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『南方熊楠を知る事典』−原田健一(はらだ けんいち)

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ウェブ管理者付記:南方熊楠研究者たちの間ではこれまで、土宜の姓の読み方を、英文刊行物などでのローマ字表記に基づいて「とき」とすることが一般的でした。しかし、高野山や栂尾高山寺など土宜法龍に縁のある寺院では、今日に至るまで「どぎ」という読み方が伝えられているそうです。この点については、今後さらに調査を進めたいと考えています。(2004.10. 8; 10.21)

III 南方熊楠主要著作解題

第一期(ロンドン時代)土宜法龍宛書簡 1893-1894

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 南方熊楠は一八九三(明治二十六)年十月三十日、土宜法龍とロンドンで出会い意気投合して以来、その年の十一月下旬から翌年九四年三月末まで五ヵ月間に、パリに滞在する法龍と数多くの書簡を集中的に交わし合った。

 熊楠と法龍との往復書簡の話題の中心は仏教であったことは論をまたないが、次の集中的に書簡を交わし合う那智時代(明治三十五〜三十六年)と、このロンドン時代とでは、仏教の扱い方に対し、大きな違いがある。

 那智時代は、すでにその萌芽はあったもののまだ形になっていなかった曼陀羅論が、その中枢を占める。ロンドン時代は、まだ仏教(なかんずく密教)も、数多くある宗教の中の一つとしてとらえられているにすぎない。その間の事情を多分、次のような熊楠の好奇心のあり方から見ることができるのではないだろうか。

 小生はたぶん今一両年語学(ユダヤ、ペルシア、トルコ、インド諸語、チベット等)にせいを入れ、当地にて日本人を除き他の各国人より醵金(きよきん)し、パレスタインの耶蘇廟およびメッカのマホメット廟にまいり、それよりペルシアに入り、それより船にてインド に渡り、カシュミール辺にて大乗のことを探り、チベットに往くつもりに候。たぶんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候。命のあり便のあるほどは、仁者へ通信すべし。インドよりチベットへ行く途ははなはだ難き由申せども、私考には何でもなきことと存じ候。......小生これまでの経験に、どこに行きても、運命さえあれば死ぬるほどのことはなく、死ぬるものは、安居宴飲しても頓死などするなり。(<書簡3>、明治二十六年十二月頃)

 熊楠は耶蘇・回々教・梵教・仏教と次々と宗教をめぐり歩くように、地図を西から東へと向かっていく旅を、夢想してみせている。そこには宗教と同時に地誌があり、地球規模の世界地図を具体的に走破しようとする欲望がある。そこでは「たぶんかの地にて僧となると存じ候。回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教徒となるつもりに候」という言葉が示すように、

 何をするにも信の入るものにて、小生はそれぞれ信をいれてやる。決して馬鹿とか間違えりとかは思わず。仁者も、いっそ小生が娼家に宿して婦女の間に交わりて一たび淫せしことなきがごとく、これもまた心得、通人になる道この外になしと一々大概を見ては如何。(明治二十六年十二月二十一日付)

と、熊楠はそれぞれの宗教の名を借りて自分が次々と、さまざまな宗教を体験していくように変態することを可能性として野放図に確信しているだろう。

 それに対して、法龍は現実的である。

 貴下は何か一つ纏(まと)まりて書冊を書いたら如何に。それは組織に困るか。貴下の脳ではずいぶん絶玄も出て来るならん。出て来るでこそ、何にとなく、ヒョイヒョイと出るじゃ。しからばこれを規則立てて、一つ出して見せたまえ。随分大功徳なり。予は日本にて貴下菩薩の功徳として仏教人民に示さんと欲す。ロンドン方丈の大居士、学考如何。(中略)

 貴下は何か一つ事実上にて事をなしたまえ。今日仏教大いに零落す。しからば仏教のために尽力あられよ。大功徳なり。しかして仏法の零落は人にあり。教ははなはだこの天下に充満す。充満すとは、教理を調べんとする者多々なることその証なり。知らず、貴下は仏教中興の祖師の一人となる所存なきか。あらば大いに方針をその方向に取りたまいては如何にや。(明治二十六年十二月十九日)

 それは、天馬空をゆく男への感嘆であると同時に、批判でもある。

 「ところで、あなたは、何になりたいの?」

 サナギが蝶に変態するように、次々と変態しきれぬものが人間なら、熊楠もまた、自らの可能性を年を重ねるごとに、一つひとつ潰して生きていくものである。彼はロンドンを追われ、日本の紀州へとたどりついた時、さまざまな可能性がパチパチと消えていったことを聞く。目の前には仏教しか残されていなかったことに気づく。そこに、美しい曼陀羅を見たとすれば、それこそ熊楠にとっての行き着く先であったにちがいない。

 しかし、今、二人の往復書簡を読む我々はそれとは違った可能性を見ることもできるだろう。ここではジャイナ教について取り上げてみよう。熊楠はさまざまな宗教を比較宗教学の力を借り問題にしているが、その割いたページ数からいってジャイナ教にとくに注目していたことは明らかだからだ。

 熊楠がジャイナ教に着目したのは、一つには釈迦とほぼ同時期、非常に似た形でマハヴィラによってはじめられたことである。

 また、一つには仏教とジャイナ教が同じインドという土壌から生まれたことである。一般的な通念として見た時、仏教と比較する宗教としては、インドという枠を通した時、考えられるのはヒンドゥー教(梵教)である。しかし、熊楠はヒンドゥー教を排し、あえてジャイナ教をクローズアップすることで、仏教に光を当てようとしている。

 この教は釈尊同時のヴァルダマナの宣述に出づるという。ヴァルダマナはもっぱら大力士(大雄か。マハヴィラ)をもって通称とす。しかれども、この徒も仏徒と同じく、過去の無限期に諸祖相ついでこの教を宣べたるという。すべて二十四祖あり。これをジナ(最勝尊)またトリサンカラという。これ、考論諸派の勝者また導者という意なり。このジナという語より転じて、今はこの教徒をジャイナスという。ジナの徒弟という義なり。大雄はこの教を始めしにあらず。ただ教を祖述せしなり。大雄の前よりこの教は存し、大雄のじき前代の(仏教でいわば、賢劫七仏の釈迦の前の飲光如来のごとし。これは熊楠の注なり)。(明治二十六年十二月二十一日付)

 ここで注目すべき点は、ジャイナ教の祖師とされているマハヴィラも、あるいは、仏教の祖師たる釈尊も、それぞれ常にそれ以前の宗教について語ることで、新しい自らの宗教を生み出したという見方なのである。熊楠は、マハヴィラ以前、釈迦以前にこだわることで、この二つの宗教の内容の同一性と差異を見出そうとする。

 この徒の無上として望むところは、仏徒と同じく涅槃(ねはん)と呼ぶ。されど意味はやや異なり。すなわちこの徒は人体中に霊魂存して、その霊魂の廻転生を受くるを信じ、この転生を脱するがすなわちこの徒の涅槃なり。(熊楠いわく、されば仏徒のごとく、六道間に転生すると信ずるにあらずして、人は人の間に廻転して生ず。たとえば熊楠、来世に鼠となり、次に修羅となるにあらずして、弁慶が正成に生まれ、正成が由井正雪に生まるるごときか)(中略)ただ知り得たるはこの心観を修するの上に加うべき四徳あり、好譲、温良、慈恵、知過失、これなり。すなわち、孝思、言語、行為を善にして、語ることなき動物のみか、植物にまでも信切にするなり。この動植物を愍(あわ)れむことは、仏教またこれをいうといえども、ジャイン教は一層これを弘めたり。すなわち動物植物みな霊魂ありと見て、病獣のために医寮を立つるを慈善業とす。(中略)実に神力を信ぜず、『韋陀(ヴェーダ)』を疑い、階級(刹帝利(せつていり)、梵師(ぼんじ)、吠舎(べいしゃ)、首陀(しゅだ)等)を尊ばざりしにあり。(明治二十六年十二月二十一日付)

 印度というひとつの場所で、仏教とジャイナ教がまるで双子のように相似した姿で顕われた時、熊楠はそうしたものを育(はぐく)む豊かな宗教的な土壌をそこに見る。

 その時、熊楠の心の底に二つのことが蠢(うごめ)いている。一つは、熊楠の中でのアジア主義である。あるいは、アジアを代表するものとしての仏教という考えである。 仏教とジャイナ教との比較は、仏教と耶蘇教の比較とは違う。仏教と耶蘇教との比較は当然、東洋と西洋の比較を含む。熊楠は、アジア全域に広がった仏教と印度のみに残ったジャイナ教とを比較する。そうしてこの二つの宗教の類似と差異を検討することで何を見出そうとしたのか。印度という宗教的な土壌を問題とすることで中国・日本へと至るユーラシア大陸をアジアという概念で、一つの全体としてとらえようとすることである。彼はアジア大陸の広大な地理を一つの自立した世界とする手がかりを、宗教の中に求めようとしていたのではないだろうか。彼の比較宗教学の試みがつねに地誌と結びついていた理由は、そこにある。

 そして、さらに、彼が一人のフィールドワーカーとしていつも自然の中で感じていたこと。そこでは宗教的な感情がそのまま自然の中に、世界観として息づいていることである。その豊沃な土壌の中、人々は、まだ神というものを一つの自然として生きている共通した意識をまだ持っている。

 吾人は宗教という字義の当たれるは、何宗旨においても、一生活、真正にして無限威力、無限愛なる神にして、可見、不可見の万物を創造し、匠料し、保存するものを土台とするものなりというべし。(中略)また宗教の定義には、すべからく人魂人霊の不滅、未来の真存、不見世界の真存を土台とすべし。その上に、人は生まれながらにして箇体神に依る。すなわち神を尊び神を愛するの感覚の、神の正見、至貴、至智、大力、厚愛を信ずるより生じ、みずから神に比してはなはだ弱きを深く省み、罪業の人に存し、人を苦しめ人を罰するを知りて、これを脱せんとするより、右の感覚ますます大になるものあるを認めざるべからず。(<書簡10>、明治二十六年十二月末)

 そこにロンドンという帝国主義の中枢に住んでいた、一人の東洋人の祈りをみることはできないだろうか。〔原田 健一〕

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第二期(那智時代)土宜法龍宛書簡 1903-1904

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 南方熊楠は帰国後、ロンドン時代以降、断続的に続いていた土宜法龍との書簡を再び開始する。そこでの話題の中心はもっぱら仏教である。彼はここで、有名な曼陀羅の構想をぶちあげるのだが、それについて述べる前に一つだけ注意を促しておきたい点がある。

 それは、熊楠にとっての那智時代が、再度の国外渡航を断念し、しだいしだいに日本に土着化する覚悟をいやおうなく迫られていることを、自覚せざるを得なくなった時期であったことである。彼は異国の地で自らの運命に眼を凝らしたように、この故国の地でも眼を凝らさねばならなかった。この時、熊楠にとって仏教は観念的な哲学の体系というより、そうしたことをも含み込んだ実践的な生の指標として、顕われはじめたことである。

 ここでは、彼の仏教との関わりを中心に、ロンドン時代にさかのぼって見ていくことにしたい。まず、熊楠が、法龍と出会った当初、仏教を宗教としてではなく、「信」を脱色した形で受容していたことから入ろう。

 ここでの熊楠の仏教受容の特徴は三つに分けることができる。

 (1)民俗学的な資料として仏典を扱う。(2)論理学として、なかんずく縁起論への注視。(3)仏教哲学を実践論として、生き方の問題として受けとめていたこと。

 土宜法龍は往復書簡の早い時期から、熊楠のそうした特徴を読み取り、新たに仏教哲学を組み込み直していることを察知していたように思われる。土宜法龍が若き学徒のいいたい放題を最大限に許容していた理由はそこにしかない。

 熊楠は「信」なきものの立場から「大日如来の大不思議」へと論理的に遡行しようとする。森羅万象を説き明かし、その論理を発する源へと熊楠は思考の線を延ばす。彼はそこで、「大日如来」に出会う。この時、熊楠の近代論理の学徒としての思想の深度が、仏教を通して問われる。

 なぜなら、古代・中世にかけて現われた日本の宗教的な天才たち(空海・最澄・法然・親鸞・道元・日蓮等)。彼らはそこで仏の論理に身を焼き焦がし灰燼と化した果てに、(近代以前の)自我と「信の構造」の今日の我々からみれば奇妙なアマルガムとなって、一挙に仏として、大日如来となって、論理の思考の視線を我々が生きている世界に向かって返す。そこには宗教的な格闘と高揚があり、思想の白熱した瞬間があったからだ。

 しかし、熊楠は近代人として、近代の洗礼を浴びた自我が、仏に、大日如来にけっして成りきれぬものであることもよく洞察しぬいたものである。彼は、南方熊楠であり大日如来ではけっしてない。論理的に大日如来に行き当たることはあっても、その大日如来でない以上、その立場に立って、再びこの世界へと思考の視線を切り返し、論理を鳥瞰し見渡すことは、論理的な矛盾だけでなく、人格的な虚威をつくことにもなる。

 彼の曼陀羅は人から大日如来(≒世界)を解く道筋だけが示されている一方通交の論理学なのだ。多分、大日如来という一つの頂点から、見返し鳥瞰し世界を語り得れば、もっと明瞭でわかりやすい像を語り得ることができたにちがいない。彼にそのことができなかったわけではない。しかし、それをやってしまえば通俗仏教哲学の域から脱却することはできない。

[図(1): 事の論理]

 小生の事の学というのは、心界と物界とが相接して、日常あらわる事という事も、右夢のごとく非常に古いことなど起こり来たりて、昨今の事と接して混雑はあるが、大鋼領だけは分かり得べきものと思うなり。電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり(物理学的)。今、心がその欲望をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を煖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、心界が物界と雑(まじわ)りて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事(すなわち、手をもって紙をとり鼻をかむより、教えを立て人を利するに至るまで)という事にはそれぞれ因果あることと知らる。そのことの条理を知りたきことなり。(明治二十六年二月二十四日)(図1)

 熊楠が、自らの曼陀羅の構想を土宜法龍に語ったのはロンドン・パリ往復書簡時代であり、かなり早い時期に属している。そこでは熊楠は「事の学」として、けっして曼陀羅として語っているわけではない。その時はまだ、彼の前にあったのは仏教ではなく、西洋の博物学(なかんずく生物学)との対決であったはずである。彼は幼い頃から江戸時代に高度に発達した日本あるいは中国の自然哲学としての博物学を素養として育ち、そのままそこで培われた世界観を西洋の生物学に引き移そうとしたからである。

 熊楠にとっての不満は、自然を一つの連続性として丸ごととらえようとする世界観がそのまま事物を空間的に把握しようとする態度となる東洋的な博物学に対し、西洋の博物学が自然科学として凡てのものを個々の層において把握することで、個別的な学の形成に向かいはじめた点にある。そしてさらに、そこでは学問の名のもとに物界と心界が別々のものとして扱われ、その二つがぶつかりあう場所(事の条理)が置き忘られたことにある。それでいながらダーウィンの進化論によって、生物界に時間的な秩序が持ち込まれ、生命の起源が−それは熊楠にとっては物と心がぶつかりあう「事の条理」問題として、問わざるをえなくなっていたことである。

 ここで、熊楠が、ロンドンという都会から離れ、熊野という森や山へ還ったことはある必然がある。書物のフィールドワークから、実際に記述されたものが生きる場所へと、彼は本能的に自らの欲望を解き放つ場所へと吸い寄せられたからだ。

 熊楠は歩く。森を山を、川を谷を。そこでは、濁り詰まった人いきれではなく、濃密な草や木の匂いが生命の吐息となって触れかかってくる。

 さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。(「履歴書」)

 とは、彼のそうした眩暈(げんうん)を率直に述べたものといっていいだろう。

 この時、熊楠は新たに自己を、そしてこの自然を、世界をとらえなおすすべてを包摂する原理として、仏教の論理を用いることを見出したのだ。

 ここに一言す。不思議ということあり。事不思議あり。物不思議あり。心不思議あり 理不思議あり。大日如来の大不思議あり。(明治三十六年七月十八日付)

 ここでの「事不思議」、「物不思議」、「心不思議」は、すでに記述した「事」、「物界」、「心界」に照応する。では、「理不思議」、「大日如来の大不思議」はなんであろうか。

 それについては以下の手紙と、それに添えられた図(2)を見てみる。

[図(2):南方マンダラ]

 図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長(たけ)、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無 尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍(ふえん)追及するときは、いかなることも見出だし、いかなることもなしうるようになっておる。(明治三十六年七月十八日付)

 これをどう理解したらいいのか。

 まず(a)、この図(2)が立体図ということを頭に入れておかねばならない。 そして(b)、この一つひとつの線(イ)〜(ル)が一つひとつの物と心とが相接した事理を表わしていると了解する。

 (c)これをたとえば、一本の線を一枚の紙に書かれたものとすれば、複雑に絡まった線の塊は、実は何枚もの紙に描かれたいくつもの線が重ねられ透かし見えたとき、みるみると立体的な図へと立ち上がったものである。

 (d)この立体図の中で重要な意味を持ってくるのは、直線と曲線のありようである。一本の線が、そのまま平面であった時には真っ直ぐであっても、重ねられ立体へと立ち上がった時、弧を描く曲線となり、また、曲線は一筋の直線となってゆくのではないか。それはさまざまな「事」が絡み合った時、偶然と思われたものは必然と化し、必然は偶然へと投げ込まれてゆくかのようである。

 そう理解すればこの図は「物」と「心」の相接した「事の条理」が複雑に絡み合った姿を視覚的に表わした図とみえる。そして、そうした「事の条理」の限界に位置し、かろうじて理解できるかできないかの境界線(ル)が、我々の存在の輪郭を形成するものとしての理不思議になる。そこから先はどんなに複雑な線の塊があったとしても、また、なんらかの関与があったとしても、この世に存在する我々には理解できない世界である。

 そして、「大日如来の大不思議」とはこうした図、すべてを成り立たせる器そのもののことを示す。つまり、それこそダーウィンの進化論−時間の秩序性があばき出した生命の起源を、熊楠にとっては意味する。

 明治三十六年八月八日付の手紙に書かれた熊楠の曼陀羅はこれをふまえ、さらに詳細に展開したものである。

 熊楠は「心」と「物」の結節点である「事」そのものの継起的な連続性を、一つの時間的な秩序として見立てようとする。そして、それを仏教哲学にひそむ「縁起」論に重ね、裏打ちすることで導入しようとしている。(図(3))

[図(3): 大日世界]

 はそれなくしてはが起こらず。また果なればそれにともなっても異なるもの、は一因果の継続中に他因果の継続中に他因果の継続が竄入(さんにゅう)し来たるもの、それが多少の影響を加うるときは、(中略)故にわれわれは諸他の因果をこの身に継続しおる。縁に至りては一瞬に無数にあう。それがのとめよう、体にふれようで事をおこし()、それより今まで続けて来たれる因果の行動が、軌道をはずれゆき、またはずれた物が、軌道に復しゆくなり。(明治三十六年八月八日)

 そこでは「物」と「心」が「事」を介し複雑に重なりあった条理として、さまざまな因と果を横断的に絶え間なく響き合い、次々打ち寄せる「事」の波に何が因となり果となり、果となり因となるかすら不分明なまでに、時間や空間の秩序性から離れうねり、そこでは奇妙な音の調べを鳴らす。その時、重要な事。大日如来という器に何かがあるというのではない。

 因果は絶えず、大日は常住なり。に受けるの早晩よりを生ず。大日に取りては現在あるのみ。過去、未来一切なし。人間の見様と全く反す。間また然り。(明治三十六年八月八日付)

 我々にとってここのところの理解が難しい。筆者のとらえ方は、大日如来という「器」にさまざまな因と果が通り過ぎていくというイメージになる。ただこの時、因と果は「大日にとっては現在あるのみ。過去、未来一切なし。」という言葉が示すように、因が過去にあり、その結果が現在に現われるといった時間軸だけではない。因は未来にあり、それゆえ結果が現在に現われるといったふうに、さまざまな時間軸が横転しながら必然と化した偶然として、次々と現れるだろう。打ち寄せる「物」と「心」の波がぶつかり合い、新たな波しぶきとなって飛び散る。その飛沫となった「事」が、絶えまない水面の紋様に一筋の線をあちらに、こちらにとつくりあげる。

 この時重要なことは、「大日は常住なり」ということである。それは、「心」と「物」が「事」と化し、一筋の線を描きはじめた時、何かが(時間が空間が)はじまるにすぎないことだ。

 曼陀羅は知の道具ではない。その時、それは生き方の問題としてあるのだということがわかった時、熊楠は仏教哲学における実践論として−「物」と「心」が相接する「事」としての《人間》となって、大日如来から見返された視線によって、この世に還ってゆく姿がはじめて見えてきたにちがいない。彼にとって、この現世に現われた「事の条理」としての自己をどう自覚するかが、重要な意味としてあったろう。彼の言を聞こう。

 宇宙のことは、よき理にさえつかまえ中(あた)れば、知らぬながら、うまく行くようになっておるというところなり。

 故にこのtact(何と訳してよいか知らず。石きりやが長く仕事するときは、話しながら臼の目を正しく実用あるようにきるごとし。コンパスで斗(はか)り、筋ひいてきったりとて実用に立たぬものできる。熟練と訳せる人あり。しかし、それでは多年ついやせし、またはなはだ精力を労せし意に聞こゆ。実は「やりあて」(やりあてるの名詞とでもいってよい)ということは、口筆にて伝えようにも、自分もそのことを知らぬゆえ(気がつかぬ)、何とも伝うることならぬなり。されども、伝うることならぬから、そのことなしとも、そのことの用なしともいいがたし。(明治三十六年七月十八日付)

 このtactとは何か。もう少し、「事の条理」としての「熊楠」に引きよせてみる。

 一例をいわんに、数量のことは、予期たしかなれば例までもなし、tactのことをいわん。明治二十三年、予、フロリダにありて、ピソフォラという藻を見出だす、これはそれまでは米国の北部にのみ見しものなり。さて帰朝して一昨年九月末、吉田村(和歌山の在)の聖天へまいれば、必ず件(くだん)の藻あると夢みること毎度なり。よりて十月一日、右の聖天へまいりはせぬが、その辺をなんとなくあるくに、一向になし。しかるに、予の弟の出務中なる紡績会社の辺に池をほりあり。(これは小生在国のときなかりしものゆえ、小生知るはずなし。)それに黒みがかった緑の藻少し浮かみあり。クラドフォラという藻と見えたり。それは入らぬゆえ、ほって帰らんとす。されども、何にもとらずに半日を費やせしも如何なれば、どんなものか、小児にでも見せて示さんと思い、とりて帰る。さて顕微鏡で見るに、全く夢に見しピソフォラなるのみか、自分米国で発見せしと同じ一種なりし。(明治三十六年七月十八日付)

 これを神秘的な体験と受け取るとまちがえるだろう。熊楠はピソフォラという藻を発見したことをいおうとしているのではない。彼がいいたいのは、さまざまな因と果の結節点に立ち現われた「事の条理」としての「南方熊楠」はなぜ、そうした藻を研究しようと思ったのだろうか、という問いを自分に発しているのだ。

 彼にとって自分自身である「南方熊楠」がなぜ、こうした植物に本能的に惹かれるのかよくわからない。だが、それ(藻や、粘菌等)は、いつもまるで自分を待ち受けているかのように、不可思議にも次々顕われてくる。それはまるで、自分が見つけ出すのを待っているかのようにである。

 その時、「南方熊楠」は畢竟、それをそうとして受け入れていくものとして、tactする存在にすぎない。そのtactとは、宇宙の「条理」を表現する結節点である。形而上学における表現主義そのもののことである。そこに仏が見えてくる場所がある。

 ご承知のごとく、人間の識にて分かる、また想像の及ぶ宇宙は、大日に比してほんの粟一粒に候間、それは無用の穿鑿(せんさく)と致し候。(明治三十七年三月二十四日付)

 この熊楠の大日如来への讃を、そのまま受け取っていいのではないかと、自分は思うものである。〔原田 健一〕

ウェブ管理者注:本記事中の図(2)については、当研究会による南方邸資料調査の過程で新たに撮影した写真と紹介記事を別に掲載しています。なお、本記事中に図版を掲載した土宜宛南方書簡は、現在は田辺市の所蔵する旧南方邸資料です。

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人魚の話(『牟婁新報』1910. 9)

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 「人魚の話」という短い文章が、南方熊楠にとって果した意味とは何だったのか。神社合祀反対運動という渦の中で彼は何を思い、何をやろうとし、それをどう受け取ろうとしたのか。「人魚の話」にはそうしたすべてが書かれているわけではないが、大きな運動の中で熊楠の資質があからさまに文章となって現われている。

 まず、この文章が生まれ出るまでの事実をスケッチしておきたい。

 明治四十三(一九一〇)年八月二十一日、熊楠は田辺中学校講堂で行なわれていた夏期講習会閉会式に神社合祀推進者県吏田村が来るということで、面会を求めて、酒を飲んだうえで乱入し信玄袋を投げつけ、十八日間の拘留を受ける。この有名な事件は、熊楠があえて酔ってやったフシがある。熊楠は、毛利清雅や弟・常楠の言に従って保釈になり、事を穏便に処理することができたにもかかわらず、あえて事態を大きくし合祀反対運動が公然化することを望んだからだ。この事件については九月二十一日裁判所にて、酒に酔っての行為として無罪になる。そして、熊楠は九月二十四日、二十七日にわったて『牟婁新報』に「人魚の話」を書く。

 むかしの好人(すきびと)が罪なくて配所の月を見たいと言うたが、予は何の因果か、先日長々監獄で月を見た。昨今また月を賞するとて柴庵を訪うたところ、いったい人魚とはあるものかと問われたが運の月、ずいぶん入獄一件で世話も掛けるおる返礼に、「人魚の話」を述べる。(中略)

 相良無武(さがらないむ)とか楠見糞長(くすみふんちょう)とか、バチルス、トリパンソマ同然の極小人に陥れられて、十八日間も獄に繋がるるなど、思えば人の行く末ほど分からぬものはありやせん。(中略)

 群長殿が、年にも恥じず、鮎川から来た下女に夜這いし、細君蝸牛(かたつむり)の角を怒らせ、下女は村へ帰りても、若衆連が相手にし呉れぬなどに比ぶれば、〔「人魚の話」は〕はるかに罪のない咄(はなし)なり。

 熊楠は無罪になったことがよほど嬉しかったとみえ、追い討ちをかけるようにこの文章を書いている。これが風俗壊乱として起訴された時、彼は公判で次のように述べたと牟婁新報記者は述べている。

 小生の「人魚の話」中、相良ないむとか楠見糞長とかあるは無意味にあらず。彼等醜類を指したのである。(中略)ことに楠見などは風俗壊乱を自分でする男で○○○○○○○胯倉(またぐら)に手をやる。また相良の不品行は有名なもので、○○○○○○○○小生は人魚の研究のついでにあてこすりに書いて遣ったものである。(「人魚の裁判−吾社の筆禍公判筆記概要−」)

 こうした流れを見た時、田辺の人間にとってこの異国帰りの変人が味方にとっても敵にとっても扱いにくく、かつまた、被害さえ受けなければおもしろい話題を提供してくれる人間だったことが見えてくる。

 しかし、当人にとってみれば、それが資質であり地であったとしても、それを人々の前でやり続けるにはパフォーマンス的な緊張を四六時中、日常生活の中で持ち続けなければならないことになる。彼は反対運動にのめり込んだ分、その苦痛を安らいあがなうかのように、性の世界へと自らの肉体を消耗することになった。「人魚の話」をいろどる性的な言葉の数々は、ただ彼の資質によるというより、現実との摩擦が生み出したもの。彼の肉体に疼(うず)く生と性とが結びついた叫びとして読み取るべきものにちがいない。

 具体的に文章を追ってみよう。まず、「人魚の話」の第一行目は次のようにはじまる。

 田辺へ「人魚の魚」売りが来たとかいうことじゃ。「頼光源の頼光(らいこうみなものとよりみつ)」の格で、叮嚀(ていねい)過ぎた言い振りだ。

 今これを読む我々は、当時田辺ではまだ、人々はそうした人魚を信じる土俗的な世界に生きていたこと、そして、それを記述しようとする熊楠自身もけっしてその現場から離れず、そうした土俗のありようを言葉としてそのまま着地させることで自らも生きようとしていたことに、注意しなければならない。

 次に熊楠は、『和漢三才図会』を引きながら内外の人魚の伝承をあげていく。が、なぜか、ここでは最初から人魚が人間と魚とがまぐわった子としてあからさまに人と魚との性交が語られていく。

 ナヴァレッテの『支那志』に、ナンホアンの海に人魚あり、その骨を数珠と做(な)し、邪気を避くるの功ありとて尊ぶことおびただし。その地の牧師フランシスコ・ロカより驚き入ったことを聞きしは、ある人、漁して人魚を得、その陰門婦女に異ならざるを見、就いてこれに婬し、はなはだ快かりしば翌日また行き見るに、人魚その所を去らず。よってまた交椄す。かくのごとくして七ヵ月間、一日も欠かさず相会せしが、ついに神の怒りを懼(おそれ)れ、懺悔してこのことを止めたり、とあり。

 マレー人が人魚を多く畜(やしな)い、毎度就いて婬し、またその肉を食うことしばしば聞き及べり。こんなことを書くと、読者の内には、心中「それは己もしたい」と渇望しながら、外見を装い、さても野蛮な風などと笑う奴があるが、得てしてそんな輩に限り、節穴でも辞退し兼ねぬ奴が多い。すでにわが国馬関辺りでは鲼*魚(あかえい)の大きな漁して砂上に置くと、その肛門がふわふわと呼吸(いき)に連れて動くところへ、漁夫夢中になって抱き付き、これに淫し畢(おわ)り、また、他の男を呼び歓(よろこび)を分かつは、一件上の社会主義とも言うべく、どうせ売って食ってしまうものゆえ、姦して殺したところが何の損にならず。情慾さえそれで済めば一同大満足で、別に仲間外の人に見せるでもなければ、何の猥褻(わいせつ)罪を構成せず。

*鲼: [魚+賁]

 熊楠は、人魚という架空動物との性交から現実の魚である鲼*魚(あかえい)との性交通へと一挙に駆け抜け、次のように結論づける。

 このシレン類は、あまり種類多からず、儒艮(じゅごん)属、マナチ属の二属しか現存せぬ。マナチは南米と西アフリカの江河に住む。二属ともあまり深い所に棲み得ず。夜間陸に這い上がり草を食い、一向武器なき柔弱な物ゆえ、前述の通り人に犯されても、ハアハア喘ぐのみ、好いのか悪いのかさっぱり分からず。さて人間は兇悪な者で、続けざまに幾日も姦した上、これを殺し食う。(中略)儒艮の頭ほぼ人に似、かつその牝が一鰭(ひれ)をもって児を胸に抱き付け、他の一鰭で游ぎ、母子倶(とも)に頭を水上に出す。さて驚く時は、たちまち水に躍(おど)り込んで魚状の尾を顕わす。また子を愛することはなはだし。これらのことから、古ギリシア人、またはアラビア人などが儒艮を見て、人魚の話を生じただろうという。

 これはいったい、どういうことだろう。説話が示す幻想領域での異類との性交譚と、現実生活での獣類との性交とは、本来直接イコールで結ばれるものではない。人間にとって、幻想領域と生活世界との結びつきはもっとねじれた錯綜した関係を持っている。熊楠は、人と魚とがまぐわった子=人魚という直線的な関係にすべてを委ねてしまったのであろうか。

 この点について、柳田国男との往復書簡は二人の立場の違いを含みつつ、熊楠が何に引き寄せられていたのかを明らかにしてくれる。

 まず、柳田は土俗的な世界を腑分するのに、『石神問答』で打ち出した共同体と共同体とを分かつ境界という軸を導入する。そして性の世界−男と女という境界から生みだされるイマジネーションを解く糸口として、境神としての道祖神や共同体を越境するものとしての巫女を登場させる。共同体の境がそのまま男と女の境である性にアナライズされていることに着目しながら、人と神との交信を解く。この世とあの世との境を結びつけるものとして現われる、陽物(男根)と巫女(巫祝)。柳田は社会(村落共同体)といフレームを駆使することで、性的な幻想領域を民俗の学として解き明かそうとしている。そこには農政官僚としての柳田の社会学者としての腕力が見える。

 熊楠は柳田の質問−巫女である「熊野比丘尼」や「股の権利」について(明治四十四年十月四日付)答える形で、しだいに神と巫女との関係が、動物と巫女との関係にアナライズされることに着目しはじめる。巫女があらゆる動物と性交していたのではなく、神の使いである特定の動物と寝ていた事実(明治四十四年十月十日付)を梃に、「巫祝(ふしゆく)における動物の装をして神に供えし素女を犯す」(明治四十四年十月二日付)という儀式の持つ意味へと少しずつ少しずつ現実のレベルから幻想のレベルへとさかのぼっていく。あるいは、その時、「素女を犯す」という一点に拘泥すれば、共同体で行なわれている現実的な「股の権利」の問題(「当県東牟郡勝浦港は古来はなはだ淫奔の地なり......」明治四十四年十月八日付)へとそれは拡がっていく。

 熊楠は一挙にさまざまな問題を拡げるようにして事実をあれこれと思いつくままにつなげていく。こうした事実の連鎖を探る中で、突如和歌山大灘地に産するオオナ魚が帰女(おおな)魚に転化し、「人魚の話」冒頭の魚売りによる「人魚」販売となったのではないかと推測を下す(明治四十四年十月十七日付)。この時、熊楠は熊野という場所を己のうちに設定している。そして、その一点にさまざまな事象のレベルを次々と一挙に重ね合わせ収斂することで、現実と幻想が入り交じり混濁してしまった土俗に生きる人間とその世界を、かえって生き生きと甦らせてくれる。

 彼は何より、場所(熊野)にこだわっていたのだ。

 それに対し柳田は、そうした土俗的なイマジネーションを現実の世界から切り離すこと、幻想の領域として自立させることで、土俗の記述と近代文学の接点を見ていたろう。柳田は性的なことを扱うことを拒否したわけではない。熊楠の性の扱い方が気に入らなかったのだ。なぜなら、もし文学という留め金がなければ、土俗を記述することは即現実を記述すること −社会批判として、風俗壊乱に問われることは目に見えていたからだ。

 そこには、治者の学としての民俗学を構想する柳田と、在野における学にこだわり続けた熊楠との違いがある。〔原田 健一〕

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猫一疋の力に憑(よ)って大富となりし人の話(『太陽』1912. 1)

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 南方熊楠の論攷中、文化伝播説によったものとされるものがいくつかある。「マンドレイク論」「さまよえるユダヤ人」「はその代表作とされる。「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」も基本的には、そうした路線の上にのったものといえる。

 しかし、論攷全体を見た時、熊楠そのものは必ずしも文化伝播説で全てを決したわけではないし、また、だからといって独立発生説に与していたわけでもなかった。ある微妙な、とりようによってはきわめて曖昧な態度をつねに保持していた。

 欧州にも耶蘇(ヤソ)教会盛んの日は、各国の古伝みなヘブリューより出でたりというを自慢のごとく心得、次に文学復活以後なにもかにもギリシャより出でしごとくいいはやし、また、十八世紀以後、ペルシャ、インドの学入るに及び、どれもこれもインドより伝わりしごとくいいしが、今日に至っては、かえってインドの古伝中に西アジアより入りしもの多きをいうに及べり。また、アッシリア学盛んになりてより、古インド、ギリシャの文物、アッシリアより入れるもの多きをいい、エジプトとアッシリアに至っては、どっちが原でどっちが次なるを決せず、今にかれこれいい募りおる。しかし人類は最初分派してから、今まで種別を生ずるに至るまでには、長々の孤立を成したものに相違ないから、最初分立せぬうちより伝わりし古伝と、分立後の古伝とあるべし。この分立後の古伝は必ずそれぞれ別かというに、人間の範囲は、全く異なりたること、エスキモー(氷雪の中にすみ、樹木なし)と、マラバル辺の氷雪を見しことなき人ほど異なりたるは、比較的少なく、大抵相似たるもの多ければ、範囲相応に相似たる古伝を生ずるは、当然のことなり。(高木敏雄宛書簡、明治四十五年五月二十三日付)

 南方熊楠は文化伝播説にしろ独立発生説にしろ、こうした学問的なカテゴリーの扱いにどこかで、冷めたところがあった。

 熊楠は、こうした問題を扱う時、まず、民話や伝説等の説話を、一度はつねに語られる物語の原型、プロットタイプに還元することで分析をはじめようとした。それは、一つには、似かよったさまざまな説話を多様に変化したヴァリエーションとして整理し、系統だてるためであった。

 そして、また、同時に、その多様な説話のヴァリエーションは、そのまま植物や動物における同一種の分布、一つの原形体から種々様々に現象化し、棲み分けられた姿とみることもできた。もし、そうした生物学と文学の方法的なアナロジーが可能であるなら、同一のプロットタイプの説話の分布は、そのまま植物や動物が移動し伝播したようなものとして扱われる余地があった。ここの地点に立った時、はじめて説話という文学的な空間を現実の空間へと引き写すことが可能となる。

 しかし、熊楠はこうした構造主義的な分析モードを使うことはあったが、それは数学に基づくものではなかったし、また、そうした分析をしている時でも、文化における物や人の移動という点にもっと引かれるところがあった。

 そうした熊楠の冒険的な想像力を働かせる舞台として、ユーラシア大陸は格好の場所であった。そして、この時、熊楠にとってアジアにおける仏教の存在は大きな意味をもった。なぜなら、彼には漢訳仏典という印度と中国を結ぶ一つの莫大な知の倉庫をすでに手にしていたからである。あとは、印度と欧州とを結ぶことができればユーラシア大陸をめぐる説話のロードを具体的に描くことができた。

 その時、中央アジアから西アジアにかけての世界が遊牧を中心とした、移動そのものを基本意にした文化(カルチャー)形態であったことは、熊楠にとってそうしたことを考えるのにとても有利に働いた。

 ここで、もう少し具体的に「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」についてみてみよう。「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」は、まず英国で知られている成金譚である「ジック・ホイッチングトンと猫の物語」からはじまる。

 ジック・ホイッチングトン少にして孤なり。富商サー・ヒュー・フィツヴァレンの厨奴(ちゅうど)たり。主厨に虐せらるるに堪えず、脱走せしが、道側に息(やす)んで、ボー寺(ロンドン)の鐘の声を聞きしに、ホイッチングトン主家に還らば、三たびロンドン市長たらんと言うがごとし。よって主家に還る。その後ほどなく、主人の持船出向に莅(のぞ)み、ホイッチングトン、唯一の所有物たる猫一疋を船長に委託す。その船バーバリーに到りしに、国王宮中に鼷*(はつかねずみ)多きを憂うる最中なりければ、高価もて猫を買えり。船帰るに及び、ホイッチングトン猫の代金を受け、商売の資本に用い、大富となり、主人の娘を娶り、その業を紹(つ)ぎ、男爵に叙せられ、三度までロンドン市長となりしとなり。

*鼷: [鼠+奚]

 熊楠はこの話が義浄訳の漢訳一切経にあったことをあげ、それが回教圏を通り、欧州へと伝播したことを跡付ける。この時、重要なのは猫という動物である。なぜなら、「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」は最初義浄訳の仏典では、猫の役割は鼠であったからだ。そこには、ヒンズー教、仏教ともに猫を嫌い、鼠を神として拝していた風習がある。しかし、その話が回教徒に伝わった時、彼等が猫を愛する風習のあまり、説話の中での役割を鼠から猫へと変えてしまったと、熊楠はいう。これについて、すでに、カーメン・ブラッカーが指摘してるように、熊楠はあえてヘロドトスの『歴史』の中にある鼠の記述を見過ごし、この鼠から猫への転移を組み立てた節がある(「ヘロドトス」の項参照)。もし、それがそうであるなら熊楠はそうしてまでも、物語の構造の側から説話の姿を眺め、ある一つながりの説話の道(ロード)を表わしたかったことになろう。

 しかし、ひとたびそうした説話を構造の側から眺めるだけでなく、そうした説話が現実の生活の中で着地する側から眺めて見たとき、「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」は別の様相を呈してくる。

 それは移動を文化そのものに組み込んだ社会における、物質的な基盤である動物の存在である。この場合、動物と人間の関係は家畜の問題として見えてくる。動物の人間化である家畜。そこに、人と動物の切っても切れない関係がある。

 こうした説話のロードを通して現れる、動物と文化の移動の分かち難い関係。熊楠は誰よりもこうした動物をめぐる民俗に精通するものだった。ここに次の文章を掲げた時、日本に帰ってからの熊楠の主題−『十二支考』への道が、民俗を採訪するフィールド・ワーカーの姿をともなってしだいしだいに浮かび上がってくるだろう。

 本邦上古、蛇、狼、虎等を神とし、はなはだしきは皇極天皇の御時、東国民が、大生部多(おおいくべのおし)に勧められて、橘樹等に生ずる常世(とこよ)の虫を神とし、祭って富と寿を求めたることは、伴信友の『験の杉』に述べられたり。されど後世にいたっては、直接動物そのものを神とし拝するは稀(まれ)にて、多くは神仏、法術等によって、多少の宗教的畏敬を加えらるるに過ぎざること、まことに山中氏が述べられたるごとく、それすら、目今旧を破り故を忘るるの急なるに当たり、この辺僻の地(紀伊田辺)にあって、いずれが果たしてすでに過去の夢となりおわり、いずれが今も行なわれおるかを判断するは、望むべからざることたるをもって、しばらく管見のまま、現時なお多少そのかつて崇拝されたる痕跡を留存するらしいと思わるるものをここに挙ぐべし。(「本邦における動物崇拝」)

〔原田 健一〕

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邪視関係論文

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 南方熊楠は邪視について、さまざまな論攷の中で触れているが、比較的まとまったものは、次の四つのものである。

 (1)〜(4)はそれぞれに内容的に重複しながら、細かな所で微妙な違いを見せているが、ここでは(3)「悪眼の話」を中心にすすめたい。理由は、この(3)が、邪視についてだけ書かれた(他のものは、邪視以外のことについても多くのページを割いている)唯一の論攷であること。また、熊楠の英文論攷を巧みに配置して、それがすべて邪視という一つながりの中でのさまざまな現象として扱われているからである。

 まず、「悪眼の話」のはじまりは、わが国ではなぜ船に「丸」をつけるのかという問題である。それを解くにあたって熊楠は、かつて「丸」が男子自称の謙辞だったことを述べる。そして「丸」が不浄を容れる器であった事実を梃にして、不浄の名をつけることで鬼魔を避けたのだという。次に、それを受けつつ「魔除と籠」で、籠が同じような魔除けの意味があったと述べる。

 ではなぜ、「丸」と名づけることや「籠」が魔除けになったのか。熊楠はエルウォーシーの『悪眼論』(一九九二年、リブロポート刊)を引き、悪念をもって眼、ものを見る時、人を害することが、そうした現象の底にあると指摘する。こうした悪眼あるいは邪視、視害といったことは、さまざまな国・民族で共通して行なわれていると、次々と挙げる。

 この時、そうした邪視を避けるもっとも効果的な方法として現われるのは、性器、特に女陰である。なぜなら「悪眼ある者一生懸命に睨み詰めんとするとも、女陰を見るとたちまちその方へ眼力を引き去られる、あたかも避雷針の力能く落雷を誘き去って電力を消散するごとし」だからである。

 そこから熊楠はさまざまな現象−とくに身を飾りたてる化粧・衣装、装身具について、事例を挙げてみせる。たとえば、インドにおいて婦人がその瞼にカジャルという黒い画料を塗って顔を汚すことで視害を防ぐことや、かつて日本人がかぶっていた烏帽子が邪視をさけるために、女陰をかたどったものであったこと等々......である。

 現代の我々にとって、視ることと性との関係は、ポルノグラフィーの問題としてあるにすぎない。熊楠は、そこに、古代的な宗教のありようを邪視という変換項を導入することで嗅ぎ当てる。

 この時、重要になってくるのは、なにゆえ人は眼で見つめられることに害あると考えたかである。ここでの熊楠は(3)「悪眼の話」と(2)「蛇に関する民俗と伝説」では若干のニュアンスの違いがある。

 まず(3)では、神の眼に大いなる力を認めていたことから入り、眼で人を操る催眠術師の記述。そして、動物中、とくに蛇、獲物を睨んで相手の身動きを止め、食する事実。といった具合に、神・人・蛇に共通する眼力が列挙されていく。そこには眼になにがしかの力が宿っていることが暗示されている。

 ところで(2)では、より蛇という局面が拡大されることで、もう少し違ったニュアンスが加わっている。

 『塵塚(ちりづか)物語』は、天文二十一年作という。その内にいわく、「ある人のいわく、およそ山中広野を過(よぎ)るに、昼夜を分かたず心得あるべし。人気罕(まれ)なる所で、天狗魔魅の類、あるいは蝮蛇を見つけたらば、逃げ隠るる時、必ず目を見合わすべからず。怖しき物を見れば、いかなる猛き人も頭髪立ちて足に力なく振るい出づ。これ一心顛倒するによりてかかることあり。この時眼を見合わすれば、ことごとくかの物に気を奪われて、即時に死するものなり。外の物は見るとも、構えて眼ばかりは窺うべからず。これ秘蔵のことなり。(中略)

 蛇が物を魅するというは、普通に邪視をもって睨み詰めると、虫や鳥などが精神恍惚(とぼけ)て逃ぐるあたわず、蛇に近づき来たり、もしくは蛇に自在に近づかれて、その口に入るを言うので、鰻(うなぎ)が蛇に睨まれて、頭を蛇の方へ向け游(およ)ぎ、少しも逃げ出すあたわなんだ例さえ記されある。(「蛇に関する民俗と伝説」)

 ここで熊楠は何気なく、すっと、人を生物的な次元に置いてみせる。そうした時、蛇にとって、人はたんなる食物にすぎない。咬えて食べるのに、牛や馬となにほどの違いがあろうか。

 すべては、巨大な生命の食物連鎖の一コマにすぎぬ。我々はそこまで退却した時、はじめて、人と動物とがまだ共生していた時代へと遡ることができるだろう。そしてそこでは、それゆえの交感、コミュニケーションがある。人と動物とが、互いに生存していくために自らの生と死をかけ、いやおうなく相接し、また時に離反せねばならなかった、必死の姿が邪視という民俗を通して見えてくる。

 熊楠は邪視という人類共通の眼への恐れをこじあけ、我々のうちに眠る動物としての記憶に触れ、起こそうとする。そこには我々にとっての故郷(ふるさと)がある。どこまで遠くにいっても離れることのできない、抹消することのできない過去があるからだ。〔原田 健一〕

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トーテムと命名(『民俗と歴史』1921. 6 / 1921. 9)
南紀特有の人名(『民俗と歴史』1920.11)

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 南方熊楠はフォークロアを西洋で直に学んだ、多分、最初期の東洋人である。まだ、それが学問として定立する前から英国博物館という、イギリスはロンドン、帝国主義の最先端の情報センターで、書物だけでなくさまざまな物に触れながら学ぶ、恵まれた場所を得たものである。

 だが、それゆえに、同時にそれは、ヨーロッパ人の文明の先端にいるという無意識の前提による視線を知的に浴びる場所でもある。未開の国の人々の社会を知的な好奇心によって探索するという姿勢を、どこかで対人関係的に、皮膚的に実感せざるを得なかった。なにより、熊楠自身がそうした未開の国の一民族の代表としてあったのだ。

 熊楠はこうした時、学問的には、つねに人間の持つ社会規範の共通性を持ち出すことで、彼我の同位を示し、日本人の気概を表わさんとしつづけた。熊楠のそうした作業は自分の生まれた場所を、一度、外の目をもってとらえなおさなければならない、ある苦味を自らにもたらした。彼はそのなかで自らの出自を、時には誇りに思い、時には負い目にも感じる中にいたといっていいだろう。

 当時、ヨーロッパの民族学会を賑わしていたトーテミズムの問題についても、彼は同じように自己の問題としていやおうなく直面していた。

 totemは形あるものにあらず。支那の古書にも「木姓、風姓あり、また竜をもって官に名づく」、わが国にてなお国々楠をもって名とするもの多く(元弘ごろに紀千代楠丸、また正慶中に紀犬楠丸あり。犬楠丸の券書を見るに、文中に犬楠丸、著名に犬楠とあり。かかる略用より熊楠など生ぜしならん)、また諸神の氏子おのおの某の生物を食うを忌む等のことあるはtotemの遺風と存じ候。このことは、現今豪州土人にもっとも盛んにて(fetishはアフリカ土人に最も多く行なわる)、攻伐など多くこのことより生ず。豪州土人は、今に男女交合と産子とは何の関係なしと信じ、かの黄帝の母が電を見て感じ孕み、后稷の母が巨人の跡を見て孕みしなどいうごとく、子は神霊ある某物の授くるところと固信す。交合するごとに子を孕まず、また人によりやりつづけにやりながら子できぬものあればなり。ドイツの小児は今も鸛(こうのとり)より生ずという者多し。これらの信よりtotemは生ぜしなりとて、英人フレイザー氏近著『トテミズミおよび外族婚』と題せる大冊二巻あり。小生購うこと能(あた)わざれども、大意は雑誌の批評にて見申し候。(柳田国男宛書簡、明治四十四年三月二十六日付)

 まず、自らの出処進退を明らかにする。そして他の未開諸国をあげ、欧州にも同じ習いがあったことを挙げる手つき。それはそのまま「トーテムと命名」においても踏襲されている。ここで、熊楠はトーテム信念の起因を、いわゆるトーテムと個人トーテムとを弁別した形で挙げてみせている。

 トーテム信念の起因については学説一定せず。あるいはいわく、「初め形相動作の似たる等より、物名を人名としたこと多し。猛き人を虎、鈍者を亀というごとし。後世これを心得違うて、わが祖は虎、汝は亀の裔と信ずるに及ぶ」と。予幼時、支那史を学んだ時、帝舜が使うた才子八元中の伯虎(はくこ)、仲熊(ちゅうゆう)、叔豹(しゅくひょう)、季狸(きり)を、人でなくて獣類と心得、同学中に土蜘蛛、打猨*など『書紀』にあるを、まるで動物と信じおった人もあったから推すと、無理からぬ説だ。あるいはいわく、「男女交会するごとに必ずしも子を孕まず。また一生長くつれそい、不断和楽しながら子なき者多し。されば蒙昧の世の人は懐妊を不思議の極とし、男女交会にいささかの関係なく、異物奇象に感じて始めて孕むと信じた者多し。かくて生まれた子は、その母を感じ孕ましめた物をその父と信じ、その後裔みなその物を祖として敬う。これその一族のトーテムだ」と。(「トーテムと命名」)

*猨: [けものへん+爰]

 この妊娠における父親の役割の無知、あるいは否定という問題から、当時の民族学は社会における女系列と男系列社会の役割とその分化に着目することで、トーテム問題を親族問題へとスライドさせていった。が、熊楠はそうした問題はあっさりとくぐりぬけ、「命名」という問題へと早々と移ってしまう。

 彼がトーテム問題で興味をもったのは名前の分布である。それは、そうした名前が現に自分の目の前の社会に生き生きと存在しているからであり、生物学的な方法をそのまま社会学的な技法としてスライドできたからでもある。ここで彼が統計という数学的な手口を使えば、本格的な社会学として、彼の学が成り立ったはずである。しかし、ここでも彼はあっさりと、そうしたことを打ち捨て、結局は自分の出自へと立ち戻るのである。

 楠の字を人名につけることについて、予は明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号の三一一頁(「出口君の『小児と魔除』を読む」)に次のごとく記した。いわく、「今日は知らず、二十年ばかり前まで、紀伊藤白王子社畔に、楠神と号し、いと古き楠の木に、注連(しめ)結びたるが立てりき。当国、ことに海草郡、なかんずく予が氏とする南方苗字の民など、子産まるるごとにこれに詣で祈り、祠官より名の一字を受く。楠、藤、熊、などこれなり。この名を受けし者、病あるつど、件の楠神に平癒を祷る。知名の士、中井芳楠、森下岩楠など、みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ、今も海草郡に楠をもって名とせる者多く、熊楠などは幾く百人あるか知れぬほどなり。予思うに、こは本邦上世トテミズム行われし遺址の残存せるにあらざるか。三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子胡瓜(きゅうり)を食わず、金毘羅に詣る者蟹を食わず、富士に登る人鰶*(このしろ)を食わざる等の特別食忌と併せ攷(かんがえ)うるを要す」。(「南紀特有の人名−楠の字をつける風習について」)

*鰶: [魚+祭]

 熊楠には、「トーテム」という文化人類学の概念に当てはめられるような宗教的な感情が、「楠」の木という植物を介して存在していた。それは否定しようのない事実であり、また、熊野には今なお、自分と同じような意識を共有する一族がいたのである。

 スキートおよびブラクデンの『ベーガン・レーセス・オブ・ゼ・マレイ・ペニンシュラ』の二の三頁以下に、セマン人の子生まれた時、その場に近く見えた木をもってその子に名づくる。さて後産をその木の下に埋めるや否、その子の父が地上より胸の高さに至るまでの間、その木に刻み目をつける。カリ神、自分が倚って立つ木にもかかる刻み目をつけて、人一人地上へ送りつけた紀念とするを表わす。この木を伐らず。またその子生涯これと同種の木を害せず。またその実をも食わず。ただし女が孕んだ時、その子の名とする木を見に行き、その実を食う。東セマン人に至っては、自分も木と同時に死すと信ずる、とある。わが邦風も昔はこんなであったではないか。(「トーテムと命名」)

 この引用に、水原尭栄宛書簡に書かれた、 「小生は藤白王子の老樟木(くすのき)の神の申し子なり(昭和十四年三月十日付)」 という言葉を裏打ちすれば、彼にとって、トーテムが学問の問題としてより、自分の生の問題としてしかありえなかったことがわかる。

 そこには一度は西欧という場所を経ることで、自らの出自を批判的に見直す苦痛を負った者が、再び、自らの場所へと帰って行った姿が見えてくる。〔原田 健一〕

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巨樹の翁の話(『土の鈴』 1922. 6 - 1923. 2)

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 「巨樹の翁の話」は、紀州日高郡上山路村大字丹生(みぶ)川の西面導氏から、竜神村小又川の不思議として聞き書きされた話からはじまる。

 東のコウ(谷)のセキ(谷奥で行き尽きるところ)に大ジャという地に、古え数千年の大欅(けやき)あり。性根のある木ゆえ切られぬと言うたが、ある時やむをえずこれを伐るに決し、一人の組親(くみおや)に命ずると八人して伐ることに定めた。カシキ(炊夫)と合して九人その辺に小屋がけして伐ると、樹まさに倒れんとする前に一同たちまち空腹で疲れ忍ぶべからず。切り果たさずに帰り、翌日往き見れば切疵もとのごとく合いあり。二日ほど続いてかくのごとし。夜往き見ると、坊主一人来たり、木の切屑を一々拾うて、これはここ、それはそこと継ぎ合わす。よって夜通し伐らんと謀れど事協(かな)わず。一人発議して屑片(こっぱ)を焼き尽すに、坊主もその上は継ぎ合わすことならず、翌日往き見るに樹は倒れかかりてあり。ついに倒しおわり、その夜山小屋で大酒宴の末酔い臥す。

 夜中に炊夫寤(さ)めて見れば、坊主一人戸を開いて入り来たり、臥したる人々の蒲団を一々まくり、コイツは組親か、コイツは次の奴かと言うては手を突き出す。さてコイツはカシキ(炊夫)か、置いてやれと言うて失せ去る。翌朝、炊夫、朝飯を調(ととの)え呼べど応ぜず、一同死しおったので、かの怪僧が捻(ひね)り殺しただろうという。今に伝えてかの欅は山の大神様の立てた木または遊び木であったろうという。

 熊楠はこの「切っても切れない樹」という説話の類型を基にしながら、少しずつ異なったさまざまなヴァリエーションを挙げていく。我々はしだいしだいに次々とあらわれていく類話を読み継いでいくことで、その底に流れる樹木にやどる霊の観念へと思いいたる。そして上古、この日本に樹を神と崇め、樹木の繁栄が同時に国土の繁栄として念じられていたところへ根を垂らす。

 そして、次の言葉、

それがおいおい人間も殖え、生活上の必要から家を建てて田畠を開くに大木が必要となり、または邪魔になるよりこれを伐らねばならぬ場合に及んで、旧想を守る者は樹神が祟りをなすを恐るるところから巨樹の翁の譚などできたのだ。

を目にした時、我々は村々に散在しせていた神社の森を愛し、合祀反対運動をせざるをえなかった熊楠の思いを見ることになる。だが、熊楠はここでは、そう結論づけたあと、再び世界的な樹木神話へと話を開展してしまう。そして、その樹木の垂直的な姿が引き起こす「大樹と天」の関係や、大樹の広がっているさまから惹起(じゃっき)する「世界樹」的な観念、等々へと筆をすすめていく。どうやら、こうした時、熊楠の頭にあったのは、J・フレイザーの『金枝篇』であったようだ。

 しかし、そこに見られるフレイザーと熊楠の違いとは何なのだったか。この点について、もう少し詳しく見てみよう。

 フレイザーは、『金枝篇』においてまず「あらゆる自然物に精霊が宿っているという古代人の信仰があった」ことからはじめる。そして、「樹木に精霊が宿っているという、樹木と植物の崇拝」へと述べ、樹木の形姿や生長が引き起こす宗教概念が、そのまま王の宗教的な権威としてアナライズされていることへ説きおよぶ。話の筋だけを見比べれば、熊楠がフレイザーの議論を踏んでいることはわかる。しかし、論から受ける二つの文章の印象は大きく違う。

 まず、『金枝篇』の方はターナー描く「金枝」という絵を解きほどくところからはじまり、「森のディアーナ」に隠された宗教と王権の物語を解くとして、世界中のあらゆる所から集められた文献を探り、知的な推理力を働かせてさまざまな民族的イマジネーションのありようを説き明かす一環として《樹木》が謎を解く一つの鍵として取り扱われていることである。こうした議論の展開の裏にはフレイザーが実際にフィールドワーカーとして話を聞き、また、樹木に触れたところで論を組み立てていたのではないことがある。

 それに対し熊楠はつねにフィールドワーカーとして、自ら聞き書きし、森林を跋渉する。つまり、熊楠にとっての《樹木》とは紀州の山々に実在する樹木として、そのそばを歩き、手に触れ、匂いをかぎ、憩い、ついでに小便をしたものとしてある。論を進めるにあたって彼はなによりも、自分が眼にし、手で触れ、感応した樹木へのエロスをさまざまな事象を並べていく行間に埋め込もうとしている。その時、彼は「切っても切っても、切れない樹」という説話を解析するようで、本当は何もしていない。最初から「切っても切れない」という、樹木が生きのびようとし、切ろうとする人間に向かってさまざまな形で要害する様だけが、手を替え品を替えヴァリエーションをともなって延々と続くだけだ。

 この時、それを読む我々はある二つの感慨に襲われる。

 一つは樹木の持っている生命力。その延々と生き続ける姿が人々に喚起する、不老不死のイメージである。これに対して熊楠は、論理ではなく樹木(事物)のエロスにひたすら量的に埋没し、堪えることで不死というロマンにあらがうものとして現われる。

 もう一つは、これとはまったく反対の姿勢である。「切っても切っても元に戻る樹」という説話のヴァリエーションとして差し込まれた「木が傷ついて血を流す」がこれをよく表わす。

 木が傷ついて血を流すの、樹を伐れば樹の精が遁(に)げ去るのなどいうことは支那の外にも多い。エストニアやシルカッシアに樹神が牛を繁殖せしむという俗信行われるより考えると、支那でもかかる想像から牝牛に化けるとしたものか(フレイザー『金枝篇』一巻一章参照)。本邦にも丑の時詣りを大牛が道に横たわって遮るというは、もと樹精は牛形で、自分が宿る木幹に釘を打たるるを防がんとての行為という意味かも知れんて。梁の任昉*(にんぼう)の『述異記』上に千年の樹の精は青牛となるとあるは、『捜神記』に百年と見ゆると違う。

*昉: [日+方]

 つまり、この「樹の精はもとは牛形(動物)であったかもしれぬ」という熊楠の言明を支えるものとは、樹木を前にし、その形から現われる生命の真のありようを、次々と変態してやまぬ粘菌のように、植物や動物といった分類を越えたものとして形の内奥に向かって退却し、また、自らも樹木に同化しようとする意識である。そこではあらゆる生命に斉(ひ)としく、人の血潮が脈打つように蠢動(しゅんどう)する、生温かな吐息(エロス)に呼応しようとする身体がある。

 この矛盾した事物とエロスへの嗜好と態度。彼は見る者であると同時に、それをまず生きんとするものであるのか。そこに何事かに引き裂かれた熊楠の姿が映る。〔原田 健一〕

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鷲石考/孕石のこと("Eagle Stone", Notes and Queries, 1923. 6.21/1923. 6.28/1923. 8.4/1923. 8.11/1923. 8.18/1923. 8.25)
(「鷲石考」『続・南方随筆』 1926.11 / 「孕石のこと」『性之研究』)

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 「鷲石考(しゅうせきこう)」は『ノーツ・アンド・クエリーズ』誌に載せられた質問 「イギリスで出産時、鷲石を腿に括り付けると安産の助けになる」(W・J・チェンバーズ)ことについての答えとして、掲載されたものである。熊楠の言によれば、それはすでに書かれていた「孕石のこと」(『性之研究』)と未刊の「燕石考」より採り作成したものだという。そして、それをさらに『続・南方随筆』に所収するために、自ら復訳したものが日本語の「鷲石考」である。

 「鷲石考」は前半は「鷲石について」として、西洋における鷲石をめぐることについて述べ、後半、鷲石という名前ではないが東洋において、同じ形態のものとしてある「禹余糧(うよりょう)等について」をみるという形で、西洋と東洋の二つを比較する構成になっている。この時こうした比較を可能にした「西洋」と「東洋」との二つを貫くものとは何だろうか。

 それは、<鷲石>の形を通して事物の本質へと至ろうとする形態学的な視線である。西洋の博物学の洗礼を受けたことで学んだ可視的な表徴性を見分けようとする学者の眼ではなく、それ以前−幼い時から漢学的な素養として身につけ培われた画を描こうとする時の視線である。論文、抜書、手紙、日記などに書き込まれた数多くの画。熊楠はそうやって培ってきた、眼に見えるものを通して眼に見えないものの本質へと到ろうとする東洋的な文士の教養をけっして手放してはいない。

 ここで、論文の筋をざっと見ておこう。

 まず、「西洋で鷲石というは、褐鉄鉱またそれより成った岩石が、多少円くて中空、そして空処に土や砂や小石を蔵したもの」だとその形を手がかりにしながら、「その産地近くに多く鷲が住み、その巣からこの石が見出されたこと(中略)、又、その石の姿が母胎に子を宿したに似たること、鷲(動物)が子を育てた話とが、鷲と子孫繁殖を連ねた信念に、混交して(中略)東西に例多き『似た物は似た患いを救う』という療法、類感呪術の一種として、これを身に括り付けおけば、どんな孕みにくい女も孕み、又、産婦の腿にこれをつければ速やかに安産するとしたのだ」と、人間の子を孕むという形態の相似性に着目しながら、鷲「石の形」と鷲の「卵」との類似性に説きおよんでいる。

 そして一転して、東洋では「鷲石は、鷲が巣内に持ち込みその孵化を助けているという信念はない。しかし鷲石その物は和漢ともにある。太一禹余糧(たいちうよりょう)など呼び、その形が母胎に子を蔵するに似るを見て、西洋人とひとしくやはり催生安産の霊物とした。また西洋とちがい、この石の中にある砂土が穀物の粉に似たることより、これを古聖賢が食い残した糧食と信じ、おいおいこれを食えば長生して仙人になり得、と信じた。(中略)そしてそこから、太一禹余糧の外にも、古人の食い残した物が石に化して、今にありという現品と伝説が諸邦に生じたのだ。また、古人が食い残した物が化石せず、復活して今に相続蕃殖しおるという現品と伝説も多くある云々」。

 ここでの鷲石をめぐる西と東のイマジネーションの違い。西洋において鷲石の<鷲>が性欲と結びつき子孫の繁殖とつながるのに対し、東洋においては鷲石は特殊な<石>として呪物として、あるいは薬効あるものとして博物学即医術の世界に位置づけられる。そうした差違を、鷲「石の形」そのものが孕んでいることを熊楠は右と左の両方の眼で見る。

 そしてさらに熊楠は、石の中に石を内蔵するという鷲石の、<卵>に相似た形姿に着目することで、母胎に子を宿した人間の形姿の相似という、アナロジカルな思考を重ねてみる。そこでは鷲石が引き起こすイメージを探ることは、即、人間が孕みもつ性と生の誕生の洞察となり、同時に、その石の丸い形(球形)というものが視覚的なイマジネーションとして石と魂(霊)の形の相似を連想させることへと、いくつもいくつも輪を重ねていく。

 熊楠はこの論文で二つのことをしている。ひとつは「鷲石」という物を介することで人間が引き起こしたイメージの筋道のありようを探ろうとしている。もう一つは「鷲石」をめぐる東洋と西洋という地理的な分布によって、そのイメージの現われようの違いを見る。この二つの異なった方法的な視座をクロスさせることで「鷲石」を人間の心の中に浮かび上がらせているのだ。

 この交差した複眼的な視線に熊楠の文章を解く時の難しさがあるのだが、ここでもう一つ「鷲石考」について「こちら側の問題」(『全集』第二巻解説)で益田勝美が述べている折口との絡みについて触れておきたい。

 まず、益田は熊楠的が眼をとめている「石の内部の空洞に石がある」という「鷲石」の形態にそそぐ視線が、折口に受け取られたことを指摘する。そして、そこから折口が、鷲「石の形」における「石の中に石がある」という形が人間の母体構造と類似していること。また、鷲の「卵」に相似しているという二つの形態の類似から、ある飛躍的な連想をしたという。折口はそこに我々日本人にとって魂の「形」とは何かという問いを置いた。我々の日本語に残された魂の形を意味する「こころ玉」を介して「魂の内在するものと信じられた玉」という物に向かって折口独特の言語論が秘かに発動し、思考がアナライズされたと益田はいう。

 そうした熊楠から折口への線というものを想定した時、たとえば折口の「霊魂の話」で繰り広げる魂と玉とが結節するものとして人間のように生長する「石」という言語と事物をめぐる物語に、謡曲「谷行」が貫かれた時、「霊」というものに対する熊楠との解釈の違いもあまりに決定的だったといっていい。

 折口はそこでは、石の中に人を包み込む石こづめの風習(石のなかの人<魂>という形態)を媒介としながら、修験道の行者の中で悪いことをしたものを谷から落とし、石をもって打ち殺し石こづみにすることを、新たな生の復活の儀礼として刑罰が行われていたと述べている。折口は魂と玉が結ばれあらわれる石の意味に、死とそこからの再生というドラマを見る。

 謡曲の「谷行」です。此をたにかうと読んだのには意味があると思ひますが、其に就いて申すことは今は控へませう。ただ、此は山伏の死んだものを谷に棄てる事だと考へるのは、却つて謡曲から出てゐる考へで、其よりも、松若が後に復活をしてゐる事に注意すべきだと言ふことだけを申して置きます。要するに、真床襲衾(まとこおうふすま)に於けると同じ様に、ものの中に這入つて、完全に魂の身にくつつく時期を待つたのですが、石の中には這入れぬので、石を積んで其中に這入つたのだと思ひます。(「山の霜月舞」)

 ここで折口は、「鷲石」から<魂>の問題を引き出した線上から「天皇霊」の問題へと、視線を投げやってみせている。

 こうした時、熊楠はもっともそうした王権的な美意識を嫌ったものである。彼にあるのは、そうしたイメージの形而上学ではない。以下、岩田準一宛書簡に述べられた「谷行」をめぐる言説を並べてみよう。

 「『谷行』という謡曲あり、御存知ならん。少年が峰入りの山伏一行に加わり、登る途中で病めば、必ず生きながらこれを谷に陥し、上より土石をなげて埋め了るという厳法ありしなり」(昭和七年十一月八日付)

 「石子づめのことは、小生かつてしらべたることあり。高野山等にては寺領内の不逞の徒をこの刑に行ない候(僧徒にしてはなはだしく不如法なりしもの、また寺領の民にして寺法に反抗せしものなど)。小生二十歳のとき、三好村という所の紀川(きのかわ)岸に、戸屋新右衛門とかいう人の後裔を尋ねしことあり。これは植木枝盛氏の『東洋義人伝』とかいうものに出づ。高野領の課税がことのほか苛刻なるを幕府に訴え、苛法は除かれしも、寺法を行ない石子詰に処せられたりという。貴著書に見える稚児の石子詰はすなわち谷行にて、嗷訴等の罪を犯せしを必とせず、『谷行』の謡曲に見ゆるごとく、途中、病気、負傷等にて一同の迷惑になりしものを、止む得ず生埋めせしことと存じ候。かかることは、今日では偽説のごとく聞こゆるならんも、現に伏見敗軍の節、幕士が重傷負いたるその父の首を刎(は)ね、腰に帯びて紀州路を下り来たりしを、小生の母が目撃して、毎度落涙して咄(はな)され申し候」(昭和八年一月二十八日付)

 「ついでに申す。落城とか、自分が追放さるるとかの時に、最愛のものが敵の手に落つるを憂いて、納得させた上、または欺きて、寵愛の男女を谷に落し滝壺に沈むるほどのことは、いかほどもあるべし。今日もアフリカやアメリカの土蕃の間にはしばしばきく。つまり殷紂(いんちゅう)が玉帛(ぎょくはく)を衣てみずから焚死し、平家が宝剣と共に海底に沈み、また松永久秀が自殺する前に、信長が垂涎(すいえん)する平蜘(ひらぐも)の釜を打ち破りしと同じ覚悟なり。君寵を得る童は殉死を覚悟し、僧兵に囲われた若衆は谷に沈むくらいのことは覚悟せねば、戦国などには相応の立身も出世もならざりしことに候」(昭和七年十一月十二日付)

 熊楠が注目するのは、謡曲「谷行」における稚児(「鬼女谷行」もある)の存在である。また、その稚児という男の道にとって最愛のものを、生き埋めにしなければならない現実のもつ厳しさでもある。それは時に飢餓であり、時に戦といった形で現われる生存することの困難さであり、厳粛な現実そのものの姿でもある。己のちっぽけな心情や倫理的な価値判断を越えたところで、自らの出処進退をきわめねばならぬ人の生き様そのものへの注視である。

 この時、熊楠はさまざまな民俗的な事象の裏側に横たわる、一個の自然としてある人間の生死のありようを、けっして手からこぼすまいとしている。〔原田 健一〕

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『南方閑話』(1926. 2)『南方随筆』(1926. 5)『続・南方随筆』(1926.11)

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 『南方閑話』『南方随筆』『続・南方随筆』という生前に刊行された著作は、今日、平凡社版『南方熊楠全集』第二巻に収められている。

 この本を開いた時、この一種雑然としたさまざまな文章の羅列という姿に、熊楠が持っていた試行のありようが、その到達点と共に限界点となって見えくる。

 それは、南方熊楠個人のというより、日本における近代的な学問の到達点であり、限界点でもあるところに、熊楠の文章を受け取る側の難しさが横たわる。

 熊楠が書いたさまざまな文章は、なんらかの形で互いに呼応し合うという前提で書かれていたことは、注意されなければならない。ひとたび、こうした文章が発表の場から切り離されてしまうと、きわめて雑然とした、熊楠一流の気ままなものに見えてくる欠点が彼の文章にはあった。そして、結果的にはそれがそのまま、文章を集積し一冊の本にした時、『−閑話』であり『−随筆』であり、といった題を付けなければ出版できない、学問的な姿・スタンスがあった。

 これをどう受け取ったらいいか。熊楠は、ただ読み手へ、不愛想にこの三冊の本を投げ込むだけである。

 そこで、ここではまず、熊楠の文章を通覧した時見えてくる方法と内容を分けて考えてみよう。

 まず、方法である。熊楠がさまざまな民俗的な事象を連ねていく一筋の方法的な糸とは何なのか。熊楠はさまざまな民俗の事象に分け入る時、その一つひとつの異なった事象を結びつけるものとして、「アナロジー」と「想像力」とを置く。そしてこの二つを中心として、ある奇妙な図形を描いているように見える。

 ここで、こうした方法的な問題について語った土宜法龍宛書簡を見てみよう。

 人間の智恵の至微下劣なる、真同一、真符合等の物を見ること能(あた)わず。またその想像だになすこと能わず。故に、世間、人間の理屈、理想は、みな影応論理(アナロジー)による。四季に序あるをもって天地もまた序あるを察し、介殻(かいがら)の堅固なるを見てみずから用心する人の堅固なるを見るごとし。(中略)この人間世のこと多くは、否、全く実は影応論理のみにて、符号ということ一もあることなし。たとえば、幾何学にイロハ、イ’ロ’ハ’の二の三角形あり。その三辺相等しければ(イロ=イ’ロ’、イハ=イ’ハ’、ロハ=ロ’ハ’)、この二の三角形は等しという。等しといわば可なり。世には同じというなり。決して同じきことなし。第一に墨にて画ける色の濃淡の差あり。第二に線の太少の違いあり。ゆれあんばいの差あり。およそちがうものなり。ただ同似の部分あまりに目立つから、同じというのみ。実はこの世に符合同一ということは一もなし。(明治三十六年八月二十日付)

 こういい切った時、熊楠はこの世のすべての事物をひとしく見渡す博物学者としている。この最後に書かれた「実はこの世に符合同一ということは一もなし」という溜め息とも、この宇宙・自然への感嘆の念とも受け取れる言葉を噛んだ時、彼はさまざまな事物を連ねる一筋の糸を見つけようとしている。その時、事物へと還(かえ)っていく微細な視線は、差異にではなく、類似(符合同一)へと向かっている。そこに、自然を一つの全体として受け取ろうとする意志を見ることはたやすい。

 だが、熊楠の前にあったのは、自然を個の実相において把握しようとする近代的な学問でしかなかった。彼はすでにでき上がっていた、西洋で成立していた動植物や鉱物への分類コードに異をとなえたかった。熊楠はこの手紙で、菌類について自らの体験をまじえた話を記し、いかに「もの」と「もの」との間に境界線を引き、区分することが困難かを示している。

 こうした時、熊楠にとって近代的な学問からこぼれおちてしまった、事物にまとわりつく民俗的なさまざまな想像力は重要な意味を持つ。それはけっして非科学的な理由のない考えではない。事物の持っている微細でいて、しかし本質的な差異が、人々の持っている想像力に訴えかけたのではないか。事物への、今日からすると一見奇妙な誤謬を含んだアナロジカルな想像力が、「もの」と「こころ」との間で駆使されたのではないかと、熊楠は推察しようとする。

 こうした熊楠の姿勢を見た時、ミッシェル・フーコーの『言葉と物』(新潮社刊)に書かれた次の言葉は示唆的である。

 類似は想像力の力によってしかあらわれず、また逆に想像力は類似をささえとすることなくしては作用しない。又、こうした時想像力は人間のなかで、霊魂と肉体との縫い目にある。

 ここで、具体的な内容をざっと見てみよう。

 まず、はじめに語られるのは人と人との間(境界)である。そして、人が人に対してつくり上げるさまざまな差異に向かって、それを取り払い思ってもみない関係をとり結ぶものとして現われる、《動物》の存在である。「伝吉お六の話」「犬が姦夫を殺した話」等からはじまり、次に人と《動物》との親しい関係から引き起こされるさまざまな説話(「今昔物語の研究」「山獺みずから睾丸を噛み去る」)をはさむ。そして、その《動物》が神との境界をとり結んだり(「山神オコゼ魚を好むということ」)、不思議な現象を引き起こしたりする(「竜灯について」)話へと至り、ついにその《動物》を人が神とみるようになる「本邦における動物崇拝」「牛王の名義と烏の俗信」へと至る。

 その一筋の道に、一見関係ないかのように、「巨樹の翁の話」における「切っても切っても切れない樹」という説話が示す、生命の生きんとする志向が表わす生と死の問題が投げ込まれる。そして、その生と死との境界(間)にまたがる人の肉体をめぐって浮かびあがる、《性》として、子を産み出す女の屍体(「死んだ女が子を産んだ話」「屍愛について」「頭白上人縁起」等)という猟奇的な話題が水面に浮かび上がる。

 その投げられた性と死によってひろがる水紋に、人間の《性》と《動物》が奇妙な形で関わっている事実(「蛇を引き出す法」)が告げられる。そして更に、驢(ろば)になった夫と交わり合う妻の物語を引き、その物語の背景に実際に《動物》と人とが交わり合っていた事実があったことを指摘する(「今昔物語の研究」)。

 我々は読み進めていくうちに、熊楠が説話や民俗を語ることで、しだいしだいに、人間を人間たらしめているものへ向かって問いを発していることを感じる。

 もっといえば、さまざまな人間を人間たらしてめている特徴や、他の生物との境界を踏み越えようとしているといっていい。そこのところで、熊楠のものの見方に生態学的な発想が見えてくる。熊楠はなにより、人と動物との関係を描こうとするものである。そこでは、人と動物との関係がたんなる捕食関係ではなく、関係を通して、動物の人間化として家畜を生み、説話や民俗の発生をうながす様がある。もちろんその時、熊楠に見えていたのは、動物の人間化だけではない。人間の動物化−狼が育てた少年の説話(『十二支考』、柳田国男宛書簡)に着目することで、それが相互のものであったことは自明のことだったはずである。

 しかし、熊楠は、博物学や植物学を通して、人間を人間たらしめる他の生物との境界や特徴の識別を入念に分類学として学んだものである。M・フーコーは『言葉と物』で可視的な表徴をいかに区分し、それまでに蓄積された知をどう整理するかが、当時ヨーロッパにおける人文科学の主潮であったと述べている。博物学から進化論へと知のあり方が倒置される中、極東に住む一介の日本人である熊楠はいやおうなく、そうしたさまざまな生物学的な思潮を学び、かいくぐるしかなかった。

 しかし、すでに述べたように、彼にとってそうした知のありようは、幼い時から歩きまわり、見、聞き、触れ、体全体で感じていたことと大きな違いを感じていた。そこに、生物学からもれた博物学的な知として、民俗学へと傾斜せざるをえなかった理由があるのではないか。

 彼は説話を語りながら、自らの体験を掘り返していく。そこには熊楠にとっての、鉱物、植物、動物といったあらゆる生物(事物)との関係いっさいが含まれる場所があった。おそらく、人と事物との関係はもっともっと深い関係があり、けっしてその可視的な外形の違いから区分しえるものではなかった。旧石器時代から延々と続いた人と動物との共生関係(「山人外伝資料」)。そして、そこから生み出される人と動物との交感。あるいは、植物との交感。

 「わたしと、今、目の前にあるものとの間にある、本当のいまだ眼に見えぬ、生命を捉え区分するための条理、閾(しきい)がどこかにあるはずだ」。

 そう独りごちした時、問題となるのは、区分(閾)を存在させる「言葉と物」との関係である。そこで熊楠は、名と魂と肉体が三つで一体となる関係に着目しながら(「小児と魔除」「厠神」「詛言」「呼名の霊」)、いまだ眼に見えぬ境界に向かって、自らの肉体と魂の関係づけへと筆をあっという間に進めていってしまう(「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」〜「魂空中に倒懸すること」)。

 しかし、そこで自己体験的に書かれた、眼覚めと睡眠との間(境界)で引き起こる魂と肉体の増幅された関係とは何を意味するのか。おそらくそこには、熊楠にとっての西洋が、ただたんに学問的に生命をとらえようとする問題としてだけあったのではなかった事情がある。明治人として近代というものにぶちあたり、個というものに目覚めながら同時に、異国の地でその個の拠って立つ基盤がさまざまな形で危機にさらされ、日本に戻っても帰る場所のない個としてさまよい続けた、不確かなものとして存在する自己(個)と呼ばれるものへの洞察が、そこにはひそみ込まれている。自らを叩き台にすることで人間とは何なのかを不可解さと共に問おうとする熊楠の呟きが声となって響いてくるのである。〔原田 健一〕

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読『一代男論講』(『彗星』 1927.10 - 1929. 8)

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 南方熊楠は、その晩年、数多くの江戸文学についての論攷や注釈を矢継ぎばやに発表している。ざっと見ただけでも、「『末摘花通解』補説」、十返舎一九の「読『東海道中膝栗毛論講』」、西鶴の「読『一代女論購」「読『日本永代蔵論講』」等がある。

 「読『一代男論講』」はその中でも質、量ともに、他を圧しており、熊楠の江戸文学研究の代表作たるにふさわしいものである。

 ところで、熊楠は晩年なぜ、こうした江戸文学に意をそそぐことになったのだろう。

 まず、一つには、三田村鳶魚(えんぎょ)との出会いである。熊楠と三田村は、その出会った時から意気投合し互いに気を許し合うことのできる人間であった。三田村鳶魚は、熊楠にとって宮武外骨と等しく、自由民権という時代の気風に接した共通体験を確認できた数少ない生き残りだった。

 しかし、この二人は近いようで大きな違いを見せている。明治という現在性にこだわり続け、ゲリラ的な出版によって自己を表出する宮武外骨。それに対して、三田村鳶魚は江戸文学に徹底的に立て籠る。そして、ただ、立て籠るだけでなく、在野の研究者を組織し、論購という共同研究の方法(これはもちろん俳諧の創作共同体である連の系譜を踏まえたものだが)を実践化するところにまで、領域を拡大し、学を鍛え上げていた。

 熊楠は、こうした三田村の姿勢の底に流れる運動者としての意識を、本能的に感知していた。そして、自らも、また、一兵卒として参画せんとした。

 『一代男論講』は、第一巻昨夕拝受。病人に気を配るかたわら昨夜一読致したれど、いまだ読み了らず。しかし只今多忙なれば昨夜読み得たる分だけにていささか御耳に達しおき候。何とぞ第二巻の末へ熊楠在京ならば必ず論購の一味連判に加わりおるべき者と、早野勘平同様の思召しをもって別紙の通り御書き加えおき下されたく候。(三田村鳶魚宛書簡 昭和二年九月十五日付)

 我々はここで、熊楠が日本文学についてなみなみならぬ造詣を持っていたことに注意しなければならないだろう。英国時代におけるディキンズとの交友、その結晶たる『英訳「方丈記」』や、『今昔物語』についての深い愛着等々……、といったことを通してもそれらは推測せられよう。また、江戸文学、とりわけ西鶴についてのすでにロンドン時代から深く読み込まれていたことはもっと注目されていいことである。蔵書に残されているすり切れた西鶴全集(一巻本)に、細かく書き込みがなされていることや、三田村宛書簡に書かれた、

 小生三十年ばかり前英国に在りし日、『一代男』、『一代女』等に書き入れをなし置けり。何事も若い日のことで、今それをみるにこんなことまで自分は気付きおったかと驚くようなことあり。(昭和二年十一月十七日付)

という言によってもそれは十分に窺うことができる。

 しかしこうした時、彼がもっとも日本文学についての蘊蓄(うんちく)をかたむけた手紙の相手が、英国人のディキンズだったことは、熊楠の心に、ある独特の彩りを与えただろうことはまちがいない。将来発見されるだろう熊楠=ディキンズの往復書簡の内容を、今現在、推測することは難しいが、最低限、言い得ること。それは、熊楠が自国の文学を見る時、異国の視線によって、自国の文化を理解するというオリエンタリズムを一度は通過しなければならなかったことだけは確実だった、と思われる。

 とくに、当時のヨーロッパ人による日本文学、ひいては日本文化について共通に指摘された、

といった特徴について、熊楠はつねに真正面からぶつからざるを得なかった。

 晩年の論攷である「読『一代男論講』」においても、こうした問題についてはそれぞれ詳細をきわめて論じられている。

 晩年、再び江戸文学の世界に立ち戻った熊楠は、ロンドン時代の自らの理解を踏まえながらも、もう一度自分を育んだ文化そのものを引き寄せようとしている。一見、こうした外国人から見た時、奇異にみえる習俗を、半分は人類普遍の域でとらえようとし、半分は日本人の底に巣くった宗教心として掬い上げようとする。この時、熊楠にとって(三田村鳶魚にとってもだが)こうしたことを論じる作品が西鶴だったことには理由がある。

 それは、近世にあって井原西鶴こそが、もっとも日本の語りの文学の伝統−和歌・謡曲・連歌・俳諧といった文学について深い教養を持ち、民俗・神事・色里の評判記等々、全てに通暁しており、同時にそれを書き得る場所にいたからである。

 さらに、人の色恋沙汰である性(SEX)の問題に対して、好色道という宗教的な意識を真に体現できるだけの教養を、性と宗教の二つに知識・実践ともに、女色・男色ともに通じていた。

 その時、西鶴の語りはただの物語としてはなかった。好色の道を極めることで、一つの生き様の美学をダンディズムとして、文章の作法としても体現できていた。熊楠は、西鶴における文学の伝統と革新を同時に成し遂げる離れ業を、男色の美学の奥義としてもよく見きわめていた。いや、そういうふうに影響を受けたといっていい。

 そこに、ただ民俗の資料としてだけ、西鶴に接しようとしなかった、文学者としての西鶴に出会ったリテラートとしての熊楠が見えてくる。〔原田 健一〕

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日記(1886-1941)

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 南方熊楠は終生日記を書き続け、そこになにがしかの意味を見出していたことは確かなことに思われる。残念なことに、その執着のよってきたる理由を解くことはできない。ただ、彼が日常生活の中でどのようなことに興味を持ちつづけていたかということが、ある程度推測できるだけである。

 こうして、日記からだけ彼の人生をながめていると、逆に言葉というものによって記述された側から、彼が拘束され、動かされてきたかのような幻想すら感じられてくる。熊楠がこの世のものに対して、つねに文字で記述し、時に絵で描きといった行為にとりつかれていたことに、読む我々はもっと慄然とした方がいいのかもしれない。

 ところで、彼は記述することで何を残したかったのだろうか。そう、問いを発してみることは可能だろう。だが、そうした問いは、南方熊楠の日記には南方熊楠のことが記されているという自明なことに、再び行きつくことになる。

 であるなら、彼、熊楠は、熊楠の何を記述したのかと、問いを改められよう。

 そこで見えてくるのは、実は、彼の自らの身体に起こるさまざまな現象の記述という、また、自明なことに至るのである。だが、そこにはただたんなる凡庸な記述があるというのではない。博物学を修めようとした、一人の学者の人間学の一端が、視線となって自らの身体へと向かっていく現場があるからだ。

 東京の予備門時代(一八八六年)に起こした癲癇の記述からはじまり、滞米二年目(一八八八年)から頻発しはじめる夢の記述。そして、幽体離脱的な現象が、癲癇と夢が引き起こす現実と非現実の境界の延長線に現われてくる。熊楠はそうした問題を、「心」と「物」とが相接する「事」の学として、自らの身体をもとらえようとして、あみだしたといっていいのかもしれない。もちろん、その場合、熊楠の中で注意を払っていたことは「心」と「物」という二元論ではなく、それが平行して重なり「事」として、奇妙な軋(きし)みをもった誤差を身体がひそみこませて生きているという事実である。

 熊楠はそうした時、けっして「心」というものの精妙さから身体へとは赴こうとはしなかった。そこではつねに、「物」としての身体という地点から、「事」としての人間をとらえようとした。

 小生在英のころ、裁判医学を研究したるに、ある名高の人、小生に男女交の法にちと変わったがあるかと問われし。『カマ・ストラ』など、ずいぶんこのことを論じあるが、又復(また)人意の外に出でずで、わが邦の枕本数百巻(英国には日本より多く保存せる人多し)と対照するに、別にかわりしことなし。ただし一つ、どこの国の文献にも図画にも見しことなきものあり。これ人の思い到らざればなり。すなわち婦人が長二官(はりかた)をもって男子の肛門を犯すことなり、といいしに、その人、まことに汝は博覧宏才なり、と大いにほめられし。まあこんなことにて、世間に伝うることは行なうことに出で、行なうことには人体機関と範囲に限らるるゆえ制限あり。(中略)いわんや心の到らざるところ、誰かこれを夢みん。世間に、とてつもなき変わったことはなきものなり。もしあらば、そは空気がなかったり、珪素が非常に多かったりする、他の遊星にすむ衆生のことならん。(高木敏雄宛書簡 明治四十五年五月二十三日付)

 そこからはロンドン時代の浮世絵の枕絵(ポルノグラフィー)の研究や、人間性器への研究といったさまざまな淫学(セクソロジー)が見えてくる場所がある。もちろん、これをたんなる猥褻なるものへの興味として見たらまちがうことになる。熊楠にとってそれは、人間学の一つの姿にすぎない。そうした時、彼にとって結婚は、ある具体的な実践をもたらしたことになる。

 熊楠のSEX記述(残念なことに、公刊された八坂書房版『日記』からは削除されているが)は、そうした一つの実践録として読まれるべきものにちがいない。また自らの精子と妻の卵子とが結合した一個の細胞が子供という一つの形をもって成長していくさまを見ることは、そのまま短時間に進化史を速回しして見ることにほかならなかったろう。この点で熊弥や文枝の一挙手一投足を細大洩らさず観察していく眼は、自然人類学者としてのものといっていい。そこでは、生まれたての人間がしだいに立ち上がり、言葉を発しようとする様が精密に記述されている。

 ところで、熊楠の「物」を介して「事」へと向ける視線は、同時に「事」を介して「心」へゆきかう視線でもある。「日記」において夢の記述はつねに、「物」と「心」との連関作用の中で、つまり人と人との関係の中で関連づけをしようとする意識によって彩られている(時には、夫婦で夢の解き合いをしていることすら記述されている)のだが、そのことはそのまま子らへの視線に、同じように意識化され、記述されていることに注意していい。

 ・予死せばヒキ六母子乞食になり、皆人南方ヒキ六さん乞食に成たと言ふといふに、なき出し、久く止まず。(明治四十四年十二月二十五日)

 ・松枝新聞よみ、米高くして子供殺すもの多しと語るに、ヒキ六大に驚き、わしも父様に殺さるるかと問ふ。(明治四十五年六月二十七日)

 ・早朝石友妻来る。去て後ヒキ六母に問ふ「バァ眼潰したら監獄へ之くのか」(明治四十五年六月二十七日)

 この時、熊弥から洩れてくる言葉とはそのまま、父熊楠との「事」を介した「心」の関係そのものを表わす。子供たちにとって親との関係は、心理的に逃れ得ないものである。熊弥の漠然とした不安な気持ちとは、その時、神社合祀反対運動の最中にいた熊楠の荒々しい苛立った憤りそのものの反映である。熊楠の怒りが、夢と現実とがいまだ不分明な成長段階にある子の心と体のすきまへ入り込み、熊弥という人格の中で結ぼれる。それは熊弥にとっては理不尽で怒りをかかえた父親として、突然の暴風となって怒り狂う魔物として、後年、発病へと到る深い心の傷痕となったのではないか。

 熊楠はこうした熊弥から洩れてくる言葉を書き留めるという行為を通して、そうしたことをどこかで予感していなかったか。熊弥が発狂した後、流した彼の涙にはそうしたことが秘められている。そこでは南方熊楠もまた、深い純粋でナイーブな感性をもった人間であるがゆえに、社会というものにぶち当たった時、家族という弱い絆(きずな)につかまるしかない、漂流者だったことを思わせる。

 我々は南方熊楠の日記を、生きることの困難さを背負った、それゆえの喜びも灯火のようにともったある家族の記録として、深い思いと共に読むことができるのではないだろうか。〔原田 健一〕

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