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『南方熊楠を知る事典』−原田健一(はらだ けんいち)

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I 南方熊楠を知るためのキーワード集

写真と南方熊楠

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ウェブ管理者注:本項目で言及されている写真は、現在掲載のための調整を行っています。(2004.10. 8)

 『南方熊楠アルバム』(八坂書房)に収められた熊楠が残した数多くの写真をはじめて見た時、わたしはふっと、ウィーンの世紀末、夭逝した画家エゴン・シーレの連作した病的な数多くの自画像や写真と、『ピーター・パン』の作者であるジェイムズ・M・バリがロンドンのケンジントン公園で出会った少年たち(その少年たちがピーター・パンのモデルとなり、ついにはバリ自身がその少年たちを養育するようになるのだが)を撮った数多くの写真と、共通するある奇妙な匂いを感じた。

 彼らが生きた時代の共通性といってしまえばそれまでかもしれないが、シーレのいささか倒錯した少女への愛や、バリの未成熟な性から醸(かも)し出される少年愛といった偏奇(へんき)した性愛のあり方と同じような、何か特異な性が熊楠にも隠されていることを、その写真への執着が暴き出しているかのようなのだ。

 そうした時、熊楠の残された写真の一番古いものが、渡米前の明治十九(一八八六)年に写された羽山(はやま)兄弟との「繁太郎(しげたろう)と熊楠」「蕃次郎(はんじろう)と熊楠」の写真(写真1)と、それぞれに送った違った自分の肖像写真であることは興味深い。そこには、兄と弟への微妙なニュアンスの違いを含みつつも、羽山兄弟への少年愛的な結社に身を捧げようとする熊楠の意識が、写真そのものと贈答という行為のなかに現われているからだ。羽山兄弟の夭逝したあとも、熊楠と兄弟との関係は、夢となって何度となくあらわれ、熊楠の異国体験の中核として、資質として元々持っていたストイシズムに、男の浄道としての少年愛的な結社への自己犠牲と学問への献身、といった形をとって彼の生に彩りを与える。

 この時、注目されていいことは、彼が写真に写されるということだけでなく、写真を贈答するという行為のうちに何事かの意味を見出していた点である。そこに、この近代の利器への彼の理解のほどがよく見えてくる。

 つまり、それはひとつに写真というものが持つ、人間の姿を連続する時間の中から切り取り、一瞬の時間を物質化して拡大して見せる作用である。またひとつは、写された写真というものが、人間の姿・形を静止化することで現れ見えてくる肉体およびその精神のありようを、客観的に他者のように距離をもって見ることができることである。数多く残された熊楠の肖像写真には、そうした写真が持つ二つの機能を彼が駆使して、もう一度自らの身体像を把握し直し、他者との関係を整理していこうとする自覚がある。

 ここでは、残された写真をそうしたパラメーターを通してながめてみることにする。その時、いくつかのあるまとまりをもった時間的な偏移(へんい)がそこに現われる。

 まず、はじめは、すでに述べたような羽山兄弟との絡みである。その次に現われるのは、熊楠の異国体験が深く影を落とした写真である。そこでは多分日本にいたらけっして会わなかったような人とも、異国であるがゆえに上から下までの階層の人々と対等に人と人として出会えた経験そのものが、ひとつの世界観として呈示されている。−具体的には写される時、上下の人間関係を排した構図となって現われる。初出は、アメリカのジャクソンヴィルで出会った江聖総(こうせいそう)との訣別の記念写真(明治二十五年八月十九日)である。そこから大正十年に研究所設立の動きがはじまるまでの間、写真から見える熊楠の人と人との関係−どんな相手でも対等なのだという意識の仕方は変わっていない。

 ところがこの時期、一枚だけ異質なのが、明治四十三年一月二十八日に撮影された「熊楠林中裸像」である(写真2)。この一種パフォーマンス的な写真が出てくる直接の原因に「神社合祀反対運動」があることはまちがいないが、もう少しその前提を見ておきたい。

 熊楠が自らに課した少年愛的な結社の禁を犯し結婚したのは、明治三十年七月二十七日のことである。それ以降、日記中に現われる「松枝と臥(ふ)す」が性の営みを表すものなら、ほぼ連日、妻との関係に精力を費やしていたことになる。そして、翌年六月二十四日に息子熊弥(くまや)が誕生する。彼はアメリカ時代からはじまった学問という世界に閉じ込めていた眼を、しだいに家族という世界を媒介としながら外へと向けはじめる。『日記』に記述される熊弥を眼にする細やかなフィールドワーカーとしての視線は、当然、粘菌を見つめ培ってきた眼であり、同時にそこからその粘菌の生息環境を破壊する社会を見つめ直す、「神社合祀反対運動」へとつながる眼である。

 ここで、熊楠は写真を使って、熊弥という分身によって見返された眼でもう一度、荒ぶる自分の肉体を確認しようと、山の中に「裸虫」たる自分の裸の体を置いてみる。そこでのカメラの視線は、熊楠にとって他者の中から獲得した、自分を見つめるもうひとつの眼としてある。そして同時に、それは彼が自分の生の営みを家族を中心に置きはじめていることを意味している。

 次は研究所設立に向けて動きはじめた時点から晩年までの写真である。年齢・学識等のためにしだいに社会的な位置を格上げせざるをえなくなり、自らもそれを許し、写真を写される時はいたし方なく真ん中へと位置するようになる。そこには、社会にまきこまれた学者の姿がある(写真3)。

 そのなかで昭和四年の昭和天皇への進講を契機とした、連続した肖像写真が現われる(写真4)。

 それは彼が、まだ日本の近代国家が体制化される以前を知り、また長い洋行のため、しだいに確立していった国家の姿をまのあたりにしなかった分、天皇を距離をもって見、自分の「神社合祀反対運動」のひとつの帰結としてこの進講をとらえようとした記念である。この点で当時、すでに仲たがいをしていた柳田国男にこの肖像写真を贈ったというエピソードは、熊楠がこの進講をどう考えていたのかということを推察する一つの手がかりである。

 そして最後、晩年の友人を多く亡くした後、まるで後世に生きる我々のために贈答されたかのように、見るものを見つめ返している肖像写真である。

 こうして残されたさまざまな数多くの肖像写真を仲立ちにして見えてくる熊楠にとっての「自己という意識」と「肉体」というもの両方へとそそぐ眼差。そこには熊楠の身体に秘められた特異な「性」というものへのこだわりが、不可解さと共に見え隠れしている。

 写真を連続した映画のように見れば、そこではモノセクシュアルな性がしだいしだいに色をもって顕われてくるような緩慢な動きが見て取れる。 はじめ彼は性を、異性とのSEXとして長いこと了解することのできなかったものである。彼にとって「性」は、同性の心と心を結び合わせる真心としてしかなかった。そこでは禁欲するという行為によって、他者との関係を取り結ぶ、精神的な贈与物としてしか「性」を考えることができなかった。

 その時、写真とは彼にとって、単なる像としてあるのではない。身体の輪郭を通して現われる生の現身(うつせみ)−まるで蛇の脱皮した抜け殻のように−、次々と変態してやまぬ人の肉体と精神の生きた抜け殻のように見えてくる。

 熊楠は、写真という現身を周りにいる人々に、自分と他者との関係をはかるように贈与する。交換可能な「南方熊楠」として、この人へ、あの人へと、関係を結びつける物として、そっと送りとどける。

 それはまるで、熊楠にとっての生の儀礼であるかのようにである。〔原田 健一〕

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II 南方熊楠をめぐる人名目録

土宜法龍 とき ほうりゅう 1854-1923

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ウェブ管理者付記:南方熊楠研究者たちの間ではこれまで、土宜の姓の読み方を、英文刊行物などでのローマ字表記に基づいて「とき」とすることが一般的でした。しかし、高野山や栂尾高山寺など土宜法龍に縁のある寺院では、今日に至るまで「どぎ」という読み方が伝えられているそうです。この点については、今後さらに調査を進めたいと考えています。(2004.10. 8)

 宗教元と信より生ず。信なくんば宗教なし、故に哲学の如く、理学の如く、研究豈容易に談ずることを得ん(中略)。

 夫れ宗教は其の要解脱にあり、解脱は文字章句の宗教より生せず。(「秘密教の研究」)

 こうした言葉に我々はどう接したらよいのだろう。こうした時、宗教は言葉を拒むものなのだろうか。それともこれは、いつもの坊主の常套文句・繰り言なのだろうか。たしかにそれもあるにちがいない。しかし、それだけをいえばただ事の半面を言い当てたにすぎぬ。我々は、一度は、土宜法龍というひとりの宗教者を、通俗化した仏教の言説から救い出し、こうした文言にこめられた意味へと思い凝らしてみる必要がある。

 土宜法龍は一八五四(安政元)年、名古屋に生れ、尼である伯母の手によって四歳の時(一八五八年)、幼くして出家した。そこにどういう事情があったか、資料がない以上いうことはできぬが、ものごころつく頃から仏教の世界に起居していたことだけは確実にいい得るだろう。

 法龍はその後、十五歳(一八六九年)より高野山に上り、伝法入壇して以来、二十七歳(一八八一年)の時、真言宗法務所課長に選ばれるまで、さまざまな仏教の教義を学び研究している。また、仏教以外では、二十二歳(一八七六年)の時、慶応義塾に学んでいることが注意をひく。

 だが、どちらにしても、この後(一八八一年以降)の法龍の仏教僧としての履歴はほぼ真言宗の行政僧としての活躍に終始しており、ここからは、なぜ、南方熊楠と土宜法龍が今日に残るような膨大な手紙を書くにいたったのかは見えてこない。それを解こうとすれば、土宜法龍が書き残した文章を集成した『木母堂(もくぼどう)全集』を繙(ひもと)く必要がある。

 この『木母堂全集』をざっと見た時、ただちにわかることは、一八九三年九月に、米国シカゴの万国宗教大会に参加し、その後、ロンドン、パリに滞在。帰路セイロン・インドを巡り、六月末に日本に帰るまでのほぼ十ヶ月間にわたる旅行における見聞が、その全集の三分の一以上の量を占めているという事実である。三十九歳という脂の乗りきった年齢ということもあるが、ここでの法龍は、シカゴ・ニューヨーク・ロンドン・パリと、言葉が通じぬハンディキャップをもちつつ、時に、道にはぐれ命からがらの体験をまじえつつ、実に精力的に日記・通信文・手紙を書き綴っていることである。

 法龍はこの旅が自分の人生にとって重要な意味をもつだろうことを自覚しつつ、日々を過ごしていた。また、それにふさわしい精神的な緊張と高揚を自らに果たしていたといっていいだろう。この時、旅する法龍にとって、熊楠とはまさにそうした異国での精神的なテンションを引き上げるために現われるべくして現われたもの−点火プラグのように常に火花を散らすことのできる存在として、日本では会うことのない、宗教界から離れた得難い若き友人として、突如、旅という劇にふさわしく登場した者である。

 では、熊楠はこの開明的で優れた行政僧のどこにひかれたのだろう。一つはもちろん、土宜法龍が保持している真言宗の教理体系の存在である。また、もう一つはそれを体現して生きている法龍の人間性にあったこともまちがいない。人に対する好悪のはげしい熊楠にとって、そのことはもっとも重要なことだったかもしれない。

 しかし、お互いに腹蔵なく、罵詈雑言を放ち合うまでの信頼はどこから生まれたのか。ここでは、もう少しそこの点に留意しながら、法龍の説く曼陀羅論を探ってみたい。

 併しながら相大の差別のところに絶大の平等を其の儘(まま)被(かぶ)せようとすると、其れは悪平等と成るのであつて、露西亜のトルストイの如き、自身には此の絶大平等味をおぼろげ乍らも悟つてゐる様で有つても、其れを其の儘一般の世相に当て嵌めやうとするから誤つて來るので所謂悪平等と成るのである。即ち人間離れしたところを妄動的に人間界に持つて来からいけないのである。今日の所謂過激思想も亦此の悪平等の域を脱せぬものである。其れ故此の教本と教起即ち絶大と相大との関係を誤まらぬ様充分注意せねばなりません。(「般若理趣教講話」)

 ここで土宜法龍が述べている、「絶大」と「相大」の差異に絡むようにして現われる「平等」の問題とは、どういうことだろう。

 この場合、思い切ってざっと振り分ければ、「絶大」とは、大日如来に表わされる宗教的な真理を指し示す。そこでは、真の意味での(宗教的な)平等がある。これに対し、「相大」とはこの世のことを表わす。そして、ここで法龍が指し示そうとしている曼陀羅とは、この「絶大」と「相大」とを結び合わせる蝶番(ちょうつがい)として存在するものである。

 まず、曼陀羅は二つに分けることができる。一つは金剛界曼陀羅であり、それは精神界・心界を表わす。もう一つは胎蔵界曼陀羅であり、それは物質界を表わす。二つの曼陀羅は、無相絶大の真理からこの世の相大世界へと、一つに相接することで因と果をあやどることになる存在の通路として現われる(こうした物と心の関係について、熊楠の「事の学」を思い浮かべてもよいだろう)。

 ここで、もう一度引用した文に戻ろう。法龍はこの世の実相−差別(不平等)を見る時、そこにつねに大日如来があやなす曼陀羅の因果をみる。なぜなら、この世とは曼陀羅が生み出す因果そのものの姿にすぎぬからだ。あるいはそこまで、すべてを絶大の世界から見切ることができなければ「信」は信として成り立たぬ。

 その時、この世に存在する我々にとって重要なことは、曼陀羅が織り成す因と果のドラマを「信」によって解きほぐし、この世から絶大な平等へと「行」によって、逆に駆け上っていくことである。

 しかし、今、我々はそこに、現実を変えていこうとする社会的実践を放棄し、「信」や「行」という精神の世界にたてこもり、ただひたすら現状を肯定する保守の姿勢を見出すことになる。あるいは、そう見られてもしかたのない、社会的な実践体系しか仏教はもたなかった、といってもいいだろう。

 そこには近代における仏教僧の苦さがある。

 近代以前の社会では、物と心の微妙なバランスの間隙をぬうようにして、精神の側から社会へアプローチし、物そのものの流れを統御しようとする仏教の社会実践の体系が、まだ商品が社会のなかで大きな役割を担うにいたらない段階においてはある実効性をもっていたからだ。

 土宜法龍は近代にぶつかった宗教者として、そうした転換点にいやおうなく目の当たりする。「我々がつくりだした精神の体系は葬りさられるのだろうか?」

 実地にアメリカ・ヨーロッパの巨大な物質文明を見、莫大な物の交通の前に、心が平伏せざるを得ないことに、彼は強い危機感を感じざるを得なかった。そこでは、仏教の社会的実践性を支えていた「信」を表にした、「行」の精緻な体系そのものが無効にならざるを得なくなるだけの力がある。

 土宜法龍はそうしたことを、ニューヨーク・ロンドン・パリを歩くことで自覚せざるを得なかった。また、それゆえに、この西洋の物質文明を乗り越えんと、宗教者として仏教の使命を、今こそ問おうとする情熱が沸々と湧き起こることを抑えることはできなかったはずである。彼が滞欧中に書き残した膨大な言葉の数々は、そうしたことへの情熱を指し示している。

 この土宜法龍の近代における宗教者としてのパッション。そこに土宜法龍と南方熊楠がロンドンで互いに火花を散らし、心分かち合い信頼し合うにいたる最大の根拠が生まれたのだ。

 熊楠はこの年長の僧の心の奥底に燃える、ある不可解な火を見たはずである。それは巨大な物質文明の前になおも、精神の優位を説かんとするドンキホーテのごとき、黄色い坊主の姿である。

 弘法大師の如きは、金剛薩埵*(こんごうさった)であり、勝慧(しょうえ)の菩薩であつて、下々の一切衆生を永く今日までも化度(けど)して居られるのである。我れ我れと雖(いえども)、如上の見識を以て行けば成仏の得られぬわけは無いのであります。(「般若理趣教講話」)

*埵=[土+垂]

〔原田 健一〕

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イブン=バットゥータ Ibn Battutah 1304-1377?

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 回々教のイブン・バッタと申すもの、アフリカ、インド、支那、チベットの間七万五千マイルをあるきたることの記録ものこりおり候えば、運命さえあらば何するもできぬことはなく、運命なければ綿の上へ死ぬ人もあること信ぜられ申し候(土宜法龍宛書簡、『南方熊楠 土宜法龍 往復書簡』3、日付なし)

 熊楠のイブン=バットゥータの記述は、この土宜法龍との往復書簡にあり、書かれた時期は、ロンドンで彼と意気投合してすぐ、明治二十六(一八九三)年十二月頃のものである。そこでは、異国での生活七年を迎えた熊楠の、学問の世界に身を沈め、異国の地で果てなんとする切羽詰まった心情が、イブン=バットゥータの旅行記『三大陸周遊記』の読後感として色濃く投影されている。

 イブン=バットゥータは、一三〇四年モロッコのタンジャに生まれ、二十二歳の時、聖地メッカ巡礼を志し、そのまま足のおもむくまま二十五年にわたり、三大陸を経めぐる。ここで重要なのは、イブン=バットゥータがたんなる商人としてではなく、イスラムの神学者・法学者として、さまざまな国を訪れたことである。彼はその学識にふさわしい待遇を受けたのと同時に、厳しい戒律を身に課していたのである。

 彼が妻を娶(めと)ったのは、記述によれば四十歳の時、マルディーヴ群島で、王の強制によってやむをえず娶ったのだった。だがその妻とも翌年、次の目的地へ向かうために、子を孕(はら)んだことを知りつつもあっさりと別れてしまう。そこで見えてくるのは、厳しい宗教的な戒律に身を任せることで広大なイスラム世界を滑走していく、神に仕えた一人の巡礼者の姿である。

 ところでイヴン=バットゥータと同じように、四十歳にして妻を娶った神なき学問の巡礼者であった熊楠にとっては、異性との性交通はひとつの大きな人生の転機となったようである。

 五、六年前までの独身のときならんには、所蔵の図書標本を挙げて外国政府に寄進し、 自分も超然筏に乗り外遊してその客となりて快と唱うべきはずなれども、妻子もあり、また妻只今懐妊中にて、そんなことも成らず、何となくぶらぶら致し面白からぬ月日を送りおり候。(明治四十四年五月二十五日付)

 小生は日夜見ること聞くこと、いやになり候。よってこの地を片付け、書籍標品を売り払い、妻子に扶持料を遺し、海外へ行かんと存じおり候。(明治四十四年八月九日付)

 この柳田国男宛書簡に書かれた、出国への夢を言葉通り受け取るのはまちがうことになろう。なぜなら、この背景には神社合祀反対運動の苦闘があり、ここでは熊楠の苦痛が、めずらしく弱音となって吐露されているからだ。

 その時、彼は異国へ旅するロマンチシズムを片手に持ちながら、今まで越え難かった異性の世界に、家族という対幻想の領域を作りあげることで旅することを知っていた。つまり彼の中での分裂−一つは神に使えたイブン=バットゥータのように、はるか宏大な空間と時間とを旅しようとする意志と、一つは人と人とが結ぼれ合うことで眼に見えない時空間を探っていく旅とに、引き裂かれていたのだ。

 彼は妻と子をともなった旅を構想し得なかったものである。どこかで一方の極であることで充足することを識っている者だった。

 もう一度、はじめの言葉に戻ろう。「運命さえあらば何するもできぬことはなく、運命なければ綿の上へ死ぬ人もあること信ぜられ申し候」。

 その時、彼はロンドンという異国の地にある。自分の十八年後の姿を知っていたわけではない。やがてくるだろう未知に向かって、大いなる人生の反復へ向かって、跳躍しようとしていただけだ。〔原田 健一〕

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