楠を語る』南方文枝)。
松枝のピリッとしたところは漢学者でもあった父のしつけであろう。熊楠はよく松江から聞いた話を自家薬籠中の物として「田辺聞書」などを成しているが次の話もその一つ。「妻が申すには亡父(闘鶏社の最初の神官、漢学先生)に聞きしは、曹操亡命する途上、久闊なりし叔父呂奢(ろしや)方に泊まる。呂は何卒夜の中にうまきものをしたたかに食はせ朝ならぬうちに落としやらんと安眠を妨げぬ為地下室で豚を屠る用意をする。刀よ綱よとひしめく声に驚き、曹操地下室を伺ふと右様の用意故、これは自分と平生の疎縁なる叔父が吾を殺して官より懸賞を得んたくらみと合点し、飛び降りて呂の一家を惨殺し、扨点検すれば豚を縛りあり。扨は自分に親切なるあまり此禍にかかりしかと一生悔いしといふ」。父宗造は、娘にこういう故事を引いて諭(さと)しつつ娘を育てていたのである。熊楠をよく知る喜多幅が見込んだ理由もわかる気がする。
熊楠没後十年目、松枝の回想が『紀伊民報』に出ている。
(熊楠は)酒を飲むことも研究で、舞が好きでよく人に誘われて見にいきました。日本音楽(三味、琴、舞)が好きで――。映画や芝居が嫌いで、誘われていったところ、お尻を芝居の方に向けていたというありさまで、芝居を見に行くんなら此の本を読んだらよいと、多屋長書店から四、五〇冊を四斗桶に運ばして私に読ましたりしました。 金の方は全然むとんぢゃくで、トユ屋が来ても「私は知らぬ、家内にきけ」で、経済には苦労しました。汚いフスマを全部取り替えても気がつかぬという有様でした。
夜通し研究を続けるので、朝起きるのは遅く、朝食抜き、トマト、バナナ、おつゆなどが好物でした。(昭和二十五年九月一日付)
荒坂を越し了せた旅人の安らぎが感じられる談話である。
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熊楠の長男。明治四十年六月二十四日に熊弥は誕生した。その日の日記に熊楠は「暁に男子生まれしと下女いひ来る。頗(すこぶ)る健やかなり。」と記し、次で三十日「熊弥と名く」とする。熊楠の熊に父弥兵衛の弥を取った命名であろう。熊楠の日記はこれを境に熊弥の育児日記の観となる。チョコ六、ヒキ六と長ずるにしたがって愛称を変えつつ、成長の様子が記される。熊弥四歳のとき、発熱の床で亀の子がほしいとうわごとでいうのを聞いて毛利柴庵に手紙を書いて、知人から亀の子を貰ってきてほしいと頼んだりするほど子煩悩であった。五歳の時、自分がそうであったように、熊弥にも『大和本草』などに出てきそうな草木図、禽獣図を描かせ、それにいちいち熊楠が名称を書き込んだ絵も残っていて、幼児教育にも力を入れていた様子がうかがえる。
熊弥が田辺小学校(現・田辺第一小学校)三年の時、校外での上級生の粗暴といじめに対し、憤激した熊弥が憤りを露わにした投書が『牟婁新報』に出ている。題して「田辺小学児童の校外行動に就いて」。要旨は、“団長”である上級生が恣意的に“行軍”や遊びに下級生を呼び出し、従わなかったら翌日学校でいじめるという。そのため、せっかく帰宅後教えようにも遊びに行かねばといって、子どもは上級生と父母との板ばさみで困っている。教師はそうした実態を把握して校外指導に気を配れ。そして今後再び拙家の小児に迫害を加えたなら、暴をもって暴に代えるのも止むを得ないわけで、私がその団長を打ちのめしてやるからそのつもりでおれ、というものである。熊楠も世の父親と変わりなく、熊弥の家庭教育に気を遣い、いじめに悩んでいたのである。
田辺中学校に入学してから熊弥の学力が一時不振に陥ったことがある。「拙児中学二年生にて小学では優等なりしに中学では一向劣等なり」として、その理由に今日の中学校教育が一日に七科目も八科目も断片的に詰め込む「ごもく」教育で、独習がいちばんと思うがそんな機関も、適当な新聞・雑誌もなく、仕方なく悪事をしないだけでもよいと思って学校へやっている、と述べ「学校というものあるが為に天賦が平凡になり了り申候」と嘆いている。
中学卒業後、熊弥は高知高校(現・高知大学)へ進学の道を選んだ。その年(大正十四年)三月、二人の学友とともに高知に向かった熊弥は上陸後発作に襲われ、受験をすることなく帰宅、そのまま長い療養生活に入った。病状は一進一退を続け、昭和三年から十二年まで京都・岩倉病院で治療、その後、海南市藤白に家を借り、転地養生につとめた。熊楠は自分の守り神である藤白社畔であることを恃(たの)み、好転を期して動物図鑑等を取り寄せては熊弥に与えたが、ついに健康な顔をみることなく熊楠は逝った。熊楠没後、熊弥は田辺に帰り、自宅療養等を続け五十三歳の生涯を閉じた。
参考:「熊楠による長男熊弥居室スケッチ(1925年)」(大正14年の熊楠日記から)
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南方熊楠長女。女子の誕生をきいて熊楠の脳裏をよぎったのは、名前をどうつけようかということだった。南方家は代々藤、熊、楠の一字をつける風習があるが、すでに姉が熊、妹が藤枝、従妹に藤と熊枝、それに長兄の娘に楠枝もある。そこで「せめて枝だけは保留して」文枝と名づけた。熊楠は文枝をかわいがり、よく寝物語りにおばけの話をし、佳境に入ると自分まで恐ろしくなって話の途中で狸寝入りをきめる。
次の晩、話の続きをせがむと、話は初めからしないとわからない、といって同じ話を繰り返し、同じところに来ると必ずいびきをかき出したという。「三本足のにわとり」の話だというが、文枝には今もって結末の知れない話である。田辺高等女学校の頃、熊楠はときどき、文枝に宿題を教えた。英語の発音など先生から教わったように「ザー」と読むと熊楠は「ジー」と直し、訳も「座り給え」といった調子のものだった。
昭和三(一九二八)年に田辺高女を卒業した文枝はしばらく家事を手伝っていた。昭和四年四月二十五日、岡茂雄、谷井保が相次いで来訪、文枝は接待の膳を運んでいて急に盲腸炎にかかった。その日は折しも進講受諾の日でもあった。身内に病人が出たとあっては進講の支障ともなりかねない。病気は内密にされ、腹痛をこらえる日々がつづいた。このため、結局十一月には予後不良で和歌山に長期入院の破目となった。
昭和十年頃から文枝は父の菌類写生の助手をつとめるようになった。「小生は昨今菌類の写生を娘に行はしめ、自身その記載をなすも、娘が日に四五品の写生をするに、ただ文字をならべ、筆するだけの記載が毎度おくるるなり」とその共同作業を告げた書簡もある。晩年の熊楠は、菌類図譜の完成に渾身(こんしん)の力で取り組み、その助手として文枝の存在は何よりも熊楠には大きな励みとなったのである。
ウェブ管理者付記:単行本刊行後の2000年6月、南方文枝さんは88歳で逝去されました。なお、『熊楠研究』3号(南方熊楠資料研究会編)では、文枝さんを追悼する小特集のページを設けています。
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西ノ谷村(現田辺市江川町)の素封家、岡本幸助(屋号・富幸)の三男に生まれ、田辺中学校、京都帝大大学院卒。水産講習所教授等を経て日本大学経済学部教授。漁業経済学会会長(一九六〇年)などを務めた。著書に『農業政策』、『水産経済学』、『経済学史原論』、『漁場地代論』等。一九四七(昭和二十二)年、熊楠の長女文枝と結婚、熊楠の顕彰事業を積極的に進めるかたわら、遺品の整理に当たった。一九七八年、南方姓を名乗る。
文枝によれば、清造の父幸助は幼時から、学者になっても熊楠のようにはなるなと口癖にいましめていたという。また清造が水産講習所に勤務していた頃、上司、野村益三(大日本水産会長)の使いで熊楠に電報を打ったことがある。一九三五年十一月のことで、電文は「令息の奇禍同情に堪えず。一日も早く御本復を祈る」。これは、某日熊楠の尿道に家ダニが侵入、発熱により膨張したことを聞いた野村が、お見舞いに打電させたものである。それとは知らぬ松枝は、電文を一読、京都・岩倉病院に療養する熊弥の身になにか災難があったことを、家人より先に野村が知って打電したものと解釈し、大声をあげて泣く声に、昼寝の熊楠が目を覚まし、「令息」の意味を説明してやっと落ち着いたという一幕があった。清造はこうして南方家と結婚以前から奇しき縁で結ばれていたのだった。
一九四七年(昭和二十二)年、熊楠の長女文枝と結婚してからは、熊楠の顕彰に八面六臂の活躍をしている。ミナカタ・ソサエティの創立、『南方熊楠全集』(乾元社)の発行準備と南方熊楠展(一九五一年)、南方熊楠記念館の建設(一九六五年)など、幾多の顕彰事業に積極的にかかわる一方、暇を見つけては書庫に入り蔵書の整理、遺品、遺稿の修復保全に努めた。
一九六三年、岡本が考えている熊楠顕彰の抱負が『紀伊民報』に掲載されている。
私は大体南方の偉業を世に出すには三つの方法があると考えている。一つは白浜のように記念館を建て、それに資料を展示して多勢の人に見てもらう方法と、研究の結果を発表する方法。それに世評にも気をとめることなく、ひたすら研究に没頭するなどの精神的な面を昂揚する方法で、私は白浜へ記念館が出来ても、今の南方邸をどうするという気はありません。むしろ田辺はなんといっても本家ですから、ここへ精神修養の場を建て、ここへも遺品を展示して青年らがあつまり、南方の気風をしのんでもらう場としたいとの計画をもっています。
なお南方が調べた日本産高等菌類図譜を出版することが私の念願で、イタリア・ムッソリーニ当時、ローマ法皇が出した千種類分が現在世界一になっています。そこで南方の調べた二千種類を出したい。しかし昭和二十一、二年ごろでもこの出版費が二億と見積もられたほどで、現在では莫大な費用となるが、このことは天皇陛下も非常なご関心をよせられていますので、せめて五百種類ずつでも発表したいと念願、すでに準備にかかっていますが、原文は小さい毛筆の英字ですから、この複写からはじめねばならず、大きな仕事です。
熊楠の学問に尊敬を払い、深い理解を寄せる女婿(むすめむこ)を得て、熊楠顕彰の今日的基盤が築かれたのである。
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高松市出身。早稲田大学卒業後、大阪商船会社に勤め、支店長、東洋部次長を経て定年退職した。民俗学に関心が深く、『讃州高松叢誌』、『習俗雑記』、『九州路の祭儀と民族』などの著作がある。
笠井清によれば、宮武はかねがね熊楠に私淑していたが、大正十二(一九二三)年十二月に質問の書簡を送ったのが最初で、昭和十六年、つまり熊楠の最晩年まで三百四十余通の書信の往復があり、熊楠の求めに応じて宮武は九州方面の粘菌や淡水藻などを採集して、研究に協力したという。笠井の編になる『南方熊楠書簡抄――宮武省三宛』(吉川弘文館、一九八八年)、『南方熊楠外伝』(吉川弘文館、一九八六年)中の「民俗学の“高弟”」に、その交流の詳細が述べられている。ちなみに宮武は笠井の叔父(父の弟)に当たり、笠井もまた叔父を通して熊楠の知遇を得たという。
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常陸下手綱村(現・高萩市)生れ。東大教授、植物園長を歴任。植物分類学の大家で『日本植物名彙』、『日本植物名鑑』などの著書がある。
神社合祀と神社林の乱伐を憂えて松村任三に宛てた熊楠の二通の書簡(明治四十四年八月二十九日、三十一日付)は、「南方二書」として柳田国男の手で印刷され、識者に配付された。この時、柳田宛に「(博士岡村金太郎氏話に、松村氏は水戸の人にてはなはだ国粋家の由)、しかるに小生は面識なきをもって何とぞ貴下白井教授にでも頼み、その紹介によりさっそく取りつぎくるべきや」と、その斡旋を依頼している。ここに到る経緯をなお詳細に述べているのが河東碧梧桐に宛てた書簡(明治四十四年九月二十六日付、『南方熊楠――親しき人々――』笠井清)にある。それによると、
松村氏が三十年ばかり前に、当国古座(こざ)の黒島にて発見せる莎草(スゲ)の標本を仏国人の手に渡し、その仏人帰国後調査して、日本の特有希品としカレツキス・マツムラエ(松村莎)と名づく。この標本は松村氏方へ控をとり置かざりし故、日本のものながら日本その標本なく、いわば鹿児島の戦争に分捕りせし大砲を何の苦もなく、英国へ返しやりしようなわけにて、はなはだ面白からず。右の黒島を八年前小生しらべたが、そんなものなし。絶滅したると見ゆ。しかるに四年前小生右の莎草を神島にて見出し、大学の牧野富太郎氏(この人は海外に名高き植物学大家也)に遣り、同氏はこれを小生創見の新種ならんと思いしが、標本に実なき故、念のため求め来られ小生色々探して、今年ついにその実あるものを獲、これを牧野氏に送り、同氏精査の後、全くこれは三十年来日本には失踪せる松村莎なること確かめたるなり。かかる珍宝多きに、件の神島を濫伐し尽くさんとする故、小生大いにかなしみ、色々奔走するうち、東京、大阪の新聞にて名高くなり、県庁よりも取調べに来り、一月ばかり経て近日保安林になるなり。しかるに、たとえ保安林になったとてすでに売った分は、急いで伐られては何の功もなき故、小生自らその所の村長を召し寄せ色々話し、ついに受け取った金を弁償して、伐木せぬ分を買いもどすこととせり。万端この通りにて、小生一人の力及ぶかぎり奔走しても、味方とて一人もなく、小生の見聞また限りあれば昨今濫伐いよいよ盛んになり行き、佳景名勝又珍奇動植物の絶えはつるものはなはだ多し。
しかるに七月中旬、理学博士岡村金太郎氏来田(田辺町へ来たこと)。小生と面語して、大にその志をかなしまれ、“いっそう委細の取調書と意見書を松村氏へ出し、同氏は中々の国粋保存主張者なれば、同氏より浜尾総長に談じ、平田内省に話しもらうこととすべし”、との約束にて、岡村氏は去れり。
こうして認められた長文の意見書であるが、その結果「さて、ちょうど前月末に岡村博士より来状あり。松村氏小生の意見書を読んだ上、大学諸分科教授と連署して、県知事へ勧告書を出すべしとのこと。また他の人よりも松村氏の手書を小生に転致さる。それには松村氏全く県知事へ勧告書を出すに同意との文面なり。よって小生二丈七尺五寸の長文を草し、出せしなり。しかるに今日まで何の返事なし」(前出、河東碧梧桐宛書簡)という有様であった。
松村の地位、識見に期待を寄せた働きかけであったが、進展のなかったところにこの頃の自然保護運動の困難がうかがわれよう。
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熊楠の父・弥兵衛の弟、古田善兵衛の四男。十七歳で和歌山市の南方酒造に勤めたが、父没後帰郷、農業のかたわら、村会議員を務め、日高郡内の柑橘、特に夏みかんの改良普及等に尽力した。
熊楠は弟・常楠の情に欠けることをいう時、この古田を例にあげ、
「古田幸吉、小生等の従弟にて、其父(小生の叔父)死して家を嗣ぐものなき故番頭を辞して帰村せしを、不人情なりとて給料の外に一文も与へざりし由、此者は二十余年番頭がしらをつとめたる也」
と述べる。 熊楠ともっとも頻繁に往来したのは、その郷里日高郡矢田村(現・川辺町)大字入野(にゅうの)の大山権現社の同村土生(はぶ)八幡社合併にかかる時期で、熊楠はともすれば弱腰になる古田を励まし、その存置に力を尽くしたが、大正二(一九一三)年十月、大山神社は合祀され、古田との仲も次第に疎遠になってしまった。古田との交流を見るには「大山神社合祀反対に関する古田幸吉宛書簡」(『父 南方熊楠を語る』日本エディタースクール出版部所収)の吉川寿洋編・解説がある。
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和歌山県新宮生れ。幼名熊二郎、十二歳で田辺・高山寺に預けられ十三歳で得度、清雅を名乗った。明治十八(一八八五)年、高野山に登り一乗院で修行しつつ中学林を卒業、二年余の東京遊学を経て再び高野山大学林に学び、明治二十八年、卒業と共に田辺に帰り高山寺住職となった。だが、この進歩的青年僧は、寺にとじこもり檀徒の機嫌をうかがうといった沈滞した仏教界にあきたらず、社会の刷新を求めて地方有志と図り『牟婁新報』を創刊、自ら第一記者として革新的な論陣を張った。この時、筆号柴庵、時にはマークスの名も使っている。東京から荒畑寒村、菅野すがを記者に迎え、社会主義的色彩の濃い論調が紙面を飾った。
南方熊楠が「毛利清雅、この者当国で一番に合祀を民の随意に任すべしという論を言い出す」(松村任三宛書簡、明治四十四年八月二十九日付)と述べるように、明治三十九年の暮れに出された西牟婁郡長からの神社合祀の通牒に真っ先に異を唱えたのは柴庵であった。明治四十年十二月九日、十二日付の『牟婁新報』に掲載された「神社合祀に就て」は、その後出る生川鉄忠の「神社整理に伴ふ弊害」(『神社協会雑誌』明治四十一年)に先がけるもので、熊楠の神社合祀反対運動を先導したのが柴庵であり、この後、両者は緊密に強調していくことになる。
『牟婁新報』創刊の辞で、柴庵は「牟婁という小地域を見つめ、そこに問題を見、批判、改良を加えることが、大にしては国家に通じる」という意味のことを述べている。地域の改良、こうした理想実現のため、柴庵は政界にもかつぎ出され、田辺町町会議員二期、和歌山県会議員六期、その間、新仏教徒有志の推選で衆議院議員選挙に出馬(大正四年)するなどしている。著書に『皇室と紀伊』、『紀州田辺湯崎温泉案内』などがある。
毛利についての研究書に、佐藤任『毛利柴庵――ある社会主義仏教者の半生』(山喜房仏書林)ほかがあり、熊楠との交流を見るには中瀬喜陽編・解説『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』(日本エディタースクール出版部)がある。
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明治十六年(一八八三)四月、和歌山中学校卒業後、京都府立医学校(現・京都府立医大)を経て東京帝大医科大学で産科婦人科撰科を卒業、明治二十六年四月から田辺町大字今福町三十八番地で医院を開業した。明治三十七年十二月から同三十九年一月までの日本赤十字社の戦時招集に応じ、救護医員として陸軍病院船に乗り傷病者の救護にあたったが、解任後は再び田辺に戻り医業を営んでいる。喜多幅は田辺中学の名物校医として生徒に慕われたが、校医になったのは明治三十九年三月からで、昭和十四年まで実に三十有余年、卒業生は、喜多幅の徳を讃えて胸像を製作(昭和十五年)し母校に贈った。
熊楠との出会いは、和歌山中学に進んでからで、熊楠によれば「和歌山中学校開業の二日ばかり前、おのおの受験中、中井秀弥、貴兄、小生三人、怪物しばいなせしこと有之」というようなことがあったようで、そのため「和歌山市を離れて小生の知友にて一番古きは貴君に御座候。小生こと身の幸ありて帰国するを得ば、何卒見捨てぬように願い奉り候」(喜多幅宛書簡、明治二十四年八月十三日付)と記すまでの親密な間柄となった。蛇足ではあるが喜多幅の父と熊楠の兄藤吉とが和歌山の銀行で頭取・副頭取の関係にあったのも、二人を結ぶ一因といえなくもない。
中学校卒業後、共に進学、前述のように喜多幅は明治二十六年から田辺に戻り医院を開業していた。帰国後、熊野入りした熊楠は勝浦・那智方面の植物調査の間も、明治三十五年には喜多幅を訪ねて田辺に遊び、歓を尽くしている。この時、喜多幅を介して知った田辺の飲み友達が忘れられず、明治三十七年秋、一路、田辺を目指して落ち着き先を求めたのである。
喜多幅は熊楠に結婚を勧め、田辺・闘鶏神社宮司の娘田村まつゑを紹介、自ら仲人をつとめて長かった熊楠の漂泊にピリオドを打たせた。熊楠の長女文枝によると、二人は実の兄弟のようで、わがままな熊楠をたしなめ、喜多幅のいうことなら熊楠は何でも聞き入れるので、松枝は口ぐせのように「もしも先生のほうが早く亡くなられたら、すぐ迎えに来て下さいよ。こんな気むつかしい人残されたらかなわんから」と頼んでいたという。それかあらぬか、喜多幅没後、後を追うように熊楠も亡くなっている。喜多幅の葬儀の日、熊楠は書斎にこもって経をあげ「今日一日は喜多幅君の冥福を祈るのだから誰もそばに来るな」と目をつむって静座していたという。
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上松の経歴は、熊楠の手記によれば新潟県長岡出身で、初期の衆議院副議長を務めた安部井磐根の猶子で、立教大学卒業後、古河鉱業に入社、四十歳前で門司支店長で退職し、東京で製紙会社を経営していたが関東大震災で焼失したという。
薬草や香道に詳しく、書を能くし、一九二六年、熊楠一門の摂政宮への粘菌標本献上にあたっては、その表啓文(邦字)を上松が浄書した。
上松が熊楠の名を知ったのは、少年期に雑誌掲載の熊楠のものを読んだことにあるようで、没後間もなく紀伊新報社での座談会「南方先生を偲ぶ」では、
南方先生が偉くなられたので人に知られるやうになりましたが、私はあまり偉くないころから知ってゐた。私が十三の時南方先生は二十一歳でしたろうか、その頃北隆館から少年苑(園?)といふ雑誌が出ていた。これを読んでいると南方先生が「紀州のある地方ではシャボテンを培養してゐるが、これに臙脂(えんじ)虫を養ふことが出来る。あれは国益になる。元来メキシコとかブラジルとかいふところでないと養へないとされてゐるのだが紀州でもやれる筈だ。大倉喜八郎はお上のお蔭で巨富を積むことが出来た。お上のためなら全財産を使ってもよいといってゐるので、これの国益になることを説明し、緋ラシャなどといふ高いものを買はずとも日本でも十分この虫から染料を取って染めることが出来るのだから、四、五万円出さぬか、と云ってやったところ、大倉はその金を出さない。あれはくちほどにないつまらぬ奴だ」といふ意味の事を書いていた。これを読んだ私は、何といふ素晴らしいことだ、と思ってゐた。
と話している。
だが、直接の交流は同郷の友人である小畔四郎の紹介によるもので、現存の上松宛熊楠書簡の最初が一九一四年(大正三)十二月九日付であることから、上松四十歳、東京で会社の経営を始めた時期からであろう。この頃の上松宛熊楠書簡に「ラオーンは売れ行き如何に候や。薬剤にして奇効あるもの小生も心当り少なからぬが、ただ心当りのみでみずからこれを製出するひまなきには困り入り候」(大正六年十月二十七日付)と見えるので、本草を応用した薬品会社を経営した時期があったのかもしれぬ。
上松宛の熊楠書簡は現存約五百通。これを読むと、交際のはじめから、上松は熊楠の手足となってよく尽くしている。筆記具、顕微鏡、書籍の購入、それに十二支に関する原稿の売り込みまで。こうした上松の世話に対し熊楠は、「小生貴下と面識もなきに、多年いろいろと御世話下され候ことは感佩(かんぱい)に余りあり。何とも御礼の致し方なし」(大正八年九月十六日付)として、以後書簡のたびに一章一句でも思いついたことを書きつけて差し上げるから、小生生存中は秘翫し、死後はいかようにも利用しても結構だ、と認めている。上松宛書簡が伝記的資料に富むのは、その交際期間の長さもさることながら、以上のような理由があるからである。
上松はまた、熊楠との交流を通じて植物学、ことに菌・粘菌に関心を深め、コッコデルマ・ウエマツイなど新種の粘菌を採集し、小畔四郎、平沼大三郎らと共に熊楠門の三羽烏と称せられた。 上松宛熊楠書簡は『南方熊楠全集』(平凡社)に約百二十通、中瀬喜陽編『南方熊楠 門弟への手紙 上松蓊へ』(日本エディタースクール出版部刊)に二百十二通が収められている。
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新潟県長岡に生まれるとするが、未詳。一八九四(明治二十七)年横浜高等小学校卒業。日本郵船に入社、日露戦争に従軍して陸軍中尉となる。退役後、近海郵船神戸支店長、内国通運専務、石原汽船顧問などを歴任した。
小畔がはじめて熊楠に出会った日のことを「それは十二月末か一月かの寒いときでした。菜っ葉服を着てワラジをはいて那智山へ行ったのです。那智のことは御木本(みきもと)の養殖真珠の顧問西川理学士から聞いていたのでした。中川烏石さんのことも聞いていたのでした。随分珍しいものを持っていると――。さて滝を見ようと一、二町手前まで行った時に、和服を着た大坊主が岩角で何かを一心に見つめている。ちょっと見ると中学校の博物の先生のような感じがした。私は蘭に興味をもって研究していたので「どうですか」と話しかけたが、フンとかウンとか言って一向相手になってくれない。それで蘭の話をもちかけるとやっと話に乗って来た。蘭の学名などもよく知っている。これは話せそうだと、わたしは名刺を出して、郵船につとめているのだというと、その大坊主先生『ワシは微生物の研究をしているのだが郵船の連中ならロンドン時代によく知っている』とロンドンの話がでた」(「南方先生を偲ぶ」『紀伊新報』昭和十七年一月十八日)と回想しているが、熊楠の日記では、それは一九〇二(明治三十五年)一月十五日のことで、「午後那智滝に之(ゆく)、越後長岡の小畔四郎にあふ。談話するに知人多くしれり。共に観音へ参り、堂前の烏石といふ珍物店主を訪」と記し、同様のことは後年の「履歴書」にも出る。
この出会いから意気投合した二人はしきりに文を交わす。熊楠の日記には小畔に送るべき風蘭を集めた記事もある。おそらくは、小畔に見返りとして寄港の先々で目についた藻や粘菌の採集を頼んだにちがいない。そうした中で、小畔は粘菌の方でもひとかどの研究者として育っていった。
大正十五年二月十三日、熊楠のもとへ小畔から一通の手紙が届いた。それによると摂政宮に生物学の講義をしている服部博士から、講義に必要な粘菌を拝見したいという申し込みがあったが、これを機会に服部広太郎博士の手を経て摂政宮に四、五十種の粘菌を進献したいがどうだろうか、というものだった。熊楠は、一門の名誉であるから、いっそ自分や上松・平沼の標本も加えて百点ばかり献上しようと標本を選んだ。この時、表啓文に記した「進献者小畔四郎、品種選定者南方熊楠」の名が、摂政宮に深い印象を与え、昭和四年の田辺湾での熊楠の進献へと進展するのである。 昭和十一年四月の『大阪毎日新聞』に「変わり学コンクール」としてアマチュアの研究家を紹介したが、九回目には小畔四郎が出ている。粘菌研究に没頭するあまり、標本貯蔵に一番適している乾燥地の神戸に住み、東京の家族と別居していることや、粘菌が人間社会にまったく毒にも薬にもならないのかと思ったら、専売局の煙草苗が、土中から流れ出た粘菌の原形質で枯れたこと、また、粘菌を服飾のデザインに応用できないか目下研究中であること等、粘菌を語って興味深い話を書いている。
日本一の粘菌学者は、過日この欄で「南方学」の対象となった南方氏で、明治三十二年帰朝される前、その滞英中にすでに研究発表をされた(私はその南方氏を師として粘菌研究二十余年になる)。今日発見されている粘菌は、世界中に三百二十三種あるが、英国の二百余種、米国の二百二十種に対して、日本にある種類は未発表のものを合わせて二百四十種に上っている。そのうち半数は南方氏の発見、また四分の一が私の発見、残り四分の一が十五、六人の研究家の業績となっている。
熊楠および門弟小畔の果たした粘菌学上の貢献は、この数字でも明らかであろう。
小畔に「石の重要性」(昭和十二年『海運』第百七十五号)というエッセーがある。花は菊につき、盆栽は松に止めを刺す。これに対し床の間の置物は石だ。しかも石は加工しない自然のままがよい。人もしかりで、南方翁の叫び声は自然に出たもの云々という内容で、熊楠の学識とその飾らない人柄を讃えている。小畔は物心両面にわたって献身的な協力を惜しまず続け、熊楠の研究を最後まで助けたのだった。現在、小畔収集の粘菌標本等は国立科学博物館に寄贈され、最近、熊楠の標本も、同館に納められた。
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大正十五(一九二六)年二月、門人小畔四郎から熊楠に宛て、自分が採集した粘菌標本四、五十種ばかりを摂政宮に進献したいのでその選定を頼みたいという手紙が舞い込んだ。きっかけは、生物学研究所の服部広太郎博士から、甥の勤め先の上司に当たる小畔四郎に、生物学御講釈にぜひ小畔所集の粘菌標本を拝見したい、と申し込みがあったのにはじまる。小畔の手紙を読んだ熊楠は、一門の名誉のためにも小畔の採集品に欠けている標本を平沼、上松、それに熊楠らのものを加えようと提案、十一月までかかって三十七属九十点の本邦産粘菌諸属標本の進献を果たした。この時、熊楠は進献品に彩色図を添え、種名、採集年、採集地、特徴などをこまごまとしたため献上した。図説粘菌品彙、そう呼ぶにふさわしい力作である。
昭和天皇の南紀行幸が話題になったのは、昭和四年三月五日、服部広太郎博士が二人の侍従とお忍びで熊楠邸を訪れ、神島に渡ったことにはじまる。その日、熊楠はネルの単衣姿で友人と談話中、前触れもなく服部らが訪れたため、松枝はあわてて熊楠に綿入れを着せ部屋に通した。ほとんど会話らしい会話はなかったが、服部は、もし天皇の南紀行幸があれば熊楠に粘菌の説明役を引き受けてもらえるかの意向を打診したかったようだ。それに対して熊楠は、一月に日高の妹尾(いもお)官林で痛めた両肘の創跡(きずあと)を見せて話はすれちがいに終わった。四月二十五日、再び服部から小畔を介して、南紀行幸の内定と進講の可否の問い合わせがあり、熊楠は応じる旨、返電した。加藤寛治からの通信では「御前で(南紀行幸のことを)一寸言上に及び候処、小生よりはより以上に貴名御承知のこと拝承」とも「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」とあり、熊楠は感激した。
行幸は当初五月二十六日から三日間の予定であったが、大阪府下でのチフスの発生等で六月一日からと延期、だが熊楠に県知事から正式に進講の委嘱状が届いたのは五月二十七日になってからである。
六月一日、熊楠は在米時代に友人、三好太郎から貰ったフロックコートを仕立て直して着用、漁船玉丸で神島に向かった。御座船はすでに着いていて、天皇は浜辺にしつらえたお立場で待たれている。船頭(網中鶴吉)は波打際に船を寄せ、熊楠を背負って渚に下ろした。天皇は熊楠を見て帽子を脱ぎ軽く頭を下げられた。それを見て熊楠も漁師の背中から深々と頭を下げた。折悪しく朝から小雨が降って、粘菌の観察には不向きな天候であった。それでも天皇は新庄村長らの案内で神島の大山の頂きまで登られ、島内の植物を探られた。脚疾の熊楠はその間、磯辺で侍従を相手に雑談を交わしながら待っていた。下山した天皇は、神島は自然林と聞いてきたが、草木を伐採した跡があると洩された。奉迎のため頂上までの小径を「清掃」した跡だった。粘菌の付くべき倒木なども掃き清められ、収穫は何もなかった。
その後、天皇は近くの畠島へ回られ、熊楠は漁船で御召艦へ向かった。午後四時半頃から進講がはじまった。「小生進講の時は、陛下と三尺斗机を隔てて、小生、陛下の次に(向って右に)岡田海相、次に奈良武官長、次に関屋宮内次官、次に某大臣、と五人ほどならび、小生の次(右に)鈴木侍従長、次に加藤軍令部長、次に某大臣、次に某大臣とまた四、五人ならび候。」(大江喜一郎宛書簡、昭和四年六月二十六日付)。そうした中で熊楠の説明は服部博士の内示もあって県下植物分布の概説、神島のワンジュ、粘菌など多岐にわたるものだった。この日、熊楠は粘菌百十点を十点ずつ十一個のキャラメルの大箱に入れて進献、天皇を驚かせた。この日のことを、のちに天皇は「南方にはおもしろいことがあったよ。長門に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね、普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね、それでいいじゃないか」と渋沢敬三に話されたという。
時は移って昭和三十七年五月、南紀行幸の天皇は、白浜の宿から雨にけむる神島を間近に眺められ、感慨深げに過ぎし日、神島で出会った熊楠の思い出を話され、帰京後次のようなお歌を発表された。
雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
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和歌山県海草郡岡崎(現・和歌山市岡崎)生まれ。博物科教員。大正七(一九一八)年、海草中学校(現・向陽高校)教諭、同九年十一月より沖縄県立第一中学校に赴任、同十四年、和歌山県師範学校教授となり、昭和三年には県史蹟名勝天然記念物調査委員、同四年、行幸事務委員なども務めている。『紀州植物目録』等の著書がある。
熊楠を尊敬し、大正九年八月、熊楠の高野山植物調査に、同じ海草中学の同僚、宇野確雄(一八九一〜一九八四)を誘い随行、三日余の起居を共にした。この時、坂口は愛用のカメラを持参、熊楠の動静を数枚の写真に収め、後日「南方先生の高野登山随行記」を『大阪朝日新聞』(紀伊版)に投稿した。だが、この投稿とそれに添えた写真が「新聞に出さぬ約束にて大門辺でとりし写真を新聞に出せし」として熊楠の逆鱗(げきりん)に触れ、以後疎遠が続くことになる。この時宇野にも写真があったことが最近わかった。それは東京・高田屋での撮影として周知の浴衣を裏返して着た全身像で、宇野はこれに「一乗院裏庭でピントを合わせるいとまもなく自分が写した」といった意味の説明を付している。
昭和四年、昭和天皇の紀伊行幸にあたり、坂口は行幸事務委員(文書係)を務め、その後、白浜に建設された行幸記念博物館長などにも就いた。
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「明治十三年八月廿九日田辺に生る。天性画才あり、幼時遊戯するに他家の壁などに画を描く。父これを怒り土間へ縛り置くになお足にて砂上に猫を描き、疲れて眠っていたという逸話がある」と『田辺市誌』で紹介するように、独習のため近村の草堂寺に蔵する長沢芦雪の絵を見に訪れることが多く、画号も寺名から採ったという。酒豪で奇行が多く、明治四十四(一九一一)年の雑誌『冒険世界』に押川春浪がその人となりを紹介したほどである。
熊楠とは明治三十五年十月の某日、多屋勝四郎の紹介で出会って以来、絶えずその身辺にいて菌類の写生を手伝ったこともあるようだ。大正九年の高野山植物調査にも同行した。「じき隣家に住む川島友吉という画人などは、常に単衣を着、もしくは裸体で和紀の深山に昼夜起居せしゆえ、これも山男なり」(「諸君のいわゆる山男」)とあるように、狩を好んで山野を放浪したため山間の事情に詳しく、樹に登る犬の話、庚申の鶏と呼ぶ山鳥のことなど、川島から材を得たものは多い。熊楠が田辺の新聞『海南時報』(明治四十二年一月一日)にはじめて「鶏の話」を執筆し、以後『牟婁新報』に神社合祀反対の論攷を寄せるようになったのも川島の斡旋による。奇行が多く、短気なところから「破裂」の別号もあった。昭和十五年、日高の旅宿で客死。
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田辺に生まれ、東京・大阪の陶器店で丁稚奉公をしたあと帰郷、家業の陶器商を継いだ。野口について雑賀貞次郎の一文(「周囲の人々」)がある。「若い頃は京不見(きょうみず)の号で俳句をやり、後ち和歌に転じてアララギ派に属し、田辺地方同派の長老となっている。また絵画を好み版画を試み、氏の店頭には画家がよく集まったものだ。氏は先生の息熊弥君の病気に同情し、京北の岩倉病院に入院したころから、よく見舞に行って容子を見、先生に報告するのを例とし」というように、熊楠一家の世話を引き受けてよく面倒をみた。そのため熊楠も野口のもう一つの商売であった古屋石という盆石の販売に気を遣い、盆石の箱書きを依頼されても「小生は従来野口君と別懇、又入院中の病児に付き毎々厄介を懸居り候恩返しに、同氏の売品に限り時々筆を下し候事にて」と、野口の口添えがなければ受け付けないようにしていた。「野口、野口、熊弥、熊弥」、これが熊楠の最期の言葉だった。熊楠没後、野口は熊弥ほか遺族の面倒をよく見、また熊楠の記念館建設を熱望して奔走した。アララギ派の歌人で「南方記念館たてよ鳶はなくのでせう たたぬは市の恥 市長さん あんたらの恥」という歌もある。田辺の生き字引き的な存在で、熊楠についてもよい語り手であった。
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「拝啓 小生一生人に紹介状副えたことなし。しかるに、只今二十一歳になる女子に貴下宛紹介状副え申候」で始まる柳田国男宛(大正三年十月)の一文は、長女きしえの上京を案じる岩吉の心情を察して熊楠がしたためたもので、文中「父は頑迷なる古風の人に有之、それに父の素性を継ぎ読書、図画、立花、茶技、裁縫、押絵、縫箔、音楽、その他至って技巧の方に有之」と述べている。岩吉の特技をきしえがことごとく学びとっていたようで、岩吉は未生流生け花の指導と看板絵、紋描きをして生計を立てていた。早く妻に先立たれ五人の子を男手一つで育てながらも、持ち前の陽気さで人々の会所となっていた。風呂屋に近かったせいもあって銭湯帰りの熊楠もよく立ち寄り、話を楽しんだ。尽きることのない広畠の話題に「こんなことには二本足持つ百科全書ともいうべき人」と熊楠も三嘆している。
大正六(一九一七)年、岩吉没、五十七歳。岩吉の子幾太郎(画号・鋤和、明治二十三年生)も熊楠の知遇を受けた一人で、日本画を能くし大正三年、熊楠の嘱を受けて「山の紙草紙」を模写したりもした。幾太郎は昭和五十六年、きしえは西宮に嫁し五十七年相次いで没した。
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和歌山市に生まれ、七歳で田辺に来住、『牟婁新報』を振り出しに新聞記者を長く務めた。家が貧しく、幼時は子守りをしつつ神社の銀杏の落葉をノートに替えて文字を書いたりしたという。実直な性格で、熊楠の信頼が厚く、訪問者があるとまず雑賀が面会して、その報告を聞いてから招くか断るかを決めたようで、熊楠はことあるごとに手紙を送り、「小生よりハガキが届くと二三日のうちに必ず来たり助くるなり。茶一つ出さず、何一つ礼をするということなし」というように無私の行為であった。熊楠はその労を多とし、雑賀の『紀南民俗口碑集』や『田辺町誌』の著述にあたって自ら筆をとり助言を与えている。俳号を素甕(すがめ)といい、熊楠の俳句の相談役でもあった。
文枝さんによると「雑賀さんは父がいちばん好きな人だったようですね。一週間に一度はかならず訪ねてくれまして、世間のようすを聞くんですね。たまにお見えにならないと、雑賀はどうしたんだろうといって手紙を持って走らされました。そして、父への訪問者がありますと、雑賀さんを先に遣わしまして、何の目的で来たのか、いかなる人物かまた用件を聞いて、雑賀さんの案内でお見えになるというように、とっても信用していました。雑賀さんはお行儀がよくて、そのお客さんと同席して、しまいまでおるんですね。そしたら父の事ですから、気に入りましたお客さんですと夜通し話をするのですね。その間じっと後で座っておるんです。母が気の毒がりまして――。でも雑賀さんは、たいへん重宝なお話を聞かしていただいて勉強になりますと言っておられました」(対談『父の思い出』続田奈部豆本 平成元年)というほど、熊楠の手足となり、耳となった人である。雑賀に『追憶の南方先生』(昭和五十一年)という遺稿集があるが、それによるとはじめて熊楠を訪ねたのは明治四十(一九〇七)年頃という。それ以後、たえず熊楠の身辺の世話をし、没後は遺稿の整理、年譜の作成と夜を日に継いでの作業に没頭した。毎日午後南方邸に通い、半日に二万字以上を浄書した、ともいうが、これが『南方熊楠全集』(全十巻)の原稿となったことはいうまでもない。
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正岡常規(子規)と南方熊楠は共に慶応三(一八六七)年生まれ、共立学校を経て東京大学予備門に進んだ同期生である。子規は幼少の頃から漢詩や俳句を好み、予備門に進んで国文学に傾倒、一方熊楠は、少年期に感化を受けた本草学や歴史に興味を示した上、嗜好も子規は煎餅、熊楠は酒と、ちがったので、接近することはほとんどなかった。ではまったく接点がなかったのかといえば、そうではない。二人は共に寄席好きで、唄も好き、第一、人生観がよく似ている。そのため熊楠を理解するには同時代の子規を知り、その著述を読むのが近道ではないかと思ったりしている。
熊楠が和歌山中学を卒業して上京したのは明治十六年三月十八日のことである。一方子規は、その年五月、級友と語らい松山中学校を中退、六月十四日、叔父加藤恒忠を頼って上京、新橋停車場に降り立った。上京した二人が共に入学したのが神田にあった共立学校である。この学校は明治五年三月創設、正則英語学と高等普通学を教えていたが衰退し、明治十一年から高橋是清、鈴木知雄(ともお)、森春吉らで再興、大学予備門をめざす人々の養成校となっていた。
熊楠は「出京して共立学校に入った時、高橋是清先生が毎日ナンポウと呼ばるるので生徒を笑わせ、ランボウ君と言はるるのに閉口した」と述べ、子規は「(明治十七年の九月)、この時余は、共立学校の第二級でまだ(大学予備門の)受験の力は無い。殊に英語の力が足らないのであったが……落第の積もりで受けてみた。(中略)それもその筈、共立学校では余はやうやう高橋(是清)先生にパ−レ−の万国史を教へられて居た位であった」と紹介する。熊楠より半年ほど遅い出生の子規が、大学予備門で熊楠と同期になるのは、冷やかしで受験して、合格してしまったという「離れ業」があったからである。旧共立学校(のち、東京開成中学校)の同窓会名簿(大正十一年)には、明治十七年に南方熊楠の名が出るが、正岡常規の名が翌年にも出ないのは、第二級生で予備門に進んだためであろう。共立学校での熊楠の同期には秋山真之、水野錬太郎、山座円次郎らがあり、明治十八年組、つまり子規が共に受験したと紹介する菊池謙二郎のいる組には神谷豊太郎の名が見える。神谷は和歌山市の出身、後年、子規が「温友」として紹介する人で、熊楠が子規を知ったのは、この神谷を通じてであろうと思われる。
明治十七年九月、熊楠も子規も共に大学予備門に進んだが、熊楠は「授業など心にとめずひたすら上野図書館に通い、思うまま和漢洋の書物を読みたり。したがって学校の成績よろしからず」と、学校にはほとんど顔を出していない。子規もまた「菊地寿人、正岡処之助共に帝国大学にありて国文科を修む。しかして二人の外さらに本科生なるなし。処之助よく出席することをもって全校に鳴る。けだしその出席三日に一日、四日に一日位にして、しかも一日の課業、半はこれを欠く。ゆえに朋友みな処之助の欠席に馴れ、もし出席することあればあやしんで奇と呼ぶ」(『筆まかせ』)という有様だった。
授業に出ないで何をしていたのか。熊楠はいう、「神田万世橋近くに白梅亭という寄席がありて、学生どもが夥しく聴聞に出かけた」、「柳屋つばめという人、諸所の寄席で奥州仙台節を唄い、予と同級だった秋山真之や故正岡子規など夢中になって稽古しおった。」と。子規も「寄席は白梅亭か立花亭を常とす」と述べているから、こうしたところで鉢合わせをし、互いにその存在を意識していたのだろう。
明治十八年九月、子規は予備門の進学に失敗した。「墨汁一滴」のなかで子規はその原因を、英語力の不足(幾何学が直接の落第科目であるが、それはすべて英語で設問、解答が要求された)からであると述べている。この結果発表の日(九月十二日)、熊楠はめずらしく登校し、掲示板の前に立った。「四級生徒落第、正岡常規以下四十余人。新入百人ばかり」として、改めて子規を筆頭に二十四名の姓を連ねて落第者を記録している。不合格者は四十数名、正岡子規の名は五人目に書かれていたのではないかと思われるが、それを最初に置いたのは、熊楠にとって「身近な人」だったからであろう。その熊楠も、同年十二月十二日に落第する。
学校での試験について二人には共通した認識があった。子規は「西洋でも日本でも、一番で学校を出た人が必ずしも功業をなし、大名を挙げしにあらざるなり。学校で一番になるには、学校の事ばかり勉強すればわけもなし」といい、熊楠も「中学校にあって僚友が血を吐くまで勉るを見て、そんなにして一番になったところが天下をとれるでなし、われはただ落第せず無事に卒業して見すべしと公言したが、果たして左様だった。しかして試験ごとに何の科目も一番早く答紙を出して退場し、虫を捕って自適するを見て、勉強せずに落ちぬは不可解と一同呆れた」と述べる。二人共、学校での授業を軽く見、試験の結果にはきわめて無頓着なのである。
明治四十四年三月十二日、子規門の高弟・河東碧梧桐は、毛利柴庵に誘われるまま熊野旅行の予定を変更して南方熊楠を訪ねた。その訪問記が『日本及日本人』(明治四十四年六月一日号)に出ているが、碧梧桐は熊楠の書斎を「子規居士の別号獺祭書屋(だつさいしょおく)が何等の誇張もなしにここに再現されてをる」と感じた。碧梧桐が子規の高弟であると知って熊楠は子規について思い出を語る。
当時正岡は煎餅党、ぼくはビ−ル党だつた。でも書生でビ−ルを飲むなどの贅沢を知つてをるものは少なかった。煎餅を齧ってはやれ詩を作るの句を捻るのと言ってゐた。自然煎餅党とビ−ル党の二派に分かれて、正岡と僕とが各々一方の大将顔をしてゐた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だつたが、後には僕党に降参してきたことなどもある。イヤ正岡は勉強家だつた。さうして僕等とは違っておとなしい美少年だつたよ。おもしろいというても何だか、今に記憶に存してをるのは、清水何とかいふ男の死んだ時だ、矢張君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるといふので僕等も会葬したが、何処の寺だつたか、引導を渡して貰つてから、葬式の費用が足らぬといふので、坊主に葬式料をまけて呉れといったことがあつた。
この話しの最中も熊楠はしきりにビ−ルをあおり「今に一ダ−ス位の空瓶を林立せしむる光景を予想」するほどだったという。それかあらぬか、この話には伝聞も混じっている。とくに清水某の葬式の時は熊楠はすでに和歌山に帰っていた。この日の会葬者は子規も詳しく氏名を挙げているのでよくわかるがもちろん熊楠の名はない。
ところで、この碧梧桐の訪問があって四ヵ月後、碧梧桐は熊楠から長文の書簡を受け取った。それには、先の話を訂正するかのように、子規に関する思い出を次のようにしたためていた。
小生は当日(碧付記。予の訪問せし日)ただ夜深く過る迄、神社合祀反対の意見書を認(したた)め、臥して間も無く、貴下の来訪にあい、正岡氏の級友たるを承り、その人にあう心地して(尤も正岡氏は、毎度体操の行列に小生と手を組んで歩きしことあるも、そは級の順によりしことにて、その外に同席せしこともなく、ほんの同級生というばかりなりし。)しかるに小生亡き父、その頃神田豊島町に酒屋を出し、その店の主管たりし紀州人の子に神谷豊太郎(理学士、現存)という人は正岡・秋山(碧付記。秋山は現に海軍大佐伊吹艦長たる秋山真之氏なり)などと七人組とか称し、始終通い居たり。柳屋燕という色白く□(一字不明)肥なる男が寄席にて仙台節という歌を歌い始めしとき、件の七人組毎夜欠かさず出て聴き及(返ヵ)って稽古することおびただし。「程がよいとてけんたいぶるな。男がよくて金持ちで、それで女がほれるなら、奥州仙台陸奥の守の若殿に、なぜに高尾がほれなんだ」といううたを、正岡殊に上手にて、三角眼、そっぱそのまま馬のごとく、身を左右にふるいまわり唄うを、小生見て面白く思い、ひそかに覚え帰り、かの輩の謳(ママ)の通り稽古し、人のもおぼえている。その時、誰かフルフている。彼が大フルヒ等といいはやしたり(これより後年迄も、正岡はフルウフルウとということを口ぐせにいいしと覚え候)。すべてちょっと知った人でも、後年その人が一芸一道に名を出し、また世に□□(二字不明)しなどするを聞いては、彼はわが多年の旧友などといいちらし、また竹馬の古き友にても、成り行き不出来なるときは、人に問わるるも、そんなものは知らずというが人情なり。軽薄至極な様だが、その内に人の善美を悦び、人の凶悪を悪むの意も籠れるなり。小生当時正岡が俳道に旗を立て得るほどの人と知らず、ほんの顔見て挨拶するに止まりしは遺憾にて、そのころ頼んだらいくらでも俳句くらいと書き付けくれたのを、書つけもらわざりしは残念なり。さて今になりて、その人と同郷知人と聞いて、貴下の入来を悦びしも、実は正岡氏一道に名を立てられたるにより、「本文その人にあう心地して」とあるが、小生は別に親友というほどのことはなく、ほんの同級生の他人なりし□□(二字不明)正岡氏名成りし故に、今となりて何となく、その人の追憶さるるなり。別に親交もなかりし人のことを、彼是いうは追従らしき故弁じ置く。序にいう、正岡氏ごとき人には、一条なりとも逸話を多く知りたも多からん。因(よつ)て一、二申上る。この人予備門へ朝寝し、後れてかけつけくること数回ありし(小生、自分も度々朝寝し後れ、跣足(はだし)にて馳行(はせゆき)しこと多き故、所謂「猩々知猩々、好漢識好漢」。また件の七人組には、連歌興行のとき正岡氏が番になりて、「音にきけど手には取られぬ松の風」とか詠みしというを、上述の神谷氏から聞しことあり、二十六、七年前のこと故たしかに記(おぼ)えず)。(『南方熊楠――親しき人々』笠井清著)
碧梧桐来訪の前年、明治四十三年十一月にも熊楠は『牟婁新報』へ「俳諧の正風について」を投稿しているが、これにも子規の俳句革新を擁護しようとする姿勢が見られる。熊楠にとって子規は忘れがたい旧知の一人だったのである。
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