『南方熊楠を知る事典』 < [関連書籍紹介] < [南方熊楠資料研究会]
新聞記者。のちに『九州日報』の社長兼主筆を経て衆議院議員となる。一八九八年から一九〇〇年までロンドンに滞在し、すでに面識のあった南方熊楠と再会した。一九一〇年七月十五日から二十日の『大阪毎日新聞』に、その時の熊楠との交遊を描いた「出てきた歟(か)」を連載している。
この「出てきた歟」は熊楠についての日本でほぼ初めての紹介であり、以後、彼のイメージを決定づけた観のあるエッセーである。いわく、何ヵ国語かを操り、英国で学者として認められていたこと。またいわく、毎日酒を浴びるほど飲んでいたこと。反吐を自由自在に吐くこと。さらに、「その穢(きた)ないことといったら、無類飛切」の部屋に籠もって大勉強をしていたこと。もちろん、博物館追放事件に関して、「露西亜人の鼻をかじったから」という、当時の国際関係を意識したかと思われる捏造(ねつぞう)も含まれているが、そうした「南方伝説」のはしりのような部分も含めて、ロンドン時代の熊楠の生活を活写した好篇となっている。
ウェブ管理者付記:日南が社長兼主筆をした『九州日報』紙の紙名及び日南の役職名について、単行本での誤記をご指摘いただき、当ウェブの記述を訂正しました。ご教示ありがとうございました。(2005. 4. 2)
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愛知県に生まれ、東京大学法学部を卒業。英国留学を経て官僚となり、のちに在ロンドン英国公使、外務大臣を歴任して護憲三派内閣の首相就任。その後、在任中に死去。ロンドン公使時代には、一八九四年の日英通商航海条約締結の当事者となっている。この締結はむしろ前公使青木周蔵の力によるものだが、幕末以来の日本と西洋の間のいわゆる不平等条約改正の第一歩であり、功労を高く評価されたようである。
さて、一八九四年から九九年までの加藤のロンドン公使在任期間は、南方熊楠の滞英期(一八九二〜一九〇〇年)とほとんど重なっている。この間、熊楠は一八九五年七月に加藤公使と面会し、その後、博物館での上司にあたるダグラスを加藤に引き合わせたりしており、面識があった。
しかし、一八九八年十二月の英国博物館追放の際には、南方は加藤に助力を乞うたものの、「小池氏(引用者注=仲介者の名)より状来り、公使予の事に口いるゝこと不能をいはる」(日記、一八九九年一月十九日)と拒絶されている。このことが、のちの「履歴書」中の、
この時加藤高明氏公使たりし。この人が署名して一言してくれたら事容易なりしはず、よって小池張造氏(久原組の重職にあるうち前年死亡せり)を経由して頼み入りしも、南方を予よりもダグラスが深く知りおれりとて加勢しくれざりし。
という恨み節へとつながっていくのである。
ともあれ、かたや尾張の代官の子として生まれ、典型的な立身出世街道を歩んで首相にまで駆け上った加藤と、かたや紀州商人の血を受け、民俗学から粘菌にいたる学問領域を驚くべき天衣無縫さで走破した熊楠のような人物が大英帝国の首都ロンドンで出会うところに、明治日本という国家のおもしろさがあるということもできるのではないか。
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ペテルスブルク生まれのロシアの男爵。一八五六年から七七年まで、外交官としてアメリカに二十年以上滞在した。幼少時より昆虫学を愛好、北アメリカ産の膜翅類(まくしるい)(虻(あぶ)や蜂の類)に関する目録を作っている。ヨーロッパへ戻ってからは、ハイデルベルクに居住し、虻と蜂の分類法に取り組んだ。
晩年のサッケンは、こうした自らの膜翅類に関する研究をさらにフォークロアの解釈にまで広げていくのだが、熊楠との付き合いもそこから始まることになる。すなわち、一八九四年、サッケンは前年発表した自らの「古代のビュゴニアについて」という聖書の中の蜂の伝説に関する論文を補完するための材料を提供してくれるよう、『ネイチャー』読者投稿欄に質問状を送った。これに対して応えたのが、熊楠の『ネイチャー』への第三作、「蜂に関する東洋人の諸信」だったのである。
この論文の内容とその後の展開については、本書第三章著作解題中の「蜂のフォークロアに関する連作論文」の項をご覧いただくとして、ここでは熊楠とサッケンの個人的な関係について少し書いておきたい。まず、熊楠の投稿論文に対して、すぐさまサッケンからの反応があったことは、次の一八九四年五月十六日付日記からわかる。
夕ハイデルベルヒのバロン・オステン・サッケンより来書。予がネーチュールに出せるブンブン虫の事を謝し、並に謝在杭(引用者注=『五雑組』の著者謝肇淛*(しゃちょうせい)のこと)の事実等を問はる。
*淛「せい」=[さんずい+制]
これに応えて、熊楠は翌日さっそくサッケンに返書を投函し、以後、文通が始まることになった。そして、この年の八月、サッケンがロンドンに滞在した折には、わざわざ熊楠の下宿を訪ねてさえいる。
午後四時過、バロン・オステン・サッケン氏来訪され、茶少しのみ、二十分斗りはなして帰る。六十余と見ゆる老人なり。魯国領事として新約克(ニューヨーク)にありしとのこと。(日記、一八九四年八月三十一日)
せっかく訪ねたのだから、もう少し長居をしてもよさそうなものだが、サッケンが二十分そこそこで引き上げたのは、熊楠の下宿の常軌を逸した汚さに耐えかねてのものであろう。熊楠自身、このことを面白がって、のちに、柳田国男宛の書簡の中に「小生近処より茶器かり来たり茶を出せしに、小生の生活あまりに汚いから茶を飲めば頭痛すとて呑まずに去られし珍談あり」(一九一一年十一月二十八日)と、語っている。
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南方熊楠の思想の中核的な部分は、論文著作よりむしろさまざまな友人への書簡の中に示されている、とはよくいわれてきたところである。とくに、土宜法龍、柳田国男、岩田準一への書簡は、それぞれ仏教論、民俗学、性愛学という異なる問題についての南方の考えを明らかにするものとして、出色の著作群と呼び得るであろう。
ところで、現在は未発見であるものの、これらの最重要作品に勝るとも劣らぬ書簡群が存在することはもっと注目されてよいのではないか。すなわち、熊楠が二十年にわたって、ロンドンのフレデリック・ヴィクター・ディキンズ宛にしたためた、おびただしい数の英文の通信のことである。おそらく百通近く投函されたと思われるこれらの書簡において、熊楠は『古事記』、『万葉集』、『竹取物語』などの日本古典文学に関する蘊蓄(うんちく)を傾けた。それは、著作のところどころに散見されるものの、まとまった論をなしてはいない熊楠の文学観を、はっきりと示してくれるはずのものなのだ。
そうした意味で、熊楠からディキンズへの書簡が発見されれば、第一級の資料となることは疑いないのだが、残念ながらその行方は定かではない。これについては、ロンドンのディキンズの後嗣の調査が望まれるところである。しかし、ディキンズからの書簡の方は、現在、数十通が南方邸に残されており、この交遊のだいたいの軌跡に関してはたどることができるようになっている。ここでは、この熊楠宛ディキンズ書簡と、日記や書簡中の熊楠の証言によって、両者の関係を点描してみたいと思う。
まず、簡単に人物の紹介をしておこう。フレデリック・ヴィクター・ディキンズは、若くして日本に滞在した経験を持つ人物であった。ロンドン大学を卒業後、二十二歳の時に英国海軍軍医将校として中国、日本に赴き、法廷弁護士としての仕事もしていたらしい。この時、英国公使のハリー・パークスの下で日本政府との交渉に尽力したおかげで、帰国後はパークスの推薦によってロンドン大学の事務総長となったのであった。その間、日本文学の研究を進め、英訳『百人一首』などを発表している。
ディキンズが熊楠にはじめて手紙を出したのは一八九六年三月、ディキンズ五十七歳、熊楠は二十八歳の時のことである。目黒大仏の写真についての解説を求めたこの手紙には、ディキンズが「幕府の時代から日本に滞在した者として」、熊楠の『ネイチャー』誌での活躍を喜んでいる旨が記されている。
この後、二人は文通を通して次第に親しくなり、ロンドン大学で面会したりするようになっていったようである。そうした交際の中で、ディキンズは熊楠から日本の文化・風習について矢継ぎ早に質問を繰り返し、多くの知識を吸収しようとした。一方、熊楠は熊楠で、生活面でディキンズの補助を受け、しばしば金を借りていたのであった。要するに、この時期、功なり名遂げたディキンズは、若き東洋人学者の経済的な庇護者だったということができるだろう。
だが、そうした特殊な関係にもかかわらず、社会的な妥協を嫌う熊楠は、ディキンズの仕事に対してもに歯に衣(きぬ)着せぬ批評を浴びせることがあった。そうした過程は、のちに、柳田宛書簡に詳細に語られた、英訳『竹取物語』をめぐる二人のやりとりなどから、明らかに見て取れるものであろう。実際、一八九八年のこの事件は、二人の関係を象徴的に表わしていて興味が尽きない。
七月十二日、この日、ロンドン大学にディキンズを訪れた熊楠は、かねてより依頼のあった英訳『竹取物語』の草稿についてのコメント数枚を手渡した。その中で熊楠は、かぐや姫に言い寄る貴人たちが、'in their turns'、つまり、かわるがわる姫と付き合おうとしたとする翻訳に関して、これでは日本人の倫理感が疑われかねないと強く批判したというのである。もとより非難の言葉にかけては辛辣(しんらつ)をきわめる熊楠のことである。おそらく、ディキンズ苦心の翻訳を、さんざんにけなしたにちがいあるまい。
翌日、さっそくディキンズから返信が来た。
七月十三日[水]
ヂキンス氏より状一受、竹取物語の評のことに付怒り来れる也。
この手紙は熊楠のコメントを読んだディキンズが、大学から自宅への帰りの汽車の中で書き付けたもので、五ページほどもある長文だったという。その中でディキンズは、「外国に来たりながら長上に暴言を吐く」(柳田国男宛書簡、一九一一年十月十七日付、以下同)熊楠に対して、「近ごろの日本人無礼にして耆宿(きしゅく)を礼する法を忘る」と一喝したようである。
むろん、熊楠も黙ってはいない。明けて七月十四日には、午後三時までかけて答文をしたため、四時過ぎにロンドン大学を訪れてこれをディキンズに手渡す。「……外国に来たりながら長上に暴言吐くほどの気性なきものは、外国に来て何の益なからん。汝ら外人はみな日本に来たり日本の長上を侮り、今帰国してまでも日本のことを悪様にいう、不埒千万とはこのこと、礼を失するのはなはだしきなり」と大いに反撃したと、のちに柳田に語っているのが事実だとしたら、それはこの時のことであろう。さらに次の日、十五日にもディキンズが熊楠に会って反論を繰り返したというから、二人ともよほどこの議論に熱中していたことがよくわかる。
こうして一週間が終わったのだが、結局このやとりとはどのようになったのか。熊楠は、この時さんざんに罵られたディキンズがついには「呆れかえり」、両者が「それより大いに仲よく」なったのだと記している。これが、熊楠流の誇張は多少あるにしても、かなり実態に基づいていたものであることは、三日後の日記からはっきりと知ることができる。
七月十八日[月]
午後、ヂキンスを訪、十七磅(ポンド)借用の証文破らる。其上一磅借る。
これ見よがしに、熊楠を前にして借金の証文を破るディキンズの姿が目に浮かぶようである。十七ポンドといえば、当時の感覚で四、五十万円ほどになろうか。おそらくディキンズは、自分と熊楠はこれ以後盟友であり、金銭を超えた関係を持つということを宣言するためにこのようなことをしたのではなかったかと思われる。まさに「梟雄(きょうゆう)の資あってきわめて剛強の人なり」(履歴書)という性格を彷彿(ほうふつ)とさせるような行動であろう。
こうして歳の差を越えて無二の親友となったディキンズと熊楠は、以後、協力してさまざまな仕事を残していく。とくに、一九〇三年のディキンズの "Primitive and Medieval Japanese Text"(『日本古文篇』)は、出版前に熊楠がほぼすべての訳をチェックしたもので、共著と呼んでも差し支えないだろう。さらに、一九〇五年の『方丈記』訳である "Japanese Thoreau of the Twelfth Century" などでは、熊楠を共訳者として自分より先に名を記すことさえ許して いる。ちなみに、私はこの『方丈記』の訳を何人かの英語圏の友人に見てもらったことがあるが、日本の古典文学に詳しい一人などは、これは名訳であるといって絶句してしまった。
ディキンズがいかに熊楠の人物を認め、敬意を払っていたかということは、一九〇六年の熊楠の結婚後に、ダイヤの指輪とともに送られた次の献辞を読めば明らかであろう。
私の知るもっとも卓越した日本人への賛辞を込めてこの指輪を贈ると、君の妻に伝えてください。君は伯爵でも男爵でもないけれど(あえて言えば君はそんなものにはなりたくもないだろうね)、君のような友人を持てたことは、ここ何年かの間、常に私にとって大きな喜びであり、また利益でした。君は東洋と西洋に関するかくも深い学識を持ち、人間世界と物質世界の率直で公平でしかも私心のない観察者です。(未公刊書簡、一九〇八年一月八日付)
ディキンズはまた、手紙の中で、この指輪にかかる税金のことまで心配して、自分が払うからいくらかかったか、あとから教えてほしいとまで申し出ている。
おそらく当時の日本人と西洋人の間で、これほど親密でまた実りのある交際をしたものは稀(まれ)であろう。ディキンズとの交遊は、熊楠がロンドンで得たもっとも貴重なものの一つであるといってもまちがいないはずである。
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英国の中国学者。グラマー・スクール(大学予備門)を出てから、二十歳で中国領事館に勤務し、独学で中国語・中国文化を学んだ。その後一八六五年に英国博物館に入り、一八九二年から東洋書籍部の初代部長を務めた。フランクス卿の後見を受けて博物館にやって来た熊楠と知り合ったのは、その頃のことである。
以後、ダグラスはこの学問だけはやたらにできる日本人青年を厚遇し、仕事を手伝わせることになった。その成果である『英国博物館漢籍目録』には、序文にアストン、福原と並んで熊楠の名前が記され、謝意が表わされている。おそらく、ダグラスは自分とほぼ同じような低い学歴しか持たぬ熊楠が、博物館で必死に学問に打ち込む様子に好感を持っていたのであろう。
だが、一八九七年から九八年にかけて、熊楠は博物館内で何度も問題を起こす。こうした事件のたびに、収拾にあたるのはダグラスであった。最終的には、理事会は熊楠をダグラスの監視下で、東洋書籍部に限り利用を認めるとの裁定すら下している。熊楠自身はこれを不服として、結局、博物館を去っているのだが、こうした裁定が下されること自体、ダグラスが博物館内でいかに人間的に信頼され、また熊楠の後見人としてふさわしい人物と目されていたかがわかろうというものである。
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週刊科学雑誌『ネイチャー』の創刊者。死の直前まで五十年間にわたって編集長を続けた。もともと軍人で、余暇に天文学を研究しはじめて、のちに太陽物理学、恒星物理学といった分野で優れた業績を残している。
ロッキヤーはいかにもアマチュア学者らしく、天体のスペクトル分析からストーンヘンジの謎の解明まで、自由な態度で研究を進めた人物である。その意味で、科学研究の成果を広く一般に公開し、また自由投稿も歓迎するという『ネイチャー』誌の性格は、彼自身の個人的な経験にも由来するものでもあったということができる。そして、その公開性こそが、東洋から来た無名の青年、南方熊楠に学界登場の機会を与えたことは、記憶されておいてよい。
ただ、熊楠とロッキヤーとの個人的な関係は、必ずしも幸福なものではなかったようである。一八九八年の暮れに英国博物館で殴打事件を起こした熊楠は、ロッキヤーに面会して助力を乞うた。そして、博物館宛の「訴状」(「陳状書」と同じものか)を、ロッキヤーから送ってほしいと頼んでいるが、自分から出した方がよいと突き返されていたことが、日記や書簡からは読み取れる。後年の「ロッキヤーは小生も会いしことあるあるが、実に倨傲無比(きょごうむひ)の老爺なり」(上松蓊宛書簡、一九一九年九月三日付)との人物評も、おそらくそのあたりに発しているのではないだろうか。
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一八九六年の暮れ頃から熊楠は、バグダニというインド人とよく食事を共にしたり、博物館を一緒に見物したりしはじめている。のちにはお互いの部屋を訪れあったりしているから、かなり仲良くなったものと想像される。バグダニ氏に食事をおごってもらった、といった記述もあり、一八九七年六月の日記には「但し各別に払ひ」ととくに書かれているところを見ると、普段はディキンズの場合のように経済的に世話になっていたということか。
一八九八年五月二十四日の南方の日記には「一印度人にきく、バグダニ氏はカラチえ帰れりと」とあり、これ以降、関係は途絶えたようである。
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英国の小説家。もともとジャーナリストであったが、その時の取材を生かしてロンドンの下層階級の生活を描いた "Tales of Mean Streets"(『貧民街物語』)を一八九四年に発表し、一気に注目を呼んだ。熊楠とは一八九八年頃から頻繁に付き合っていたようである。現在発見されているモリソンから熊楠への数通の書簡には、熊楠の『ネイチャー』への投稿文を添削した跡があるが、どれも非常に丁寧なものであり、モリソンの人柄が偲ばれる。
モリソンには、のちに日本美術に関する著作があり、あるいはそうした関心がもとで熊楠と知り合ったかと想像される。熊楠の方も、他の年配の学者連とは違って、そう歳の変わらないモリソンとは気楽に付き合っていたのだろう。英国国王も会員となっているサヴィジ・クラブで遇されたことを「モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし」といぶかしがっていたくらいである。
ところが、それから十数年経った一九一二年に、熊楠は最新版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の中にモリソンの略伝を見出す。生存中の人物のために一項を設けることはたしかに破格の扱いであり、やっと熊楠もモリソンの名声の高さに気が付いたのであった。それにしても、次のように描きだされたモリソンの飾らぬ横顔は、読むものに好感を抱かせずにはいないであろう。
この人一語も自分のことをいわず、ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし、外国語は一つ知らず、詩も作り得ず、算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが、ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ、一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て、始めてその人非凡と知れり。(柳田国男宛書簡、一九一四年六月二日付)
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オランダの東洋学者。幼いときから中国語・日本語を学び、十八歳で厦門(アモイ)の領事館に中国語通訳として勤めた。その後、広州、バタヴィア(現・ジャカルタ)を経て一八七二年帰国、ライデン大学に中国語中国文学講座の初代教授として迎えられている。一八七五年の処女作『中国星辰考』を皮切りに、『天地会』、『地誌学的問題』など中国・日本関係のさまざまな著作を発表し、九〇年からはアンリ・コルディエと共に東アジア関係の学術誌『通報』を主宰していた。
シュレーゲルはなによりも英国時代の南方との間の激しい手紙のやりとり、いわゆる「落斯馬(ロスマ)論争」によって知られる人物であり、ここでももちろんこの論争のことを取り上げたい。ことの起こりは、一八九七年一月三十日にロンドンの南方がライデンのシュレーゲルに宛てて出した書簡にある。
南方はいう。「シュレーゲル教授は一八九三年の『通報』誌上で、十七世紀中国の辞書『正字通』にあらわれた『落斯馬(ロスマ)』という動物をイッカク(前頭部に長い角を持つイルカに似た海の哺乳類)であるとしているが、これは誤りである。『落斯馬』とはおそらくノルウェー語のロス(馬)・マル(海)に由来する西洋起源の言葉であり、海馬つまりセイウチのことを指している」。 実は十六、七世紀、明末清初の中国にはイエズス会の宣教師が多く活躍しており、さまざまな西洋科学が紹介されていた時期である。そうしたことを考えるならば、「落斯馬」が西洋起源であるという南方の指摘は非常に鋭いものである。だが、シュレーゲルはこの南方の論を軽くあしらおうとする。こうした西洋と東洋の文化交流こそは彼の専門のはずなのだが、おそらく、だからこそ南方のような若い東洋人に自分の誤りを指摘されたことが気に入らなかったのだろう。シュレーゲルは南方の論を否定する旨の書簡を送り、結局、血の気の多い南方の反発を食って全面的な論争に引きずり込まれてしまうのである。
この過程で、シュレーゲルは東洋の語学や博物誌に関する自分の知識を誇示しようとするが、ことごとく南方に論駁されてしまう。シュレーゲルがいかに東洋学の大家であるとはいえ、中国・日本の文献をほぼ母国語として読みこなせる南方の前では、やはり相手にならなかったのである。シュレーゲルはなんとか体面を保ってこの論争を打ち切ろうとするのだが、こうしたこととなると徹底的にやりこめる南方は、この私信でのやりとりを公表するというような脅し文句まで用いてこのオランダ人老学者を追い詰め、ついには「貴兄の言うように……この問題は解決された」という降参の葉書を手にすることに成功したのであった。
熊楠本人にも予想できなかったようなこの時の勝利のあざやかさは、論争好きの彼を有頂天にさせた。これを機に彼は、東洋のことに関しては、ヨーロッパの学者は恐れるに足りないという自信をさらに膨らませたであろうし、また、ロンドン時代の彼の知的関心が地球規模での文化交流にあったことから考えても、東西文化の接点を示したことによって終わるというなりゆきはまったく理想的なものであったはずである。
ただ、そうはいっても、この論争に関する南方の自慢話はやはり少々偏向したものであるという感は否めない。我々としては、運悪くここでへまをやっているからといって、南方の言を信じて「偏執狭識」で「毎々過誤に陥る」という矮小化されたシュレーゲル観を鵜呑みにしてしまうのはおめでたすぎるだろう。たしかにシュレーゲルの学問的な論文は、どうも詰めが甘いように感じられることが多いが、それでも彼が生涯にわたって紹介した東洋の事物の中には、今日の目から見ても興味深いものが含まれている。とりわけ、中国の星座を題材にとった『中国星辰考』(一八七五)や、東洋空想国譚としての側面を持つ『地誌学的問題』(一八九二〜九五)などは、東洋の民俗学的想像力を扱ったものとして、南方の学問との近親性をも感じさせる。おそらく、それゆえにこそ、南方は自らが乗り越えるべき存在としてシュレーゲルのことをとらえていたのではなかっただろうか。
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ドイツの民俗学者。一八八四年からオランダのライデン国立民族誌博物館で活動を続け、一八八八年に同地で『国際人類学雑誌』を創刊している。
実は、この『国際人類学雑誌』と南方熊楠との関わりには浅からぬものがある。南方がロンドン時代に『ネイチャー』誌上に発表した論文のいくつかが、同誌に転載されたり紹介されたりしているのだ。その中の一つ、「拇印考」をシュメルツ自身が論評した記事が直接、南方のもとに送られたことは、一八九六年二月一日の日記に「レイデン府 Archiv für Ethnographie 編輯者シュメルツ氏より、予一昨年十二月二十七日ネーチュールに出せし指印 考の評おくらる」とあることからはっきりしている。
この評においてシュメルツは、東アジアにおける拇印制度の古さを証明した南方の論旨は認めたものの、占いの手相見と身元証明の拇印を混同している点で、南方が誤りを犯しているとする。また、おそらく彼と親交があったと思われるシュレーゲルの著作を挙げて、シュレーゲルもまた拇印の古さについて記述していると論じており、南方にとってはかなり厳しい内容のものとなっている。
これに対して、南方は、三年もあとの一八九九年になってシュメルツに反論しようとしていたことが、「状一、オランダ国シュメルツに出す。千八百九十四年予の拇印論を氏がアーキブ(引用者注=『国際人類学雑誌』のこと)に出せしを駁せんとする故、其後なにも異論なきか否かを聞んとす也」(一八九九年四月十三日)という日記の記述から知られる。この論争の顛末はわからぬものの、直後の『国際人類学雑誌』には、南方が自分はオランダ語がわからないと記したことに対するシュメルツの非難が載せられており、シュレーゲルの場合と同様、ここでもなんらかの感情的対立があったのではないかと想像される。南方は、落斯馬論争について記すとき、しきりにオランダ人の悪口を書いているが、それはシュレーゲルだけではなくシュメルツとの諍いも含んだうえでの反応であるのではないだろうか。
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ベルギーのイエズス会士。一六五九年に清に入り、康煕帝(こうきてい)などに仕えながら布教活動を行なう。漢名を極西南懐仁と称し、西洋の天文学、地理学などを中国に紹介、近世初期の東アジアの科学に大きな影響を与えた。
南方にとっては、シュレーゲルとの落斯馬論争の最後にたどりついたミッシング・リングとして記憶される人物である。南方の言を信ずるならば、その経過は次のようなものであった。
シュレーゲルに落斯馬が西洋起源であることの証拠を見せろといわれた南方は、たまたまダグラスの部屋で見た『坤輿外紀(こんよがいき)』という本に落斯馬の記述が載っていることを発見し、これが『正字通』のもとになったものであることをつきとめた。そして、後日フランス語によるミショーの『人名録』によって、その著者、極西南懐仁がフェルビーストその人であることを探り当て、そのことをシュレーゲルに示したところ、たちまち降参状をよこしてきた。
この時の南方先生のご満悦はさておき、フェルビーストのような人物によって論争に終止符が打たれたことには、何やら象徴的なものを感じざるを得ない。というのは、フェルビーストこそは、西洋近代文明と東洋との接点としてもっとも重要な人物の一人だからである。しかも、彼は、西洋と東洋という二つの世界の教養を身につけた最初のヨーロッパ人である利瑪竇(りまとう)ことマテオ・リッチのあとを受けて、中国の習慣を身につけ、中国語で天文学・地理学の書物を著わすという困難な仕事を成し遂げている。ロンドンにおける南方の学問的関心の中心の一つが東西の文化交流史にあり、また南方自身も東洋文化の西洋への紹介者としての役割を果たしていたことを考えれば、フェルビーストとの縁も偶然のものではなかったように感じられるのである。
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米国の農業植物学者。農務省に勤務していた。一九〇六年、南方熊楠に手紙を送り、ジャクソンヴィルで採集した菌類を送ってほしいと求めた。その後、文通による付き合いが続き、一九〇九年には渡米を要請している。当初、熊楠はこの要請にかなり乗り気であったようだが、結局、家族の事情により断念した。だが、この時の渡米要請の一件が新聞で報道され、熊楠が国内で名声を得るきっかけとなった。スウィングルはまた、熊楠に中国から日本への植物移入の歴史について書くように勧めたりもしている。一九一五年に来日した折りは、田辺に熊楠を訪ね、数日ともに周辺を遊び、この時、再び渡米の要請をしたが熊楠は断わった。
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漱石と熊楠。この二人の近代日本屈指の思想家の生涯を、因縁めいた対比のうちにとらえることはたやすい。ともに慶応三年に生まれ、東京大学予備門に同級生として入学したにもかかわらず、片や首席で大学を卒業した漱石と、片や逃げだすように退学したのち、青年期のほとんどを海外放浪生活に費やした熊楠。そして、それから十数年後、よくも悪くもロンドンでさんざんに活躍した熊楠が失意のうちに故郷への船路をたどっていた頃、英文学者としてはじめて英国に派遣された漱石は、緊迫感に包まれながら違うようにしてロンドンへと向かっていた。
そのロンドンでの生活がまた対照的である。酒と喧嘩の絶え間ない情況ながら、さまざまな階層の友人をつくり、英語で論文を発表しつづけた熊楠。それに対して漱石の方は、下宿に閉じ籠もったきり、西洋社会への不適応からくるノイローゼに悩まされつづけた。なにしろ、インド洋あたりで両者の乗る船がすれちがう前後の日記を見ると、熊楠が西洋人や黒人と殴り合いの喧嘩をしている頃に、年配の英国婦人にティー・パーティーに招かれた漱石は、英語がうまいとほめられて赤く小さくなっているくらいなのだ。
あくまで豪放な熊楠と、繊細で神経過敏な漱石。そうした二人の思想家の、西洋文明に対する印象が対照的であるように見えるのは、むしろ至極当然のことかもしれない。つまり、漱石が近代西洋の文明化を「内発的」、日本の文明化を「外発的」ととらえ、「だから日本の将来についてどうしても悲観したくなる」(「現代日本の開化」)と結論づけたのに対して、熊楠はほぼ同じ頃の柳田宛書簡において「欧人は現代の欧州の開化を一定不変のものと思い、過去のことを問わぬ人多し。いずくんぞ知らん、彼輩のいわゆる開化はわずか三百年内外に始まる」と豪語しているのである。
だが、そうした二項対立的な割り切り方だけでは、漱石と熊楠という類稀な能力を有する思想家が共通して見ていたものをとり逃がしてしまいかねないこともまた、事実であろう。徳川時代の名残のある中で成長した彼らは、共に漢文の素養を持ち、基本的には東アジアの伝統的な学問に根ざした視点で西洋文化を観察していた。その時、彼らがたどった思索の道程は、その対照的な見かけとはちがい、実は驚くほど共通した部分を持っているのである。
そのことは、たとえば彼ら二人の夢に対する異常なまでの関心を考えてみれば理解できるのではないだろうか。熊楠は日記において、そして漱石は『夢十夜』や『永日小品』といった作品の中で、自分の見たさまざまな夢のパターンを記録しようとしている。そして、彼ら二人がそこでしばしばとっている方法は、ともに現実のある一定の刺激を夢の内容と結びつけようとするものなのである。
そうした彼らの夢への関心は、結局、煎じつめれば、人間の精神活動の中にさまざまな論理の道筋を見出そうとする方向に向かっているといってよいだろう。西洋文明の基礎は物質世界の法則を探求する科学にあるとして、では精神の世界を統べる法則はどのようなものであるのか。夢のような現象においては、しばしば物質的刺激が精神的反応に結びつくというように、物質の因果関係と精神の因果関係が交錯することがあるが、そうした因果をたどることによって精神活動をも包括する知的体系を編み出すことができるのではないか。神話・伝承の世界に論理の網の目を見ようとした「燕石考」での熊楠と、文学の生成体系の論理を探ろうとしていた『文学論』での漱石は、そうしたきわめて似通った意図を持っていたように、私には思われる。
おそらくそれは、人類学・民俗学と、心理学が共に意識の流れを分析する学として絡み合いながら浮上してきた十九世紀末のロンドン、そしてヨーロッパの思想に、彼らが意識的・無意識的に影響されていたことと関係があるのだろう。そうした広い学問的コンテクストの中で漱石と熊楠の思想が比較分析される時、我々は、はじめてこの二人の思想家の間に、単調な二項対立ではなく、微妙に絡み合う旋律が流れているのを聞き取ることができるようになるはずである。
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国文学者、民俗学者。文献学と民俗学の二つの手法を駆使して古代研究を行なう一方、釈迢空(しゃくちょうくう)の名前で短歌・詩・小説を数多く発表した。
その学問方法の深刻な齟齬(そご)にもかかわらず柳田国男を生涯の師とし、『郷土研究』にも原稿を送っていた折口は、当然そうしたルートによって南方熊楠という人物のことを知ることになった。そして、かなりよく熊楠の民俗学関係の論文を読み込んでいたことが、少なからぬ引用から知られるのである。熊楠が植物学研究所の設立のために東京に出てきた折には、宿所を訪ね、国学院大学での講演に引っ張り出すことに成功したりしている。
だが、折口信夫と南方熊楠という名前を連ねた時に今日の我々が感ずる知的な興奮は、この二人の実際の出会いの中にはない。折口も南方も、相手に対して真に深い印象を受けたことは、どうやら生涯のうちに一度もなかったようである。折口は、『今昔物語』に触れた文章で、「この註釈は紀州の南方熊楠さんくらゐしか出来る人はいないだらう」としているが、そうした常人をはるかに凌賀する驚くべき博学の人としての熊楠しか見えていなかった節がある。また、熊楠にいたっては、ほとんど折口をたんに性的な不能者としてしか見ていなかったのである。(「エロティシズム」参照)
結局、どちらの方も当面の問題は柳田国男であり、相手はその影に隠れてしまっていた。つまり、柳田をはさんで対照的な立場に立ってしまったこの二人の思想家は、互いに無心で相手を見つめる機会を失した、といういい方もできるであろう。
しかし、熊楠はともかくとして、折口がもう少し真剣に熊楠と取り組んでいたら、という憾みはどうしても残る。とりわけ、熊楠が自らの後半生をかけた神社合祀反対運動の意味を、折口はどうして見過ごしてしまったのか。「神社合祀反対意見書」や「南方二書」を一瞥(いちべつ)するだけで、折口はそこに熊野という土地に根付く神道の力強い感覚が脈打っているのを聞き取ることができたはずである。熊野を旅行した時の魂をゆすぶられるような感情を、妣(はは)が国の幻視へと結び付けた折口にとって、それは必ずや、なんらかの懐かしさをともなったものであったにちがいない。
もちろん、そうはいっても、神道に対するこの二人の思想家の見方に大きなずれがあったことは事実である。熊楠があくまで森の中に息づくアニミスティックな感覚としての神道を擁護するために戦ったのに対して、折口は近代における国家の宗教としての神道を自らの身で体現するようなとらえ方をしていた。欧米での生活の長かった熊楠には、キリスト教を生理的に忌避するような面があったが、折口にはむしろ、彼にとっての異教であるこの一神教に、自らの神道感をすり寄せていったようなところがある。結局、それは、俯瞰(ふかん)的な視野からさまざまな文明のあり方を見つめ、「近代」という概念の絶対性を端から信用しなかった熊楠と、その「近代」における宗教的人間の運命を象徴的かつ悲劇的に演じざるを得なかった折口の違いといったところに行き着くものであろう。
だが、それゆえにこそ、折口には南方を読む必要があったはずである。それは、折口自身が自らの神道観、宗教観の揺れを確かめることにつながったであろうと思われるからだ。その点で、熊楠の死後、折口の思想が非常に大きなうねりを見せていることは興味深いことであろう。つまり、太平洋戦争をアメリカと日本の宗教戦争と観じ、敗戦を「神やぶれたまふ」ととらえた折口には、最晩年の「民族史観における他界観念」にいたって、国家の論理としての神道から、もっとアニミスティックな宗教観へと回帰しようとしている傾向が見られるのである。この論文において折口は、天上の他界、海のかなたの他界、といった集合的・共同体的他界観を示したのち、トテミズムの問題という、より個別的な宗教感情に言及する。そして、ジュゴンが自らの他界での姿であると考える南島の習俗を例にとりながら、他界とは、実は目の前に広がる動植鉱物の世界なのではないかといい放つのである。
この時、折口は、「小生は老樟木(くすのき)の申し子なり」(水原尭栄宛書簡、一九三九年三月十日付)とつぶやいていた熊楠に、生涯のうちでもっとも近い地点に立っていたということができるだろう。そしてそこから先に、「南方二書」のような鬱蒼(うっそう)と生い茂る森の世界がぱっくりと口を開けていることに、彼が気付いていたならば、日本の民俗学はまた違った展開をたどっていたのではないかと、私は秘かに想像するのである。
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イギリスの外交官。幕末から明治初期の日本に滞在し、帰国後も日本学の研究を続けた。著書も英訳『日本書紀』(一八九六年)、『日本文学史』(一八九九年)、『神道』(一九〇五年)と重要なものが多く、日本学の一大権威であった。こうしたアストンの日本研究書が出版されていた時期は、ちょうど熊楠のロンドン滞在と重なっている。実際に会ってはいなかったようだが、熊楠はことあるごとにアストンを意識せざるを得なかったであろう。たとえば英国博物館東洋部のダグラスが作った日本書籍目録は、協力者としてアストン、アーネスト・サトウ、楢原陳政、南方熊楠の四名を挙げているし、また、ケンブリッジ大学に日本学科を創設することが計画された際にも、教授としてアストン、助教授として南方熊楠が候補となったのであった。
だが、おそらくそのような経緯もあって、熊楠はアストンに対してあまりよい感情を持っていなかったようである。のちに柳田宛ての書簡においては、次のようにこきおろしてもいる。
アストン、チェンバレーンなどを、小生は学者とも何とも思わず、ほんの日本のことを西洋へ吹聴屋というようなことと存じおり候。貴説のごとく、彼輩はどうしても日本のことほんとうに知りがたきと見え、たとえばアストンが『日本文学史』(大方某文学士の著を翻訳せしもの)に、『折焚く柴の記』の土屋戸部を、戸部は民部小輔のことを漢様にいいたるなるに気づかず、戸部という人の名と解しある等、可笑しきこと多し。(一九一一年十月十七日付)
少々挙げ足取りと思えぬこともない批判だが、要はそれだけ熊楠がアストンを意識していたということであろう。
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フランスの作家ジャン=ジャック・ルソーは熊楠のお気に入りの作家であった。早くも、アンナーバー時代の『珍事評論』では、留学生をフランス革命時の人物になぞらえた文章の中で、自分のことをルソーにたとえて「ちと狂人らしく見ゆる故自推するなり」とコメントしている。
熊楠がルソーをもっとも本格的に読んでいたのは、一九〇三(明治三十六)年の那智時代であった。この頃の日記には、毎日のようにルソーの『告白』などを読んでいたことが記されている。それにしても、追放されるようにして英国から帰国し、故郷でも弟に冷たくあしらわれて山中で孤独な生活を続ける中で、「こうしてわたしは地上でたったひとりになってしまった。もう兄弟も、隣人も、友人もいない。自分自身のほかにはともに語る相手もない」(『孤独な散歩者の夢想』)というような文句を読んでいたというのは、苦笑させられるところがある。
さらに、おもしろいのは、この頃の熊楠が、当時、彼の「恋人」ともいうべき文通相手であった多屋たかに宛てた手紙の中で、ルソーを真似た半小説的自伝をしたためていると打ち明けていることである。
小生も少々の知る人にはことのほか高く思われしに引きかえ、とかく時節にあわず、生まれてより今にぶらぶらと致しおり候ことのくやしさに、せめて自分の伝記を面白く書きなし、海外の人士それを覧れば、当世日本の世間うつりかわるさまをくわしく知り得らるるよう、件のルーソーの雄編(引用者注=『エロイース』)に及ばぬまねして、半小説的のようなものこしらえおり、およそ今より六年もかかり候わば仕上ぐるつもりに有之、……。(一九〇三年二月九日付)
おそらくこの時の計画は、この後一九一三年頃に、「五百頁ばかり」のものとして何度か言及されている英文自伝へとつながるのであろう(「まぼろしの著作・論攷」参照)。それはさらに、この英文自伝を下敷きにした可能性の高い一九二五年の自らの生涯に関する長編書簡「履歴書」にも引き継がれているはずである。熊楠研究の最重要資料であるだけではなく、近代の日本人による特異な自伝としての評価も高い「履歴書」が、その発想の源をルソーに発しているということには、なかなか興味深いものがあるのではないだろうか。
もちろん、那智時代以前の土宜法龍宛の書簡や、最近発見された、ロンドン公使館宛の戯文などを見ても、熊楠の告白癖は明らかであり、ルソーを読んで急に自伝を書くことを思いついたとは考えがたいかもしれない。しかし、那智時代の熊楠が、自らの資質に近いルソーの告白体の文章を好んで読み、自伝をはじめとしたその後の文章にそれが生かされたということは、疑いのないところであるといえるだろう。
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