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『南方熊楠を知る事典』−松居竜五(まつい りゅうご)

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III 南方熊楠主要著作解題

明治十九年十月二十三日松寿亭送別会上演説草稿

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 南方の文章のうち、もっとも早い時期のものとしては、十二、三歳、中学生の頃に習作(おそらくは課題作文)として書かれた三篇の文章がある。しかし、「祝文」、「火ヲ慎ム文」、「教育ヲ主トスル文」と題されたこれらの漢文調の小文は、そこに思想の萌芽を見取るにはあまりに紋切型のものでしかない。また、和歌山中学から東京大学予備門時代にかけては若干の紀行文や日記(未公刊)などが残されているが、いずれも思想的な著作とはいいがたい。

 結局、熊楠の最初のまとまった論が現われるのは、十九歳、渡米直前になってからのことである。明治十九年、予備門を退学し、故郷和歌山に戻っていた熊楠は、アメリカに渡ることを決心し、その後十余年にわたる長い海外放浪の旅に出発する。この時、郷里の友人たちによる送別会が行なわれ、熊楠が答礼の演説を読み上げたのだか、幸い、その草稿が残されて平凡社版全集に収録されているのである。場所は表題にもあるとおり和歌山県の松寿亭、日にちは南方の風邪のために三日延期されて、実際には十月二十六日に行なわれた。日記によれば、参加者は南方自身を入れて十七名となっている。

 演説の冒頭から、南方は「西洋にはアーケオロジーといえる学問あり」と切り出す。そしてこのアーケオロジーつまり考古学によれば、人類文明の歴史は石の時代、銅(または錫(すず))の時代、鉄の時代の三つの時代に分けられると続ける。こうした人類史の推移は適者必存の競争論理によって進められたものであり、たとえば、石の時代にとどまっていたアイヌ民族が鉄器で武装した大和民族に滅ぼされたのも当然のことだ、というのが南方の論点であった。そして、さらに国際社会に目を転じて、次のようにいい放つのである。

 前日われわれの先祖が蝦夷などの人種に向かいてなせる競争は、今日転じて、わが日本人と欧米人との競争となれり。

 この議論に、当時の学会を席巻していた社会進化論の影響があることはいうまでもないだろう。ダーウィンによる進化論が発表されたのが一八五八年。その後、同じ条件のもとでは最適者が生き残り、そうした自然環境による「淘汰」が進化をもたらす原因となるという学説は、生物学のみならず、多くの学問分野に巨大な波紋を投げかけた。とくに、これを人類社会の発展に応用した社会進化論と呼ばれる思想は、弱肉強食の当時の国際関係の中で、熱狂的に受け入れられたのであった。

 日本においても、明治期を通して、この社会進化論は加藤弘之らによる「優勝劣敗」式のイデオロギー化とあいまって、人間社会の変遷を説明する一大原理としてまたたく間に滲透していた。それは、アジアにおける生存競争に勝ち残らねば欧米の植民地となるほかないという、当時の日本の置かれた厳しい国際情勢を端的に示す理論であった。

 南方もまた、そのような時代背景と密接に関わりながら少年期、青年期を生きた人物である。少年期から同時代の思想に敏感であった彼が、最新の流行である社会進化論に深く影響されたのは、自然なことであろう。さらに、海外放浪の初期に見られる進化論思想について記したおびただしい書簡での議論や、ハーバート・スペンサーの研究者であると名乗っていたことなども、その傾倒ぶりを物語っている。結局、松寿亭での彼の演説は、次のように結ばれるのである。

 前日、蝦夷人の日本人にまけしは何故なるや。日本人の制度物事の美なるを見ながら、資(と)りてもってこれに倣い、みずから勖*(つと)むべきを了(さと)らず、頑然かかる石器などを用いおりし故ならずや。されば今日、日本人が欧米に入りて、その土をふみ、その物をみ、その人間の内情を探り、資るべきはすなわちとり、倣うべきはすなわち倣い、もってみずから勖*(つと)むることははなはだ要用なりとす。これ余の今回米国行を思い立ちし故にして、時期もあらばなおまた欧州へも渡らんことを欲しおれり。

*勖=[冒+力]

 このようにして、南方熊楠は米国へと旅立ち、その長い海外放浪生活に入ることになったのであった。この後、彼は進化論が近代科学の根底であるという意識を強く持ちつづけ、ダーウィン、スペンサーなどの著書を着実なペースで読み込んでいく。しかし、その過程において生物や社会が一方向にのみ変わりゆくという単純な進化論・進歩史観に対しては疑問を持つにいたり、ロンドン時代以降はハーバート・スペンサーへの批判を記すようになった。そのロンドン時代までのおよそ十年の海外生活は、十九歳の日には思いもおよばなかったような体験をした彼が、飛躍的な思想の成熟を得た時期でもあったのである。 〔松居 竜五〕

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珍事評論

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 『珍事評論』は南方熊楠が編集、執筆のいっさいを執り仕切って書き上げた一部きりの個人新聞で、アンナーバーの日本人仲間に回覧されたものである。日記によれば、第一号から第三号までが、それぞれ一八八九年八月十九日、同九月十七日、一八九〇年九月四日に発刊。このうち第一号はのちに熊楠自身が日本に持ち帰り、田辺の熊楠旧邸に残された。この号に関しては、すでに平凡社版『南方熊楠全集』刊行時より存在が確認され、一九八九年の八坂書房版『南方熊楠日記』第一巻に付録として収録されている。第二号は一九九二年に和歌山市で発見されたものの未刊行、そして第三号は未発見である。したがって、ここで論ずるのは第一号についてのみであることを最初にお断わりしておきたい。

 まず、この個人新聞、というよりも戯文集の発刊の経緯であるが、直接の目的は一八八九年二月四日の『大日本』に引き続き、アンナーバーの日本人留学生社会を牛耳ろうとしていた長坂(岡崎)邦輔一派を糾弾することにあったと見てよいだろう。長坂一派がミシガン大学学長のエンジェルの言を背景に禁酒を議決しようとし、南方、小沢、茂木などが反対したこの年一月の会議以来、禁酒派と反禁酒派の対立は深まっていた。そのような情況の中で、熊楠は「根気強く珍事評論となんいへる新聞凡そ四枚八葉のものを出し、一一(いちいち)人の非をあばく」(喜多幅武三郎宛書簡)という、禁酒派を痛烈に皮肉った回覧新聞を書きまくったのである。

 当然、その内容は長坂一派に対する個人的攻撃に満ちている。たとえば、首領である長坂本人に関しては、「人間一生の恥辱たること恰も長坂君の顳颥*(こめかみ)の瘢(あざ)同様と奉存候」との文章が見える。冒頭の「社告」にはじまって、「紀伊国人長坂邦輔氏 右の奴予と同郷の人にて陸奥公使の甥のやうなものなり」から「まぬけの隊長姦悪の頭人、本紙寄書にある、衣類を点売して飯を食しもこいつの主唱なり」と結論づけた巻末の「広告」まで、およそ悪口のオンパレードである。もちろん、「公使の甥と聴て公使同様にゑらい人とでも思」って、その長坂に迎合した連中にも容赦のない鉄槌が下されている。

*颥=[需+頁]

 結局、こうした熊楠の徹底した攻撃は、日本国内における権威主義をアメリカ合衆国中部の町でも後生大事に抱え込んでしまっている留学生社会の体質に向けてなされたもの、と考えることもできるだろう。その意味で、その攻撃はまたその日本人社会に身を置いている自身の態度へとも跳ね返ってくるものなのではなかったのか。そう考えると、『大日本』そしてこの『珍事評論』と、自らの忿懣(ふんまん)を思う存分にぶちまけた熊楠が、それらを書き終えたのちに、一人で南へ、フロリダ、キューバへと孤独な遁走をはじめるのも、自然なことであったように思われてくる。

 とまれ、発刊の外的な経緯については、それはそれとして、この戯文を一個の作品としてとらえた際にもっとも印象的なのは、溢れんばかりに発揮された熊楠の文学的センスなのではないだろうか。平賀源内ばりのテンポのよい戯作調の文章、数十人の友人連中を一刀両断に書き分ける観察力と筆力、さらに自己の感情を吐露した告白文体のおもしろさなど、その内容の充実度には舌を巻く思いさえする。明治二十二(一八八九)年、つまり『小説神髄』、『浮雲』の頃に書かれたこの『珍事評論』の文章は、近代文学史中の一作品としても、注目されるものではないかと思われるのである。

 もちろん、この江戸戯作調に貫かれたエッセイ群は、言文一致を至上の概念とする堅い文学観からは、たんに旧式なだけのものともとらえられてしまうかもしれない。しかし、当時二十二歳であった南方青年以外の誰が、西洋の知識を交えながらこのような奔放な文章を書き得たか、ということはやはり特筆すべき問題であると思われるのである。

 少し内容を見てみよう。たとえば、アンナーバー日本人留学生社会の住人を、フランス革命に関わった人物に準(なぞら)えた一節。同じ禁酒反対派の小沢正太郎はダントンで「千万人の中に切り入てピクともせざる也」であり、敵対する禁酒派の小野英二郎はルイ十六世、「人がらよくて、たれもかれもルイ万歳ルイ万歳といふに引かえ、マリーアントワネットのやうな不徳なものと組んだ上、姦人におだてられた故、終に曾て見ざる恥辱をとりしなり」といった調子である。ちなみに自分は「ルウソウ 南方熊楠 ちと狂人らしく見ゆるゆえ自推するなり。敢て其功に誇るに非ず」と、少々照れながらもさすがに一代の哲学者をかこっている。

 また、文章のおもしろさという点からいけば、「禁酒の大益」と題された飲酒に因む故事の列挙が群を抜いている。登場人物はざっと見ただけで、夏禹、魏祖、セーントポール、セーントバーナード、釈迦、アイシス、オシリス、ブレーマ(ブラフマー)、帝釈天、ツールスツラー(ツァラトゥストラ)、孔子、スウィッヅンボールグ(スウェデンボルク)、ルーソー、ウォルテール、ヘーゲル……。

 こうした人物がどれだけ酒を好んだかについて次々に解説しながら、熊楠は滔々(とうとう)と飲酒の効について謳う。つまり、ツァラトゥストラは「三十年の間チーズを食ひ、牛の乳で作りし酒のみ飲で教理を考しといへば、其行ひ甚だ記者に似たりけり」ということだし、孔子などは「日夜ほろよい機嫌にて読書一途に通したればこそ、大極変換天地消長の理をも述べ得たるなれ」というわけである。この痛快なテンポのよさは、のちの熊楠の文章の基礎となるものであり、この時期にはすでに技巧的には感性の域に達していたことがよくわかろう。

 最後に、青年期の心の拠り所であった羽山繁太郎(ここでは繁樹と仮名が用いられている)に対して熊楠が書いた、もっとも思い入れの深い文章がこの『珍事評論』の記事の中に含まれていることも紹介しておきたい。一応、「渡辺判吾君伝」という見出しがついているのだが、実質的には渡辺判吾はだしに使われているだけで、内容はまったくの「羽山繁太郎伝」である。

 紀に羽山繁樹なる者有り。三五初て和歌山中学に就学す。容貌清艶、之を池の辺に望めば屹として蓮花のAvatara(精魔)の如し。而其尤も人心を悩殺する所の者は一に其主無き園に咲乱れたる桜花に似たるに在り。

 という紹介に続いて、東京で羽山とともに過ごしたこと、羽山の病気による帰郷、そして渡米を決意し、羽山に今生の別れを告げた際のことなどが語られていく。その別れの場面、そして羽山の死を描いた部分などは、文飾を尽くした、なかなか秀逸なものである。

 況(いわ)んや今、多年翼を交えて共に眠れるの鶴、一は止て蘆花蓼葉の間に巣ふて寂々の松籟に心の哀れを添へ、一は飛て雲外八千里の夜雨に耳を傾け、情の悲きに唳かんとす。彼れは吾が言ふ奮ふて後をも見ずに行き、予は彼れの誼に羈(ほだ)されて歩を跓*(とど)めて目送りし単(ひと)えに其影の消なんことを惜む。惨は生別より惨なるは無しと。宜(むべ)なる哉言や。

*跓=[足+主]

 如し夫れ死別に至ては惨の極て惨なるものと謂ふべし。予渡米の後、歳半、彼生病ひ再び発り終に起たず、幽顕界を距て今に於て如何ともすること無し。

 さらに、死の三時間前に繁太郎が熊楠に宛ててしたためた、「みえぬ山みちこえゆくときにや、なかぬからすのこゑをきく」という永別の辞も紹介されている。そして、「予は情に厚き者也。之を悼んで涙今に絶ず」と結ばれるのである。こうした羽山に対する自らの心情の吐露(とろ)としては、ほかに土宜法龍宛書簡などにも「ヂヴィナ・ノロケアナ」と称する戯文調のものがあるが、この『珍事評論』の方がよりストレートであろう。

 こうして見てくると、『珍事評論』第一号の充実度がよくわかってくるのではないだろうか。ロンドン時代以前の熊楠の思索については詳(つまび)らかにされていない面が多いが、その中にあって『珍事評論』はもっとも貴重な資料たり得ているのである。 〔松居 竜五〕

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極東の星座

The Constellations of the Far East, NATURE, 1893.10. 5

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 英国の科学雑誌『ネイチャー』の一八九三年十月五日号読者投稿欄に掲載された、南方の処女論文である。『ネイチャー』はいうまでもなく当時からの一流雑誌であり、南方もアメリカ時代からほぼ毎号目を通していた。その『ネイチャー』に長編の論文が掲載されたことは、ロンドンでその日暮らしを続ける南方に、まさに「一朝目覚むればわが名は高し」の感慨を抱かせたのであった。

 だが、一方、この論文に関しては、従来往々にして伝説的な面のみが喧伝されてきたきらいがある。「懸賞論文の一等に入選し」といった明らかな俗説は論外としても、「誰も答うるものなかりしを、小生一見して」、「AからQまであって、RよりZまで欠けた」(「履歴書」)辞書で書いたという自伝中の南方の言葉も事実とは思われず、彼自身による自己神話化と見てとるべき部分であろう。この論文の価値は、そうした出世作としての神話化ではなく、本格的な第一論文として南方の思想の原型が現われている、という点に求められなければならない。注意深く読むならば、この論文が明らかな失敗作であること、そしてそれゆえにこそ、ここには南方の思考の方向性がはっきりと見られることがわかるのである。

 まず、この論文は形式上、M・A・Bなる人物の問いに答えるという形をとっていることに注目しよう。M・A・Bの質問は、基本的には「各民族の持つ星座がどのような歴史的背景を経て作り上げられているか」という知識を問うたものであるが、同時に「星座を比較することによって各民族の近親関係を立証できないか」という提案も行なっている。つまり、たとえば「エジプトの星座とアッシリアの星座は似ているから、エジプト人とアッシリア人は同じ祖先を持っていた」というような類推ができるのではないかというわけである。

 この問いに、中国とインドの星座を例にとって答えようとしたのが、南方の「極東の星座」であった。まず、前半部において南方は、西洋とは多くの面で異なる中国の星座のしくみを紹介する。その上で、後半部では共に天球を二十八に分けた古代中国とインドの星座を比較しようというのである。

 南方によれば、共に二十八に天を分類しているとはいえ、古代における中国とインドの星座はまったく独立に発生したものである。しかし、そのように独立に発生した二つの異なる星座でさえ、よく比較してみると似たところが随所に指摘できる。たとえば、「胃」という星宿は、中国でも「鼎(かなえ)の足のごとし」、インドでも「鼎の足のごとし」と同じように形容されているし、中国では「柳」と名付けられた星宿は、インドでも「蛇」という似た形のものにたとえられている。「牛」という星宿も両国に共通しているし、「觜」という星宿にしても、「みみずくの角」とする中国と「鹿の角」とするインドは同じ発想から星座を作っている。

 このような指摘から、南方は次のような結論を導き出す。つまり、中国とインドのように異なる民族が偶然に同様の星座を作り出すことがあるのだから、星座が似ているからといって民族が近い関係にあるなどとはいえない。したがってM・A・B氏の提案は、実用性のないものである、と。

 しかし、残念ながらこの南方の論旨はいくつかの致命的な誤りを含んでいる。まず、共に天を二十八分する中国とインドの星座のシステムが独立発生かどうかは、すでに十九世紀はじめから論争のある大問題であった。現在まで結論は出ていないとはいうものの、そうした論争の存在をまったく知らずに独立発生と決めつけることは、学者としてはほとんど初歩的なミスである。

 また、仮に独立発生であるとしても、仏教伝来後、大規模な文化交流を進めた中国とインドの文献を、古代文化をそのまま伝えるものとして使用している南方の文献操作の手つきはまったく心許(こころもと)ないものである。たとえば、中国でも「鼎の足のごとし」、インドでも「鼎の足のごとし」と形容されているならば、まずそれらが同じ文献もしくはいい伝えに基づくものではないかと疑うのが当然であろう。そうした手続きを行なわずに独立に発生、発展したのに同じ星座があるなどと即座に断定してしまう南方の態度は、牽強付会(けんきょうふかい)の一語に尽きる。

 結局、この論文は若書きであって、学問的成果には乏しい代物であるといわざるを得ないのだが、我々の興味はむしろ、南方がなぜこれほどまでに強引な論旨に固執したかということにある。準備不足の知識で強引な論を組み立てながら、南方はどのような自説を示そうとしているのか。答を先に提示しておきたい。南方が古代中国・インド間の影響関係を切り捨ててまで主張したかったのは、畢境(ひっきょう)、人間の認識におけるパターン性であったと。「あまり明るさの違わない星々が、一目でそれとわかるはっきりした輪郭を持って位置している」ために古代の中国人もインド人も同じ事物でそれを形容したのだと、南方はいうのである。

 人間の想像力には限界があり、したがってまったく異質な民族の中にも類似の文化現象が起こる。この普遍主義的な考え方は、実は土宜法龍宛の南方の書簡に頻繁に現われてくるモチーフである。たとえば、中国古代の空想的地誌『山海経』には、アメリカ大陸に生息する動物を予言したかのように見えるものがある。また、メキシコには中国のものとほとんど同様の十二支が存在し、竜の部分には形態的にも似たとかげが挙げられているという。こうした例を示しながら、南方は「これにて、人間の想像の区域に大抵限りあり、材料に定数あることを知るべし」と結論づける。

 ある意味で構造主義的といえるこの見方を、熊楠はおそらく少年時から親しんだ百科全書的著作から得たのではなかったろうか。ロンドン時代までに南方が読みこなしていた『酉陽雑俎』や『和漢三才図会』は、それらが編集された時代、つまり、九世紀中国や十七世紀東アジアの知識の総体(エピステーメー)を網羅したものである。南方はそのような著作から人間の想像力が文化事象同士の連関として生成することを学んでおり、それを星座や十二支に応用しようとした、と思われるのである。

 「極東の星座」においては、南方はそうした自らの論点に固執するあまり、異文化間の影響関係を切り捨てるという失敗を演じてしまったわけだが、おそらく彼はこの後、その過ちをかなり自覚していたと想像される。土宜法龍宛書簡の中で中国とインドの星座が独立発生かどうかという自信なげな質問をしていることはその一つの証拠であり、またそれ以上に、この後の南方の英文論攷が、「さまよえるユダヤ人」や「マンドレイク論」のように異文化間の影響関係の分析を主とするものへと移行していることも、処女作における失敗の反省を背景としていると考えてよいのではないだろうか。

 結局、「極東の星座」以後、南方は文化の普遍性と共に個々の現象の伝播の問題を強く意識するようになり、さらにこの二つの方法論を組み合わせた幅広い思想体系を形づくっていったのであった。 〔松居 竜五〕

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蜂のフォークロアに関する連作論文

Some Oriental Beliefs about Bees and Wasps, NATURE, 1894.5.10 / Chinese Theories of the Origin of Amber, NATURE, 1895.1.24 / Notes on the Bugonia-Superstitions-The Occurence of Eristalis Tenax in India, NATURE, 1898.1.2

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 南方のもっとも早い時期のフォークロア研究と考えられるものに、『ネイチャー』誌への第三作「蜂に関する東洋人の諸信」にはじまる論攷群がある。ロシアの貴族オステン=サッケンの問いに答えた一八九四年の『ネイチャー』誌への投稿に端を発したこの研究は、サッケン宛の書簡や『ネイチャー』への続稿の中で補完され、さらに、新たな問題へと派生していく。その過程で南方は、和漢の博物学書を総動員し、中国、日本、インドにおける蜂、さらには昆虫に関するさまざまな伝承についての知識を開陳することになった。残念ながら、現在では南方のサッケン宛書簡が失われているため、議論の全貌を知ることはできなくなってしまっているが、この研究が、その総体として南方フォークロア学の最初の大きな成果であることは疑いがない。

 まずは、オステン=サッケンとのやりとりから、概要をたどっていこう。外交官としての仕事のかたわら昆虫学の研究を続けていたアマチュア学者のサッケンは、一八九四年の『ネイチャー』に一通の質問状を送っている。この質問状は、「旧約聖書の中には、獅子の死骸から蜜蜂が生じたという話が入っており、さらに同様に牛から蜜蜂が生まれるという話がアラビアにもある。おそらくこれはブンブンを蜜蜂ととり違えたものではないか」という持論を著書の中で展開していた彼が、その補遺として東洋の蜂のフォークロアに関する知識を求めたものであった。

 これに対する南方の回答が、五月十日付『ネイチャー』に載った「蜂に関する東洋人の諸信」Some Oriental Beliefs about Bees and Wasps である。ここで南方は、他の虫の幼虫をさらってきては「自分に似よ」と呪文をかけてしまうジガバチ(似我蜂)の話や、一本足が木につながっていて飛び立つことのできない蜂の伝承、きのこから蜂が生まれると信じられていたことや、蜂を焼くと琥珀(こはく)ができるといういい伝え、蜂が連なってできた馬の尾などといった奇譚を、『酉陽雑俎』、『本草綱目』、『五雑組』などから引っ張り出して解説する。なかでも、「針のない蜂」についての『五雑組』の話は、ブンブンが蜜蜂とまちがえられた例として、オステン=サッケンの関心を引いたようである。

 これをきっかけとして、南方とサッケンは手紙のやりとりを開始するようになる。残念ながらこの部分ははっきりしないところが多いのだが、どうやら南方は、中国や日本には獣の死骸から蜜蜂が生まれたという伝承は存在しないこと、そして蜜蜂とブンブンは一般には明確に区別されていたことを主張したらしい。その意味では、このやりとりは、共同研究としてしっかりと噛み合ったものではなかったという評価もできよう。結局はサッケンの説自体は、南方の論証によって反駁(はんばく)された訳でもなく、また展開された訳でもなかった。

 しかし、南方にとっては、こうした東洋のフォークロアに注意深く耳を傾けてくれる研究者が存在するのだという発見と、そのしかるべき研究者に対して自分が幼少時から親しんできた和漢の博物学書について思う存分語ることができるという喜びは、何物にも代えがたいものだったはずである。昆虫学とフォークロアの二つの領域にまたがる関心を持っていたサッケンは、その意味で、南方の民俗学研究への第一歩を導いた人物だったということができる。

 この共同研究の持つそうした重要性は、南方の思考のその後の流れを追ってみればよく理解できることだろう。たとえば、翌一八九五年の『ネイチャー』に、南方は「琥珀の起源についての中国人の説」"Chinese Theories of the Origins of Amber" と題する続稿を送って、前作の中の、蜂を焼くと琥珀ができるという俗信についての論をさらに展開しているが、この論文は初期の南方の学問的方法論がよく表われていて興味深いものである。ここでは、中国には琥珀の起源説として蜂を焼くことでできるという説(これはよく琥珀の中に蜂の死骸が閉じ込められていることに由来する)と、なんらかの樹脂が地中で化学的に変化するという説の二つがあり、議論されていたことが取り上げられる。そして、李時珍の『本草綱目』にいたって、松脂が地中で化学変化を起こして琥珀になるが、その際に蜂などの昆虫の死骸がそこに閉じ込められるという解釈が出されるようになったことを南方は指摘するのである。

 このように、琥珀の起源をめぐって俗信と科学的な解釈が微妙に触れ合っているという指摘は、フォークロアと博物学を融合させようとした南方の学問の根本的な態度をよく示している。琥珀の中の蜂について人々が想像力をめぐらした軌跡を丹念にたどる、という手法はこの後「神跡考」「燕石考」といった代表作をはじめ、さまざまな論攷の中でさらに展開されていくのである。

 オステン=サッケンとのやりとりにはじまり、試行錯誤の中でそうした方法へとたどりついたこの蜂に関する連作研究は、その意味で南方学の誕生の瞬間の記録となっているとさえいいうるであろう。 〔松居 竜五〕

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拇印考

The Antiquity of the "Finger-print" Method, NATURE, 1894.12.27 / 1895.1.17 / 1896.2.6

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 南方熊楠のロンドン時代の英文論文のほとんどが誌上での論争の中で生み出されたものであることについては、すでに多くの指摘がある。『ネイチャー』の読者投稿欄や、情報交換のための雑誌である『ノーツ・アンド・クエリーズ』での公開討論を、熊楠は自分の論文の発表の場を得るための手段として大いに利用したのであった。それは、日本からアメリカ大陸を経てふらりとロンドンにやって来た東洋人の一青年が、学界において自分の意見を発表していくためには、もっとも手近な道だったということができよう。

 しかも、当時のヨーロッパの東洋に関する知識には、まだかなり手薄なところがあり、文献的裏づけのある確実な情報が求められていた。そこに、和漢の博物学を骨の髄まで身につけた熊楠のような人物が参入してくるのである。のちに熊楠は、自分のロンドンでの仕事は、「東洋にも……科学のありし」(「履歴書」)ことを紹介することにあったのだとしているが、彼がそうした仕事をなし得るためのおあつらえ向きの情況が整っていたといってよいだろう。

 そのような東洋の知識の紹介は、中国とインドの比較によって星座というシステムを論じようとした処女作「極東の星座」にも見られるものだし、第二作の「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」においては、中国にはすでに九世紀にダーウィンと同じ発見をした人物がいたという主張として前面に押し出されている。さらに、中国では西洋より古くから、「宵の明星」と「明の明星」とは同じ金星が違う方角に現われたものだという認識を持っていたことを紹介した「宵星(ヘスパー)と暁星(フォスファー)」なども同様の論文として挙げることができるだろう。

 しかし、おそらくこうした熊楠の意図がもっとも鮮やかに実現されているのは、一八九四年十二月に発表された「拇印考」においてではないだろうか。この論文で南方は、拇印を身分証明のために用いることにおいては、東洋は西洋にはるかに先んじていたことを明らかにしたのである。

 まず、熊楠の登場にいたるまでの、この件に関する議論の経過を見ておこう。一八九四年九月付の『十九世紀』誌には、スピアマンなる人物の投稿が載っており、拇印制度がもともと中国で発明されたものであることに言及している。これに対して、同年十一月の『ネイチャー』において、ウィリアム・ハーシェル卿が反論、拇印を身分証明に用いることができるというのは、自分の発見であることを強く主張したのである。この時のハーシェルの口調は、たとえば次のようなものである。

  この機会に、最近の人体測定学の論文(『十九世紀』、一八九四年九月)に記された「拇印はもともと中国で発明された」とする主張を、私の知るかぎりではまったく根拠のないものとして批判しておきたい。私は、このことを少しでも裏付けるどんな証拠にも、いまだかつて出会ったことがない。

 そして、ハーシェルは、自分がインド洋を航海中の船において船員と船客全員の拇印をとったことが、中国に伝わったのではないかと推測し、次のように結論づけるのである。「私は、中国起源の古さについての満足な証拠が得られないかぎりは、中国人の肩を持つあやふやな主張には断固として反対するつもりである」。

 明らかに俗説と思われるこのハーシェルの主張は、しかし当時、犯罪に関する国会報告にまで肯定的に取り入れられていたようである。そうした事情を考えれば、なるほど「中国人の肩を持つ」べく登場してきた熊楠の役割も、けっして小さなものではなかったことが理解されてくるのではないだろうか。

 実際、「拇印制度の古さについて」と題された、一八九四年十二月二十七日付『ネイチャー』掲載論文の冒頭の文章は、自信に満ちた態度でハーシェルを駁論(ばくろん)する熊楠の意気込みが伝わってくるような種類のものである。

 ウィリアム・ハーシェル卿は、『ネイチャー』十一月二十二日号七七頁に載った書簡の中で、最初に拇印制度を発明したのは中国人であるとする『十九世紀』誌二一一号三六五頁中の説に対する異議を表明している。スピアマン氏が何に基づいてこの説を立てたのかは私にはわからないが、中国人発明説を裏付けると思われるいくつかの文献からの資料は蒐集してある。

 このような宣言と共に、熊楠はまず江戸時代に「爪印」と呼ばれる制度が広く日本国内に流通していたこと、またこの「爪印」より重い意味を持つ署名として「血判」も用いられていたことを取り上げる。そして、さらに、八世紀日本の大宝律令やそのモデルたる七世紀唐の永徴律令にも離婚の文書に拇印を押すべきであるという規定のあること、十二世紀の『水滸伝(すいこでん)』中にも手形を押したという記事が見られることと、東洋における拇印制度の歴史を裏づける資料を列挙していくのである。

 では、なぜ東洋ではこのような制度が発展していたのか。そのことについて、熊楠は次のように推論している。

 結局、日本、中国、インドという三つの異なる国で、手形は身元証明の手段として古くから用いられていた。インドでは歯型さえもが広く流通していて、アショカ王の正式の継承者であるラジャはにせの手紙に王の歯型を発見した時、ためらわずに自分の目を刳(く)り抜いたという。こうしたことを考えると、わずかな例外を除いては「手書きの署名」という方法に縁がなかった古代の国家にあって、ある程度限定された数の人々の身元証明として、これらの方法が考案されたことはまったく自然ななりゆきであった。

 こうして、東洋と西洋の身分証明に関する考え方の違いへと、「拇印考」は読者を導いていく。結局、人間がいかに自らの身体をとらえてきたかという、豊饒な問題意識へと、熊楠の「拇印考」はつながっていくのである。

 熊楠によってはっきりと駁論されたハーシェル卿の説からもわかるように、当時のヨーロッパにおいては拇印による身分証明という考えはまだまだ新しいものであった。『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を繙いてみても、拇印(Finger-print)の項目が現われるのは、ようやく一九一〇年代の第十一版になってからのことである。そして、その第十一版の記事の中には、名前こそ記されていないものの、明らかに熊楠の議論に影響されたと思われるような拇印の東洋起源説が掲げられているのである。 〔松居 竜五〕

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マンドレイク論

The Mandrake, NATURE 1895.4.25 / 1896.8.13

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 マンドレイク、あるいはマンドラゴラ。人の形をし、必殺の毒薬あるいは媚薬として用いられるというこのヨーロッパの代表的な伝説の植物の比較文化史的考察に南方が挑んだのが、一八九五年に始まる『ネイチャー』への投稿論文、"The Mandrake" であった。

 およそ、あの晦渋(かいじゅう)な南方の邦文の論攷からは想像もつかないことだが、この投稿における論点はただ一つであり、その焦点へとすべての文章がまったく無駄なく収斂(しゅうれん)していく。つまり、中国のいくつかの文献に記された「商陸」という植物に関する俗信が、西洋におけるマンドレイクのそれと深い関連を持っており、おそらくは伝播による直接の影響関係を互いに受けながら形成されたということ。『ネイチャー』に発表された三本の論文は、畢境、この説の紹介と、その論拠の説明に尽きるのである。

 まず、一八九五年四月二十五日号に掲載された短文では、『五雑組』を引きながら商陸についてマンドレイクとそっくりな描写がされていることが紹介されている。すなわち、これらの植物は、ともに死体の上に生え、人間の形をしており、人語を解し、毒と薬の両方として用いられた。これほどの類似点を持つ伝承がはたして偶然に生まれたといえるだろうか。

 さらに一年あまりのちの一八九六年八月十三日号に載せられた投稿はかなりの長文で、実質的に「マンドレイク論」の中核をなしている。ここで南方は、『本草経』にはじまる中国の博物学書と、フォーカードの『植物の伝承・神話・歌謡』のような西洋の知識をうまくつなぎながら、商陸とマンドレイクの伝承が細部に至るまで一致していることを丹念に証そうとする。そして、ここまできて、結論としてやっと熊楠は次のように示唆しているのである。

 以上のようにマンドレイク譚と商陸譚の間の多くの類似点を見てきたが、これらは二つの植物にまつわるフォークロアが、同一起源だとは言わないまでも、まったく関連なく普及したという可能性を否定するものだと言えるだろう。

 つまり、マンドレイクと商陸の話が文化伝播によって直接につながりながら形成されたはずであるという指摘。これは、南方が伝播による文化現象の交流をはじめてはっきりと示した言葉として、大いに注目されるべきものではないだろうか。

 私見によれば、南方のロンドン時代の文化理解には二つの筋道がある。一つは、「パターン認識論」とでもいうべきもので、人間の想像力が自然現象をとらえる時にどのようなパターンを示しているか、という問題に沿って、さまざまな文化を比較するというもの。そしてもう一つは、世界の文化が直接の伝播によって交流してきた軌跡をたどろうとするもので、これは「文化伝播論」とでも呼ぶべきものであろう。

 南方は最初、処女作「極東の星座」において、このうちのパターン認識の問題を古代インドと中国の星座を比較することによって論じたのだが、文献操作のまずさから完全な失敗作となってしまった。この事実については「極東の星座」の項目を参照されたいが、パターン認識論に持ち込もうとするあまり、南方は文化伝播の可能性を不用意に否定してしまったのである。

 おそらく、南方はこの時の自分の失敗が文献操作の甘さから文化交流の可能性を否定してしまったことから来るものであると、十分に意識していたと思われる。そうした反省の上に立って、彼はこの後英国博物館に通い、さまざまな文献を丹念に読みこなしながら「ロンドン抜書」と呼ばれる筆写を続けるようになり、その過程でユーラシア大陸内の文化伝播に対する鋭敏な目を養っていたのであった。

 マンドレイクと商陸の類似性の発見、および、それが文化伝播によるものであるという指摘は、こうした英国博物館での研鑽(けんさん)を抜きにしては考えられないものである。ここで、南方ははじめてユーラシア大陸を鳥瞰(ちょうかん)するような視点に立って、その大陸内を縦横にめぐる文化伝播の道筋をとらえようとしている。そしてその時、彼の目の前に浮上してきたのが、東西文明の結節点としての中央アジア世界であったということは、けっして偶然ではない。マンドレイク論の結末は、そのようにして、中央アジアへ、イスラム世界へと向かっていくのである。

 古代のヨーロッパ人が人間の形をした人参についてのおぼろげな知識を持っていたこと、また中世の中国人が同じように迂遠ながらマンドレイクに関する認識を有していたということは注目に値する。この事実は、周密(一二三二〜一三〇八)の次の文章に、十分に明記されている。

回々教国の西数千里には土地の産物の中にきわめて有毒なものがあり、人参のように人の形をしている。これは『押不廬(ヤプル)』と呼ばれ、土中数丈(一丈は十尺)の深さに生ずる。もし人がその表皮を傷つければ、その毒が付着し、死にいたる。

 この文章を読んだ人には、これが明らかにヨゼフス(Josephus)とディオスコリデス(Dioscorides)の記録から導かれた文章であること、さらにこの「押不廬」が、まさしくアラビア語でマンドレイクを指す「イブル」そのものである、ということは指摘するまでもないかもしれない。

 このようにして、西洋のマンドレイク、中国の商陸を比較する南方の追跡は、「イブル」と呼ばれる植物についてのイスラム世界の伝承へとたどりついた。マンドレイク、イブル、商陸というそれぞれ西洋、中央アジア、中国の植物の伝承がほとんど一致する以上、これらはかつて一つのつながりとしてユーラシア大陸の東から西までを直接の伝播によって覆っていた俗信であったとしか思われない。その意味で、このイブルという植物はまさに「マンドレイク論」におけるミッシングリングだった。そして、そうした隠されたミッシングリングが眠る東西文化交流の結節点として、中央アジア世界は南方の視界の中に大きく浮上してきたのであった。 〔松居 竜五〕

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さまよえるユダヤ人

The Story of the "Wandering Jew", NATURE, 1895.11.28 The Wandering Jew, NOTES AND QUERIES, 1899.8.12 / 1899.8.26 / 1900.4.28

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 「さまよえるユダヤ人」は、「マンドレイク論」と並ぶロンドン時代の南方の、文化伝播に関する代表的な論攷である。当初、一八九五年の『ネイチャー』に短い報告として掲載されたものが、一八九九年にいたって『N&Q(ノーツ・アンド・クエリーズ)』誌上で詳細に展開されたのだが、そのことは『ネイチャー』から『N&Q』へという熊楠の発表先の移行を象徴しているともいえよう。この時の状況を想像すれば、おそらく、最初の報告以降、この題材に関する資料を集めていた熊楠が、帰国にあたって発表先を『N&Q』に求めたというところだろうか。

 さて、マンドレイクの伝承の場合と同じく、この「さまよえるユダヤ人」の物語も、ヨーロッパに深く根づいたものであった。話の内容は、アハスエルスというユダヤ人の靴屋が、ゴルゴダの刑場に向かうイエス・キリストを冷たく追い払ったために、罰として永久に地上をさまようことになる、というごく単純なものである。熊楠の説明を少し引用しておこう。

 耶蘇刑せらるるとき、履工の門に息む。履工、腹黒くて、「耶蘇、汝、今刑せられなば、永久に息を得べし。何を苦しんで少息するか」と罵る。耶蘇怒って、「われは刑せられて永久に息まん。汝は過言の咎で、永久息み得じ」という。それより、この靴工、世間を奔走して少時も息を得ず、常に罪を悔いて死に得ぬという。(柳田国男宛書簡、一九一四年五月十日付)

 十六世紀頃からの存在が確認されているこの説話は、十九世紀になると、反ユダヤ主義の勃興ともあいまってヨーロッパ全土に普及した。死ぬこともできずに地上をさまようというその悲哀をテーマにした詩がさかんに作られ、また十九世紀半ばには、ウージェーヌ・シューの『さまよえるユダヤ人』が、新聞小説のはしりとしてフランスで大評判になった。母国を持たずにヨーロッパに居着いているユダヤ人の祖先が、実はキリストによってさまようことを義務づけられた存在である、といういかにももっともらしい解釈は、いわば「黒い噂」として大衆の心をくすぐったのであろう。

 熊楠の論攷「さまよえるユダヤ人」は、こうしたヨーロッパの説話が、実は仏典に起源を持つことを論証したものである。一八九六年の『ネイチャー』の記事は、この説話に関連して思い起こされる話として、仏陀(ぶっだ)によって地上をさまようことを義務づけられた賓頭廬(びんずる)の話を引用しただけであるが、一八九九年の『N&Q』掲載の論文においては、これが伝播であることについての論証と、さらに東アジアで賓頭廬がどのようにとらえられているかという紹介が行なわれている。その『N&Q』版の冒頭での、熊楠の自信に満ちた宣言を見てみよう。

 古代インドの仏教説話と中世・近世ヨーロッパの「さまよえるユダヤ人」との間に存在する緊密な関係について、私が世人の関心を引こうと試みてからすでに三年以上の月日が流れた。この件に関して、私は、日本のすぐれたパーリ語学者である村山清作氏と協力しながら最近まで進めてきた追加調査の結果、ほとんどの民俗学者が今まで言及しなかった多くの題材を得ることができた。

 ここで協力者として記されている村山清作については、土宜法龍の友人であったこと以外には、はっきりしたことはわかっていない。この村山清作がセイロンで調査したらしい『請賓頭廬経(しょうびんずるきょう)』は、『N&Q』版「さまよえるユダヤ人」の中核をなす資料だが、仏典の定本として用いられる『大正新脩大蔵経』の版とは大幅に異なっており、現在では扱いの困難な文献となっている。

 ともあれ、この『請賓頭廬経』に加え、『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』、『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』などを引きながら、熊楠は「さまよえるユダヤ人」の原型たる賓頭廬の物語を紹介する。それによると、基本的にはこの話は、仏陀の高弟であった賓頭廬は、無断で法力を用いてしまったために、仏陀の怒りを買う。そして、涅槃(ねはん)にいたることを禁じられたまま、永久に地上をさまようことになる、というものである。熊楠は、この賓頭廬と「さまよえるユダヤ人」との共通する点として、ともに永久に生きることを課せられたこと、教義を保護する役目を与えられたこと、みすぼらしいが法力を使うこと、など細部にわたって列挙する。そして、もちろん賓頭廬の話と「さまよえるユダヤ人」には、異なる点もないわけではないが、ヨーロッパの中での「さまよえるユダヤ人」の説話にさえ、さまざまなヴァリエーションがあるではないか、と結論づけるのである。

 このようにして、熊楠はインドからヨーロッパにいたる説話伝播を立証し、賓頭廬像の転移を明らかにしようとした。そして彼は、併せてこの論攷の中で『竹取物語』、『和漢三才図会』、そして十五世紀の『鷺烏(さぎからす)合戦物語』などの日本の文献に現われる賓頭廬についても筆を伸ばしている。

 結局、「マンドレイク論」にも増して、この「さまよえるユダヤ人」は、文化伝播に関する熊楠の認識を大きく前進させたことであろう。古代インドの阿羅漢賓頭廬、それが西に行ってさまよえるユダヤ人となり、東に行って法力のすぐれた人物の代名詞として用いられる。そうした、空間と時間の大きな隔たりを越えてあらわれる文化現象の力と、それを支えてきたユーラシア大陸の交通の網の目に、熊楠の目は急速に見開かれていったのであった。のちのシンデレラ譚に関する研究、そして猫一匹によって大金持ちになった話の研究など、熊楠の伝播論の最初の形が、ここにはあるのだ。

 だが、それにしても、仏陀を怒らせたかと思えば、中世の日本の物語にひょっこり登場したり、ヨーロッパ各地を席巻したり。この賓頭廬というみすぼらしい老人、さすがに不死だけあって、なかなかのものではないか。 〔松居 竜五〕

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ロンドン抜書(1895-1900)

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 南方熊楠という人物は、いかにして南方熊楠となり得たのか。

 誰もが一度は抱くこの疑問に答えるための鍵を探すとすれば、それは、彼が英国博物館でなしたおびただしい量の筆写、いわゆる「ロンドン抜書」の中を措いてほかはない。南方熊楠が、「南方熊楠的」としか形容しえないような巨大な博識と、幅広い文明観を持つに至ったのは、実に五年の年月を費やし、全五十二巻におよぶこの抜書きの作業を通してのことであった。それほどに、若き日の熊楠はこの作業を完成させるために自らの情熱のありったけをかけた。そして、その結果、「ロンドン抜書」は南方熊楠という思想家が誕生するすべての過程を閉じ籠めた記録として、今日、百年後の我々の前に残されることになったのである。

 熊楠が英国博物館の円形ドーム形の閲覧室で「ロンドン抜書」の最初のページに筆を下ろしたのは、一八九五年四月二日のことだった。この時、熊楠満二十七歳。アメリカ放浪を終えてロンドンに到着してから、二年半が経過していた。すでに『ネイチャー』誌にいくつかの論文を寄稿し、盟友土宜法龍との出会いにより独自の思想を模索しはじめていた彼にとって、古今東西の百五十万冊近くにおよぶ文献を備えた閲覧室は、そうした己れの学問の可能性を大きく広げてくれる場であった。

 英国博物館閲覧室といえば、ほんの十数年も前まではマルクスが『資本論』の構想を練るために通いつめていた場所である。熊楠のいた頃は、晩年のクロポトキンが、何食わぬ顔で座っていたにちがいない。疑いもなく当時、もっとも多くの学問的情報を詰め込んだこの場所で、熊楠の書写三昧(ざんまい)の日々がはじまったのである。その研鑽のようすは、当時の日記の中に、次のようにごく簡単に記されている。一八九五年の、「ロンドン抜書」の最初の巻を細かい文字で埋めていた頃のものである。

 五月二十日、二時過より書籍室、七時迄。

 五月二十一日、二時より七時迄書籍室。

 五月二十二日、十一時十五分より七時迄読書室。

 五月二十三日、一時四十五分より七時迄書籍室。

 五月二十四日、十二時二十五分より書籍室、六時四十五分迄。

 毎日、およそ五時間から七時間ほど博物館で過ごしているが、おそらくその時間の多くが抜書に費やされたのであろう。

 また、この年の日記の見返しの部分には、自らを励ますさまざまな言葉が記されており、当時の熊楠が以前にも増して学問への決意を固めたことを示している。たとえば、最初に寧越という中国の人物の故事として、三十年間勉学に励めば学者として立てるといわれた彼が、人が休むところを休まなければ十五年で可能だ、と答えてそれを実行した、という話が引かれている。もちろん、自分もまた人が休むところを休まずに、一日も早く学問を成就させたいとの意であろう。さらに、次のような文句が続く。

 大節約のこと。

 日夜一刻も勇気なくては成ぬものなり。

 ゲスネルの如くなるべし。

 大事を思立しもの他にかまふなかれ。

 学問と決死すべし。

 これらの文句が、一八九五年のいつごろ書きつけられたものかははっきりしないが、「ロンドン抜書」を開始するにあたって彼がこうした学問への強い意志を抱いていたことにはまちがいはあるまい。つまり、「ロンドン抜書」とは、そのように異邦にあって自分が成し遂げるべき「大事」として、構想されたものだったのである。この三年半後の一八九八年十二月の英国博物館からの追放事件の際には、彼は自分の英国滞在の目的は、ひとえに博物館での作業にあるとしているが、その作業が「ロンドン抜書」の作成を指していることは明らかである。

 そうした成立の事情からいえば、「ロンドン抜書」は、たんに熊楠の興味のおもむくままに閲覧室の所蔵書を書き抜いたものではなく、ある一定の構想を有していると考えるのが妥当ではないだろうか。だが、一見しただけではよくいって稀覯書(きこうしょ)、悪くいえば雑本の山とすら見えるようなこの筆写の意味はどこにあるのか。

 そう考えながら「抜書」の全体を見渡した時、まず気づくのは、地誌、旅行記の多さである。とりわけ、中央アジアやアフリカ、新大陸、世界各地の海洋などを旅行した冒険家たちが記した未知の世界の記録が、そこには所狭しと連ねられている。マルコ・ポーロのシルク・ロードをたどる旅にはじまり、フランスの商人タヴェルニエのアジア各地への旅行、マゼランの世界一周航海、ロシア人プルジェヴァリスキーの中央アジアから中国に至る探険旅行。さらに、今では忘れられてしまった無数の冒険家の足跡を記した書物を、熊楠は異様とも思えるほどの関心を見せながら筆写を行なっている。

 そして驚くべきことは、「ロンドン抜書」五十二巻には、こうした旅行記と、現地での観察者による地誌が世界を網羅する形で取り入れられているということである。ヨーロッパ、アフリカ、中東、東南アジア、極東、新大陸。およそ世界中からの資料がここには集められている。つまり、「ロンドン抜書」は、実にさまざまな観察者による世界の民俗風習の大事典となっているのだ。南方の学問が、柳田国男の「一国民俗学」とちがう「世界民俗学」を志すものであったことはすでに多くの指摘があるが、「ロンドン抜書」こそは、その世界民俗学の情報の核であったということができるだろう。

 しかも、すでに北米から中米への旅行を経験し、さらに中央アジアへ向かおうと夢見ていた熊楠にとっては、交通手段の乏しかった時代に大旅行を行なった過去の冒険家たちの体験記は、こうした自らの夢の実現としてことさら強い印象をともなっていたにちがいない。「学問と決死すべし」、そんな気持ちを持ちながら、熊楠はそうした無数の大旅行者と共に、薄暗いドーム型図書館の片隅で地上を踏破していたのである。

 こうして、「ロンドン抜書」は、一九〇〇年九月の熊楠の帰国の直前まで続けられ、五十二巻一万ページ以上に達しようとしていた。そして、その中に筆写されたさまざまな民俗学的情報は、熊楠の頭の中で縦横無尽につながり、論文・エッセーという形で南方式の奔放な織物をいくつもなしていくことになるのである。

 つまりは、若き日の南方熊楠の学問的葛藤のすべてが刻み込まれた「ロンドン抜書」は、彼の著作の源泉であった。そして熊楠の思考の素材としてのこのノートは、ほぼ当時そのままの姿で田辺に残され、いわば原石のようにして我々の前に投げ出されている。その意味においては、自らの死後にまでこの写本が残されることを望んだ熊楠の意思は、幸いにして少なくとも決定的に裏切られてはいないのである。

  小生死んだらほんに無用の長物なり。幸いに眼つぶれなんだら、小生老耄後、誰か銭出しくれ、右の写本を全訳して、一本、内閣辺へのこしおくことに世話しくれる人なきか。(柳田国男宛書簡、一九一四年六月二日付)

 叫びとも思えるこの熊楠の言葉は、今こそ、はじめてその真意を理解されつつある。百年の時をへだてて、やっと「ロンドン抜書」は読み解かれようとしているのである。 〔松居 竜五〕

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英国博物館殴打事件関連「陳状書」(一八九八年、原文未公刊、『熊楠漫筆』に翻訳)

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 一八九七年から一八九八年にかけての英人殴打事件と博物館からの永久追放は、南方の生涯の中でもとりわけ伝説めいた光芒(こうぼう)を放っている。「午後、博物館に入りざま、毛唐一人ぶちのめす」と日記に書かれた一八九七年十一月七日の事件。そして「夕館にて女共声高き故、之を止んことを乞へども不聴。…予追出さる」という、最終的に熊楠の博物館追放の原因となった一八九八年十二月七日の騒動。博物館でのこれら一連の行動は、しばしば制度にとらわれない野性の人として、そしてまた果敢に西洋人に立ち向かう気骨の士としての熊楠像を象徴するものとして、人々の喝采を受けてきたのであった。

 こうした見方そのものはまったくの誤りとはいえないのだが、しかし、それだけではいささか子供じみた解釈の域を出ないこともまた事実であろう。この時期の熊楠は、博物館内外でトルコ人と喧嘩をしたり、老婆を突き飛ばして入牢したりという事件を頻繁に起こしており、かなり精神的に荒れた情況にあったことが察せられるのである。

 一八九八年の博物館追放事件の際に書かれた英文タイプ九枚にわたる文書、「陳状書」は、当時の熊楠のそんな激しい感情の揺れを生々しく伝える資料である。そこには、アメリカ、キューバ、ロンドンにおいて十余年の間続けてきた自らの研究に対する矜持(きょうじ)と、それにもかかわらず安定した地位を得られないことに対する不安・不満が渦巻いていて、けっして「超人」などではない人間南方熊楠の心の葛藤が如実に表われている。直接的には博物館に自分の行動の正当性を主張するために書かれたこの文書の中で、熊楠は己れの海外生活が何であったのかということを自問しているようにも見えるのである。

 本文は、まず次のような宣言と共にはじまる。

 日本人として、和歌山という取るに足りぬ町の商人の息子に生まれた私は、祖国の嘆かわしい情況に心を痛めてまいりました。そこでは、学問にまつわるすべての関心が、「何の役に立つのか」ということにしぼられ、学者としてのゴールは役職を得るということでしかなかったのです。そこで私は、一八八六年に東京大学を退学し、アメリカ合衆国に渡ったのですが、そこでも同様のことが横行しているのを見て、大学や学位といったものに見切りをつける決心をしたのでした。

 この独学者としての宣言にはじまり、熊楠は英国博物館における自らの研究と寄与について述べはじめる。「日本に社会学がないのは残念なことだ」というハーバート・スペンサーの言葉に触発されて、社会学の研究を志したこと。それには博物館での現在の筆写作業が不可欠なものであり、また自分が英国に滞在しているのはひとえにその完成のためだけであること。さらに、自分の側からも博物館に対して和漢の稀覯書を寄贈するなど、さまざまな形で貢献してきたこと。熊楠は、英国博物館と自分のつながりの深さについて切々と強調するのである。

 しかし、博物館の他の利用者の中には、東洋人である熊楠に対して抜きがたい偏見を持つ者もいた、と熊楠はようやく本題に入る。しつこくつきまとわれていやがらせを受けたり、「英国国歌をピジョン・イングリッシュに直してみろ」とか、「妾は何人いるのか」、さらには「豚や猫や鼠は食うのか」と聞かれたり。そうした情況の中で、愛用のシルクハットをインクで汚された熊楠が、ついにたまりかねて「見せしめのために」、一八九七年十一月にダニエルズというもっとも陰険だった男をぶちのめした、というのが彼のいい分である。だが…。

 熊楠はそのように語るのだが、残念ながら我々は彼の言葉をすべてそのままで認めることはできない。たとえば、殴打事件の翌年二月にダニエルズと口論したという事件を取ってみても、この時のきっかけとなった自分の振る舞いについて、かなりの脚色が見られる。つまり、熊楠は「陳状書」においては、自分は隣を通りがかった時にたまたまくしゃみをしただけなのに、ダニエルズが喧嘩をふっかけて来たと主張しているのだが、当日の日記には自ら「博物館にて前年打ちやりし奴に唾はきかけ、同人予の席へ詰りに来る」と、意図的な行為であったことがはっきりと記されているのである。この後、自分だけを謝らせた博物館の裁定を熊楠はしつこく批判するが、博物館の方としては、行きがかりからいって当然の結論を出したまでであろう。

 そういう訳で、一八九八年十二月の追放事件にしても、「陳状書」中の熊楠の筆は割り引いて考えられなければならない。熊楠によれば、この日博物館閲覧室でいつものように勉強していた彼は、連れ立って入ってきた女性たちの嬌声によって邪魔をされた。そこで「博物館の規則に従って」注意をしたのだが聞き入れられず、やむをえず監督官に訴えたところ、逆に追い出されてしまったということになる。

 しかしながら、やはりこの日付の日記を読むと、熊楠が昼にイタリア人と共に酒を飲み、それから博物館に入っていることがわかるのである。また、陳状書に記された「私は小声で話すことができないのです」という言葉は、どうやら熊楠が大声で怒鳴りつけたことを暗示しているようである。そうした情況を考えると、衆人環視のドーム形閲覧室で、酒に酔った熊楠が大声で女性にからんでいる姿が想像され、その怪しげな東洋人を監督官が追い出したとしても、しごく当然のように思われてくる。

 結局、この事件を受けた理事会では、後見人であるダグラスの監視の下で、東洋書籍部に限って熊楠の利用を認めるという裁定が下された。そしてこれを不服とした熊楠は自ら博物館を去って行くことになる。陳状書から読み取れるものから客観的に判断すれば、不安定な生活と学問的情熱の中で精神的に高揚した熊楠が、自分の感情を抑えきれなくなった末の悲劇、ということにでもなろうか。 〔松居 竜五〕

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神跡考

Footprints of Gods & c., NOTES AND QUERIES, 1900.9.1 / 1900.9.22 / 1900.10.27 / 1903.5.9

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 一九〇〇年から一九〇三年にかけて『ノーツ・アンド・クエリーズ』誌に掲載された「神跡考」は、ロンドン時代の南方熊楠の総決算としての意義を持つ長編論文である。英国博物館で続けてきた「ロンドン抜書」の成果を駆使して世界各国の民俗資料を惜し気もなく投入したこの論攷には、当時の熊楠が抱いていた比較民俗学の構想のスケールの大きさがよく表わされている。

 熊楠自身、「神跡考」を自らの代表作として考えていたことは、たとえば柳田国男に向けて語られた次のような自信に満ちた言葉からも明らかであろう。

 貴下は例せば小生の『足跡考』を見て外国人の東洋研究者が一人多くなれりと思わるるが、小生は日本人の世界研究者が特に一人出でしことと思う。(柳田国男宛書簡、一九一一年十月十七日付)

 これは、主な論攷を英語でのみ発表し続けた熊楠の姿勢に対する、柳田国男の「後人の眼より見れば外国人の東洋研究者が一人多かりしと少しも択ぶところなし」(南方宛柳田書簡、一九一一年十月四日付)という批判を受けたものであるが、豪語といえば豪語、熊楠の並々ならぬ自信のほどを見ることができる言葉ではないか。それにしても、「日本人の世界研究者」の誕生とは。では、彼がそこまでいうその「神跡考」という論文はどのようなものであったのか。

 まず、この論攷はその発表の時期からして象徴的なものを持っている。一八九九年に『ノーツ・アンド・クエリーズ』誌上で展開されていた、記念としての足形や聖なる存在(神や聖人)の足跡に関する議論に興味を持った熊楠は、一九〇〇年の五月から七月頃にかけ論文を作成、七月五日に投函した。この「神跡考」の第一回分は同年九月一日、『ノーツ・アンド・クエリーズ』の誌面を飾ることになったのだが、実はこの日こそは、熊楠がまさにリヴァプールの港から丹波丸に乗って足かけ十五年を経て帰国の途につこうとしていた運命の一日だったのである。当日の日記には『ノーツ・アンド・クエリーズ』に関する言及がないことから見て、おそらく熊楠が掲載号を手にしたのは数ヵ月後、和歌山に到着してからのことであったろう。

 そのような因縁とともに、内容的にもこの作品には、熊楠が自らの海外放浪に関する思いを吐露しているという印象を感じさせずにはいないところがある。冒頭から見ていこう。

 北アメリカのグレート・パイプストーン・クォーリーの隅には、「偉大な精霊」の残した足跡が岩に刻み込まれているが、その形はまるで巨鳥の痕跡のようである。

 北米大陸の広大な大地の一角に、巨鳥の舞い降りたような痕が残されているというイメージ。その壮大なイメージは、地球規模でこうした超自然的事物の痕跡に関する伝承を追うこの「神跡考」の試みの幕開けにぴったりである。そしてまた、ここで我々は熊楠の青年期の大旅行が、北米大陸からはじまったことを思い出させられることにもなろう。英国博物館を追われ、失意の中でついにロンドンを去ることを決意しつつあったこの時期の熊楠は、はじめてアメリカにたどり着いた十九歳の日のことを思い返そうとしているのではないのか。

 ここから、足跡をめぐる熊楠の論証は、古代メキシコ、ブラジルへと延び、大西洋を越えてフランス・ローマ・ギリシア、さらには古代エジプトからセイロン、太平洋諸島へと達する。それは、まさに地球儀をぐるりと一周させるような壮大な運動であるのだが、今は、その鳥瞰的(ちょうかんてき)な視線の移動が、熊楠自身の旅行の道程と方向的に一致していることに注目しておきたい。つまり、熊楠は自らの地球をめぐる大旅行の夢を、この論文に託しているように思われるのである。

 おそらく、後に熊楠が、自分は「日本人の世界研究者」であると柳田に語ったことの意味はそこにあるのだろう。つまり、自分はかつて、自らの足でもって世界を踏破するような気概を持ち、その意志のままロンドンにおいて地球規模での比較民俗学を志したのだ、という矜持(きょうじ)の念こそが、この言葉の背景にはあったはずなのである。 〔松居 竜五〕

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日本の発見

The Discovery of Japan, NATURE 1903.4.30

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 一九〇三年の『ネイチャー』誌に掲載された「日本の発見」は、熊楠の著作の中ではやや異質な部類に属するものである。英国からの帰国後、那智山中に籠もっていた熊楠が久々にロンドンまで送った長編の論文ということになるのだが、ここでは熊楠は珍しく日本と西洋の交流というテーマを真正面から扱い、しかも異文化間の衝突・交流に対しての自らの感情の昂(たか)ぶりを吐露している。一見不可解なほどマニアックなテーマが多く、しかもちょっと斜に構えた視点から語る熊楠の他の論文と比べると、この「日本の発見」は何とストレートなことか、と驚かされるのである。

 おそらく、そこには、実質上の帰国後第一作であるこの論文の中で、十余年にわたった欧米での生活を踏まえて日本人として何か書き残しておきたいという心理が働いていたと見てまちがいあるまい。考えてみれば、それまで熊楠はつねにロンドン圏内だけですべての学問活動を続けていたのであるから、熊野から地球を半周してロンドンの雑誌に文章を掲載するという真の意味での越境によってメッセージを発するのは、これがはじめてだったのだ。その時、西洋と日本の間を行き来した過去の人物のことが熊楠の胸を去来したとしても、何ら不思議なことではない。

 さて、表題の「日本の発見」とは、数か月前の『ネイチャー』誌に掲載された同名の書評の題をそのまま用いたものである。これは、日本の立教大学が出版したドイツ人ハンス・ハースによる『日本キリスト教史』の書評であり、かなり辛口に同書が新資料に乏しいことを批判している。その内容は今はあまり詳しく触れないが、我々にとってなによりも興味深いのは、実はイニシアルのみで記された評者の名前、F・V・Dではないだろうか。むろん、このイニシアルから想像されるのは英国における熊楠の第一の盟友、フレデリック・ヴィクター・ディキンズその人を措いてほかにはないのである。

 F・V・Dのイニシアルを持つ日本研究者はほかにそうたくさんはいそうもないから、かなりの確率でこの想像は当たっているように思われる。だとすると、西洋と日本の間の交流、そして対決を描いたこの論文は、生涯の親友に向けたメッセージという側面を持つことにもなるだろう。論文後半部で紹介される新井白石とシドティの友情に対する、いわば「熊楠らしくない」感傷的な思い入れも、そのことを前提とするならば納得できることになる。

 ともあれ、内容を見てみよう。熊楠はまず、日本についての最初の言及としてマルコ・ポーロの書を挙げる西洋的常識にゆさぶりをかけている。すなわち、十七世紀フランスの商人タヴェルニエを引きながら、古代の学者が「ジャバディ」としていた地名は、日本のことを指していたのではないか、とするのである。そこから、熊楠の筆は中世アラブ世界で日本の存在がよく知られていたし、またアラビア人が日本に来て帰化した例も多くあるという事実へと伸びていく。このあたりは、ともすればマルコ・ポーロのジパングから大航海時代を経て日本の発見、キリスト教の伝道教化へというイメージにおいてのみとらえられる西洋の日本観に対するアンチ・テーゼとも読みうるであろう。つまり、西洋に視点を置き、その視点からひたすら日本がどのようにして「発見」されたかという点にのみこだわる歴史観への懐疑である。

 そのような熊楠のメッセージは、結局のところ、論文後半部のシドティと新井白石の対話の部分に、集約されていく。ここでは、異文化に対して正面から対決し、そのことによって互いを理解しようとした例として、この二人の関係が描かれているのである。

 いうまでもなく、シドティは十八世紀禁教下の日本に単身乗り込んだイエズス会の宣教師である。捕えられ、獄に入れられた彼は、当代切っての学者にして官僚たる新井白石からさまざまに尋問を受ける。その過程で、あくまで真摯(しんし)なシドティの態度はその教義への恐れにもかかわらず日本人の心を打ったのであったと、熊楠は強調している。そして、さらに熊楠は、白石もまた、シドティの教義を批判しながらも、「しかし彼の人物にはまったく非凡なものがあり、私は彼のことを永久に忘れることができないだろう」と語ったことを紹介するのである。

 そうした記述を受けて、「日本の発見」は次のように結ばれている。

 このたった一人の孤独な伝導師の比類なき人徳が、いかに深い影響を日本人に残したかという点について回顧することは、今日のキリスト教徒にとっての、大きな喜びでありまた教訓なのではないだろうか。彼は、むしろ「南蛮」の呼称にこそふさわしい彼の名ばかりの同業者たちがかつて日本人に閉じさせてしまった扉を、その死後にいたって再び開かせることに成功したのである。

 実際、湯浅の『文会雑記』によれば、白石はしばしば次のように語ったという。シドティのすべてのふるまいは彼をして、聖人の五徳すらかの伝導師が日々唱えていたことと、何ら変わるところがないと思わせたのだと。中国の偉大な賢者たちの道に従う者がキリスト教徒に対して発したものとして、まったく前例のない賞賛の言葉である。

 シドティに対する共感があふれ出んばかりの文章である。実際、この論文を執筆中の熊楠の日記を読むと、次のような走り書きすら見出すことができる。

  昨日よりネーチュール宛に認めしシドチの伝を筆するに、不覚涙下りて止まず。偉人の跡人を感ぜしむること如斯(かくのごとし)。(日記、一九〇三年三月九日)

 熊楠がある人物の行為についてこれほどの感激を示していること、あるいは少なくともそれを書き記していることは非常に珍しい。疑いもなく、熊楠はシドティの行動の中に、十余年間を海外で過ごした自らの姿を重ねて見ているのであろう。恐れずに異文化に立ち向かい、自らの立場を堂々と主張すること。そのことによってしか、相手を真に理解することはできないのだということ。熊楠が海外放浪中につねに己れの規矩(きく)としていたその態度を、シドティは非常に純粋な形で示していた、ということであろう。

 熊楠の文章としては一見奇異に見えるほど素朴な感情を示した「日本の発見」は、しかし、帰国後の第一作として非常にふさわしいものであろう。 〔松居 竜五〕

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燕石考

The Origin of the Swallow-Stone Myth, c.1899-1903

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 ロンドン時代の終わりに構想がたてられ、那智時代に補筆・完成された「燕石考」は、熊楠の英文論攷の一つの到達点を示す作品である。『ネイチャー』、『ノーツ・アンド・クィアリーズ』の両誌に寄稿したものの不掲載となったこの論攷は、五種類の草稿の形で残されていたのを岩村忍が校訂し、平凡社版『南方熊楠全集』別巻一に収録された。岩村によれば、草稿のうちの二種類のものには、一九〇三年三月三十一日の日付があるというが、これは同日の日記の「燕石考一本謄本とりにかヽる」や、翌四月一日の「朝早起、燕石考清書謄本成る」の記事と合致するから、おそらく最終稿と考えてよいであろう。

 一九〇三年といえば、七月から八月にかけては、土宜法龍宛書簡の中で、熊楠が、自らの世界像のモデルとして「小生の曼荼羅」と呼ぶ思索を書き付けた年である。そうした事情もあって、この「燕石考」は、「曼荼羅」のモデルにもっとも忠実に書き上げられたものだという評価(鶴見和子『南方熊楠』、中沢新一『森のバロック』など)がなされてきた。なるほど、論文の結論として書かれた、燕石考の俗信の形成にはさまざまな原因が絡み合っている、という部分などは、法龍宛書簡に描かれた因果の錯綜する図などを思い起こさせるところがある。

 ただ、一方で、この論文のための構想そのものは、ロンドン時代の早くからすでにはじまっていたことも忘れてはならないだろう。すなわち、『ロンドン抜書』には、一八九六年の第十七巻を嚆矢(こうし)として、数ヵ所(筆者の調査によれば少なくとも六ヵ所)にわたって「燕石ノ事」というメモをともなった引用が見られる。また、柳田国男宛の書簡には、一八九九年に、この論文をディキンズがローマの東洋学会で代読するはずだったが、彼の喉の病で中止になったとも語られており、このころまでに第一稿ができていたことは確実のようである。したがって、「燕石考」が那智時代の曼荼羅の応用として書かれたというよりは、「燕石考」の執筆などを通じて徐々に熊楠の脳裏に曼荼羅論が胚胎(はいたい)していった、という方がむしろ正確であろう。ともあれ、「燕石考」の内容を見てみよう。本論攷は、眼病を治し安産の効用もある「燕石」という不思議な石に関するヨーロッパに広く伝わる伝承と、それに関するさまざまな意見の紹介からはじまる。

 このうち、ロングフェローの詩などを引用した一八八〇年の『ネイチャー』の論などはたんなる導入部にすぎないのだが、問題は一八六三年のW・K・ケリーによる『インド・ヨーロッパの伝統と伝承の興味』中の、「この魔力のある石が天界の起源を持つことは、疑うべくもないことである」という意見にある。熊楠が「燕石考」の中でもっともつよく主張したのは、実はこうした何でもかんでも「天界に起源を持つ」としてしまうアストロノミカル・ミソロジーに対する批判なのであった。その企図は、土宜法龍宛の書簡に次のように語られている。

 西洋にアストロノミカル・ミソロジーなどいうて、古人の名などをいろいろ釈義して天象等を人間が付会して人の伝とせしなどということ大いにやるなり。予今度一生一代の大篇「燕石考」を出し、これを打ち破り、並びに嘲哢しやりし。(一九〇三年六月七日付)

 そうした空理空論じみた「アストロノミカル・ミソロジー」を引き合いに出すのではなく、熊楠は「地上の原因」を探るべきであるとする。それでは、この燕石伝承の出所に関する熊楠自身の意見はどのようなものだったのか。

 これに関して熊楠がとっているスタンスは実はいくつかの層に分かれるものだが、もっとも表面的な層では、一八六七年の『ゾーロジスト』誌においてJ・E・ハーティングが友人の意見として記した、「この伝承の起源は中国にあるのかもしれない」という方向を引き継いでいると考えられる。すなわち、「ハーティング氏の友人の示唆はきわめて有益なものと思われる」というのである。

 このことばに続いて、熊楠は中国・日本における燕石の伝説に関して紹介していく。すなわち、石に関しては古今無双の博物学者である木内石亭の『雲根志』を参考にしつつ、薬用の化石として、雲母片岩の一種として、『竹取物語』にあらわれる安産のお守りとして、ごみを取りのぞくために目に入れる貝の蓋として、といった東洋での「燕石」のヴァリエーションが挙げられる。そして、そうした「燕石」の伝承のそれぞれと、非常に似通った対応をする伝承が西洋にもあることが記されているのである。

 このような熊楠の態度を、我々はどのよぅに読み取ればよいのであろうか。西洋と東洋の燕石伝説は細部にいたるまで似た構造を持っている。では、「マンドレイク論」や「さまよえるユダヤ人」の場合がそうであったように、この俗信においても西洋と東洋の直接の交渉を背後に考えることができるのか。

 この疑問に対して、残念ながら「燕石考」の中には熊楠の答えを見つけることができず、曖昧な記述にとどまっている。だが、私は文章全体の調子からいって、この論文の場合にも西洋と東洋の間の文化伝播が示唆されているといってよいと考えている。「ハーティング氏の友人の示唆はきわめて有益なものと思われる」という言葉は、結局、ほとんど「ハーティング氏の友人の示唆は正しい」ということと同義であろう。つまり、ここは、西洋の燕石の伝説は、中国のそれと密接な関係を持ちながら形成されたことを熊楠が認めていた、ととるべきだと思うのである。

 さて、こうした東洋と西洋の間の俗信の伝播という「燕石考」のもっとも表面的なレヴェルを押さえた上で、興味深いのは、「燕石考」において熊楠がたんなる伝播論には飽き足らず、さらに俗信が形成されるにいたった心理的原因にまで立ち入ろうとしている点である。熊楠によれば、こうした俗信が形成される過程は錯綜を極めたものであり、けっして唯一の原因に還元し得るような代物ではない。熊楠は夢を例に取りながら、そのことを次のように記す。

 俗信の原因はあまりにも多様で複雑であるため、あとから付け加わったものから、もともとのものを解き明かしていくことは非常に難しい。その点で、俗信に匹敵するのは夢くらいのものであろう。原因のうちのあるものはお互いに繰り返し作用したり反応したりして、あるいは原因となりあるいは結果となる。またあるものは、そうして組み上げられた全体像の中にとけこんで、痕跡が残らなくなってしまう。

 だが、古今東西の博物学的文献の記述を注意深くたどって行くならば、その道筋の一本一本をなんとか判読していくこともできるだろう。

 そのような宣言とともに熊楠が挙げていく「燕石」の伝説は、子安貝やスピリフェルの化石、貝の蓋、燕の習性など、多岐にわたっている。それらをここであえて簡単に整理するならば、形態的な類似が、一つのキーポイントになっていることが注目されるだろう。つまり、子安貝は女性器との外見上の類似から安産と結びつけられ、スピリフェルの化石はその格好が燕と似ているから「燕石」と呼ばれ、目の掃除用に使われる貝の蓋は酸に入れた時に小さな泡を発生させるために多産の象徴となる、といった具合である。

 実は、こうした形態的類似を根拠とする俗信の科学的な解釈という方法は、ロンドン時代の熊楠の英文論攷に多く見られるものであり、人間の想像力のパターン性の追究という「事の学」のモチーフをそのまま引き継ぐものにほかならない。そして、「燕石考」において特徴的なのは、この「事の学」のモチーフと、東洋と西洋の俗信を結ぶ文化伝播論のモチーフという熊楠の初期の二つの思考の流れが、ここで統合されようとしていることなのだ。つまり、「燕石考」が熊楠の英文論攷の到達点たり得ているとすれば、その理由は熊楠が数年にわたってこの統合の試みの場として「燕石考」を練り続けていた事実にこそあると考えられるのである。 〔松居 竜五〕

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Maru, NATURE, 1907.8.17

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 「日本丸」に「黒田丸」、「海運丸」に「紀州丸」。日本の商船には、どうやらほとんどが「丸」の文字が名前の最後につけられているようだ。そして実際に、船籍表を見てもそのことははっきりと確かめられる。しかし、なぜなのか。

 一九〇七年の南方熊楠の論攷、「丸」は、ダグラス・オーウェンという英国人の、そのような素朴な疑問から出発したものである。当時から船籍事典としての権威であった『ロイド登録』を繙くと、実に日本の船の九十九パーセントに、「丸」の字が名前につけられていたという。

 さっそく詮索好きのこの英国人は、ロンドン在住の日本人の友人に理由を尋ねてみた。すると、一人の日本人は、昔、大名たちが愛用の刀に「丸」の字をつけていたことを根拠として挙げ、さらに別の日本人からは、後に官船と区別するためにそれが政府によって定められたことを聞かされた。しかし、英国人の友人にそのことを話したところ、彼は自分の聞いた話はまったく違うといい出した。つまり、「丸」という言葉には「前進する」という意味があるというのだ。いったいどれが正しい意見なのか。興味深く思ったオーウェンは、さっそくこうした雑学を専門的に扱う雑誌『ノーツ・アンド・クエリーズ』に投稿し、真相を知ろうとしたのであった。一九〇七年四月のことである。

 この時、オーウェンの頭には、頻繁に『ノーツ・アンド・クエリーズ』に登場しては、驚くべき博学で東洋や西洋の知識を披瀝(ひれき)する日本人の名前が浮かんだ。ミナカタ・クマグス。彼ならこの問題についても知恵を貸してくれるかもしれない。そう思ったオーウェンは質問を次のように締め括(くく)ったのである。

 『N&Q』の読者の中に、これらの説明のどれが正しいものであるかを判定してくださるだけの権威はいらっしゃらないだろうか。あるいは、そのいずれもが正しくないとしたら、いったいこの言葉の意味についての本当の変遷の跡はどのようなものなのか。おそらく、貴誌の寄稿家である南方熊楠氏なら、この問題を解決(clear up)できるだろう。―ダグラス・オーウェン

 さて、一ヵ月後、紀伊半島の小さな町に隠棲していた南方熊楠は、定期講読している『ノーツ・アンド・クエリーズ』の中にこの記事を見つけた。そこには、「南方熊楠氏なら、この問題を解決できるだろう」という自分宛のメッセージが記されている。

 『ノーツ・アンド・クエリーズ』は本来、自由投稿を旨とする雑誌であり、こうして個人を指名してくることは非常に珍しい。しかも、自分の博学についてここまで信頼してくれているのだから、熊楠としてもはりきらざるをえないところである。日記に「Douglas Owen より予に舟の名 "Maru" のこととふ」と記した翌日には、さっそく「朝図書館に之、舟の名に丸といふ字を調べる」ことになったのであった。

 結局、三ヵ月間かけて書き上げられた答文が『ノーツ・アンド・クエリーズ』に送られ、十一月九日号に掲載されている。オーウェンの質問が載ってから五ヶ月目のことであった。

 この論文において熊楠は、もともと麻呂が卑称であったこと、それがやがて親愛を表わす呼び名として定着したことを論ずる。そして、そのような使い方から、「丸」はさらに稚児や、愛用の馬、牛や闘鶏、刀に用いられるようになる。そうなると、船の名前として用いられはじめるのも時間の問題である。とりわけ、航海は人生の岐路ともいうべき大きな役割を持つものであったから、船に対する思い入れが強くなるのも当然の話であろうというのである。

 こうして、秀吉が一五九一年に建造した船を「日本丸」と呼んだ頃から、船名の「丸」が用いられるようになったことを、熊楠は指摘する。この後、女性をエロティックな隠喩として船にたとえることが付け加えられているが、これはおまけというものであろう。

 この熊楠の議論は、彼自身が記しているように、バジル・ホール・チェンバレンが『日本事物誌』において紹介していることとかなり重なっている。その意味で、他の熊楠の驚嘆すべき著作群から見ればややオリジナリティが薄いという評価もできるのだが、しかしやはり他人にはまねのできないような綿密さで文献資料を追ったていねいな著作であることはまちがいない。熊楠自身は、この論文が他誌に転載されるなど好評であったことを「履歴書」の中で語っているが、これについては裏づけ調査の必要なところである。

 それにしても、この一件について、自伝である「履歴書」に「商船に限り必ず丸を称せしめたるにつきて、いろいろと飛んでもつかぬ考えを懐きし外人少なからざりしが、この登録(引用者注=転載先の『ロイド登録』のこと)の文が出てよりかかる懐疑が一掃されたるなり」と語るその「一掃」は、オーウェンの質問にあった、「南方氏なら問題を解決(clear up)できるだろう」という時の(clear up)を受けたものにちがいあるまい。熊楠先生の誇らしげな様子が目に浮かぶようである。 〔松居 竜五〕

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