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 南方熊楠の新聞切り抜き

安田忠典     

一 資料の概要

 一九九四年七月二十六日から八月一日まで行われた南方熊楠邸書庫悉皆調査の際、邸内物置から多量の新聞記事の切り抜きが発見された。切り抜きの保存状態は劣悪で、おおまかな年度別にまとめて入れられた洋封筒(A4〜B5程度の大きさ)二十数袋と四冊のスクラップブックがひとかたまりに癒着しており、虫食いが酷く、大部分がすでに粉末状に朽ち果ててしまっていた。かろうじて調査に耐えうると判断されたのは、洋封筒入りのものの約三分の二程度で、総数一九八四点、明治四十年(四十一歳)から最晩年の昭和十六年(七十五歳)までの三十五年分であった。調査不能の分は四冊のスクラップブックと約八袋分に相当するかたまりで、表1と対照したうえで大部分は大正年間のものではないかと推測している。何とか年度だけでも確認したいと考えているが、状態が極めて悪く実現できていない。

 切り抜きは、すべてコピーを録り、それをもとにデータベースを作成した。現物は一点ずつ中性紙をはさんだクリアブックに挿入し、年度別に保管している。また、朽ち果てて動かせないものは、今のところそのままの状態で保管している。

 個々の切り抜きには発行年月日と新聞紙名がわかるように工夫がなされている。すなわち、大半の切り抜きには毛筆で日付と紙名が書き込まれており、書き込みのないものは新聞紙の上部枠外等に記載されている新聞紙名と日付が入るようにわざわざ大きめに切り抜かれている。また、短いコメントが書き込まれているものも多く、その他にも、連載物が綴られているものや、複数の関連記事が貼り合わされているもの等が見られ、資料としての利便性によく配慮されていることがうかがえる。今回発見された切り抜きは明治四十年以降のもので、南方が国内の新聞・雑誌に投稿し始めた時期と近いことからも執筆等のための資料としての意義は大きかったと思われる。

表1 (年度別資料数)

 各年度別の資料数は以下の通りである。切り抜きの対象となっている新聞は、大半が『大阪毎日新聞』で、内訳は以下の通りである

年次 数量 年次 数量 年次 数量
明治40年 1 大正8年 3 昭和6年 49
明治41年 48 大正9年 0 昭和7年 55
明治42年 73 大正10年 3 昭和8年 7
明治43年 23 大正11年 11 昭和9年 114
明治44年 98 大正12年 2 昭和10年 219
明治45年 172 大正13年 1 昭和11年 13
大正2年 9 大正14年 40 昭和12年 24
大正3年 1 大正15年 109 昭和13年 23
大正4年 0 昭和2年 90 昭和14年 10
大正5年 235 昭和3年 2 昭和15年 9
大正6年 1 昭和4年 248 昭和16年 3
大正7年 5 昭和5年 273 年度不詳 10

二 散在しているスクラップ

 実は、今回まとまって発見されたもの以外にも、現在調査中の大正・昭和期の日記に新聞記事切り抜きが多数貼りつけられていることが確認されている。残念ながら、日記に貼られている分の切り抜きに関してはまだ調査にとりかかることが出来ていないが、昭和三年分などはかなりの量が貼り込まれているようである。逆に今回発見された切り抜きのなかに同年分はわずか二件しか見られないことから、年度によって資料数のばらつきが大きい(表1参照)のは、各年度の日記に貼り込まれている分と相関があることも考えられる。

 その他、蔵書にも切り抜きの貼り込みが散見されるし、渡米以前の抜書帳である「課餘随筆」にも、新聞記事の抜き書きがかなり多く見られる。また、日記に記事を書き抜いているものもある。したがって、これら散在しているものを全て併せると、相当多量の新聞記事がスクラップにされていることになる。

 さらに、一連の南方邸悉皆調査によって、明治十二年五月から七月にかけての新聞記事が抄写された抜書帳『和歌山新聞紙摘』(1) も発見されており、南方が、和歌山中学校に入学した十三歳の頃から七十五歳で亡くなるまで、在外時代を除けば、ほぼ生涯を通して興味ある新聞記事をスクラップにしていたことが明らかになった。(在外時代に関しては、米国で在米民権派の過激な反政府新聞『新日本』を購読していたらしいことくらいしかわかっていない(2)

 また、参考のために平凡社版『南方熊楠全集』所収の論考・書簡より新聞記事が引用されている箇所を検索してみたところ、一五六件見つけることができたのだが、今回発見された切り抜きから引用されているのは、そのうちのわずか八件のみであった。これは、朽ち果てて調査不可能と判断された分に含まれている分等を考慮するとしても少なすぎる量である。では、残る一五○件近くもの引用記事はどこへいってしまったのだろうか。考えられるのは、著述の際に引用した記事の切り抜きを、もとの切り抜きの束(洋封筒)に戻さなかった可能性である。そのために散逸してしまったか、あるいは、やはり日記に貼り付けるなどして別に保管していたと考えるのが妥当ではないだろうか。

 いずれにせよ、調査はまだ途上であり、スクラップの全体像を明らかにするためには日記や蔵書、抜書帳等に散らばっているスクラップを全て統合したデータベースの完成を待たねばならないが、今回は中間報告として、あらかた調査を終えた「物置から発見された切り抜きのうちで調査可能であったもの」を中心に紹介したい。

表2 (対象新聞の内訳)

紙名 数量 紙名 数量 紙名 数量
大阪毎日新聞 1849 牟婁新聞 2 東京朝日新聞 1
牟婁新報 35 愛国新聞 2 大阪時事新報 1
日刊不二 9 日本 2 和歌山日報 1
和歌山新報 7 報知新聞 1 二六新報 1
熊野太陽 6 紀伊毎日新聞? 1
紀伊新報 3 国民新聞 1 新聞紙名不詳 42
読売新聞 3 大阪毎日新聞 1 新聞以外の切抜等 16

三 切り抜きの中身

 切り抜かれている記事の内容は南方らしく非常に多彩である。おおまかに分類してみても、いわゆる珍事や猟奇事件、民俗、歴史、紀行、宗教、生物、性愛関連、環境問題等々、幅広い南方の学問領域をよく反映しているといえよう。

 なかでも、おどろおどろしい猟奇事件や眉唾物の残酷物語にはついつい眼を奪われてしまう。当時、特に昭和初期までの新聞の論調が、『大阪毎日新聞』のような有力紙でさえ、社会面等は現代の週刊誌やスポーツ新聞に近いというか、少々おおげさで何となくユーモラスな調子であるためどうしても印象に残るものが多い(資料1)。

 このほか、心中事件や著名人の自殺、訃報など人の死に関する記事は非常に多く切り抜かれている。日記の調査を担当している中瀬喜陽氏によると、日記に貼られている記事にも訃報の類が多いとのことである。一例として、これも週刊誌的な白井光太郎の死亡の真相を伝える切り抜きを示しておく(資料2)。

 性愛がらみの記事もまた印象的である。男女の間の事件のみでなく、同性愛や両性具有、女装・男装といった関係のものが少なくないのも南方らしいところである(資料3)。

 もうひとつ目を引かれるのは女性写真の切り抜きで、たいてい広告や記事中の写真が切り抜かれている(資料4)。

四、連載記事の充実

 さて、奇矯な見出しや写真のように視覚に訴える性質のものはさておき、もう少し中身を見てみよう。新聞というメディアは、例にあげたような日々のニュースや宣伝・広告といった現在形の記事だけでなく、連載(分載)という形式を用いて、書物にも匹敵する規模の知識や情報を扱うことができる。そして、実際、南方は連載物の記事を非常に多く切り抜いている。

 そこで、連載物の切り抜き記事のタイトルを、多いものから順に見てみると、

 「経済風土記」は各県の地域色豊かな経済生活をリポートした紀行もの、「財界名所双六」は堂島、道頓堀、北浜という商都の歴史、「近世日本国民史」は徳富蘇峰の筆による小史で孝明天皇初期世相篇、「金光算さん」は金光教の評伝、「天然記念物を探る」は全国の天然記念物を巡る紀行、「ラグーザお玉」は著者木村毅自身がその序説で述べているように、今でいうノンフィクション小説の走りで、イタリアの美術家に嫁いだ女性の物語である。次いで「漫遊人国記」は各地の歴史上の人物評伝とそれを巡る紀行を合わせたもの、「住友物語」は住友財閥の評伝で、紀行や評伝、歴史ものにまとまっているものが多いことがわかる。

 ただし、これらの連載記事は、すべて初回から最終回まで几帳面に切り抜いていたわけではなく、何日分か抜けていたり、連載途中で止めてしまっている場合も少なくない。

 また、青年期の南方が最大の精力を傾けて筆写したロンドン抜書において、その半分以上を占めているという旅行記・探検記等は、新聞からも数多く切り抜かれている。

 いずれも短めの連載であるが、

等々、どのタイトルもそのまま書物になって南方邸の蔵に収まっていても不思議ではないような気さえする。

 それから、やはり女性に関する連載記事は非常に多く、前述の「ラグーザお玉」を始め、タイトルだけ見ても「官女物語」「芸妓の発掘」「女の相貌と生殖」「朝鮮の女」「木曽の女」「問題の女」「思ひ出に浸る女」等々、偏愛ぶりがうかがえる。

五 明治期の新聞切り抜き

 つぎに、年代による記事の傾向を、明治・大正・昭和の三期にわけて検討してみた。ただし、はじめに述べたように、切り抜きは半分近くが調査不能の不完全な資料であるため、おおまかな傾向をみるだけに留めたい。また、同時に『全集』所収の論考・書簡に引用されている各年代の切り抜きで目に着いたものを例示し、引用された背景をみてみることにする。

 明治期には、前に紹介したような(資料1〜4参照)椿事や猟奇事件等のとんでもない記事が多くみられ、非常に面白い。しかし、何といっても、明治四十二年から四十五年にかけては神社合祀反対運動等一連の環境問題に関してもっとも苛烈な戦いをしていた時期であり、神社合祀の状況報告から神官や官僚のスキャンダル記事に至るまで、多くの関連資料が集められていることが大きな特徴となっている。

 ちなみに、前述の『全集』所収の論考・書簡のなかで新聞記事が引用されていた一五六件のうち、約三分の一にあたる五四件が一連の反対運動に関連するものであった。

 例として明治四十四年八月二十九日付松村任三宛書簡(いわゆる南方二書)に引用されている同年六月二十五日付『大阪毎日新聞』切り抜きを掲げる(3)(資料5)。

 南方は、この記事のデータをわざわざ一覧表に整理し、残存神社数が合祀以前の何割かを計算したデータまで付して、和歌山県下の神社合祀がいかに無謀なものかを説明しているのだが、まるで彼自身が「世界の学者相手に」(4)書いたという数々の英文論文にも劣らぬほど実証的で丁寧な資料の扱い方である。それだけ反対運動に力を注いでいた証であり、松村の助力がどうしても必要であったのだろう。南方の奮闘ぶりを、鶴見和子は「神社合祀反対運動は、南方熊楠の学問一筋の生涯の中で、その学力と精力のすべてを傾けた、そして唯一つの、実践活動であった。」と評しているが(5) 、まさに全力を傾けていたことが感じられる。さらに、神社合祀反対運動に続く三郡製糸会社設立許可問題や、町村合併問題、神島保全問題などにおいても、新聞記事は度々引用され、重要な役割を果たしている。

 そこで、もうひとつ例として、明治四十四年八月に柳田國男から送られた同年八月十八日付『読売新聞』の切り抜きを掲げる(資料6)。

 この『読売新聞』とともに送られた柳田からの書簡は失われてしまったようだが、切り抜きは明治四十四年分の洋封筒のなかに残されていた。切り抜かれた記事には『牟婁新報』を引用して那智山官林と神島の保護が訴えられているが、ここに引かれている『牟婁新報』は、南方が八月九日付の書簡(6)とともに柳田に送ったものと思われる。

 同書簡では

 拝啓。那智山事件逼迫、また神島のことも然り。

 別封『牟婁新報』七枚進じ候間、何とぞ貴下これを徳川頼倫侯、松村任三氏(白井光太郎氏に聞かば住処分かる)でも宜しく、また誰にでも貴下のもっとも認めて有力とする人に頒ち、救済の方(とて別になく差し当たりは保安林とするにあり、知事へ訓示あらば宜し)を 立てられんことを望む。(後略)

と、緊急の援助を要請しており、これを受けた柳田は八月十四日付南方宛書簡(7)で「過日の新聞はそれぞれ有効に配布致し、かつ能う限り輿論を喚起し置き候。」と返答しているので、中央の人脈を使って『読売新聞』にも働きかけたようである。同書簡で「この後も小生及ぶだけは尽力仕るべく候につき、一半御抛擲何とぞ学問のためその御精力を利用なし下されたく候。」と述べている柳田は、少しでも南方を安心させるために、首尾よく『読売新聞』に掲載されたものを早速送致したのだと思われる。結局、那智山の濫伐の方は、『牟婁新報』を送った翌日の『大阪毎日新聞』で中止されたことがわかり、南方は、その『大阪毎日新聞』の記事も切り抜いて柳田に送っている(8)

 さらに、この前後にも南方は頻繁に新聞そのものや切り抜きを柳田に送っている。とくに『牟婁新報』は、毛利清雅との関係のためか、かなり融通が効いたようで、三重県の阿田和神社の大樟が伐られそうになったときなどは、翌日分の朝刊が刷り上がったその夜のうちに郵便局まで出しに行っている(9)。また、ときには複数部入手し自ら各方面に送致していたらしく白井光太郎(10)や川村竹治(11)らに『牟婁新報』の切り抜きを送ったという記述がそれぞれ書簡のなかにみられる。

 こうしてみてくると、一連の環境保全運動を通じて、新聞切り抜きは、書簡や著述のなかに引用されているばかりでなく、最新の資料としてそのまま支援者らに送られていることもあり、迅速を要とする実践活動の場でもっとも有効な「武器」として機能していたことがわかる。

六 大正期の新聞切り抜き

 大正期は、前述のように切り抜きの数が少ない。この時期『牟婁新報』『大阪毎日新聞』『太陽』『日本及日本人』『郷土研究』『不二』など国内の新聞・雑誌への寄稿は最盛期にあり、当然新聞記事も多く集めていたと思われるだけに残念である。

 具体的には、まとまった数が残っているのは大正五年と十五年(昭和元年)の分だけで、その大正五年分も五月二十九日以降の切り抜きしか残っておらず、あとはほとんどの年が一○件を下まわっている。

 この限られた中から読みとれるのは、民俗学関連をはじめ、椿事や女性関連など割合気楽な雰囲気の記事が多いことくらいであろうか。全体的に、南方本来の興味のおもむくままに色々な記事を切り抜いていたという印象である。

 ちなみに、前出の十三才の頃筆写した「和歌山新聞紙摘」には四八件の記事が抄写されているが、来日していたグラント元米大統領の関連記事と「小児養育の心得」という連載物の他は、性愛がらみの事件や椿事の類がほとんどで、後年まで変わらぬ一貫性が感じられて面白い。(別掲資料参照)

 そして、三十七年後の大正五年の切り抜きにも、このような記事がある(資料7)。

 さて、残念ながら『全集』所収の論考・書簡に引用されている大正期の記事には、今回発見された切り抜きと符合するものは見られなかった。そこで、大正期の例としては、直接著作に引用されているものではないが、『大阪毎日新聞』に掲載された「江戸城二重橋地下から人骨が出た」ことを報ずる記事がきっかけとなって同紙に寄稿されたと思われる、南方の「人柱の話」 (12) 関連の切り抜きを掲げる(資料8)。

 「人柱の話」では、例によって人柱に関する東西の文献を博捜してゆくなかで「大正十四年六月二十五日『大阪毎日新聞』に、誰かが橋や築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが…」と『大阪毎日新聞』を引用し、それを否定するように国内で築城に人柱がおこなわれたことを示唆する説を二例引いている (13) 。その肝心の六月二十五日付の切り抜きは見つからなかったのだが、これは翌二十六日の続報である。ただし、こちらは人柱を肯定する内容で、紙上では肯定論・否定論の両者が錯綜していたことがうかがえる。

 南方の「人柱の話」は大正十四年六月三十日と七月一日に分載されているから、二十五日の記事を読むや一気に書き上げて投函したに違いない。もちろん例に引いた二十六日の記事も読んでいるはずであるから、諸説入り乱れるといった状況をふまえたうえで、質量ともに圧倒的な論文をひっさげて議論に参加したとみてよいであろう。だとすれば、これは南方が多くの論文を投稿していた英国の『ノーツ・アンド・クィアリーズ』誌における議論のパターンに酷似しており、自らの関心が高い話題で議論が噴出するのをみた南方が、後年西村真次に宛てた書簡で「小生はそれを読むと直ちに病人と同室ながら一文を草し…」 (14) と述べているように、居ても立ってもいられなくなった様子が目に浮かぶようである。

 さらに『大阪毎日新聞』は、南方の「人柱の話」を載せた七月一日号に、築城の際の殉難者を埋めたとする黒板勝美博士の人柱否定説も掲載しており、南方はこれを切り抜いている。続いて七月八日には鳥居龍蔵博士が黒板説を「以ての外だ」として人柱肯定説を主張するが、これも南方は切り抜いており、自説が出た後も議論の行方を見守っていたことがわかる。

 鶴見和子は、南方が好んだ『ノーツ・アンド・クィアリーズ』の集団討論形式を「一種の知的な遊び」と紹介しているが (15) 、新聞切り抜きを手がかりに「人柱の話」が書かれた過程をみてみると、この種の遊び感覚が、南方の真骨頂ともいうべき博識溢れんばかりの論文を産みだす原動力となっていることがよくわかる。

七 昭和期の新聞切り抜き

 昭和に入ってから同五年ころまでは様々な連載ものを根気よく切り抜いており、数の多い連載もの切り抜きの大半がこの時期のものである。熊弥の発病(大正十四年)以後の数年間、南方は老骨にむち打って仕事に没入するが、新聞記事の切り抜きまでも精力的に行っていたようである。ただ、全般的に「硬め」の記事が多く、それまであった余裕のようなものは影をひそめ、同じ題字ばかりの連載記事の束からは何か鬼気迫るものさえ感じられる。

 昭和六年以降は生活も落ち着いて、切り抜きの内容も本来の志向に戻っているようであるが、さすがに晩年には切り抜きの数も少なくなり、椿事や性愛関連の記事まで減ってしまう。だが、これは近づく戦争の足音に脅かされ硬直してゆく世間や新聞社側の変化に拠るところが大きかったのかもしれない。

 そんななか、南方は晩年まで『大阪毎日新聞』『牟婁新聞』『日本及日本人』『旅と伝説』『民俗学』『大日』『ドルメン』など多くの新聞・雑誌へ寄稿を続けている。

 例として昭和九年十二月十五日『大日』93号に掲載された「歳暮録二則」という小篇に引用されている同年八月二十日付の『大阪毎日新聞』切り抜きを紹介する (16) (資料9)。

 「歳暮録二則」は、「宍道湖の埋立」と「石油とヘリウム」の二話からなるが、このような小篇では目についた新聞記事などから材料を得て書かれることが多かったらしく、「宍道湖の埋立」の書き出しが「今年八月二十日の『大毎』紙に…」という形なのだが、同様のパターンで書き始められている短文はかなりの数になる。

 それにしても、この「歳暮録二則」は力の入っていない文章で、同じ短文でも他の多くのものとは異なり、一件の文献も引かれていていない。『大日』に掲載されている文章は、たいてい発行日の半月前の日付であるから、十二月号掲載というのに八月の新聞記事を引いて書いているのもおかしいし、この文章だけは日付そのものがない。「何か書いてくれ」と乞われたので、切り抜きの束をかきまわし、適当な記事を引っぱり出してやっつけ仕事をしたのだろうか。たしかに、この頃になると、往年のような力作は見られなくなっており、『ドルメン』などにはいくつかの中篇も出してはいるのだが (17) 、やはり全篇にわたって高水準を維持することは難しくなっていたというのが真相かもしれない。

 余談であるが、南方は「石油とヘリウム」の後半で、前年の昭和八年、旧知の間柄である当時の鉄道相三土忠造が白浜に来訪した際に田辺駅まで出迎えて、『大阪毎日新聞』に「劇的対面」と報じられ話題になったのだが、そのとき短時間の面会を申し込んだのに断られたというエピソードを紹介し、自分としては、この地の温泉よりヘリウムが採れるかもしれないと進言するつもりであったのに「金の無心かエロ談を演べにでも来たように断わられ」 (18) た、といたずらっぽく裏話を暴露している。南方は件の『大阪毎日新聞』を切り抜いていおり、翌昭和十年に再び三土が白浜を訪れた際の記事も切り抜いている。もしかすると南方は、三土にそっけなくされたのがどうにも納まらなかったので、わざわざ適当な話題を切り抜きから選んでこんなことを書いたのかもしれない、といったら深読みしすぎだろうか。

八 まとめ

 こうしてみてくると、南方は新聞というメディアを、知識や情報を集積するための書物に類するものとして、あるいは当時最速の情報源として、またあるいは自説を発表する場として、著述のための資料として、果ては好みの女性のブロマイド代わりにまでしてしまい、まさに最大限に活用していたことがわかる。南方にとって新聞は十分にマルチなメディアだったのである。

 また、生涯にわたって抽出し続けられた新聞記事スクラップは、南方の生活史をも色濃く反映しており、それぞれの時点における彼の興味や関心の対象が何であったかを知るうえで、あるいはそれらの変遷をたどるための有力な手がかりとなりうるであろう。

 なかでも、性的な事件や死をめぐる事象に対しては生涯を通して変わらぬ強い関心を寄せ、関連記事を切り抜き続けていたことが明かになった。一見幅広く見える南方の関心の根源的な部分に、性の問題と死の問題が常にあることは間違いない。また、前にもふれたように、そういった記事を扱う当時の新聞の論調は、現代のものと比べると随分通俗的というか、まるでスクープ専門の週刊誌やスポーツ新聞の芸能欄を思わせる奔放さがあり、しかもそれは、小峯和明が指摘しているように (19) 、南方の感性には合っていた。このことは、近代的なアカデミズムとは明確に一線を画する南方学の目指していた方向を暗示しているのではないだろうか。

 新聞記事スクラップのデータベースが完成し、その全貌が明かになれば、私たちは、また一歩、南方熊楠の目指していたものに近づけるはずである。

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 注

(1)  資料紹介として、次項に収めた。

(2)  武内善信「在米民権新聞『新日本』と南方熊楠」、『ヒストリア』136号、大阪歴史学会、一九九二年、七一〜七二頁

(3)  『南方熊楠全集』第7巻、平凡社、一九七一〜七五年、四九一頁、松村任三宛書簡(南方二書)

 以下『全集』と表記する)

(4)  飯倉照平編『柳田國男 南方熊楠 往復書簡集』平凡社ライブラリー、一九九四年(初版一九七六年)、二三六頁

(5)  鶴見和子『南方熊楠』、講談社学術文庫、一九八一年(初版一九七八年)、二二二頁

(6)  『全集』第8巻、六二頁、柳田國男宛書簡

(7)  飯倉照平編『柳田國男 南方熊楠 往復書簡集』平凡社ライブラリー、一九九四年(初版一九七六年)、一二二頁

(8)  『全集』第8巻、六三頁、柳田國男宛書簡

(9)  『全集』第8巻、五六頁、柳田國男宛書簡

(10)  『全集』第8巻、一七七頁、柳田國男宛書簡

(11)  『全集』第7巻、五二六頁、川村竹治宛書簡

(12)  『全集』第2巻、四二一〜四三八頁、「人柱の話」

(13)  『全集』第2巻、四二五〜四二六頁、「人柱の話」

(14)  『全集』第8巻、六一七頁、西村真次宛書簡

(15)  鶴見和子『南方熊楠』講談社学術文庫、一九八一年(初版一九七八年)、五一〜五二頁

(16)  『全集』第5巻、五六六〜五六八頁、「歳暮録二則」

(17)  『全集』第5巻収録「地突き唄の文句」など

(18)  『全集』第5巻、五六八頁、「歳暮録二則」

(19)  『文学』季刊・第8巻・第1号、一九九七年、岩波書店、一九頁、座談会『「南方学」への視座』における小峯の発言

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