『南方熊楠を知る事典』 < [関連書籍紹介] < [南方熊楠資料研究会]


『南方熊楠を知る事典』−松居竜五(まつい りゅうご)

[項目一覧]

I 南方熊楠を知るためのキーワード集

博物学

[このページのはじめへ]

 南方熊楠という思想家と出会う際に、「見る」という行為はとりわけ重要な位置を占めている。

 たとえば長持ち箱にぎっしりと詰め込まれた、動・植・鉱物のスケッチ。五十二巻の十九世紀英国風の帳面に英・仏・独・伊語などの稀覯本からの引用がていねいに書きつけられたいわゆる「ロンドン抜書」。熊野山中で半紙に書きなぐられた「南方曼陀羅」と呼ばれる思考モデル。さらに、晩年の彼があれほどの情熱を傾けて研究を続けた粘菌という特異な生物の世界。

 それらはみな、視覚的な体験を通して生き生きとした姿を我々の前に現わし、おのが存在を次々と主張しはじめる。紀州白浜の記念館を訪ねてもよい。あるいは雑誌の南方特集号をめくってみるだけでもよい。そこには南方熊楠という思想家をめぐるこうした事物が所狭しと繰り広げられており、我々は一目見ただけでその熱気に圧倒され、独特の時空間へと引きずり込まれる思いがするのである。ことそれほどに、南方熊楠の思想と見るという行為とのつながりは深い。南方熊楠とは、畢境(ひっきょう)ヴィジュアライズされた思考の謂(いい)である、という定義を下してみたくもなろう。

 一方、それに反して、南方熊楠を「読む」という行為は、難渋をきわめた道程からなっている。怪しげなテーマのもとに、際限もなく続く稀覯書からの羅列(られつ)、羅列。漢文からラテン語まで、息苦しいほどに情報量の詰まった引用を、読み手は南方の本気とも冗談ともつかぬ語りと共に悪戦苦闘しながら読み継いでいかなければならない。膨大な南方の著作を繙(ひもと)いたとたん、我々を襲うのはそうした緊張を強(し)いるわりには報われることの少ない作業である。

 そういうわけで、南方熊楠をめぐる体験は、おおむね二つの極に引き裂かれてしまう。つまり、見ることの快楽と、読むことへの挫折である。

 あるいは、そのような情況に直面して、「それが博物学である」といういい方で開き直ってしまうこともひとつのやり方なのかもしれない。そもそも博物学というのは目の学問なのだ。秩序のない自然の事物が乱雑なままに並べられているさまを眺めて、その多様性に酔いしれればよい。南方の意図を読み込むことなどにあまり気にかけずに、ここはひとつ、「知識の饗宴」だとか「博物学的記述」といった言葉で熊楠的思考を礼賛しておけばよいではないか。南方について語ろうとした論者は、これまで、ともすればそういった誘惑にかられがちであったように思われる。

 だが、博物学という言葉が南方熊楠という希有(けう)な思想家についての徹底した分析を回避するための怠惰ないいわけとして使われているとすれば、それは博物学にとっても南方にとっても幸福なことではない。南方という思想家は中途半端な理解のままで放っておかれるにはあまりに惜しい存在であり、また、博物学という概念も、少なくとも南方の学問方法として考えるかぎり、それほど安易なものではない。

 そもそも、南方の著作の中で、我々は何を読まされているのだろうか。一見しただけでは彼が恣意的に集めたとしか思われない情報の塊(かたまり)に目を凝らし、それらの集積をときほぐしていくことからしか、南方の真の読解ははじまらないだろう。例を挙げてみよう。我々が南方の引用を通して幾度もつきあうことになるのは、次のような文献群である。

プリニウスの『博物誌』、段成式(だんせいしき)による『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』、J・B・タヴェルニエの『六つの旅』、そして寺島良安(てらしまりょうあん)の『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』。いずれも南方が飽きることなく繰り返し引いている書物ばかりである。和歌山の生家で、アメリカ中部の下宿で、ロンドンの英国博物館で、さらに熊野那智(なち)山中において、南方はこれらの書物をむさぼり読み、とりつかれたように筆写を続けた。

 今、我々は、こうした書物の内容を少しずつ読み解く中で、おぼろげながら南方がとらえようとしていた世界をもう一度呼び戻すことが可能なのではないかと考えはじめている。すなわち、南方の問題意識を共有しながら読み込んでいくと、ここに挙げたものや、そのほか一部を除いてはほとんど知られていなかったような文献類が、かつては驚くべき豊穣な可能性を孕(はら)むものであったこと、そして現在なお未開拓の可能性を孕んでいるものであることを理解できるように思われる、ということである。では、その可能性とは何か。

 プリニウスから寺島良安に至るまで、南方の愛好した博物学者は、つねにその当時のさまざまな知識を総合化しようとしていた人物であった。そしてその過程において、彼らは、自然をありのままに記述しようとしたにもかかわらず、というよりもそれゆえに、自然をとらえる際の人間の心の動きの記録も多く残すことになった。彼らの著作の中には、動植鉱物の客観的な性質の記述と共に、それらに関する伝承やイメージがふんだんに含まれており、その意味でそうした作品群は、自然科学書でありながら、同時にフォークロアの集積であり、さらに行動心理学、はては文学書としても読み得るものとなっている。博物学、Histoire Naturelle とは、まさに自然(Nature)をとらえるために人々が編み出してきたさまざまな種類の物語(Histoire)の集積だったのである。

 南方熊楠という思想家が注目したのは、畢境、古今東西の博物学書の持つそのような可能性であった。彼は、博物学書に見られる森羅万象の総体的な記述につねに目を凝らし、さらには自然科学書の中にフォークロアを、文学書の中に自然科学的方法を見ようとしていた。その時、彼の学問方法の背景となっていたのは、土宜法龍(ときほうりゅう)宛の書簡に見られる次のような思いであったろう。

 今の学者(科学者及び欧州の哲学者の一大部分)、ただ個々のこの心、この物について論究するばかりなり、小生はなにとぞ心と物が交わりて生ずる事(人界の現象と見て可なり)によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。(一八九三年十二月二十一日付)

 物質のみにこだわる自然科学でもなく、心のみにこだわる精神主義でもない新しい学問方法の創造。南方はそうした自(みずか)らの学問態度を「事(こと)の学」と呼んでいるが、博物学という名において蓄積されてきた知識こそは、その「事の学」の格好のフィールドだったのである。

 だとすれば、南方を知ろうとする我々の試みも、彼にまつわる「物」のイメージを一瞥(いちべつ)するだけのことにも、また南方的「精神」を言葉を尽くして説くだけのことにもとどまるべきではあるまい。つまり、南方の問題意識の軌跡を注意深くたどりながら、彼が見ていた書物や文化現象、自然現象の持つ意味をとらえ返していくことがないならば、我々の理解は上すべりのまま、南方伝説のまわりをぐるぐると回っているだけだということである。

 結局、南方熊楠を知るということは、彼が関心を持っていた書物、さらには事物、人物の持つ意味を一つ一つ丹念に発掘し、甦(よみがえ)らせることにほかならない。つまりは、南方の関心の道筋を、一本ずつたどっていくということである。そうした、南方を「読む」という行為を通してのみ、はじめて我々は南方をめぐる自らの知的冒険の次の一歩を踏み出すことができるのではないのか。

 それは、たとえば、子音ばかりで書かれたヘブライ語の文献を、息、つまり母音を吹き込むことで甦らせるような技術と、根気とをともなう作業であるが、また同時に雨後の大地のように、死んだと思われていた土地や微生物や植物や動物がその生命力に満ちた活動を再開する時のようなダイナミズムをともなう行為でもあろう。

 そうすることによって、南方の難解で晦渋(かいじゅう)なテクストはその息を吹き返し、繁殖期の粘菌のような鮮(あざ)やかな動きを我々の前に示してくれるにちがいないと、我々は考えているのである。〔松居 竜五〕

[『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

進化論

[このページのはじめへ]

 南方熊楠の初期の思想遍歴にあって、ダーウィン、スペンサーに代表される進化論との関わりは、ことに注目されるべきものである。西洋の思想に目を向けつつあった東京時代からアメリカ時代にかけて、熊楠は進化論に関する書物をむさぼり読んだ。それは、「進化論の世紀」とも呼びうるこの時代に生まれ育った、知識欲の旺盛な青年としては、実に自然なことだったはずである。

 実際、科学史においてコペルニクス革命と並び称されるほどの衝撃を持ったダーウィンの理論は、当時、十九世紀後半の生物学や地質学だけではなく、自然科学から社会科学に至るさまざまな分野に影響を投げかけていた。生物の自然淘汰による変容説を長年温めてきたダーウィンが、ウォーレスによる同様の着眼を持つ論文に急かされるようにして自説を発表し、それを『種の起源』としてまとめたのが一八五八年。その後、ダーウィンがこの論を書き改め、改版を行なっているうちに、ハーバード・スペンサーにより「進化(エヴォリューション)」の言葉が進歩を意味あるものとして用いられ、さらにそれを人間社会の中での競争と淘汰の意味で転用する「社会(ソーシャル)ダーウィニズム」があっという間に広まっていった。そして、「社会ダーウィニズム」は、自由放任経済の下、弱肉強食が繰り広げられる十九世紀後半の社会の現実を理論的に裏付け、容認するものとして時代の潮流となるのである。

 だが、現在では、この「社会ダーウィニズム」なるものが、本当にダーウィンの思想から導き出されたものかどうかについては疑わしいとする意見が強いようである。つまり、ダーウィンの論が、基本的には突然変異による生物の種の分岐を根本概念とし、多系的な生物の展開を想定しているのに対して、社会進化論は未開社会から近代社会までの単系的な「進歩」をその概念の核としている。それは、ダーウィンの論よりも、むしろそれ以前の、高等生物から下等生物までを一本の線上に並べたいわゆる「存在の連鎖」と呼ばれる博物学者の考え方に近いものではないだろうか。こうしたことから、ダーウィン自身も、ハーバート・スペンサーなどによる自説の展開には、とまどっていたふしがある(「ダーウィン」「スペンサー」の項参照)。

 実は、熊楠の進化論への関心と反応は、こうした進化論をめぐる思想的な揺れを考えなければ、理解できないものなのである。熊楠は、最初社会ダーウィニズムに興味を示したが、のちにこれを批判するようになる。それは、一口でいって、単系的な発展論を廃して、多系的でしかも方向も多様な変化のモデルを模索する過程であったといってよいであろう。

 まず、十九歳、渡米の際の送別会での演説から。ここで熊楠が述べているのは、時代の流れについていけない民族は滅びるという、典型的な社会ダーウィニズムによる人種淘汰論である。そして、注目すべきは、ここで、社会が一方向に発展するという単系進化の考え方が、何の疑いもなく開陳されていることであろう。つまり、熊楠は「人間社会の変遷を考うる学」としての古物学によって、人類の歴史は「石の時代」、「銅または錫の時代」、「鉄の時代」の三期に分けられるとする。そして人類はこの順に発展を遂げてきた。だから、「されば、石をもって道具とする人民はすこぶる蒙昧にて、鉄を自由に使う人民は、今日の最も開化せる人民なり。このことたるや、世界至る処の人間みなこの三期の外に出づるなし」というのである(「明治十九年十月二十三日松寿亭送別会上演説草稿」)。

 「蒙昧」と「開化」。だが、こののち、アメリカに渡ってダーウィンやハーバート・スペンサーの著作を読み込むうちに、社会進化に対する熊楠の考えは大きく変わっていく。そして、ロンドン時代になると、社会の移り変りをまるでレールの上を走る単線列車のように「進化」という一方向への価値基準でとらえることに対する批判が何度も見られるようになるのである。たとえば、一八九四年三月四日の土宜法龍宛書簡には、「史を案ずるに、心性上の開化は、物形上の開化とは大いに違い、一盛一衰一盛一衰するが、決して今のものが昔にまされるといいがたし」という言葉が登場する。そして、宗教の進化を論ずるスペンサーへの批判がこれに続く。

 ハーバート・スペンセルなど、何ごとも進化進化というて、宗教も昔より今の方が進んだようなこといえど、受け取りがたし。寺の作り方や塔の焼失保険が昔より行き届き、また坊主の衣食がすすんだとか、説教の引符多くくばるようになったとかいうて、それは寺制僧事の進化とでもいうべきのみ、別に宗教が進みしにはあらず。

 こうして、熊楠は一方通行の社会進化というハーバート・スペンサーの論とはここで訣別する。この書簡において熊楠は続けて、「故に世界ということ、その開化の一盛一衰は、到底夢のようなものにて、進化と思ううちに退化あり、退化するうちにも進歩あるなり」とし、進化と退化が分けられないことを主張するのである。

 このような経緯を経て、四十五歳の熊楠が柳田国男に宛てた書簡の中で次のように語っていることは、十九歳の渡米を目前に控えた日の、社会ダーウィニズムを前面に打ち出した演説と並べてみると実に象徴的である。

 小生は邦人の毎事毎事欧州を規矩とするをはなはだ面白からず思う。世界中のこと一様に行かぬは、欧人は牧、農、商を世の改進の三変としたるも(今はせず)、本邦ごとき必ずしも牧をもって始まらず、南洋諸島ごとき、牧をせんにも畜なかりし地には牧をもって始むる道理なし。また石、青銅、鉄を三期とするも、アフリカの黒人(欧人が下等とする)は最初より鉄を知れりという。(一九一二年十二月八日付)

 つまり、第一期が「石の時代」、第二期が「銅または錫の時代」、第三期が「鉄の時代」という単系の社会進化は、ここでは完全に否定されてしまう。それを絶対的な文明の発展の道筋ととらえることは、「欧州を規矩(きく)」として一面的な歴史観であって、それとは違う文明の形もあり得るのだ、というのが熊楠の主張なのであった。

 実際、社会ダーウィニズムにヨーロッパ中心主義の影が見られることはつとに指摘されている。十八世紀の西洋博物学においては、下等動物から高等動物までの連鎖の図が、人間にも適用され、下等な人種から高等な人種までのランクづけが行なわれた例がある。一方通行の単線の上に、遅れた社会から進んだ社会までを並べて見せる社会ダーウィニズムは、ダーゥインの理論の社会科学への応用というよりは、むしろこうしたランクづけを、時間軸に沿って展開させたものと見ることもできるのである。

 さて、こうして社会ダーウィニズムを切り捨てた熊楠であるが、進化論が科学的思考の基礎であるという考えには変わりはなかった。法龍宛書簡には同時に進化論への次のような評価も見られるのである。

 小生考には、科学の原則はわずか三十年前後ダーウィンが自然淘汰の実証を挙げ、それよりスペンセル輩が天地間の事物ことごとく輪廻に従いて変化消長することを述べたるにより、大いに定まれるなり。(一八九三年十二月二十一日付)

 「三十年前後」とは、一八五八年のダーウィンの『種の起源』出版の頃を指しているのであろう。さらに、次の柳田国男宛書簡の中にも、進化論は「泰西の学論の根底」であるという表現が用いられている。

 今一つ論ずべきは、今日泰西の学が世界の正学にして、進化論が泰西の学論の根底という。進化論という以上は万物常に進み常に退き(実は進化ならで進退化論なり)、一刻一時も住持定止せず、故に鳥の内にも獣のごときあり(アプテリキスという鳥は獣の毛あり)、獣の内また卵で子を生むことの鳥のごときあり(鴨嘴獣等)。(一九一一年十月二十五日付)

 では、熊楠は進化論(進退化論)のどのような点を指して科学の「原則」であり、「根底」であるといっているのだろうか。

 おそらく、このようにして用いられている「進化論」という言葉は、ダーウィンのいう生物の突然変異と自然淘汰からなる「進化」よりも、もう少し広い範囲をカヴァーしていると考えた方がよい。「天地間の事物ことごとく輪廻に従いて変化消長」し、「万物常に進み常に退」くという原則。それは、宇宙のあらゆる部分をつらぬいている生成と変化のダイナミズムのことだといい換えてよさそうである。

 そのようなダイナミズムは、たとえば「今日科学にて成劫・壊劫の行なわるることを証し、争うべからざることとなりうるは、今も空中の星に壊潰散失するものあるによりて知るべし」(一八九四年三月四日)というような、星や銀河のレヴェルでも見られることだし、また我々の身のまわりでも不断に起こりつつあることである。四十歳頃から、熊楠は紀伊半島南端の田辺という町に隠棲し、生涯をそこで過ごしたが、その小さな町と周辺の森や野原のフィールド・ワークを通して、自然界の生成流転の様相を観察し続けている。そうした中で、自宅の庭での新種の粘菌(ねんきん)の変化のさまを次のように報告していることは、熊楠の進化論がたどりついた到達点として興味深いものである。

 すなわち熊楠は、家畜や金魚の場合のように、人間が関与して生物の種に変化を加えることもないわけではないとしながらも、次のようにその卑小さを嗤(わら)う。「しかし天地の眼から見たら人力の及ぶ境界は纔(わず)かのことで、只今といえども人力の及ばぬ所にも、日々時々変化の行なわれおらぬ所はなく、ただ人の眼力が届かず、寿命に限りがあって篤と見届け得ぬのじゃ」。そして、その一例として、自宅の庭で起こった新種の粘菌の変化を語るのである。

 しかるにこの狭い田辺の内でも事物の変化は究まりなく、右の予が命名した新種の種を只今の宅地へ蒔き置くと、二年内に全くありふれた他の一種に変わってしまった。(「田辺湾内神島のワンジュについて」)

 結局、この新種は種として確定していない変化の途上にあるものであり、そのため環境が変わるとまたもとのタイプのものに先祖還りしてしまったのだと、熊楠はいう。そして次のように続けて、こうした変化が生物界には常時、休むことなく行なわれていると説明する。

 予のごとく十年、二十年気長く注意して、同一のものを同一の地処で観察すれば、狭い田辺にすらかくのごとく、今日も人力を加えず、自然のままに生物があるいは変化して新種となりきり、あるいは変化不定にして、予の旧宅では新種となりきりおるに、新宅では原種に逆戻りする等、広い天地間には、人力を添えずに不断無数の変化が行なわれおると分る。(同)

 絶え間なくさまざまな方向に進化と退化を繰り返している生物の世界。そうしたダイナミズムに満ちた世界へと、熊楠の「進化論」は最終的に向かっていく。そして、そのような銀河から自宅の庭の粘菌までをつらぬく変化の原理を背景にして、科学的思考の基礎原理たる「進化論」を口にした時、もはやそれはダーウィンやハーバート・スペンサーの意図を超えて、熊楠の脳裏にまったく新たな思考様式として胚胎することになっていた、ということができるのではないだろうか。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

東京

[このページのはじめへ]

 満十五歳から十八歳にかけての東京での三年間、つまり一八八三(明治十六)年三月に上京してから一八八六年二月に病により帰郷するまでの期間は、南方熊楠の人生の中で、一つの大きな転換点にあたっている。熊楠は、この時期、神田共立学校、大学予備門(後の一高)に学んだのだが、そこから東京帝国大学に入学する前に、ドロップ・アウトして故郷和歌山に帰ることになった。この後、アメリカで学校に入っていたごく短い期間があるとはいえ、実質的にここで彼の学校制度の中での生活は終わり、独学者としての道を歩みはじめることになるのである。熊楠が余人にはおよびもつかぬ膂力(りょりょく)で自らの学問を切り開いて行くのは、まさにこの東京時代以降のことなのであった。

 実際、この時までの熊楠の人生は、すでに『和漢三才図会』や『本草綱目』を抜書するなど特異な才能を見せていたとはいえ、少なくとも社会的には他の同世代の青年たちと比べて別に変わったものではない。地方から東京に出てきて、帝国大学に入学するための準備をする。大学を出れば、官吏・実業家になるもよし、学校の教師になるのもよい。またもし家族の反対を押し切る覚悟さえあるならば、文士として身を立ててもかまわないかもしれない。それは、家にある程度余裕があり、なおかつ学問を修めようとする意欲のある若者ならば、当時誰もが普通に考えたことであろう。夏目漱石や正岡子規、芳賀矢一(はがやいち)、秋山真之(あきやまさねゆき)といった同級生と共に学んでいた東京時代の熊楠とて、結局、それらのいずれかを自分が選ぶことになると思っていたのではないか。

 そして、彼の東京での生活態度にしても、後世に神話的に喧伝されているほどには、型破りなものではなかったようである。すなわち、熊楠自身が「履歴書」においてこの頃の生活を「それより東京に出で、明治十七年に大学予備門(第一高中)に入りしも授業などを心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成績よろしからず」と書いていることもあって、従来はとかく学校の授業をまったく顧みず、図書館や採集を通じて己れの学問を追究する若き熊楠像が描写されることが多かった。だが、日記に見える「正課を修めて後余科に及すべし」、「土曜、日曜及其の他休日には図書館へ行く」といった端書きからは、熊楠が、内心はともかく一応は学校の授業にも身を入れようとしていたことがわかるのである。

 ただ、もちろん、東京で彼が学んだものは、学校における「正課」だけではなかった。この頃の日記は、仲間と酒を飲んだり、寄席に行ったりといった娯楽にも事欠いてはいない。また、新聞記事からの抜粋と思われるさまざまな事件のメモも多く残されており、社会的な関心を示している。

 だが、不幸にして熊楠は、予備門二年目の試験に失敗し、留年してしまう。その日の日記には、「朝試験点見に行き敗走す。七二三・三にして六五なれども代数二九・四なるにより不合格なり。小林堅好を誅せんことを謀る」とあり、全体の成績はそれほど悪くないのに、一科目でも不合格の場合は落第という当時の予備門の厳しい規則にひっかかったことが知られる。この年は、同級生全百十三名中四十七名が落第という状況であった。後世の南方伝説においては、中山太郎の、「ベラ棒め、己れほどの大学者を落第させるなんて、そんな日本に居てやらねえぞ」(『学界偉人南方熊楠』一九四三年)と大見得を切ってみせたという逸話が生まれたり、子ども向けの伝記『大学やめてもへっちゃら』(小倉肇著、一九七二年)の題に見られるように妙に教条的なとらえられ方をされたりするこの「事件」であるが、実質的には、熊楠はごく普通の試験にごく普通に落ちたというにすぎない。

 ともあれ、年が明ける頃から、熊楠は頭痛を感じはじめるようになる。これが、試験に落ちたショックであるか否かは定かではないが、結局、この一八八六年二月、父が上京した帰りに熊楠は三年間にわたった東京生活に別れを告げて、予備門を中退して故郷で静養することになった。かなりあっさりと決断しているところを見ると、留年も決まったことで、あまり興味のわかない学校の授業に嫌気がさしたという程度に解釈しておくのがもっとも実状に近いように思われる。 それが、南方熊楠の東京体験であった。 これ以降、熊楠と東京という都市との関係は、むしろネガティヴな状態として意味を持つことになるといえるだろう。つまり、東京ではない情報の中心地としてのロンドンでの学問活動があり、東京を経由せずに和歌山に帰り、東京を経ずに那智・田辺から直接欧米の学者に対して発信を続けるという具合にである。大正十一年には南方植物研究所の資金集めのために上京しているが、東京での「活動」と呼べるほどのものではない。

 それは、明治から昭和初期を生きた近代日本の知識人のあり方としては、きわめて特殊な部類に入るものであった。そして、その、東京というフィルターを通さない情報によって学問活動を展開したことは、南方熊楠という近代日本という範疇とは異質な知性を育てることに直接つながっていったといってもよいのではないだろうか。考えてもみよう。夏目漱石はもとより、柳田国男も、折口信夫も、宮沢賢治でさえ、東京という都市と深くかかわり、そこから情報を得ながら思想を形成したのである。東京を通して入ってくる欧米の文化と、それに対する反応。それが、「近代日本人」としての共通体験だとするならば、その東京とネガティヴな関係しか持たなかった熊楠は、生涯を通じて「近代日本人」とは離れた異人として生きた、といういい方ができるはずである。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

フロリダ・キューバ

[このページのはじめへ]

 一八九一年四月二十九日夜、熊楠は五人の友人に見送られて、アンナーバー駅で汽車に乗り込んだ。三年余り滞在した同地を発ち、フロリダ半島を目指す旅に出るためである。この時、午後九時四十五分。同じミシガン州のトレド駅まで行ったものの、あいにく乗り継ぎの列車に間に合わず、結局そこで夜を明かし、翌日、一路南へと向かっている。

 この日以降、熊楠は一年半にわたって、フロリダのジャクソンヴィルからキューバのハヴァナ、そしてふたたびジャクソンヴィルへと渡り歩くことになる。ジャクソンヴィルでは中国人の八百屋に厄介になり、ハヴァナではサーカスの書記をしていたらしいこの旅行、おそらくそれは、熊楠にとっては未知なる世界に向けての、第二の人生の出発点といえるものなのではないか。

 つまり、東京での挫折の後、太平洋を越えて米国に渡ってきたとはいっても、アンナーバー時代の熊楠は、基本的にはミシガン大学留学生たちからなる日本人社会の中で暮らしていた。だが、このフロリダ・キューバ行において、熊楠は単身、日本人がほとんど足を踏み入れたことのない土地へと至ることになるのである。それは、自らの中に残る日本人社会への従属の鎖を断ち切る作業であったともいうことができるだろう。

 そのような熊楠の企図と抱負は、郷里和歌山の友人喜多幅武三郎に向けて語られた、次のような旅行の計画からも知り得るところである。

 閑話休題、小生ことこの度とほうとてつもなきを思い立ち、まず当フロリダ州から、スペイン領キュバ島およびメキシコ、またことによれば(一名、銭の都合で)ハイチ島、サン・ドミンゴ共和国まで、旅行といえば、なにか武田信玄の子分にでもなって城塁などの見分にでも往くようだが、全く持病の疳癪(かんしゃく)にて、日本の学者、口ばかり達者で足が動かぬを笑い、みずから突先して隠花植物を探索することに御座候て、顕微鏡二台、書籍若干、ピストル一挺携帯罷(まか)り在あり、その他補虫器械も備えおり候。(一八九一年八月十三日付)

 しかし、この「とほうとてつもなき」南への放浪旅行については、実は謎の部分が非常に多い。フロリダ・キューバを目指した直接の動機や実質的な活動状況はもとより、正確な足取りさえ、いまだにはっきりとされていないのである。

 まず、もっとも基本的な事実として、熊楠の訪問した場所について、喜多幅宛書簡での、フロリダからキューバ、メキシコ、ハイチ、サント・ドミンゴという計画がどこまで実行されたのか。日記からわかる確実な足取りは、次のようなもののみである。

一八九一年五月一日フロリダ州ジャクソンヴィル着
八月十八日ジャクソンヴィル発
八月二十一日キーウェスト(フロリダ半島先端の小島)着
九月十五日キーウェスト発
九月十六日キューバ島ハヴァナ着
一八九二年一月七日ハヴァナ発
一月十日ジャクソンヴィル着、広東人江聖聡方に寄宿する
八月二十三日ジャクソンヴィル発、ニューヨークを経てロンドンに向かう

 このうち、もっとも問題になるのは一八九一年九月十六日から翌年一月七日まで四ヵ月弱のハヴァナ滞在の部分である。実は、この時期の活動に関しては、従来熊楠の伝記の中でもとくに伝説めいた逸話がまことしやかにささやかれてきた。そのひとつが、キューバにおいて孫文の指揮する義勇軍に参加、盲管銃創を受けたというものである。おそらく熊楠の自慢話を真に受けた中山太郎の伝などに端を発するものだろうが、孫文との出会いはロンドン時代のことであり、まったく根拠のない伝説の類である。第一、熊楠の体に盲管銃創の痕などなかったという。

 では、サーカス団に雇われて、書記をしながら西インド諸島を回ったというものはどうか。こちらに関しては、決定的に誤りだという証拠はない。キューバ滞在中に川村駒次郎という曲馬師と出会っているのは事実だし、ラヴレターを代筆して団員に喜ばれたという話も、熊楠自身が何度か語っていることであり、誇張はあるにせよなんらかの体験に基づいているような印象を与える。少なくとも、川村駒次郎の口利きでサーカスでのアルバイトをした、というところまでは認めてもよいように思われる。だが、西インド諸島を巡ったという逸話については、日記を見ても四ヵ月足らずの間つねにハヴァナにいたように読めるところからして、おそらく伝説とみなすべきものであろう。サーカス団の名を「チャリネ」としている熊楠ののちの記録も怪しい(「川村駒次郎」の項参照)。結局、熊楠の滞在した土地は日記中に見られる通りの、ジャクソンヴィル、キーウェスト、ハヴァナのみと考えるのが妥当であろう。

 では、これらの土地で、熊楠はどのような活動を行っていたのか。

 これは、フロリダ・キューバ行の目的とも関わることなのだが、「履歴書」において熊楠は「フロリダで地衣類を集むるカルキンス大佐と文通上の知人となり、フロリダには当時米国学者の知らざる植物多きをたしかめたる上、明治二十三年フロリダにゆき、……」と、カルキンスの助言に触発されて植物採集を行ったことを記している。長谷川興蔵氏によれば、実はこのことは、カルキンスがなにがしかの費用を負担して、熊楠に採集を依頼したことを示唆しているのではないかという。なるほど、植物学者は集まってきた標本を見て同定をしたり分類を考えたりするのが役割で、実際の採集は他人が行なうのが普通であった当時の常識から考えれば、たしかにそれはありうることであろう。もしそうだとすれば、熊楠がキューバで発見した地衣類の新種、グァレクタ・クバーナがカルキンスのもとに送られ、彼とつきあいのあったニランデル教授によって鑑定されていることも、なるほど合点がいくのである。

 カルキンスからどの程度の依頼と送金があったのかといったことはわからないが、ともかく熊楠のフロリダ、キューバ行の最大の目的が植物採集にあったことは疑いがない。旅行に発つ前にアンナーバーで植物採集用具や薬品類を調達していることや、ジャクソンヴィル、ハヴァナ滞在中の日記が、植物名で埋め尽くされていることなどからも、そのことははっきりと見て取れるであろう。

 一方、北米や日本とはまったく異なる南国の風土や習慣に関しては、熊楠はどのように見ていたのだろうか。これについては、のちにロンドン時代の英国博物館への「陳状書」の中で、日本における社会学の確立のために「比較の対象としていくつかの別の民族について知識を得ることが不可欠だと思った」と語っていることが注目される。この言葉は、騒動を起こした自分を追放しようとする博物館への自己弁護として書かれたものであるから、そのことを差し引いて考える必要はあるが、さまざまな民族が混在するこうした地域での経験が、熊楠の民俗学に対する感覚を刺激したことはまちがいないだろう。

 それは、ジャクソンヴィルで広東人の八百屋のもとに下宿していた、という生活面に関してもいえるであろう。中国人の博徒たちと毎晩酒を酌み交わした、と『水滸伝』めいて語っていることは誇張があるにせよ、こうして日本人社会と離れて長い期間を過ごしたことは熊楠のその後の人生にとって大きな意味を持ったはずである。そうした放浪期間を経てはじめて、南方熊楠は外国語により自己を表現する手段を得た思想家としてロンドンに登場することができたのであった。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

ハイド・パーク(Hyde Park)

[このページのはじめへ]

 南方熊楠をロンドンにひきつけていたものは何かと考えた時、真っ先に浮かんでくるのは英国博物館をはじめとして蓄えられた学問的情報の豊富さである。古代生物の化石や整えられた標本類から、人類史の総目録ともいうべき遺跡類にいたる展示物。そして膨大な量の知識を百五十万冊の蔵書として円形のドームの中に詰め込んだ図書館。日の沈む時のない大英帝国の地理的膨張と経済的繁栄のみが可能にしたそうした特権的な知の占有を、東方から来た異人である熊楠もまた、存分に享受していたのであった。

 だが一方、熊楠にとってのロンドンは、そうした過去の遺産のみにとどまるものではなかった。十九世紀末の、世界像や価値観が大きく揺れ動く時代の雰囲気を敏感に反映する都市としての、つまり同時代のロンドンにも、熊楠の目は向かっていたのである。博物館への行き帰りに熊楠はよくハイド・パークに立ち寄り、スピーカーズ・コーナーと呼ばれる、誰でも自由に演説の許される場所で繰り広げられる人々の激しい議論をつぶさに観察している。そこで熊楠は、目を凝らしながら世紀末ヨーロッパの生の姿をとらえようとしていたのである。

 熊楠にとってハイドパークでの日々が、いかに喧騒に満ちまた刺激的なものであったのか。それは、次のような熊楠の日記の一節を覗くだけですぐに伝わってくるだろう。一八九八年五月某日の記事である。

 帰途ハイドパークにて演舌きく。ロシヤ人演舌、国状を述べ泣くに至る。又別に耶蘇教演舌を無神論者打ち争闘。又大酩酊のもの唄ひおどけ演舌。巡査来り去しむ。帰えれば十二時半。

 憂国のロシア人は泣きだすわ、有神論者と無神論者は喧嘩するわ、よっぱらいは歌い出すわで、大騒ぎである。混乱と言えば混乱、しかし、それが世紀末ヨーロッパ世界のカーニバル的雰囲気を縮約しており、いわば事件の中心地としての熱気を孕んでいることは否めまい。

 一八九八年といえば、ロシアの社会主義運動の高揚とその弾圧が緊張状態を生み、レーニンが国外に亡命した年である。発狂したニーチェは妹の庇護の下で人生の最後の時を迎えようとしていた。いってみれは、熊楠は、そうした時代の雰囲気を肌で感じさせるような場所に身を置いていたのである。

 およそ熊楠のような血気壮(さか)んな人物にあって、このような情況が好ましくないはずがない。時には討論をきっかけとして始まる喧嘩に加わり、巡査に殴られて逃げ帰ったりしながら、熊楠は毎日のようにハイド・パークに出かけて行ったのであった。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

中央アジア

[このページのはじめへ]

 一八九三年から九四年頃、ロンドンで本格的な学問活動をはじめていた南方熊楠が、知り合ったばかりの真言僧土宜法龍に、中央アジア漂白の夢を語っていることは注目に値する。北米から中米へという、当時の日本人としては破格の大規模な旅行を経てロンドンに辿り着いた彼は、さらにそこからユーラシア大陸中部の広がりの中に、自らを投げ出そうとしていたのである。

 現存する熊楠の法龍宛書簡のうちもっとも早いと考えられる(『南方熊楠・土宜法龍往復書簡』の考証による)ものの中には、この望みは次のように語られている。

 熊楠はこの上幾年海外に放浪するもわからぬ。只今アラビヤ語を学びおれり。必ず近年に、ペルシアよりインドへ遊ぶなり。ただし熊楠はたぶん海外にて命終すべし。(熊楠から法龍へ<書簡1>)

 一方、真言僧である土宜法龍もまた、西域への仏教探索の旅に出ることを計画していた。仏教の再興を目指していたこの改革的な僧侶にとって、インドからチベットに入る仏教探訪の旅は、そのための大きなステップとして感じられたのである。そして、その旅行にロンドンで知り合った若い学者を誘うことは、その学問の幅広さと世界の宗教事情に関する蘊蓄(うんちく)に一目置いていた彼としては、当然のことであった。

 貴君何とぞして再度の雪山・チベット遊びに御同行願いたく存じ候。貴君よ、いつごろの出立になるか、その旨ちょっと他日御一報願い上げ候。(法龍から熊楠へ<書簡2>)

 これに対する熊楠の答えは揺れを見せている。彼には、中央アジア漂白の旅の中で死にたいという壮大な夢があった。その夢を法龍に語る熊楠の筆は、異様とも思えるほどの熱気に満ちたものである。

 小生はたぶん今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより舟にてインドに渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候。命のあり便のあるほどは、仁者へ通信すべし。(熊楠から法龍へ<書簡3>、以上書簡1から3まではすべて一八九三年十一月から十二月にかけてと推定されるもの)

 「回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となる」。まさにすべての場所を踏破し、すべての存在に近づこうとするようなこの宣言には、熊楠が抱いていた知への飽くことなき意思が、もっとも純粋な形で表われていよう。北米から中米、ロンドンと地球を半周してきた彼は、さらに文明の根源たるオリエントやインドに歩を進め、あらゆる地を踏破しようとしていた。そして、その大旅行のうちに自らの命を果てようと考えていたのである。

 だが、同時に、熊楠の心はこの時揺れている。土宜に誘われたこの機会を利用して、当初の計画とは違い、まずチベットへと踏み入れることにも、大きな魅力を感じてもいるのだ。同じ書簡の中には、「仁者いよいよ行く志あらば、拙はペルシア行きを止め、当地にて醵金し、直ちにインドにて待ち合わすべし」という言葉が見える。そして、法龍とともにチベットに入るための、下調べをしておこうともいうのである。

 こうして両者ともかなり乗り気であったこのチベット行きが、どのようないきさつでもって断念されたのか、それは現存する法龍と熊楠の往復書簡からだけでは明らかでない。はっきりしているのは、熊楠がチベットへも、ペルシアへも足を踏み入れることなく、その後、ロンドンにとどまって学問的研鑽を積んだことである。

 しかし、八年におよんだロンドン時代の最初期に語られた熊楠の中央アジアへの夢は、実はその後も絶えることなく彼の中を脈々と流れていたと考えるべきであろう。それは、実際の旅行としてではなく、書物の中、論攷の中において、熊楠をとらえて離さなかった。試みに「ロンドン抜書」を覗いてみればよい。そこには、中央アジアを踏破した無数の旅行家たちの記録が丹念に引用されている。そして、論攷においても、ユーラシア大陸を駆け抜けたさまざまな伝承・風習の跡がたどられることになるのである。そのような知的営為の形で、熊楠は「回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となる」という己れの夢を実現しようとしたのである。

 熊楠が、土宜法龍とのチベット行きなり、単独でのペルシア、インド行きなりを実行しなかったことが、彼にとって幸運なことだったのか、不運なことだったのかは今となってはわからない。しかし、実際に中央アジアに踏み込むことのなかった熊楠の、それゆえに文献的探索に向けられた夢こそが、彼の世界民俗学を志向した著作群を我々の前に残すことになったということだけは、はっきりしているだろう。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

和漢三才図会(わかんさんさいずえ)

[このページのはじめへ]

 南方熊楠の学問形成の出発点として、少年期の『和漢三才図会』の筆写が持っていた意味には決定的なものがある。ほぼ十二歳頃にはじまり、十四歳までに抄録が終えられたと思われるこの筆写の結果は、現在白浜の南方熊楠記念館に保存されており、その細かく正確な文字とていねいな模写は、熊楠少年の神童ぶりを伝えて見る者を驚かさずにはおかない。熊楠は東京から北米、ロンドン、田辺において生涯かけて、それぞれ「課予(かよ)随筆」、「ロンドン抜書」、「田辺抜書」と呼ばれる膨大な量の筆写をなしているが、それらをつらぬく、書物を通じて森羅万象をつかみとろうとする意思が、ここにはもっとも初源的なかたちで表われているのである。

 だが、この筆写を単にその量的な面からだけとらえるとするならば、それはおざなりの熊楠の超人伝説に加担するだけのことであって、彼の残した仕事の可能性を探ろうとする我々の試みにとって、なんら有益なものではないだろう。本当は、この筆写を考えるうえでもっとも重要なのは、『和漢三才図会』という図鑑がどのような内容の書物であり、どのような形で熊楠に影響を与えたかということであるはずだ。だから、熊楠と共に世界を探究していこうとする我々は、まず『和漢三才図会』を自らの視点から読み返していくことから、はじめなければならないのである。

 そのようにして『和漢三才図会』を繙(ひもと)く者は、そこに広がる世界の豊饒さに驚嘆の声をあげることになる。もちろん、三才つまり天・地・人の三つの世界を総合的に記述しようというこの日本初の百科全書的図鑑の試みは、中国明代の『三才図会』を真似たものである。だが、日本の学問風土に合わせた形で東アジアに蓄積された知識を展開していった寺島良安の戦略の確かさ。いったんページを開くと、そこには『山海経』以来、何千年にもわたる中国の膨大な類書の引用からなる故事来歴や博物誌が地層のように積み重なるかと思えば、日常用具の解説や海外の最新情報、さらには初級中国語・ハングル・琉球語講座まで、古今の必要な知識が巧みに織り込まれており、読者は飽きるということがないのである。

 そして、全体として見れば、本家の中国の『三才図会』がなにか詳細ながらも規範的な知識を型通りに開陳しているという印象を与えるのに対して、『和漢三才図会』に展開されるさまざまな知識は、寺島良安自身の的確なコメントとともに、不思議なほど活き活きとした新鮮さを持っている。結局、基本的には大中華帝国の古い知識を踏襲した類書『三才図会』に対して、『和漢三才図会』には周辺国の目からその膨大な蓄積を読み返し、相対化し、あるいは撹乱しながら換骨奪胎する者のほとんどトリックスター的な視線が全編につらぬかれているといってもよいのではないだろうか。

 中心地域における情報の蓄積と、周辺地域からの立体的な視線。そうした意味において、『和漢三才図会』は、東アジア世界の固有の知の全体像(エピステーメー)をあますところなく体現し得たたぐいまれな書物であるという評価もできよう。そして、実は、それは日本において東アジア的基盤に基づいて示された世界像としては、ほとんど最後の試みでもあったのである。すなわち、京都で『和漢三才図会』が刊行されていた一七一二年、江戸においては新井白石によるイエズス会宣教師シドティへの尋問が行なわれつつあった。そして、この尋問の際にシドティの口を通して示された西洋知識の先端性こそが、実質的にその後の医学・天文学・地理学などを中心とする西洋科学の急速な流入を決定づけたのである。

 もちろん、そのようにしてはじまり、現在なお続いている西洋科学の大規模な移入によって、日本や東アジアの学問的水準が多くの面で飛躍的に上がったことは否定できない事実である。だが、一方で、そうした西洋科学に対する全面的な依存傾向が、従来の日本の学問的基盤を育んできた伝統的な知の体系、とりわけ東アジアのそれを、我々の視界から覆い隠す結果になってしまったこともまた、確かなことなのではないだろうか。

 そう考えると、南方熊楠という明治維新の前年に生まれた人物が、『和漢三才図会』という日本における最後の東アジア固有の事典を座右の書として少年期を送ったことの意味が、ようやく決定的なものとして理解されてくるのではないか。熊楠は、『和漢三才図会』を通して、東アジアに根づいてきた学問的伝統の基礎を自らの中に深く刻みつけ、それが終わると、今度は『和漢三才図会』自体を一種のインデックスとして、『酉陽雑俎』や『五雑組』、『本草綱目』といった中国や日本の他の書物へと導かれていったのである。

 そして、そうした古きよき時代の知識をいっぱいに吸収した状態でもって、南方青年は米国、英国にわたり、西洋の学問と直接にわたりあうことができた。伝統的な学問の徹底的な学習と、西洋文化との直接の対決。熊楠の前の世代も、後の世代も、彼が経験したほどの強烈な相克の中で、学問・文化の差異を生きることは不可能だった。しかも、彼の多くの同時代人が、結局は西洋文明の優位をア・プリオリなものとして認め、何とかその枠組みの中に東洋的知を滑り込ませようとしていたのに対して、熊楠は徹底して東洋的な学問土壌の中に西洋の知的発見を取り込もうという態度をつらぬいたのである。

 我々は今、飯倉照平に倣(なら)って、そのような熊楠の学問の在り方を「和漢洋三才図会」の構想と呼んでもよいかもしれない。実際、初期の南方の学問的活動を見ると、『和漢三才図会』からの発想と思われるような展開を多く指摘することができるだろう。つまり、具体的に挙げれば、処女論文「極東の星座」(一八九三年)前半部が明らかに『和漢三才図会』の冒頭の「天の部」を基にして書かれたような印象があり、「拇印考」(一八九四年)、「さまよえるユダヤ人」(一八九九年)などの主論攷中に引用があり、さらにほぼ『和漢三才図会』の記述の紹介だけからなる「蛙の知能」(一八九五年)、「〔日没時の大音響に関する〕回答」(一九〇三年)のような小論文もある、といった具合である。さらに、こうした個々の例にとどまらず、熊楠がことあるごとに参照する『酉陽雑俎』、『五雑組』、『本草綱目』といった書籍群が、『和漢三才図会』の中に多く引用されているものであることにも注目すべきであろう。そのようにして、熊楠の学問的志向は『和漢三才図会』を基礎として、東洋そして西洋の知的領域の広がりの中へと、その根を伸ばしていったのである。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

本草綱目(ほんぞうこうもく)

[このページのはじめへ]

 明の李時珍の撰による五十二巻、千八百八十二種を網羅した植物学書。一五六六年に起稿して一五九〇年に完成、一五九六年に上梓された。その精密な観察による分類から、中国はもとより、朝鮮半島、日本でももっとも信頼に足る植物学書として流布した。日本では、和名・方言、用法などを付記した小野蘭山『本草綱目啓蒙』が出ている。

 南方熊楠は、『和漢三才図会』と同じ頃にこの『本草綱目』の抄写を行なっていたようで、「本草綱目抜記」という帳面が残されている。またこの書に関する評価も非常に高いもので、後に「当時欧州名家の博物大著述諸篇に比していささかの遜色なく、採摭*(さいせき)の広博たる、排列の整然たる、まことに東洋の一大事業をなし遂げたるものにて、李時珍これがために二十六年の長月日を費やし、その心血を注いで全璧としたるなれば、吾輩八、九歳より四十七歳の今日まで、旦暮その余光に浴する身」であると回想しているのである。

*摭=[てへん+庶]

 そのように、自らの血肉として蓄えた知識であるこの『本草綱目』は、当然ながら後の論攷においても多く引用されることになった。まず、「蜂に関する東洋人の諸信」では、青虫の幼虫をさらってきては、我に似よと呪文をかけるジガバチ(似我蜂)や、木の根につながった一本脚を持つ蜂といった伝承が引かれる。さらに、この論文から派生した「琥珀の起源についての中国人の説」においては、「琥珀(こはく)の起源を説くために考案された中国人の説の中で、もっとも確からしいのは、李時珍の著作に見られるものである」としながら、『本草綱目』が引用されている。ここでは、琥珀が蜂を焼くことによって生ずるという従来の説を、李時珍が、松脂が地中で化学変化を起こしたもので、ときおり中に昆虫が見られるのは、その際に紛れ込んだにすぎないと論破したことが説明されるのである。

おそらく、熊楠がもっとも関心を寄せていたのは、最初の論文中で見られるような民間伝承の記録と、後の論攷のような科学的解説の両方を併せ持つ『本草綱目』の性格にあったのであろう。つまり、『本草綱目』は熊楠の構想する「物」と「心」の相関作用を探る学としての「事の学」のための基本的な文献としてとらえられていたのではなかったろうか。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

ネイチャー Nature

[このページのはじめへ]

 一八六九年に、イギリスの天文学者ノーマン・ロッキヤーによって創刊された週刊科学雑誌『ネイチャー』は、いうまでもなく、当時から現在にいたるまで、自然科学関係の論文を載せるものとしてはもっとも権威のある雑誌として高く評価されている。現在のように、この雑誌に論文が載せられれば学者として一流だというほどの権威が、熊楠の時代にあったかどうかは定かではないが、いずれにせよ、当時から科学誌として最高の水準を保っていることはまちがいない。

 熊楠は、アンナーバー時代から『ネイチャー』誌の講読をはじめていたようである。科学者として世に出ることを望んでいた熊楠としては、『ネイチャー』は一種憧れの雑誌としてとらえられていたのだった。

 それだけに、一八九三年に、自らの長文の投稿記事「極東の星座」がその読者投稿欄に掲載された時の喜びはひとしおだったはずである。南方二十七歳、日本を離れてから七年目のことであった。この掲載に、自らは「一朝目覚むればわが名は高し」の感を抱き、また遠く故郷を離れてついに一仕事なしたという思いだったことであろう。

 その後、熊楠は頻繁に『ネイチャー』に投稿するようになる。「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」、「蜂に関する東洋人の諸信」、「マンドレイク論」、「さまよえるユダヤ人」。この時期、熊楠の投稿はすべて『ネイチャー』に掲載されている。そして、一八九九年に三十周年記念号が出た折に誌面を飾った特別寄稿家のリストに、日本人としては伊藤篤太郎と南方熊楠の二人のみが記されたのであった。後に熊楠はこのことを回顧して、「〔『ネイチャー』に〕右様に名を出されしを小生大いにうれしがり、国元にある母に申し通せしに、大いに悦びて死なれ申し候」(上松蓊宛書簡、一九一九年九月三日付)と語っており、彼がこれで家族に対しても自分の顔が立ったという印象を受けたことがよくわかる。

 だが、熊楠にとって『ネイチャー』がまったく自由に自分の論文を載せ得る場でなかったことは、注意しておく必要がある。つまり、熊楠の記事は、つねに読者自由投稿欄に載せられており、内容的には、いずれもそれ以前の号に載った記事に関して答えたり、そこから論を補足したりして書かれたものだったのである。そして、圧倒的に自然科学系の記事が多い『ネイチャー』の中にあっては、人類学やフォークロア研究を多く含む熊楠の論文は、やや異質なきらいがあることも否めない。

 おそらく、ロンドン時代の終わり頃から帰国後、つまり一八九九年頃から一九一三年頃にかけて、熊楠の英文論攷の投稿先が徐々に『ネイチャー』から『ノーツ・アンド・クエリーズ』に移っていったことの背景には、そのような学問区分上の問題があると考えられる。「マンドレイク論」の本文はかろうじて『ネイチャー』に掲載されたが、「さまよえるユダヤ人」の本文、そして「神跡考(しんせきこう)」や「燕石考(えんせきこう)」、「鷲石考(しゅうせきこう)」といった長編は、結局『ネイチャー』には載せられなかったのである。

 しかし、そうした情況にもかかわらず、熊楠が最初の頃、自らのテーマに近い編集方針を持つ『ノーツ・アンド・クエリーズ』にではなく、『ネイチャー』に論文を発表していたことによって大きな利益を受けていたことも、やはり否定することはできないだろう。つまり、『ネイチャー』に掲載されたことによっておのずと英国の学者間での熊楠を見る目が異なり、自分の交友範囲を広げることができた。また、本来自然科学の分野とは少しずれる内容を扱いながら、つねに科学を意識せざるを得なかったことで、熊楠の思想の範囲が文学者にも科学者にも安住しない両義性を持つことができたというのも、一面の真実なのである。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

ノーツ・アンド・クエリーズ Notes and Queries

[このページのはじめへ]

 一八四九年に創刊された雑誌『ノーツ・アンド・クエリーズ』(以下『N&Q』とする)は、『ネイチャー』と共に南方熊楠の英文論攷の発表先であった。一八九九年以来、彼はこの雑誌に投稿を続け、その数は次第に『ネイチャー』の分よりも多くなる。そして、一九一三年に『ネイチャー』への投稿が打ち切られた後もそれは続き、結局、晩年の一九三三年まで継続されたのである。だが、そうした南方の関わり方を述べる前に、まずこの雑誌の性格を見ておく必要があるだろう。

 『N&Q』は読者投稿のみによって成り立つ雑誌で、全体は「ノーツ(報告)」、「クエリーズ(質問)」、「リプライズ(答文)」の三部から構成されているものであった。つまり、「ノーツ」で発表されたテーマや「クエリーズ」で出された質問に対して、好奇心の旺盛な他の読者が「リプライズ」欄でさらに展開したり、ぴたりと答えたりする。毎号、そうしたことの繰り返しで引き継がれる、読者間の情報交換を目的とした雑誌なのである。

 内容は、雑誌の副題に「文学者、芸術家、古物学者、系譜学者等の相互交流のために」とあるように、およそ種々雑多な読者の種々雑多な関心領域を反映している。創刊号に、W・J・トムズがおそらく架空の人物であるカトル船長という人物の言葉として引用した「発見した時に書き留めておけ」という理念に忠実に、読者は気のついたことをすぐに雑誌に報告する。そして、それが他の読者の興味を引けば、時には何年にもわたって議論が繰り返されることになるのである。シェイクスピアの詩句の出典について。氷の割れる大音響に関する伝承について。古代ケルトの宗教ドルイド教について。飛行機という概念の起源について。どの読者も、自分の関心のある領域を選んで議論に参加しているのだから、そこには自然とマニアックな者の持つ熱気が横溢しようというものである。

 だが、他の話題にもまして、『N&Q』の誌面に、俗信や伝承、風習、諺(ことわざ)など、「フォークロア」と呼ばれる分野に含まれる内容の記事が多く含まれていることには注目すべきである。実は、この雑誌の創刊者にして初代の編集者たるトムズこそは一八四八年に『アテナイウム』誌において、ドイツのグリム兄弟を真似て民間伝承の蒐集を行なう必要を説き、そうした分野を「フォークロア」という名の下にまとめようと提案していた人物だったのである。ドイツ語の「フォルクスクンデ」などを参考にしたと思われるこの時の「フォークロア」という造語は、以後急速に普及し、十九世紀後半にはフォークロア・ソサイエティーも設立されて一大学問分野として注目されるにいたった。

 『N&Q』は、そのトムズが自らの意図の実現のために創刊・編集した雑誌なのだから、ある意味ではもっとも正統的なフォークロア研究誌といってもよいものなのだ。雑誌の性格上、好事的な印象が強く、学問領域としてのフォークロア学の流れから見れば傍流に位置することになったが、英国でのフォークロア研究がこうしたアマチュア研究家(基本的に)同士の討論の形で口火を切られ、またそのような形で支えられていたことは記憶されるべきであろう。

 そうした事情を考えていくと、ロンドン時代から田辺時代にかけての南方熊楠が、発表先を『ネイチャー』から『N&Q』へと徐々に移行していったことは、実は至極当然であったことがわかってくる。結局、一九〇〇年の帰国の前あたりから、熊楠の投稿は次第に『N&Q』に偏り出し、ついには田辺時代に『ネイチャー』への投稿は中止されるにいたるのである。あくまで自然科学を中心に扱う雑誌である『ネイチャー』にあっては、南方のフォークロア関連の投稿はやはり少々異端であり、しかも読者投稿欄への熱心な投稿者という域を出るものではなかった。それに対して、『N&Q』では、豊富な東洋の知識をひっさげて議論に参加し、次々に目新しい話題を提供したり質問にずばりと答えたりする彼の投稿は、雑誌のいわば目玉としての扱いを受けたのである。

 実際、『N&Q』を読んで個々の議論の跡を追っていくと、南方の存在感は際立っている。一九一一年の、日本籍の船に「丸」という字をつけることの理由を問うた質問などでは、わざわざ南方を回答者として指定しているのだが、それは自由投稿を旨とする『N&Q』にあっては、まったく異例のことであった。

 しかし、それもそのはずで、当時の雑誌のインデックスで「中国の……」あるいは「日本の……」という項目を引くと、それらの記事のほとんどは南方のものなのであり、彼が東洋学の権威と考えられたこともうなずけるのである。

 関東大震災の際、『N&Q』の編集者ヘイラーから南方に宛てられた次の書簡などは、南方がいかに重要な常連投稿者であったかということをよく示していよう。

 私は、あなた方が現在被っている災害についての深い同情を伝えるために、一刻も早くあなたに手紙を送りたいという気持ちを抑えることができませんでした。私の真摯なる願いは、あなたとあなたにとって大切な人々が無事であることです。今回のようなひどい災害の場合には、言葉はまったくむなしく思えてしまいます。(中略)私たちは、ごく最近までその学識の成果を享受させていただいておりましたので、とりわけ強くあなたのことが思われてならないのです。…… 『N&Q』誌編集者、R・ヘイラー (未公刊書簡、一九二三年十二月十三日付)

 『ネイチャー』のような最初から南方の憧れの雑誌であった一流誌と比べれば、多少ランクは落ちるかもしれないが、高い評価を受けながら自らの論文を発表することができ、また時には誌上の議論に触発されたこの『N&Q』は、南方にとってかけがえのないものだったはずである。南方が独自の学問を展開していく上で、この『N&Q』誌が持っていたスタイル・雰囲気は、重要な役割を果たしていたということができよう。〔松居 竜五〕

[前の項目へ] <p> [松居竜五執筆項目【熊楠を知るためのキーワード集】一覧へ]