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『南方熊楠を知る事典』−中瀬喜陽(なかせ ひさはる)

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I 南方熊楠を知るためのキーワード集

神社合祀反対運動

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 明治三十九(一九〇六)年十二月十八日、和歌山県西牟婁(にしむろ)郡役所は政府及び県知事の訓示を受けて郡下町村宛に社寺合併の奨励を要請、その期限を翌四十年四月までと定めた。これにより、和歌山県神職取締所西牟婁郡支所からもまた各町村神職に宛て、町村長に助力し遂行すべき旨通牒が出され、田辺・西牟婁地方の神社合併・合祀が急ピッチで進められることになった。西牟婁郡長楠見節(くすみ せつ)は、神職取締所も兼ねていた。楠見は直属の部下数名を督励して各町村を巡らせ積極的に合併・合祀の実を挙げさせた。

 『田辺町誌』によれば、この楠見の強引な勧奨で西牟婁郡内に当時あった村社百二十八社は七十八社合祀して五十社となり、無格社百九十五社は実に百八十四社を合祀して十一社に減じたという。

 当時、西の谷村(現田辺市)で行なわれた合祀を例にとれば、字古町(あざ ふるまち)の上の山東神社を存置し、これに字出立(でたち)の出立神社、字尾の崎の稲荷神社、字西郷の上の山東神社、字米良(めら)の八幡神社を合祀しようとした。字西郷の住民は「信教の自由」をたてに絶対反対、字米良の人々は合祀先が遠隔地で参詣に不便であるとして強く反対したため、郡長は有力者を郡役所に呼んで再三説得、あるいは威嚇して、ついに目良の同意を取りつけ、新たな神社名を「八立稲(やたちね)」とした。八幡社の「八」、出立社の「立」、稲荷社の「稲」とそれぞれ合祀される神社の名から一字づつ採ったものである。明治四十年二月二日、移祀祭がおこなわれた。このあと字西郷の上の山東神社への干渉が厳しく行なわれ、もし合祀をしないのであれば、設備、資産、収入の手だてを速やかに整えよと迫られたため、ついに四十二年十二月、合祀に同意している。

 西牟婁郡内、及び和歌山県下いたるところで、こうした強引な神社の合祀合併が行なわれていることを見聞した牟婁新報社主の毛利清雅(もうり せいが、筆号・柴庵=さいあん)は、「神社合祀について」の意見を『牟婁新報』紙上に発表(明治四十年十二月九日、十二日付)した。毛利の意見は要約すれば、(一)神社は「適当」に廃合してもよいが、現状のように内務省の訓令を振り回して強制威圧的な廃合には問題がある。とくに基本金(これは当初村社以下は五百円以上とあったのをいつの間にか二千円、五千円とせり上げた)がないなら他へ合併せよというのは、理不尽で、基本金がなくて不都合があるのなら政府が基本金を与えてはどうか。(二)神社の森は、どの村にあっても勝景の地で、住民の情操に多大の感化を与えている。合祀によってその森が伐り払われていくのはしのびがたい。(三)氏神には、歴史上の記録がないとしても深い由緒が秘められている筈である。将来専門学者によって解明されねばならない重要な課題をはらんでいる。―こういう大事な事柄を考えないで「基本金」や「神職」の有無を尺度に、びしびし廃合を断行するというのは乱暴の沙汰というほかない、というものである。

 この毛利の意見は、わが国で最初に神社の合祀反対に触れたもので、その後伊勢の神官生川鉄忠(なるかわ てっちゅう)の「神社整理に伴ふ弊害」(『神社協会雑誌』明治四十一年二月付)、「神社整理難を論して神職配置法に及ふ」(同誌、明治四十二年八月付)などの意見が発表された。

 南方熊楠が神社の合祀合併とそれに伴う神社林の伐採を憂い、『牟婁新報』に長文の論攷(「世界的学者として知られる南方熊楠君は、如何に公園売却事件をみたるか」)を発表したのは明治四十二年九月二十七日のことである。社主であり主筆であった毛利清雅とはまだ面識をもたなかったが、『牟婁新報』で折りに触れて読む毛利の姿勢に共鳴して投稿したものである。熊楠の要旨は、毛利が表題にした「公園売却事件」ではなく、これと同時に惹起している神社合祀の問題であった。「この三年ばかり前、神社合併合祀の訓令出でしより、当県の郡吏、神社を合併せしむるを無上の奉公と心得、百方人民の好まぬ所を勧誘し、近日に及んでは随分不穏の言を以て威喝脅迫し、その何等の由緒あり、何らの故蹟たり、また如何なる景勝に加わること如何に大なるかを問わず、神社を騙って一所に集め、その跡を潰すを第一の功名と心得る(中略)数日前、和歌山県庁より役人やって来たり、なるべく今冬中に西牟婁郡内の神社を合わせてしまえと言うたとて、郡吏輩、また例の赤城町長(兼宮係り総代)、いろいろ奔走して、今日明日合併せずんば合祀せよと、蟹が柿の核をせむるがとく、町村の宮係りを促し、彼らの温順無口なるに乗じて盲判をつかす同然のやり方、飛ぶ鳥は跡を濁すというが此輩の金言と見えて、どうせ長持ちはないから神様でも潰して、他所え奉職するときの手柄話にでもしようと思うものの如し。そもそも、この神社合併のことたる、制令に非ずして訓示に止るなれば決してかく足元から鳥が立つように、威風を以て励行すべきものに非ず」と述べ、「当県はいつも満足なことは必ず他県におくれ、不埒なることのみ多く他県に先立つが常例なるが、神社合併の如きもいたってつまらぬことなれば、果然、全国で先登第三位をしめ、官吏輩揚々として、虎でも退治したるごとくなるは笑うに堪えたり」と痛烈に批判し、昨今ヨーロッパでは街中に小公園を作って市民の憩いの場としているというのに、わが国では手近にある小公園ともいうべき神社を潰し、その木を伐り、借家などを建てるというのは時代錯誤だと述べている。

 これを最初に、熊楠の神社合祀反対意見は毎号のように『牟婁新報』紙上を賑わすことになる。最近の調査では、この時期、地元紙のほかにも大阪朝日新聞社、東京朝日新聞社、大阪毎日新聞社などにもいくつかの原稿を寄せていることがわかった。その一つ「無謀なる神社合祀」(『大阪毎日新聞』明治四十三年二月十一日、十二日付)で、熊楠がうったえたのは稲成村(いなりむら)糸田(いとだ、現田辺市糸田)の高山寺のある台地にあった猿神社(さるがみのやしろ)の合祀であった。

 通牒に示された無格社は基本金二百円以上とあるのを、官吏はいつの間にか勝手に五千円と嵩上げして五千円を積み立てねば合祀すると、わずか十七戸の字民を威嚇、稲荷社へ合祀し、その跡地は、二度と復社出来ないように宮木を一本残らず伐採してしまった。先日、その神社の祭典があったが、字民はだれも合祀先の稲荷社へまいらず、旧社地の木の切り株へ小さな霊屋を構えてそれに額づいていた。政府は神祇崇拝の実を挙げるための合祀というが、合祀先へ遠く歩いて参詣するということはしないのが実情だ。それに、この猿神社には狭い境内ながら植物も多く、特に一本の古い楠には、私が標本としたものだけでも七十種にのぼる隠花植物があり、中にはプチコガストルという変形学上の珍品ともいうべき菌、アーシリア・グラウカという新種の粘菌も、この楠のみに生ずるものだった。無法不人情きわまる神社合祀奨励のため、こんな希有の好研究材料が、日々跡を減していくのはいかにも心外に堪えないことだ、と結んでいる。

 熊楠にとって、町からほど近い自然林としての神社の森や手水鉢(ちょうずばち)、溜め池は、藻、地衣、粘菌の格好の研究場所であり、一方、それらの微生物にとっても、そこはかけがえのない「生命の貯蔵庫」だったのである。熊楠はこうしたものいわぬ生物に代わって、その救命を訴えたのであるが、訴える声が高まるほど摩擦も大きい。それが最高潮に達したのは明治四十三年八月二十一日のことで、紀伊教育会主催の夏期講習会が田辺町の田辺中学校を会場に開かれたおり、これまで県庁の社寺係をつとめ、合祀督励に再三田辺に来たことのある相良渉(さがら わたる)が、今度県の内務部長で紀伊教育会の会長として来田することを知り、熊楠は積年の思いを叩きつけるつもりで面会を求めたのである。講習会は七日目で、熊楠が訪れたときは閉会式の最中であった。受付で、しばらく待つように言われたのを、その間に逃がすつもりと受け取った熊楠は、ビールの酔いも手伝って、会場に押し入り、手に持っていた標本袋を会場に投げ込み、式場は騒然とした。この件で「家宅侵入」の疑いから十八日間の未決拘留となり、九月二十一日、証拠不十分で免訴の判定がなされた。

 この後、熊楠の反対運動にちょっとした変化が起こる。それは、中央の学者に応援を頼む手紙を書きだしたことである。柳田国男、松村任三、白井光太郎らがその宛名人で、在京の知名人を動かして、その援護のもとに神林の伐採を中止させようとした。柳田らは熊楠の意を諒としながらも、時代の趨勢は一人や二人の力で変えることなどできないと、むしろ熊楠の反対に賭ける精力を学問研究に向けるよう勧めている。

 大正七年三月二日、貴族院第三分科会では神社合併不可が論じられ、希望決議として提案された江木千之氏の「神社合併は国家を破壊するもの也。神社合併の精神は悪からざるも其結果社会主義的思想を醸成するの虞れ(おそれ)あるを以て今後神社合併は絶対に行ふ可からず」の意見が全会一致で可決された。これを承けて同年五月、水野内相が神社合祀の非を改めて表明、合祀の嵐はようやく終息に向かい、熊楠の長い戦いは終わった。見回してみると神島(かしま)の森、野中の継桜王子社(つぎざくらおうじしゃ)の社叢、那智滝の原生林、三重県阿田和(あたわ)の引作(ひきつくり)神社の楠など、熊楠の説得で残された神社林もあることはあるが、たいていは姿を消してしまった。このうえ、さらに時日が経れば、今残ったものさえいつ伐採の憂き目に遭うかもしれない。熊楠は、もっともその可能性の高い神島を、魚付き保安林から、いっそう保護の及ぶ県の史蹟名勝天然記念物に指定の働きかけをし、それでもなお安心出来ず、昭和十一年には文部省の指定を受けて、将来の保全に備えたのであった。そういう意味では熊楠の神社合祀反対、自然保護の戦いは晩年まで続いていたといわざるを得ないのである。〔中瀬 喜陽〕

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反吐(へど)

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 「先生にはいつでも反吐(へど)をはけるという離れ業があった。胃が反芻(はんすう)的にできている、など笑われたことがある。先生の気に入らないことをする人があって、先生が激怒した時はその人の家の前に行き反吐をはいたりしたこともある。この先生の反吐は、中学時代からのもので、喧嘩の相手によく吐きかけたという」(雑賀貞次郎『追憶の南方先生』)とあるように、反吐は熊楠の“武器”であったようだ。神社の合祀合併反対に没頭していた頃は、推進派の郡長や神官に毒づいていうのに「余、幼時、民政局内にあった小祠を打ち破り、神号を取り出し唾を吐きかけたむくいからか、何時にても牛の如くヘドを吐く習慣となり、今に止まず。お望みならいつにても貴邸の入り口へ実施申さん」(「楠見郡長に与る書」)などと口走っているのである。

 ロンドンの日本大使館の絨毯(じゅうたん)に熊楠の反吐の跡がのこっていることを告げた友人からの手紙も残っている。公使の加藤高明とそりが合わなかったようで、ある日、ロンドンの街角で立小便をしているところを一婦人に見つかり、公使館に呼び出されて厳重注意を受けたそうだ。熊楠は、酒も飲めぬ者が酔っ払いの気持ちなどわかるものか、と加藤に毒づいている。先の手紙はそんな時の置土産だったのだろう。

 熊楠によれば「小生釈尊の後嗣に撰ばれて辞せし牛首栴檀と同じく反芻人にて、物を食えば幾度も口へ出来り、それを食うにうまきこと限りなし。もっとも、慎めば慎んでおられ候。小生姉、和歌山で有数の美女なりしが、それが小生如く生まれざりしは幸いと皆々申候。また脳が異様の組織と見えハッシシュ(大麻)を用いる人の如く個人分解(一人でいながら二人にも三人にもなるなり)をなし申候」(宮武省三宛書簡、大正十三年三月二十九日付)と述べている。

 この熊楠の奇癖を有名にしたのは、明治四十二(一九〇九)年五月『大阪朝日新聞』に書いた杉村楚人冠の「三年前の反吐」で、西郷隆盛然とした偉躯の持ち主が、田辺の狭い借宅に和漢洋の書籍をうづ高く積み、丹精こめた植物標本とで足の踏み入れる場所もないほどにしている。部屋に入ると変な臭気がするので、何かと尋ねたら、三年前に酔っ払って吐いた反吐を、そのままにしてあるのだという返事だった―という話から始まり、中学時代、運動場で人と喧嘩して、相手の顔へぷうと反吐を吐きかけたことがしばしばある、と書いている。熊楠はこの楚人冠の記事に対し「さて、今年五月下旬の貴社新聞へ楚人冠先生筆にて小生の略伝如きもの掲載相成候由(あいなりそうろうよし)、小生極て不慧、四十二歳の今日まで一事を成し得ず阿房の鑑(かがみ)と郷党に呼(よば)れおる者を、みだりに世界的の大学者など称せられ候こと、冗談にもほどがあり、とみに痛み入り、くだんの新紙はわざと拝見不致候(いたさずそうら)ひき。(中略)杉村君はもはや二十余年面会致さず候へども同郷近処に家居し、幼少より相識の人なれば、まさか啌ばかりも書かざりしことと察せられ候。」(大阪朝日新聞社編集部宛投稿原稿、未刊)と肯定的口吻で述べている。〔中瀬 喜陽〕

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南方植物研究所

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 大正十(一九二一)年六月、原敬ほか三十三名の知名人によって発起された南方熊楠の学術研究後援組織。第一次目標を基金十万円と定め、これによって財団法人を設立、所長南方熊楠に全般の経営を委託して、設立後三ヶ年間に植物及び植物生産にかかわる熊楠の研究成果を内外に公表するなどの趣旨を掲げている。

 研究所設置をいち早く提唱したのは兵庫県出身の田中長三郎で、田中は米国留学中に米国政府の植物工業局長だったスウィングル博士の助手をしていた関係から、同博士と親交のあった南方熊楠を知り、帰国後再三田辺を訪れ、熊楠の研究姿勢に共鳴、その収集標品、蔵書等を基礎にわが国第一号の植物研究所設立を企画したものである。

 この動機について田中は『牟婁新報』で、わが国の学事が世界の二、三流にあるのは、日本人が学者を尊敬しないからで、世界の大勢は戦後(注=第一次大戦後)争って偉才を押立てて新しい組織を作り、互いに研究開発に熱中しているのが世界の趨勢だと述べ、わが国でただちにそうした機関を作って世界に伍そうとするならば、それは南方熊楠を置いてない(大正十年三月)と力説している。そのため田中は帰国直後の大正八年、大阪に植物興産所を建設したいと阪神在住の富豪に出資を求める一方、熊楠に候補地の検分をさせるなどしたが、強力な後援者が現われぬまま計画は頓挫した。

 植物研究所は、その延長とも見られるもので、田中はその研究所を熊楠の宅に置き、募金によって財団法人を設立しようとした。そこで、当事者の熊楠とその弟南方常楠(酒店経営)、毛利清雅(牟婁新報社主、県議)の四人で協議を重ね骨格を作った。熊楠の毛利宛書簡(大正十年三月二十五日付)によれば、この話し合いの過程で名称、基金について意見が分かれたようで「百科云々の事は、前日も田中氏と議論致せしが、田中がすでに植物研究所を主張し、小生これに同意したる上は、今更これをかれこれいうは事の発端から内訌を生ずるの基となる。(常楠如きも最初より大英博物館やカーネギー研究所ごとき百科研究、または教育普及機関を望みし故、田中は五万円といいしを十万円と迄進みしと存候。常楠は田中氏の熱心は大に感心するも植物学を小事とすること、小生に同じ)但し小より大に進むの径路としては止むを得ざることにて、小生植物学だけにても田中如き熱心にして其(植物)学の理解に富だる同人を得たるは大幸なり」と述べている。ただ、ここで注意しておきたいのは、田中が提案し草稿にしたためた名称は「植物研究所」であって、「南方植物研究所」ではなかった。設立趣意書にはこの両様の文字があるため、田中は渡米の船中から個人の姓を冠する名称には同意しがたい旨の書簡を熊楠に寄せている。

 曲折を経て「南方植物研究所」は船出し、『大阪毎日新聞』は「新設されたる南方植物研究所」の見出しでその有用性を連載(大正十年九月十三日〜十七日付)し、社長の本山彦一も発起人として五千円を寄付するなど好調な滑り出しをしたかに見えたが、関西という限られた地域では募金をしてもその額は少なく、上京を促す声に応えて熊楠は三十数年ぶりに東京に出、在京の知友、先輩の応援を頼むことになった。上京の模様は「大切な仕事のため乞食の真似、事業資金を集めに上京した変り者の南方熊楠氏」(『東京朝日新聞』大正十一年三月三十一日付)、「金策に苦しむ今仙人」(『読売新聞』同年四月十八日〜二十三日付)「世界的発見などは朝飯まへ、植物園を一時間も歩き廻れば二十位、大気焔の南方熊楠氏」(『大阪毎日新聞』同年五月二十日付)などの記事となり、自身もまた毎日の動静を克明にしたためて、『牟婁新報』へ書き送っている。(『上京日記』)。だが、その成果は期待に反したもので、滞在は五か月に及ぶこととなった。この時、寄附金の筆頭に常楠が二万円としたため(常楠は見せ金として毛利がそう書くよう求めたまでという)、その支払いを巡って兄弟の間に溝が生まれ、それまでの月々の仕送りまで打切られることになり、植物研究所の存立が危ぶまれる事態となった。

 だが、その後も募金が寄せられていることは、「履歴書」と呼ばれる矢吹義夫宛書簡(大正十四年一月三十一日付)の末尾に「もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく、小生決して私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間、御安心して寄付さるるよう願い上げ候」と書き加えているのでもわかろう。

 南方植物研究所は法人化にこそ至らなかったが、熊楠は当初計画の英文菌藻図譜の刊行に向けて晩年まで心血をそそぎ、おびただしい稿を残して逝ったのである。なお、昭和五年六月一日建立の神島行幸記念の碑には、碑陰に「南方研究所一同」の文字が彫られている。〔中瀬 喜陽〕

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那智(なち)

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 熊野三山の一つ那智権現を含む地域で、東牟婁(ひがしむろ)郡那智勝浦(なちかつうら)町の一部。烏帽子山(えぼしやま)、光ケ峰(ひかるがみね)、妙法山(みょうほうざん)を総称する那智山は、古くから霊山として崇敬され、山内には四十八滝と呼ばれる多くの滝があり、中でも一の滝は飛瀧権現(ひろうごんげん)として斎(いつ)かれている。旧那智村は天満(てんま)、浜ノ宮(はまのみや)、川関(かわせき)、井関(いせき)、市野々(いちのの)、橋ノ川(はしのかわ)、二河(にこう)、湯川(ゆかわ)の八ヶ村を合併して明治二十二(一八八九)年に誕生、昭和九年、町制を布(し)き、昭和三十年に勝浦町と合併して那智勝浦町となった。

 熊楠が那智山麓市野々の大阪屋に入ったのは明治三十五年一月十二日のことで、そこを常宿として烏帽子山、一の滝、くらがり谷等へ思うまま足を伸ばしている。終生の門弟となる小畔四郎とは、大阪屋に入って三日目に一の滝付近で植物調査中に話しかけられたのがはじめであった。明治三十七年十月まで熊野入りして二年余の収穫は、菌一〇六五、変形菌四八、藻八五二とする。この那智山植物調査の時期、水源ともいうべき原生林の伐採計画を耳にし、その保護に尽力した。

 昭和五十三年二月、私は熊楠の跡をたずねて那智山を訪れた。実はその前年に熊楠の植物採集のお伴をしたという松本喜市氏にお目にかかった時、「宿舎の大阪屋から使いが来て行った」と聞いていたのでその大阪屋の位置を確かめに再度の那智行きをしたのである。知人の案内で尋ねた場所には、なんと大阪屋の孫娘稲垣いなえ(明治三十三年九月十九日生)が新しく建て替えた家に住んでおられた。聞くと大阪屋は宝歴四年から八代続いた旅宿だったが大正十五年に廃業、熊楠の滞在した離れは昭和八年十月四日に焼失したという。稲垣さんの記憶では暑い時期に熊楠が浴衣がけに尻をはしょった姿や、採集標本を縁側に干し拡げていたことを覚えていたり、大正八年か九年頃、牧野富太郎さんが「南方さんが泊まったというから一晩泊めてくれ」といって泊まったことがあったことなどを話してくれた。ここでの熊楠の世話はもっぱら祖母の稲垣まつ(明治四十二年、八十二歳で没)さんが当たっていたという。牧野と南方は仲が良くなかったように伝えられているが、牧野もちゃんと宿舎まで覚えていたのである。同席していた地元の二河良英氏は「牧野さんは那智を見て”額”みたいなもんだ。表きれいで裏がない」と感想をのこして去ったと言葉をはさんだ。那智は一泊したぐらいの旅行者にはこの程度の感慨しか催させないのであろう。〔中瀬 喜陽〕

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藤白神社(ふじしろじんじゃ)

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 海南(かいなん)市藤白(ふじしろ)にあり、古代・中世の熊野街道に沿っている。古くは藤白(藤代)王子と記され熊野九十九王子の一つ。王子社の中でも五座の神を祀る王子は特に五体王子と呼ばれるが、ここもその一つ。明治になって藤白神社と改まった。境内には、中世の熊野詣をしのんで後鳥羽上皇一行の和歌会を記念した「歌塚」なども設けられている。万葉集で名高い「藤白の御坂」はこの神社の背後の峠である。

 藤白神社は南方氏の信仰篤い神社であった。そのことを熊楠は「紀伊藤白王子社畔に、楠神と号し、いと古き楠の木に注連結びたるが立てりき。当国、ことに海草(かいそう)郡、なかんずく予が氏とする南方苗字の民など、子産まるるごとにこれに詣で祈り、祠官より名の一字を受く。楠、藤、熊などこれなり。この名を受けし者、病あるつど、件(くだん)の楠神に平癒を祷る。知名の氏、中井芳楠、森下岩楠など、みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ、今も海草郡に楠をもって名とせるもの多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬほどなり。(中略)予の兄弟九人、兄藤吉、姉くま、妹藤枝いずれも右の縁で命名され、残る六人ことごとく楠を名の下につく。なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので、四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。」(「小児と魔除け」『東京人類学会雑誌』明治四十二年)と述べている。

 昭和十二(一九三七)年三月、熊楠の長男熊弥は、長く入院していた京都・岩倉病院から退院を許され、この藤白で病を養ったことがある。この時熊楠は、自分を守ってくれた楠神に近く、風光のよいこの地であれば,きっと愛児の病もよくなるだろうと頼みをかけている。藤白神社は熊楠の守護神として、いつまでも熊楠の心にあったのである。〔中瀬 喜陽〕

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闘雞*神社(闘鶏神社=とうけいじんじゃ)

雞* は「鶏」のつくりが隹(ふるとり)の異体字 [鶏(異体字)の画像]、この記事中では便宜上「鶏」で表記します。

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 社伝によれば允恭天皇八年創建とあるが、『紀伊国続風土記』は、熊野別当十八代湛快(たんかい)が熊野三所権現を勧請したとする。湛快の子の湛増は弁慶の父に擬せられ(『はしべんけい』)、また源平壇の浦の合戦ではこの社前で赤白七羽づつの鶏を合わせて神意を占い源氏に味方した(『平家物語』)とも伝えられる。そうした故事から新熊野鶏合権現(とりあわせごんげん)と呼ばれてきたが、明治以降「闘鶏神社(とうけいじんじゃ)」と改められた。仮庵山の北麓にあって、山中の「くらがり谷」が二峰を分ける。明治三十九(一九〇六)年、南方熊楠は、当時ここの神官だった田村宗造の四女まつゑと結婚し、その縁もあって神社所蔵の旧記、図書などを借覧、「田辺抜書」に収めている。

 熊楠はこの闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」と位置づけ、調査と共に保護に心を砕き、大正六年、三郡製糸(さんぐんせいし)会社がこの境内近くへ進出したときは猛然と反対した。〔中瀬 喜陽〕

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田辺

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 熊野参詣の盛んだった平安時代、口熊野の宿場として栄えた地で、『水左記(すいさき)』承暦四(一〇八〇)年に「田辺」と出る。当時、熊野別当湛増が勢力を振っていたさまは、『平治物語』、『平家物語』に名高い。江戸時代に入って、浅野氏が支配し、転封後、紀州徳川氏の付家老安藤氏の城下町となった。安藤氏は会津川口(あいずがわぐち)左岸の一角に城館を構え、城下の町割を行った。こうして本町(ほんまち)、紺屋町(こうやまち)、袋町(ふくろまち)、上長町(かみながまち)、下長町(しもながまち)、南新町(みなみしんまち)、北新町(きたしんまち)、片町(かたまち)の八町が生まれ、維新後新たに城郭地の場所を上屋敷(かみやしき)、士屋敷地に中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)、新屋敷(しんやしき)と町名が付けられた。この城下の設定がすべて湊村(みなとむら)域で行われたため、湊村は城下と複雑に入り組んだ形で残ることになった。

 明治二十二(一八八九)年の市制町村制施行で田辺町が誕生、その後大正十三年、西ノ谷村・湊村を合併して昭和十七年には田辺市と改まった。その後昭和三十九年まで、近隣町村との合併が相次ぎ今では人口約七万八千人、県下では二番目の人口を誇る市であるが、南方熊楠が定住を決めた明治三十七年当時は、町内の戸数一六八九、人口七千二百余、西ノ谷・湊の両村を合わせても一万二千名に足らない人数であった。大田辺の建設、これが当時の町政の懸案で、付近村との合併話はたえず持ち上がっていた。神社合祀反対に引き続き、熊楠が反対したのは、この町村合併で、大正七年七月「田辺町湊村合併に関し池松本県知事に贈れる南方先生の意見書」(『牟婁新報』)を最初に、昭和十一年八月「新庄村合併に就て」(『牟婁新聞』、大正十四年頃創刊)まで、合併話の起こるたびに精力的に合併反対の意見を投稿している。熊楠の意見は、つまるところ大国が小国を屈伏させるような強引な町村合併では、災いを受けるときは小さい村にことごとく不利益が及び、福を受けるときは小さい村にまことに薄いことを挙げ、市や町の人口が合併によってふえたからといってそれでどうだというのか、というもので、合併される側の湊村や新庄村には熊楠の意見に賛同者が多く、実現まで相当の年月が流れている。

 交通は昭和七年十一月、紀勢西線(きせいさいせん)の南下で紀伊田辺駅が設けられるまで、田辺湾に発着する商船に頼り、産品の葛、梅干、木炭、茶、干魚、椎茸などはこれらを利用して移出されていた。

 熊楠の顕彰は没後まもなく地元在住の門人を中心に発議され、邸宅の保存、遺品の整理に着手、遺品点を開催するなど啓蒙にもつとめてきた。昭和四十四年、田辺を中心に結成された紀南文化財研究会では「生誕百年記念南方先生を偲ぶ会」を開催、講演会のほか遺墨展を開いたが、この頃からいっそう広範な顕彰の動きが興り、昭和六十二年、田辺市に南方熊楠邸保存顕彰会が発足、全市をあげての取り組みとなり現在にいたっている。〔中瀬 喜陽〕

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高山寺(こうざんじ)

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 西牟婁郡稲成荷町(いなりまち)糸田(いとだ、現田辺市糸田)にあり真言宗御室派(おむろは)に属し、もと勧修寺(かんしゅうじ)、興算寺(こうさんじ)などの号があったが天明七(一七八七)年今の名となった。聖徳太子が開創したと伝えられ「弘法大師自作」の像が安置されている。境内三か所から貝塚が発掘され、昭和十三(一九三八)年発掘の一号貝塚は縄文早期中葉の標式遺跡となり、伴出の土器は「高山寺式土器」と呼ばれている。天明年間(一七八一〜八九)、長沢蘆雪が同寺に滞在したことでも知られる。

 南方熊楠の神社合祀反対の端緒ともいうべき糸田の猿神社(さるがみのやしろ)はこの高山寺に隣接していたが、明治四十一(一九〇八)年に稲荷社へ合祀され、珍種の粘菌を十数種授けてくれた古樟もあえなく伐採の憂き目にあい熊楠を激怒させた。

 熊楠の神社合祀反対運動より早く、神社の合祀合併に異を唱えた毛利清雅(柴庵)は、ここ高山寺の住職をつとめ、そのかたわら牟婁新報社を創立、熊楠に意見発表の場を提供したのだった。最近は熊楠の墓所として訪れる人が多い。〔中瀬 喜陽〕

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白浜

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 和歌山県西牟婁郡の地名。田辺湾の南岸に当り、藩政時は瀬戸(せと)村、鉛山(かなやま)村であったものが、明治六(一八七三)年瀬戸鉛山村となり、昭和十五年、町制が布(し)かれて白浜町と改った。町名は鉛山湾に面した名勝白良浜(しららはま)にちなんだものである。『日本書紀』に出る「牟婁温泉」は、現在の「崎の湯」だといわれるように豊富な温泉の湧出で知られ、関西の湯治場として賑わった。昭和八年、紀勢西線白浜口駅が開設されるまで、交通はもっぱら船に頼っていた。

 熊楠がはじめてここを訪れたのは明治十九(一八八六)年、渡米を控えた四月十九日のことで、当時の日記には「芳養(はや、現田辺市芳養町)より乗船、鉛山村に至り崎の湯に浴す。酒井屋にとまる」と誌している。その後、有田屋、吉田屋と宿を替えて二十六日まで一週間を過ごしているが、その間、動植物の観察に余念がなかったことは、後年、東京帝大動物学教室五島清太郎教授に「海ヒトデ」の標本を贈るにあたって、「明治十九年四月、紀伊国西牟婁郡鉛山村崎の湯海岸、膝の深さの Between Tide-Marks 海水底岩石の下に四五個ありしもの二個とり、一は大英博物館へ十五年前寄付、残りし一つ今東京帝国大学へ寄付す。云々」と述べていることや、渡米後も、田辺町に住む喜多幅武三郎に、崎の湯の藻の採集を依頼していることからも推測出来る。

 この曽遊の地に再び遊んだのは、帰国後、那智山に隠棲していた明治三十五(一九〇二)年のことで、六月三日に有田屋に投宿、以来年末まで、白浜と田辺を往来しつつ長逗留をきめているのである。熊楠の篋底には、この時期の有田屋、神崎屋の請求書なども残されているが、有田屋ではもっぱら正宗という酒に肴はかしわ(鶏肉)か卵、神崎屋ではビールに牛肉かラッキョウを出させている。後半生を田辺に落ち着けるには、こうした白浜の好印象もあったのだろう。〔中瀬 喜陽〕

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神島(かしま)

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 和歌山県田辺湾内にある島。面積約三ヘクタール。中世の歌枕の一つ。『紀路歌枕抄(きのじうたまくらしょう)』(延宝四年、丹羽秀方編)に「磯間(いそま)浦 神嶋 牟婁郡の内 田辺神子の浜(みこのはま)のつゝきに有、神嶋此海に有、土人此嶋を鹿嶋と云」と注記するように、神島と書いて訓み(よみ)はかしまである。

 熊楠がはじめてこの神島を目にしたのは明治十九(一八八六)年の春、親友羽山繁太郎と白浜温泉に遊んだ時である。その時は渡船から眺めただけの島だったが、明治三十五年六月、多屋勝四郎の案内で上陸、島内の植生に興味を抱き、明治三十七年、田辺に借宅してからはしばしば渡島してワンジュ、キシュウスゲ、センダンなど島内の植物を探り、渚や潮間帯の地衣、藻を採集した。

 明治四十二年、神島の弁天社が新庄・大潟神社へ合祀され、同四十四年八月、森林の択伐が始まったことを漁民の通報で知った熊楠は、時の村長榎本宇三郎(えのもと うさぶろう)を説得、保存につとめ、同四十五年五月、神島は保安林の指定をみた。島の保安林指定は国内で最初のものとみられている。昭和四年、南紀行幸の昭和天皇は、熊楠の推奨する神島に上陸、粘菌を観察され、後刻熊楠から神島の彎珠(わんじゅ)や隠花植物に関する進講を受けられている。

 昭和五(一九三〇)年五月三十一日、神島は和歌山県の史蹟名勝天然記念物に指定され、六月一日には行幸記念碑が除幕された。碑面には

   昭和四年六月一日
   至尊登臨之聖蹟
一枝もこころして吹け沖つ風
わか天皇のめてましゝ森そ
             南方熊楠謹詠并書

と彫られている。

 こうして神島が世間の耳目を惹くにつれて、心ない渡島者が上陸記念に植物を持ち去るようになった。そこで熊楠は新庄村長坂本菊松らに呼びかけ、国の天然記念物に指定して渡島者に制限を加えようと、全島の悉皆(しっかい)調査を実施、指定申請の資料とした。こうした関係者の努力によって、神島は昭和十一年一月十五日、文部省より史蹟名勝天然記念物の指定を受け、現在に至っている。

 なお当時の所有者だった新庄村は、昭和二十九年に田辺市に合併、現在の地籍は田辺市新庄(しんじょう)町字北鳥の巣(きたとりのす)三九七二番地である。〔中瀬 喜陽〕

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『牟婁新報』(むろしんぽう)/『紀伊新報』

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 『牟婁新報』も『紀伊新報』も、ともに田辺町で発行されていた新聞で、熊楠にとってはもっとも身近な発表先であった。まず、『牟婁新報』から紹介して行こう。

 『牟婁新報』は、明治三十三(一九〇〇)年四月二十二日、和歌山県西牟婁郡田辺町大字中屋敷町一番地(現田辺市)で発刊された新聞である。編集人野村米太郎(よねたろう)、発行兼印刷人山中定吉(さだきち)。当時、西牟婁郡稲成村(現田辺市稲成町)の高山寺住職毛利清雅(号柴庵)を第一記者として迎え、「地方改良」の健筆を揮わせた。創刊に当たって柴庵は、

 「牟婁」は我郡の名也。只だ其れ此名を以て起る所のもの、其冠已に小なり、躯幹亦太だ大ならざる可きは、弁疏を待たずして明かなり。然り、吾輩は唯だ此地方の進運を扶助し、あらゆる方面に於て無二の親友たらんとするの外、更に何等の目的を有せず。(中略)吾輩は一小地方に於ける所の一小新聞記者として其当に尽くす可き適応の任務を遂行し得ば足る、敢て其れ以上を望む者にあらず。(地方の改善は)之を大にすれば則ち、元より国家全体の上に関する所のもの、今則ち之を小にして一地方の上に於てせんとす。其事何ぞ卑小なりと云はんや…

と述べている。

 明治三十八年八月、牟婁新報の社会主義への傾斜により、それまでの経営陣は手を引き毛利柴庵が社主兼主筆となり、大正十四年四月、三八〇〇余号を重ねて休刊(廃刊は昭和六年三月)となった。

 南方熊楠がはじめて毛利柴庵に書簡を送ったのは、明治四十二年九月二十五日のことで柴庵はその書簡に「世界的学者として知られたる南方熊楠君は如何に公園売却事件を見たるか 本社に向け左の如き書翰を寄せらる」の題を付して全文を二十七日付の牟婁新報に掲載した。当時田辺の玄関口に当る船着場一帯の「台場公園」売却にからんで、柴庵が公園売却反対の論陣を張っているのを擁護し、加えて神社合祀による神社林の伐採も現今ゆるがせに出来ない問題であると訴えたもので、以来、柴庵と熊楠は刎頸(ふんけい)の友として神社合祀反対、自然保護に協同の歩調をとり、熊楠はおびただしい投書を牟婁新報に寄せるのだった。

 熊楠が「神社合併励行に反対するは小生に始まるに非ず。友人毛利柴庵氏は四十年十二月、田辺の牟婁新報に『合祀は人民の随意に任す可き』論を出し云々」と述べているように、もっとも早く神社合祀令に反応し、強制威圧的な合祀のあり方を批判したのは牟婁新報主筆の柴庵であり、熊楠の投稿は柴庵の目の届かない植物保護に重点を置き、両者の協力が世論を動かしていくのだった。

 柳田国男は、牟婁新報寄稿の熊楠の文章に対し、「近来稀覯の快文字、熱心拝誦の上切抜き保存仕るべく、この後は御不用の分何新聞雑誌にても皆賜わりたく候」(明治四十四年六月十四日)と書き送っている。因みに、この時の柳田の切抜き帳には「紀州田辺ニテ三日ニ一度ヅツ発行スル牟婁新報ノ切抜 柳田国男珍蔵」と表紙にしたため「人魚の話」以下五篇の随筆が掲載月日順に整理されていた。

 一方、『紀伊新報』は明治四十二(一九〇九)年五月十日、小山邦松(こやま くにまつ)により西牟婁郡田辺町大字中屋敷町五十四番地で創刊された新聞である。創刊当時の発行人室井厳(げん)、印刷人北田兼吉(かねきち)。

 社主小山邦松を紹介する記事がライバル紙の『牟婁新報』(大正五年十二月十日付)にでている。それによると「彼は三栖(みす)の富豪政次郎の三男、長兄は政界の寵児として多くの陣笠を羨殺(せんさつ)せる代議士谷蔵(たにぞう)、次男は今三郡製糸の主力福田順次郎、また富田川(とんだがわ)の一闘将たり。邦松年齢三十五、地方新聞経営者として最年少たり、そもそも人間の思想性格は、内容の貧弱にして形態の簡素なるは少年也。そのまさに充実せんとするや、鋒鋩潁脱(ほうぼうえいだつ)、圭角稜々(けいかくりょうりょう)、これを青年とす。漸くにして豊美爛熟(ほうびらんじゅく)、形態もまた円満無碍なり。これを老成の士とす。邦松の新聞社長たる、今まさに青年時代たり。意気天に冲(ちゅう)す、勢い奔馬の如く、筆刄(ひつじん)の触るる所、人皆傷(きづつ)く云々」

 大正五年、南方熊楠は中屋敷町三十六番地に入居するが、その住居と紀伊新報社は三メートルほどの道路を隔てて向かいあっていた。それほど近い所にありながら、熊楠の寄稿は明治四十五年八月から大正二年五月にかけての五篇があるのみで、疎遠であった。しかも大正十年、南隣りの住人が鶏小屋を改築して熊楠方の実験圃が日照を遮ぎられて起る紛騒のあった時は、住人(野中権蔵)の言い分を掲載して、『牟婁新報』が報ずる熊楠の主張と対立する紙面を作った。

 大正十四年に『牟婁新報』が休刊してからの熊楠の動静は『紀伊新報』がよく記録し、ことに没後ほどなく実弟常楠ほか関係者を集めて開いた座談会は貴重な証言となっている。〔中瀬 喜陽〕

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【 II 南方熊楠をめぐる人名目録】はページを別にして掲載しています。

III 南方熊楠主要著作解題

田辺抜書(たなべばっしょ/ぬきがき)

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 明治四十(一九〇七)年から昭和九(一九三四)年にわたる田辺での抄写ノート六十一冊。A5版、和紙、片面十行罫、百枚綴りに、毛筆細字で片面二十行づつ使っている。卷一の終わった頃、片面二十行の書き込みは細かすぎて読み返すのに難があるので、次からは十行にしたい、と日記に書いてあるが、何故か最後まで改めなかった。

 書籍は主に田辺図書館、田辺中学校、法輪寺、闘鶏神社、それに知人所蔵のもので、大正六(一九一七)年までの十年間に五十一冊が費やされているのを見ても、筆写に精力的だった期間がうかがえよう。なぜこの時期に多いのか、速断は出来ないまでも、明治四十五年の日記に「二月十四日 午下起く。午後六度集経抄し了り、夜今福湯へゆく、帰っておそく迄維摩経写す。これは合祀反対の祈りに全く写す。抄するに非ず。序品より中辺迄写す」とあるように、神社合祀反対運動の渦中にあって、心頭に発する怒りを鎮めるための筆でもあったのだろう。各資料毎に筆写開始の年月日および時刻と、その資料の入手経路、資料の概観を冒頭に記した上、本文の筆写を続けている。文中とくに注意を惹いた語句、内容等はその上段に記し、後日の利用に備えている。

 参考までに、南方邸に現存する「抜書」の巻首部分を取り出すと以下のようになる。ただし、これはあくまで各巻の最初の部分のみであり、いわゆる目録といったものではない(第一巻及び第六十一巻は南方熊楠記念館に出展のため未調査)。

〔中瀬 喜陽〕

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課余(課餘)随筆(かよずいひつ)

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 ここで熊楠の「抜書」の歴史を振り返ってみると、少年期の『和漢三才図会』、『大和本草』等々の筆写にはじまり、「ロンドン抜書」(五十二冊)を経て「田辺抜書」と膨大な筆写本が浮かび出てくるのであるが、ついでにもう一つ少年期と壮年期をつなぐ青年期の筆写本「課余随筆」についても触れておきたい。

 「課余随筆」は明治十七(一八八四)年、熊楠が東京大学予備門に入学した年からはじまり、明治二十八(一八九五)年、いわゆる「ロンドン抜書」を開始するまでの在英時代初期におよぶ十年間の筆録で、標題は「修学の余課に学んだ撰集」の意味をもたせている。管見では現存五冊、第一冊は明治十七年十二月八日午後十時と記す緒言にはじまり、「巻之五」には「英国・ロンドン駐在中 南方熊楠稿」として一八九五年の年号が出る。この年四月、「ブリチッシュ博物室抜書 巻之一」が開始されるので、「課余随筆」は五冊が最後ではないかと見られる*。内容は新聞・雑誌、図書の摘記、見聞雑記を混え、たとえば「アナバ府在学生名 明治二十年冬より二十四年の間に至る」といった備忘録もあるが、主として図書の抄写で、第一冊目巻首の抄写は「林娜斯(リンネウス)先生伝」で、このほか約八十項目。第二冊目は「明治十八年中の記事」として「斉藤妙椿」ほか九十三項目、在米時代のものとしては、『土佐日記』を明治二十四年十一月十七日、フロリダ州ジャクソンヴィルで抄写した旨記載がある。在英時代の第五冊には、馭者の帽飾、三山争闘、闘鶏、西蔵の父母の泪、ヒバツバキ等々の目録が付せされている。

 漂泊時代にふさわしく、薄手の大学ノートを用いた巻などもあるが、生涯を貫く筆写の姿をうかがうにかかせない資料といえよう。

〔中瀬 喜陽〕

ウェブ管理者付記:この「課余(課餘)随筆」の項は、単行本刊行時は「田辺抜書」の項目への付記の形でしたが、今回のウェブ公開にあたり独立の項目としました。

* この「課余随筆」については、本書が刊行されたのちの平成八年に、当研究会によって行われた南方熊楠記念館(財団法人、和歌山県白浜町)所蔵資料調査の過程で多くの新事実が明らかになりました。同記念館『蔵品目録 資料・蔵書編』(南方熊楠記念館編)にも掲載されているとおり、「課余随筆」と題された冊子は13冊が確認されています。その中には複数の題名が付されている冊子もあり、また「巻五」は内容に異同のある2点があること、「巻之六下」と題された冊子が9冊目にあたること、また最後の2冊は巻数の題記を欠くなど、成立の状況も複雑ですが、ロンドン時代にも「ロンドン抜書」と並行して筆写が続けられていたことや、おそらく帰国後にも加筆が続けられた巻もあることなどがわかっています。その各冊の内容目録部分は、吉川壽洋氏によって『南方熊楠へのいざない』1、2(南方熊楠記念館編、巻之六上まで)および『熊楠研究』5号以降(南方熊楠資料研究会編、巻之七以降)で平成12年以降順次翻刻紹介されています。(2004. 9)

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