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南方熊楠の記憶力低下の特徴とその対処法

雲藤 等     

  はじめに

 南方熊楠はさまざまな伝説に彩られている人物である。彼の記憶力についても例外ではなく、晩年にいたるまで若い頃の記憶力がそのまま維持されていた、というようなことが言われてきた。確かに一般の人々と比較するなら、熊楠の晩年であってもその記憶力は優れていたと言うことはできる。しかし、彼自身の中では、四〇代の半ば頃より次第に記憶力の低下を意識するようになっていたのが実情であった。(1)

 この四〇代半ば頃より記憶力低下を自覚しはじめる熊楠は、その後もさらなる記憶力の衰えを意識することになる。その状況は次のように彼自身の言葉で表現されている。

 四〇代では「予近頃記臆薄くなり」(2)、五〇代では「近来予記臆頓に衰え」(3)、六〇代では「物隠しの神に祟られたる」(4)、「記臆は退散致し候」(5)、七〇代では「記臆という物ほどあてにならぬはなし」(6)。このように熊楠の四〇代以後、記憶力低下の自覚は著しくなっていることが分かる。若いときの優れた能力との落差を意識しすぎるためか、以後、晩年にいたるまで記憶力低下に悩むことになる。

 しかし、熊楠はこのような自覚を持ちながらも最後まで旺盛な知的生産を維持し、厖大な情報量を含む論文を量産し続けていた。彼はどのようにこの記憶力低下に対処していたのであろうか。本稿では熊楠の記憶力低下の様子を概観し、自己のプライドの源泉である記憶力の低下に悩みながらも、それに対処する熊楠の方法を明らかにすることを目的とする。この問題を考察するために、まず熊楠の記憶力低下の自覚はどのような特徴を持っていたのか、という問題を取り上げ、次いでそれに合理的に対処していた熊楠の方法を整理してみたい。引用資料中、『全集』は『南方熊楠全集』(平凡社)、『日記』は『南方熊楠日記』(八坂書房)を示す。年齢は数え年である。

  1 記憶力低下の特徴

(1)加齢による想起の障害

 まず、熊楠が自覚した記憶力低下の個別事例を検討し、どのような共通項があるのかを見てみる。以下に記憶力低下の自覚が読み取れる資料を列挙し、その低下の特徴を指摘してみたい。

 四〇代での状況は以下のとおりである。

 明治四四(一九一一、熊楠四五歳)年四月二八日の「日記」には次のようにある。検索しようとする話が「邯鄲物語」にあったと記憶していたが載っていない。さらに「続一九全集」や「京伝傑作集」を見たがやはり載っていないとして「予近頃記臆薄くなり錯誤を生ずること此外にも例あり。後日の為に記す。」(7)と述べている。

 同年八月一二日の柳田国男宛の書簡の中では、「七難の揃毛」のことが「和漢三才図会」の巻七一、近江国竹生島の条に載っていたと記憶していたが、確認すると見当たらないため、何巻何国の条にあるかをもし分かったら教えて欲しいと書き送っている。(8)

 明治四五(一九一二、四六歳)年三月一〇日・一五日の高木敏雄に宛てた書簡の中で、鵠女伝説に似た話が『古今図書集成』の高麗部にあると記憶していたものの、その写しを見ても載っていないことから「覚えそこないと存ぜられ候」(9)と述べている。

 また、同年四月二〇日の高木敏雄宛の書簡では次のように述べている。プシチとクピドの話に似た照手姫の話は、母より童話のように聞いた話ではあるが、今は十分に記憶していない。舞の本で見たように思ったが、見当たらない。『新群書類従』に収録されている『小栗の判官』という戯曲に多少の関係記事はあるが、徳川時代より以前のものではないので、「小生の覚えそこないと存じ候が、調べなば以前よりありし古話と存じ候。」(10)と述べている。

 このように見ると熊楠の言う「覚えそこない」という内容は、話の内容は覚えているものの、出典の検索がうまく出来ていないことを意味しているようである。

 五〇代での状況でも同様なことが言える。例えば検索しようとする記事が『代醉篇』にあったはずなのが見当たらず、『漢魏叢書』、『淵鑑類函』、『法苑珠林』、『抱朴子』などを二三度通覧した後、結局はじめの『代醉篇』をもう一度ひもといてやっと発見したということを宮武省三に宛てた書簡の中で述べている。(11)他にも「山若衆」のことを記している本の名前を忘れてしまい検索ができないといった例(12)や和銅銭は和開同珎と読むことが正式であるといった説を誰が述べたのかは忘れてしまったという例(13)などがある。

 この出典の検索に関しては、五三歳のときの上松蓊宛の書簡に次のような記述がある。

   もっとも只今は小生語学も大いに退歩致し脳も悪ければ、昔日の百分一ほどの能力も出でず。しかし、こんなことがたぶんこれこれの書にあったらしいくらいのことは覚えおれば、手蔓をもって捜せば大抵は分かり申し候。〔大正八(一九一九)年九月一六日 上松蓊宛書簡、『全集』別巻1、六九頁〕

 この資料から、熊楠の若いときの記憶力と五〇代での記憶力との違いが推測される。つまり、若いときには内容と出典が明確に記憶されていたが、五〇代ではおよその内容は覚えているもののそれは曖昧で不正確なものになっているということである。そのため情報を検索する際には何かの手がかりが必要であるというのである。

 このように熊楠は昔よりもその記憶力が百分の一ほどになってしまったと嘆きながらも、彼の言葉によれば手蔓、つまり想起の手がかりがあれば、大抵のことは検索可能であると述べているのである。したがって、彼の記憶力低下の自覚は覚える段階での記銘過程に関してではなく、主に思い出す方の想起の段階での悩みであったものと推測される。

 例えばさらに記憶力の低下を来しているであろう六〇代後半でも、熊楠は想起の手がかりにより、忘れていた内容を思い出していると読み取れる資料がある。

 次に引用する資料は六七歳のときのもので、物集高見編の『広文庫』を通覧した際の感想を述べたものである。

 前日御購い送り下されたる『広文庫』は、引用書はなはだ不十分にて孫引き多し。著者は老体にてそこまで手が届かざりしことと察し候。しかし小生どもこれを繙きていろいろ忘れおったことを懐い出す場合多く、大いに役に立ち申し候。小生編次中の随筆完成には大いに手数を省き候。〔昭和八(一九三三)年七月二五日 上松蓊宛書簡、『全集』別巻1 二〇八頁〕

 この資料では『広文庫』を読みすすんでいる内に、以前の記憶がよみがえってきたことを明確に述べている。この場合、想起の手掛かりは『広文庫』の内容となるであろう。

 同様の例は、昭和七年(一九三二年、六六歳)一一月二三日付の岩田準一宛書簡の中にも見られる。「前日御下問の花翁云々は、その後いろいろ考えしも臆い出だし致さず。しかるに、昨日熟眠中に夢にて思い出だし候」(14)とあり、忘れていた内容を夢の中で思い出したということを述べている。つまり、記憶していた内容は失われていたのではなく、うまく取り出すことができない状態にあるということになる。したがって、これらの資料から、熊楠の忘却の一つの形態として想起の段階での失敗を挙げることができ、内容を思い出すために適切な手がかりを必要としていたことが窺えるのである。

(2)覚える段階(記銘)の問題

 それでは覚える段階、つまり記銘についての状況はどうであったのだろうか。

 恐らく、想起と同じく加齢によって記銘も衰えていたであろうと推測される。書名を忘れがちになり出典を検索できなくなることは、若い頃と比較すると記銘が十分ではなかったことによるとも解釈できる。さらに四〇代以後はしばしば眼病をはじめとするさまざまな体調不良や集中力を妨げるいろいろな出来事に悩まされるなど、情報の入力に関しても若い頃のようにスムーズにいかなかったことと推測される。

 しかし、熊楠の主観としては記銘に関しての悩み、すなわち文献を読んでいて覚えられないといった悩みは四〇代から六〇代にかけてはあまりなかったように思われる。少なくとも彼の書簡を通読してこのような悩みを訴えているものはほとんど見られず、むしろ六〇代でも文献を暗唱できると述べるほどである。次に、熊楠の記銘に関して推測できそうな資料を引用して検討してみたい。

  〔資料A〕

 借金利用の妙諦一読、大抵今日和歌山辺の人々の法律に口を借りてすることどもの底が分かり申し候。よってちと遅蒔きながら『六法全書』を暗誦し、また『大英百科全書』に就いて欧米の法律精神を一通り読みおり申し候。〔大正一四(一九二五)年一二月三日 上松蓊宛書簡、『全集』別巻1、一一九頁〕

 この資料は熊楠五九歳のときのものである。これには『六法全書』を暗記したことが記されており、この資料を見る限りでは五〇代後半の時点で熊楠の記銘はそれほど衰えていなかったことになる。ただし、本当にこの時点で『六法全書』の暗記ができていたのかは少々疑問である。この年以降の各方面にあてた書簡に法律の条文について言及しているものは今のところ見当たらない。この件に関して述べている書簡は他に毛利清雅に宛てたものにある程度である。熊楠の記銘について考える上で重要だと思われるので、その書簡を以下に紹介し、『六法全書』の暗記についての信憑性を考えてみたい。

  〔資料B〕

 又、常楠との交渉起てより、六法全書を買て読み、英仏等の諸法と比較するにこれは、人為に出るもの故、科学などとちがひ甚だ分りやすきものにて、理屈は小生素より長ずる所なり。一寸した弁護士位いの事は出来申候。〔大正一四(一九二五)年三月二二日 毛利清雅宛書簡、中瀬喜陽編『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』、一四五頁 日本エディタースクール出版部 一九八八年〕

  〔資料C〕

 小生近頃法律を少しづつ学び居れり。これは植物学ほど六かしきものに非ず。ただうまく理屈を述べ、先例を引たらよきなり。此先例をしらぶる事は小生只今にては到底力及ばず。然し理屈だけは立つつもりなり。〔大正一四(一九二五)年三月二九日 毛利清雅宛書簡、『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』、一四七頁〕

 まず、注目したいのは、B、Cともに資料Aにあったような『六法全書』を暗誦したという言葉がないことである。資料Bでは『六法全書』を買って読み、イギリスやフランスの法律と比較したという内容であり、資料Cではそれよりもさらに控え目に法律を少しずつ学んでいることを述べているのである。AはB、Cよりも八カ月ほど後の資料なので、その後に暗記した可能性はあるものの、『六法全書』を暗記したというよりも、それについて勉強したことを誇張して表現したものと解釈した方がいいのではないか。例えば、昭和一五(一九四〇、七四歳)年三月六日の上松蓊宛書簡では、「小生は法律の智識皆無なり」(15)と述べており、結局法律の知識は身についていなかったようである。したがって『六法全書』の暗記という熊楠の書簡をそのまま事実として受け止めることには慎重になるべきであろう。

 ただし、『六法全書』は理路整然とした体系があるので、熊楠にとっては分かりやすいものであった可能性はある。そのことが、これらの資料の、『六法全書』は人が作成したものであるから、科学や植物学などとは違って非常に分かりやすいものであり、弁護士くらいのことは自分にもできるという若干自慢を含んだ表現をとらせたのかもしれない。

 しかし、『六法全書』の暗記が事実ではなく、自慢を含んだ誇張表現であったとしても、それによって即座に熊楠の記銘力が衰えていたということにはならない。むしろこのようなことを書簡の中で述べている点が重要なのであり、熊楠の主観としてはそれほど記銘の悩みを持ってはいなかったと見ることも可能である。

 さらにこの時期以降の記銘を推測させる資料を見ると、次のような書簡がある。

 貴君前年埼玉県の山で栗の木に付けるをとりしDacryovalusの生品と覚しきものを、一昨々日拙方宅地竹林下にすておきたる桜の枯枝より発見。純白雪のごとき皮がわれると、中に淡灰緑色、次に卵黄色の粘液球あり、その内に胞子あるなり。即座に写生すればよかったに、前日よりまちおる品々を順序により写生中、しおれてしまいたるに付き、昨夕水をそそぎしに細毛が皮の上に直立して密生しおりたるが横に臥して団結し、毛氈のごときものに変じおり、二度と直立せず。しかし記臆のままどうかこうか只今より写生するはずなり。奇品は数が少なきゆえ、一度変化すると恢復の見込みなく、残念千万なり。(傍線は引用者)〔昭和六(一九三一)年六月七日  上松蓊宛書簡、『全集』別巻1、一八九頁〕

 これは熊楠六五歳のときのものである。傍線部にあるようにしおれてしまった粘菌を記憶から呼び出して写生すると述べている。この資料からも熊楠の記銘はそれほど衰えてはいなかったように思われる。

 以上のような資料を検討すると、熊楠の主観として五〇代から六〇代前半にかけてであっても記銘に関しては、想起のときのような衰えをはっきりとは感じていなかったように推測される。

 さらに次の資料を見てみたい。この資料は熊楠六六歳のときのものである。

 

 『よだれかけ』という本、小生見たことなし。一夜読めば大抵は暗誦するから、御差し支えなくば御貸し下されたく候。

  (中略)

   若いとき思い付いたことは今に忘れざるも、昨今思い付いたことは書き留めおかぬと霧のごとく散佚し了る。しかるに、老いていよいよ多事で、たちまち思い付き、たちまち忘るること多し。〔昭和七(一九三二)年一一月七日 岩田準一宛書簡、『全集』9、一四一〜一四二頁〕

 前半部分で熊楠は一夜で暗記できるので書籍を貸してほしいと述べている。しかし、その後には思いついたことは書き留めておかないとすぐに忘れてしまうと述べている。恐らく熊楠の主観としてはまだ本を暗記することはできると思っているのであろうし、一時的にはできたのかもしれない。しかし、実際のところは思いついたことは書き留めておかないとすぐに忘れてしまうということのほうであったのではないか。この資料から考えると六〇代半ば以降での記銘の実態は低下を来していたであろうと解釈するほうが妥当と言えそうである。さらに記銘に関しての問題と推測されることが書簡に出てくるのは、七〇代のときのものである。

 (前略)このごろよほど老耄せしと見ゆ。たしかに一昨夜『今昔物語』で読みたりと覚え候ことも、今日再見するに一向見当たらず、念のためいろいろと渉猟するに『古今著聞集』より見出だす等のことしきりに有之、記臆という物ほどあてにならぬはなしと今さら大いに戒心致し候。〔昭和一二(一九三七)年八月一一日 上松蓊宛書簡、『全集』別巻1、二七三頁〕

 小生このごろ健忘にて弱りおれり。何かありふれたる書をよみたるに、「野郎を買うものはもっぱら自分よりも年上の野郎を好む」ということを言いたるがありし。わずかに五、六日前のことなるに、いかに思慮するもその書を思い出でず。貴殿御存知あらば御教示を乞う。〔昭和一三(一九三八)年六月一四日 岩田準一宛書簡、『全集』9、二九一頁〕

 この二つの資料は前者が七一歳、後者が七二歳のときのものである。熊楠は七五歳で亡くなっているので最晩年のものといってよいであろう。その内容は四〇代半ばと同じく、話の内容は覚えているものの出典が検索できないという悩みを訴えているものである。しかし四〇代と異なるところはつい最近読んだはずのものでもすぐに忘れるといったところである。これはもはや想起の悩みというより、むしろ記銘がうまく機能していないと解釈した方がよいのではないか。

 また、長女の南方文枝氏の次の証言には、熊楠の記銘の状況が窺われる記述がある。

 (略)父の体力にも限界があったのか、七十歳を過ぎてより、ときどき体の不調を訴えるようになり、自分から進んでマッサージなど受けることを希望した。ことに記憶力の減退を嘆き、折ふし、深夜の書斎から、「これ位の事が何で覚えられぬのか、大馬鹿野郎のへげたれめ」と、机を叩き自己を叱咤激励する独りごとが、夜の静けさを破って聞こえて来た。〔南方文枝「追想」『新文芸読本 南方熊楠』、一六二頁、河出書房新社、一九九三年〕

 この記述から七〇歳を過ぎる頃から、覚えられないことに対する自己への苛立ち、つまり記銘がスムーズにできないことへの熊楠の失望を読み取ることができる。この証言から七〇歳を過ぎて初めて記銘の悩みが始まったとは必ずしも言い切れない。しかし、その悩みが周囲の人にも分かるほど深刻になってきたのは、この七〇代前後の頃と見なすことはできるかもしれない。

 このように書簡や南方文枝氏の証言から見られる記銘の衰えは七〇代前後の頃からということになる。これは少々疑問に思えるが、少なくとも四〇代から六〇代前半にかけては記銘の衰えはあったとしても書簡の中で人に訴えるほどひどくはなかった、ということではないか。そして熊楠の主たる悩みはやはり覚えているはずの出典の検索ができないことにあったのである。

 

  2 対処法

(1)索引の作成・頭書き・分類

 熊楠は四〇代から自己の記憶力の低下を自覚していたため、それに対していろいろな工夫を凝らしていた。まず、この自覚を謙虚に受け止め、情報の引用を記憶からではなく記録したものから確認して引用しようとしていた。(16)そして、記録から引用する場合、ここまで検討してきたとおり、彼は出典の検索に苦労しはじめるのである。それでは熊楠はこのような想起の衰えにどのように対処していたのであろうか。この問題を次に検討してみたい。以下に引用する二つの資料は、熊楠の対処法を考える上で重要なものといえる。

  〔資料D〕

 一切経は浩瀚なものにて、とてもちょっと見通し得ず。小生は十分の七まで目を通し申し候。抄したること多きも、索引なきためちょっと一々見出だし得ず。(略)

  このほか読まんとならば片はしから読み抄するほかなし、実に手数繁きことに候。〔明治四五(一九一二)年三月一五日 高木敏雄宛書簡、『全集』8、五〇一頁〕

  〔資料E〕

 小生は、前年四年ほどかかりて一切経を通覧し、書き抜き、索引・見出しを作りしが、只今顕微鏡修繕にやり、致し方なきゆえ、『アラビヤン・ナイツ』を通覧して、索引を作りおり候。なかなかの大事業に御座候。〔大正一三(一九二四)年三月一二日 宮武省三宛書簡、『全集』9、三八〇頁〕

 Dは熊楠四六歳時のもので、この頃はまだ「一切経」の抜書のみを行っているだけのようであるが、E(熊楠五八歳)の資料によると、その後に「一切経」の索引・見出しを作成していることが分かる。さらに顕微鏡を修理に出しているため植物学のほうの研究ができないことから、空いた時間に「アラビアンナイト」の索引をも作っている。これらの索引がどのようなものであったのかは分からない。恐らく我々が現在見慣れているような網羅的な索引ではなく、熊楠が興味を持った事項に関して、その情報を検索しやすくするための独自に工夫したものであると推測される。

 この索引の作成は、熊楠が資料の検索に苦労するようになったことの不備を補う作業であったのではないであろうか。以前の熊楠ならば、卓越した記憶力により情報の内容と出典は容易に想起できていたはずであるが、それがうまく機能しなくなったことの自覚に基づく作業であったのである。つまり、熊楠は自分の記憶力の低下が主に想起の段階での障害であることを自覚したために、想起の手がかりを外部装置、すなわち索引を作ることにより解決しようとしたものと推測される。

 想起の手がかりを外部装置に求めるもう一つの方法として、抜き書きや書籍への詳細な書き込みがある。昭和六(一九三一)年一〇月五日付の岩田準一宛書簡では、「小生は自蔵の書どもへは読み下してなにか必要と思うことのあるごとに、この通りの悪筆もて遠慮なく頭書き見出しを筆しおき候。」(17)と述べている。

 熊楠はいろいろな書籍を筆写する際に、同時に写しとった部分や読んでいた書籍の空欄に頭書き(頭注のこと)などの書き入れを行っている。この事は若い頃にも行っていたのであろうが、想起の衰えとともに精細に行うようになったものと思われる。これが情報検索のときに役立っていたことは想像に難くない。

 頭書きに関しては、芳賀矢一『攷証今昔物語集』に対しての熊楠の書き込みを詳細に検討した小峯の研究がある。それによると書き込みの内容は、出典同類話の指摘や部分的引用、読んでいて気になった語彙の抜き出しや説話モチーフの注記などが主なものであるという。(18)また、『田辺抜書』にも欄外に索引としてさまざまなメモが書き込まれているという。(19)『田辺抜書』は熊楠の四〇代から六〇代後半にかけて作成されたものである。『攷証今昔物語集』の書き込みは小峯によると、どのメモがどの時点で書き込まれたのかは不明であるが、断続的にこまめに書き加えられた痕跡があると述べている。熊楠が『攷証今昔物語集』上巻を入手したのは大正二(一九一三、四七歳)年七月一〇日である。メモの中には大正一五(一九二六、六〇歳)年発行の『南方閑話』の書名が見え、さらには昭和一一(一九三六、七〇歳)年刊行の『琉球神道記』からの引用があるという。したがって、これらのメモは大正二年から始まり、その下限は昭和一一年くらいまでのようで、この間に書き込まれたものと推測される。(20)

 とすれば、『田辺抜書』や『攷証今昔物語集』の書き込みはすでに熊楠が記憶力低下に悩んでいる時期に成されたものと言える。したがって、これら同類話の指摘などの書き込みは彼の記憶力低下を補う方策でもあったと解釈できるのではないであろうか。

 また索引作成と同じような試みは、六〇代の後半にも行っている。

 小生は一月四日より二月十三日まで、丹毒にて昼夜悩むを好機会とし、椅子にかかり、辛抱しつづけて『古今図書集成』一万巻の内、職方典一千五百四十四巻に眼を通し、「随筆」に要用なる所々をことごとく分類して書き抜き候。職方典とは支那内地の郷土誌にて、民俗から地理歴史一切のことをみな集めたる部分なり。なかなか大部の物にて、こんな病気にあらざれば、とても眼を通す気にはならぬはずなり。これにて材料ははなはだ豊富また堅実になり候。〔昭和八(一九三三)年二月二八日 岡茂雄宛書簡、『全集』別巻1、五七二頁〕

 これは熊楠六七歳のときの書簡である。この資料中の「随筆」とは、結局出版されなかった『続々南方随筆』のことを指すと思われ、この「随筆」の材料とするために、『古今図書集成』を分類して、書き抜いているのである。これも若いときならば、書き抜きをしながら頭の中で分類していたものを、記憶力に自信がなくなったために、すぐに検索できるように分類して書き抜きをしたものと思われる(もっともこの工夫は記銘の低下を補うものとしても解釈できる)。

(2)人的ネットワークの利用

 このように熊楠は、情報検索の工夫として若い頃の「単なる抜き書き」から「分類して抜き書き」することや自分なりの「索引」を作ること、また「頭書き」をさらに詳細に書き入れることなどを行い、自己の記憶力低下に合理的に対処していた。

 しかし、それだけではなく、もう一つ重要な方法として考えられるのは、必要な情報の提供を他者に依頼するという熊楠の人的ネットワークの活用である。次に紹介する事例は熊楠六四歳のときのもので、忘れてしまった出典名を宮武省三に尋ねているものである。

 小生幼時毎々千匹狼ということを承り候。これは人が狼をおそれて樹の上に上ると、狼夥しく集まり来り、木の下に立ちたるやつの上に又立ち、其の上に又昇りして遂に其の人の在る所に達し、之を傷つけ落して食うと申候。数日前なにかの刊行物を送り来れるに粗末極まるながら其の図を出しありし。然るに小生只今多事にて忽ちその何の雑誌に出たるを忘失致し、いかに捜すも見当らず。か様のことは紀州外にも申し伝え候や。御示し被下度奉願上候。又書籍に出居らば、其の書の名を御知らせ奉冀上候。〔昭和五(一九三〇)二月二六日 宮武省三宛書簡、『南方熊楠書簡抄―宮武省三宛―』一四九〜一五〇頁〕

 この資料からも話の内容は覚えているが、その出典がどうしても思い出せない熊楠の様子が分かる。熊楠はこの事態に対処するために宮武省三に情報の提供を依頼しており、宮武は期待にこたえて肩車をして人を襲う狼の話は『新著聞集』に出ていると返答している。提供された宮武からの情報は、「千疋狼」という論文に引用され熊楠の知的生産に寄与することになる。この論文には、この件に関する情報を他府県の諸友に聞き合わせたところ、多くは返信がなかったが宮武省三と寺石正路の二人から返答があった、と記されている。(21)その後に島村知章や今村鞆からも情報の提供があり、『全集』に収録されているこの論文の中で「増補」として二人からの情報も引用している。

 このように、熊楠は同じ内容の情報提供を複数の人々に依頼しており、自己の人的ネットワークを最大限に活用していることが分かる。そしてその情報を提供者名を付して引用し、論文作成に役立てているのである。

 この他にもいろいろな情報提供を知人に依頼する例は書簡の中に散見される。

 例えば、柳田国男には「七難の揃毛」の記事が『和漢三才図会』に確かに収載されているはずであるが見つけることができないため、その出典についての情報提供を依頼している。(22)

 先にも紹介した「山若衆」の話の出典については、杉田定一に宛てて質問をしている(熊楠五八歳)。(23)昭和二年(一九二七、六一歳)九月一四日の三田村玄竜宛の書簡には次のようにある。徳川家の何代かの将軍が誕生したとき厄年か何かの理由で養子に出されたが、うまく成長したので養父となっていた武士が加増されたという話があったと記憶する。この話が収録されている書籍は自分の書斎に確かにあるはずなのだけれども、どうしても分からない。なお探索するつもりでいるものの、探す時間が無駄なのでもしご存知であるならば、出典を教示して欲しいと依頼をしている。(24)また、六六歳の時点での昭和七(一九三二)年四月五日の上松蓊宛の書簡では、「お江戸日本橋七つ立ち」の文句を部分的に忘れてしまったので教えて欲しい、と述べている。(25)さらに同年六月二八日の葉書では、「仏像流汗」に関する記事が収録されている資料の探索を宮武省三に依頼している。(26)

 昭和一三(一九三八、七二歳)年一月一九日の岩田準一宛の書簡では、「乞食が親孝行して賞揚された話」の最も古いものは備前池田光政の領地でのことと思っていたところ、それに関する書籍を調べてみても見つからないため「はなはだしく狼狽して諸方へ問い合わす」(27)と述べている。この件に関する岩田への最初の問い合わせは同年一月一五日の書簡で、岩田は早速『率章録』巻二にこの話が収録されていると返答している。(28)この岩田からの情報も熊楠の論文「贋孝行を褒賞した話」に引用されている。この論文の中で熊楠は「されば光政が贋孝行を褒賞したこと、何かに出でおるはずと、手当たり次第捜したが見当たらず。詮方尽きて鳥羽の岩田準一君に問い合わせ、早速来示に接した。」(29)と記している。このように熊楠の人的ネットワークからの情報は、記憶力低下を自覚した彼の後半生における知的生産に必要不可欠なものだったことが窺われる。

 次の資料は熊楠七三歳のときのもので、彼の記憶力低下を見る上でも興味深いものである。

 道三のハクラン買いのことの出処知れざる由。これは十日午前この書斎の内にあるなにかの書で見たるを、すぐさま控え置かず、ついに忘れ了り、今となって後悔はなはだし。他日御見出だしあらばご一報下されたく候。〔昭和一四(一九三九)年一一月一五日 岩田準一宛書簡、『全集』9、三一一〜三一二頁〕

 熊楠はこの書簡の四日前の一一月一一日に岩田準一に宛てて「道三のハクラン買い」の記事を『翁草』で読んだはずであるが調べ直しても見当たらないため、情報の提供を依頼していた。(30)その後の岩田の返事ではそのような記事は思い当たらないとのことで、この資料はその返事を受けてさらに岩田に情報探索の依頼をしているものである。したがって、引用資料にあるように熊楠は一一月一〇日に「道三のハクラン買い」が収録されている本を読み、次の日の一一日にはもう本の名前を忘れてしまって岩田に出典の探索を依頼していることになる。この資料からも熊楠の記憶力低下の様子が窺われ、それを補う一つの方法として人的ネットワークを利用するという試みのあったことが分かる。

 このように熊楠は自己の記憶力低下を補うべく、思い出せない出典名を他者からの情報を通じて検索しようとしていたのである。また、この人的ネットワークの利用は思い出せない情報だけではなく、自分が興味あるテーマに関する情報を広く求めることにも利用されていた。次に示す資料(熊楠五八歳)は牛に関する情報で重要なものがあったら教えて欲しいと依頼しているものである。

 ついてはもし特記すべきことで、小生脱漏ありては遺憾故、貴下もし御記憶中、牛に関することで、此の事此の事は載せて然るべしと思し召さるることあらば、一一梗概を記し御示し被下度、小生は之を貴下より承りし、又貴下より注意されたということを明記して出し可申候。(略)自分脳力が偏固になり居る故、万一を慮り此の事特に御頼み申上置候。〔大正一三(一九二四)年六月一四日 宮武省三宛書簡、『南方熊楠書簡抄―宮武省三宛―』、七一頁〕

 引用部以外のところで、鼻たけの切除手術をしたときに使用したコカインが身体に合わず、痴呆状態になっていると述べている。したがって「脳力が偏固」になっているという表現は、一時的な記憶力の低下を述べているものと思われる。一時的な障害ではあるが記憶力に自信を失っているため、情報の引用には他の人々の意見をも参考にしようとする熊楠の慎重な姿勢を読み取ることができる。

 熊楠の情報提供依頼は日本国内にとどまらず、「ノーツ・アンド・クィアリーズ」を通して海外にまで及んでいる。(31)これは、忘れてしまった情報に関しての依頼ではなく、例えば日本国内で流布している話に関する外国での類話の情報を求めているものが主であるが、熊楠はこのように利用できるネットワークをフルに活用していたといえる。天才的記憶力を持っていた南方熊楠ではあるが、本人の中では記憶力低下を意識したため、このように合理的な対応をしていたわけである。もし熊楠が現代に生きていたなら、パソコンを通してのインターネットを十二分に活用していたことであろう。

  おわりに

 熊楠の記憶力低下の内容を検討すると、彼の自覚として主に想起の段階に障害が出てきていたようである。この障害を補うために熊楠は想起の手がかりをよりはっきりさせる工夫を行っていた。それは次のような対策であった。

  1. 索引の作成。
  2. 文献抄写の際に頭書きや書き入れを詳細に行うこと(これは若い頃から行っていたが、記憶力の低下を意識してからはさらに念を入れて行われたと推測される)。
  3. 文献の単なる抄写ではなく、分類しながらの抄写。

 これらのことはいずれも想起の手がかりをよりはっきりさせるために従来自分の頭脳が行っていたことを外部装置に委ねた結果であると解釈できる。

 さらに重要な方法として

  1. 人的ネットワークの利用

が挙げられる。熊楠は自分の記憶力低下を冷静に受け止め、忘却してしまった情報や調査対象に関する新しい情報を積極的に知り合いに尋ね、その得られた情報を提供者の名前とともに論文に引用している。このように記憶力の低下を他者の協力を得るという形で補っていたのである。また、この情報提供依頼は海外にまでおよんでおり、これらを総合すると世界的に展開されている幅広いネットワークの存在が浮かびあがってくる。このネットワークは熊楠の後半生における情報収集および知的生産に不可欠なものであったと考えられる。

 おびただしいほどの引用からなる熊楠の論文は記憶力の低下に悩みながらもこのような努力によってそれを克服し、作成されたものと結論づけることができるであろう。

謝辞

 本稿をまとめるにあたり、ご指導いただきました放送大学助教授星薫先生に感謝いたします。

 注

(1)雲藤等「南方熊楠の記憶力をめぐる問題」『熊楠研究』4号、六八〜六九頁、二〇〇二年

(2)『南方熊楠日記』4巻、四〇頁、八坂書房、一九八九年(以下『日記』と略記)

(3)『南方熊楠全集』5巻、二〇五頁、平凡社、一九七二年 (以下『全集』と略記)

(4)『全集』別巻1、五二三頁、一九七四年

(5)『全集』9巻、九一頁、一九七三年

(6)『全集』別巻1、二七三頁

(7)注2と同じ

(8)『南方熊楠選集別巻 柳田国男 南方熊楠 往復書簡』、七〇〜七一頁、平凡社、一九八五年

(9)『全集』8巻、四九九・五〇三頁、一九七二年

(10)『全集』8巻、五二八頁

(11)大正一三年(一九二四)四月六日 宮武省三宛書簡、笠井清編『南方熊楠書簡抄―宮武省三宛―』、六二頁、吉川弘文館、一九八八年

(12)大正一三年(一九二四)八月二四日 杉田定一宛書簡、『全集』9巻、三九二頁

(13)大正一四年(一九二五)七月九日 寺石正路宛書簡、『全集』9巻、三七四頁

(14)『全集』9巻、一五〇頁

(15)中瀬喜陽編『門弟への手紙』、三二一頁、日本エディタースクール出版部、一九九〇年

(16)雲藤前掲論文、『熊楠研究』4号、六九〜七〇頁

(17)『全集』9巻、九一頁

(18)小峯和明「南方熊楠の今昔物語集―説話学の階梯・大正篇・III」『熊楠研究』4号、一一七頁

(19)小峯和明「南方熊楠の今昔物語集―説話学の階梯・大正篇・II」『熊楠研究』3号、二二九頁、二〇〇一年

(20)右同『熊楠研究』3号 二三二頁

(21)『全集』4巻、三三八頁、一九七二年

(22)注8と同じ

(23)注12と同じ

(24)『全集』別巻1、五一八頁

(25)『門弟への手紙』、一七三頁

(26)『南方熊楠書簡抄』、一八七〜一八八頁

(27)『全集』9巻、二八三頁

(28)長谷川興蔵・月川和雄編『南方熊楠男色談義―岩田準一往復書簡―』、三三六〜三三七頁、八坂書房、一九九一年

(29)『全集』4巻、二三三頁

(30)『全集』9巻、三〇九〜三一〇頁

(31)例えば一九三〇年年五月の“Notes and Queries”に収録されている‘Extraordinary Memory’には『五雑組』を引用して次のようにある。

 〓【門ノ中ニ虫】地方の林誌は雨宿りをした染物屋でとりとめもなくその店の注文控え帳を読んでいた。雨もあがり、林誌は急いで店を後にしたが、その二日後にこの店は火事に見舞われ、注文控え帳も焼失してしまった。再びこの店に立ち寄った林誌は困っている店主のために筆をとって、記憶から蘇らせて注文控え帳の全てを復元して書き上げたという。熊楠は、日本では林道春に同様の逸話があることを述べ、さらに西洋での類話があるだろうか、として情報提供を呼びかけている(『全集』10巻、三九四〜三九五頁、一九七三年)。

 他にも‘B.C. for “Before Christ”’(同 二七一頁)、‘Finger-Metal’(同 三八一〜三八二頁)、‘Filtering Stone’(同 三八八〜三八九頁)、‘Medicine for Habitual Theft’(同 三九二頁)、‘Paulownia, the Dutch Princess’(同 三九七頁)など多くの英文論文に情報の提供を望む記述がある。

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