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南方熊楠の「エコロジー」

田村義也     

 本稿では、南方熊楠における「エコロジー」について考えてみたい。

 熊楠は、明治四十四年前後の神社合祀反対運動と、昭和十一年に目的を達成した神島の天然記念物指定運動の二度、行政府や地域の大規模事業に反対する市民としての運動を行っている。ことに前者において、政・官、学およびジャーナリズムに対して活発な働きかけを行った彼の行動は、彼の生涯を通じても顕著なものである(1)。それは、自然保護の主張の早い例であるとともに、彼らしい直情径行さでの政府・民間(2)の不明・不正を告発する市民的政治参加として注目度が高い。

 自然環境の保護という思想は、「エコロジー」という二十世紀後半を特徴づけるキーワードと結びついて、今日市民的常識として定着しつつある。それだけに、熊楠にこうした思潮の先駆を指摘する議論も多いのだが、しかし熊楠がエコロジーという言葉(ないし彼によるその訳語)そのものを使っている例は多くない。そのため、熊楠のエコロジー思想を論ずるためには、彼の言説と行動の中に、「エコロジー的」と評価できる要素を探すことになる。しかし、熊楠自身の時代には科学としての生態学はまだ確立の過程にあった。また、環境問題が市民的常識となり、またそうした意味での「自然保護」の意識が一般的価値観の一部となったのは二十世紀の後半、熊楠の没後相当の時間がたってからのことである。今日社会的に流通している「エコロジー」を、同時代人であるかのように彼に当て嵌めることは出来ないし、後世の関心の枠組みや問題意識を前提にしたための時代錯誤の誤謬には注意を払わなければならない。

一 あこがれのエコロジーとソロー

 「エコロジー」という語は今日、語義の二重性を内に含んで通用している。生物学ないし自然研究の一部門としての生態学と、思想ないし政治文脈での環境への実践的関心ないし運動としてのエコロジーである。生態学者大串龍一は次のような例を挙げている。

 生態学はもともとエコロジー(ecology)の訳語である。しかしいまエコロジーという言葉は、このような環境問題との関連から話されることが多く、科学の一分野というよりもひとつのものの見方あるいは哲学のように考える人が多くなった。生態学の研究者がスズメのエコロジーとかブナ林のエコロジーとかいうと意外な顔をして、エコロジーという言葉の誤用だとして訂正してくれる社会人が増えている。

(大串、一九九二、五頁)   

 八十年代後半に出版された日本の代表的な百科事典二点がいずれも「生態学」という項目と「エコロジー」または「エコロジー運動」という項目を別に立項していることも、そのような二重性の反映であろう。英語における言葉の使われ方について Oxford English Dictionary (OED)の現行第二版(一九八九)を参照しても、その事情は変わらない。そこでは、'ecology' に二つの語義を認めて、それぞれ以下のような定義を与えている。

 1、動植物の経済(economy)の科学、生命体とその周辺環境、習慣、生活様式との関係を扱う生物学の一部門。

 (The science of the economy of animals and plants; that branch of biology which deals with the relations of living organisms to their surroundings, their habits and modes of life, etc.)

 2、(付加的に、また単独で)政治の文脈において、産業汚染のようなエコロジーに関わる問題に関して用いられる。特に、環境への、また「グリーンな」関心を示す様々な(特に西欧での)運動について用いられる。

 (Used attrib. (and absol.) with reference to ecological issues such as industrial pollution considered in a political context; spec. applied to various movements (esp. in western Europe) which represent the environmental or 'green' interest.)

 前者は、科学の一部門としての定義である。対象を簡潔に規定した、曖昧さのない定義だが、ここで対象とされている「(動植物の)経済」という表現の背後にある学説史的背景には補足が必要かも知れない。生態学と訳される‘ecology’は十九世紀後半に造語された若い言葉だが(後述)、その生態学の研究対象である自然環境の中での生物(特に生物群集)の生きるさま、つまり生態への関心はそれ以前から存在した。特に、マルサスからの大きな示唆に基づいて『種の起源』(一八五九)でダーウィンが展開した個体数に関する考察が、彼の自然淘汰説の形成と同時に現在の生態学的考察の出発点ともなったことは今日生態学史に関して広く認められているが、そこでの彼の考察は自然の経済 economy of nature ということばのもとに展開されていた(奥野、一九七八、一一八頁、一四七頁以下)。また、ギルバート・ホワイト、ヘンリー・デイヴィッド・ソローといった自然文学の系譜を含めた「エコロジー思想史」を著したドナルド・オースターは、この語をその著書の題名としている(Worster, 1977/オースター、一九八九)。理法・摂理などの訳語を宛てられることもあるこの economy という語は、そうした先行する諸思潮との連続性を持っている。

 後者が循環的定義であるかどうかは今はさておく。一九六三年の用例が初出とされる、この第二の意味でのエコロジーという語法は、二十世紀後半に、工業化の進行していた国々で現れたものである。七○年頃が「エコロジーの時代」あるいは「第一の環境の時代」といわれ(Worster, 1977/オースター、一九八九、四一一頁 沼田、一九九四、二○頁)、またそうした社会思潮の先駆にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(一九六二)などが挙げられるように、語義1と区別すべき用法としての「エコロジー」ということばは、まだ新しい。

 ところで、この項目の二つの語義には、それぞれ複数の用例が挙げられている。そのうち前者の初出は「エコロジー」という造語の生みの親としてよく知られたエルンスト・ヘッケルの『自然創造史』(一八六六)の英訳(一八七六、語形は oecology)なのだが、現行のOEDが最終的にこの例を初出と認める前に、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(一八一七―一八六二)の名前を挙げていた時期がある。この語の項目内容の変化を年代を追ってたどってみると、以下のようになる。

OED初版(一九三三、OEDの名前で二八年完結の New English Dictoinary を再刊した十二巻本)

 OEcology の語形で立項、現行の1とまったく同文の定義と、現在も維持されている十九世紀の用例三件。つまり、この語についてのOEDの基本的な立場は、この時点で出来上がっていた。

OED Supplement(一九三三、一冊本補遺)

 Ecological, Ecology の語形を立項、見出しに「今や OEcological、OEcology よりも普通の形(now the more usual form)」と説明を添えた上で、定義抜きでこの語形での用例のみを挙げる。そこには、ともに今日も参照される業績であるクレメンツの『植相遷移論』(一九一六)や、『動物の生態学』(一九二七)のエルトンの名も見える(3)

OED Supplement(一九七二、四冊本補遺の第一巻)

 一九三三年版の一冊本補遺を踏襲、用例のみ、派生形も含めて大幅増補。この時、用例の第一に「一八五八、ソロー『書簡集』、一月一日(一九五八年刊、五○二頁)」を挙げる。

OED 第二版(一九八九)

 ecology. also oecology で立項。語義2が追加され、これまでの定義は無変更で語義1となる。語義1の用例の冒頭に、次のような説明が現れる。「ソローの書簡における ecology の用例とされたものは、geology の誤読(A supposed use of ecology in Thoreau's letters represents a misreading of geology): Science (1965) 13 Aug, 707 と Bull. Thoreau Soc. (1973) No 123, 6 を参照。」

 誕生が新しい学術的概念だけに、基本的には増補だけであり、定義も明快である。しかしそれだけに、現行第二版で用例の冒頭にある異例の断り書きはことさら奇異に見える。いったんは採用されながら「誤読」として捨てられることになったソローの用例とは、こういうものである。

 ホアーさんはまだコンコードです。植物学や生態学などに取り組んでいて、どこかもっと本当に自分のためになるよその場所に将来の住まいを見つけるつもりでいます。

 (Mr Hoar is still in Concord, attending to Botany, Ecology, &c with a view to make his future residence in foreign parts more truly profitable to him.)

- Letter to George Thatcher, 1 Jan 1858 (Thoreau, Correspondence: p 502)

 これは、メイン州バンゴーのいとこジョージ・サッチャー宛の手紙で、家族や自分の隣人の消息を伝えた中の一文である。エドワード・ホアーはコンコードにおけるソローの隣人で、前年夏のメインの森旅行(その紀行文が没後刊行の『メインの森』の第三部となる)の同行者であった。

 この書簡集が一九五八年に刊行されると、ここに現れた ecology の用例が、造語者として広く認められていたヘッケルに八年先立っていることは、スミソニアン研究所刊行部長・広報部長でありソロー協会会員でもあったポール・エーザーにより直ちに指摘された(Oehser, 1959)。ソローが『ビーグル号航海記』の読者だったがヘッケルの読者ではなかった(そもそもヘッケルはこの年二十四歳の医学生で生物学者ではまだなかった)ことを指摘した上で、彼はいう。

   すると誰が ecology という語を作り出したのだろうか。そしてソローとホアーはどこでその語に出会ったのだろうか。これは興味深い問いだ、というのもソローはまさしくエコロジストであり、エコロジーの根本原理を把握した人だったが、エコロジーが一科学としての認知を得たのは彼の死後はるか後のことだったからである。

 この指摘を承けて、書簡集編者のウォルター・ハーディングは六年後、次のような「訂正」をエーザーと同じ Science 誌に発表する(Harding, 1965)。ヘッケルの用いた言葉は oecology であり、アメリカの植物学界で ecology という簡単な語形が使われるようになったのは一八九三年以降であることを考慮に入れて書簡を見直すと、初めは明らかに Ecology と読めた箇所も、「行き過ぎた想像は抜きで、Geology と読むことが可能である(it can without too much imagination be read as Geology)」。二つの語はどちらも文脈上充分意味をなすので、ホアーについてのソローの日記中の他の記述も参考として、ソローが意図していたのは Geology (地質学)だったに違いないと考える―。

 エーザーの指摘には、すでに調査がつくされ、議論は終わったはずの問題の定説が覆ったという興奮があふれている。そのときの彼の立場があくまでも「ecology という語の初出年代がさかのぼった」という見方であって、決してこの箇所の読みへの疑問でもなく、また「ソローによる造語」という受け取り方でもなかったことには充分注意をはらうべきだろう。書簡の中の用例であり、そのまったくさりげない使われ方からして、差出人のソローも宛先のサッチャーも、そしておそらくは今それに取り組んでいるというホアーも、このことばを当然のものとして理解していたのだろう、と彼はいう(そして「地質学」だったのであれば、この推測はまったく正しい)。それならその言葉は、ソローによる造語ではなく、彼らもまたどこかでこの言葉に出会ったのだとエーザーは考えた(前出引用参照)。

 言葉そのものの歴史をさかのぼれる可能性への期待の背景にある、学問としてのエコロジーの成り立ちは新しいが、思想的源流はそれ以前からあるのだという思いをそこには見るべきだろう。言葉の森の中に、現在は見失われてしまった古い水脈があって、それが他ならぬソローにおいて姿を現していたのかもしれないのである。

 結局、編者ハーディングは想像力ではなく既知の情報に基づいて自分の読みを改めることにしたのだが、その思いは彼にも共通している。彼は「訂正」をこのように結んだ。

   あらためて、エコロジーという語を考案したのはやはり一八六六年のヘッケルであると考えてよいだろう。―もっとも、ソローがこの語を作り出したのではないとしても、彼が疑いもなくエコロジーという科学の先駆者のひとりだったことは、彼を学ぶものなら分かることである。

 ecology という語がソローの英語には存在しなかったとしたら、その読みでも「文脈上充分意味をなす」というハーディングの記述は、なお不適切さを残すものだったかも知れない。そして、一九六五年にはこうして否定されたはずのソローにおける ecology の用例が、その後刊行されたOEDの Supplement(四冊本、一九七二年)では新規に採用されてしまったのである。ソローが初出であることはこの語にふさわしいというソロー読者の共有する思いと平仄を合わせるかのようなこの出来事は、「環境の時代」においてこのことばがはなっている不思議な力の象徴かも知れない。

二 「エコロジスト」熊楠

 熊楠をめぐる議論にもまた、こうした「エコロジー」の不思議な力は働いているようである。しかし神社合祀反対を巡る彼の主張には、要約が困難なほどに多岐多彩な問題が投げ込まれており、その内容は慎重に検討する必要がある。

 初めに、熊楠が「エコロジー」そのものに言及した箇所を確かめておこう。彼がこの言葉(異型を含め)を用いた場面は、決して数多くはない。そしてそれは確かに、明治四十四年の神社合祀反対運動のさなか、神島や那智の森林環境の価値を説いた書簡に集中している。

  (…)このほか実に世界に奇特希有のもの多く、昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 ecology を、熊野で見るべき非常の好模範島なるに(…)

    ―柳田国男宛、明治四十四年八月七日(『全集』第八巻五九頁)   

   小生は「二書」発行後少々は閑あるべくと楽しみおりしに、この近野村一条のため何ごとも成らず、(…)小生は時々やけ酒をあおり、なすこともなく罷りあり候。したがって、エコロジー等の論も委しきことは当分でき申さず

    ―柳田国男宛、明治四十四年十一月十二日(『全集』第八巻二三六頁)   

  御承知ごとく、殖産用に栽培せる森林と異り、千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。

    ―川村竹治宛、明治四十四年十一月十九日(『全集』第七巻五二六頁)   

 この時点で熊楠は、ecology という語に「植物棲態学」という訳語を当てていること(第一の例)、そしてその具体的に、内容を「諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致」するような、人間の活動から影響されていない環境で観察される「この相互の関係を研究する特種専門の学問」と説明していること(第三の例)を、まず確認しておこう。彼の説明は、植物に限定されている点を留保すれば、先に見た科学としての生態学の辞書的定義とまったく齟齬がない。

 熊楠の言説と行動を「エコロジー」思想として論じた例は、平凡社版熊楠全集第六巻の巻末解説「南方翁と日照権」における杉村武にすでに見られる。熊楠の現実参加的態度を主題としたこの文章の最後で、彼はこういっている。

   植物保護ひいては自然保護の思想が、翁には帰国後ずっとあったに相違ないし、政府の神社合祀令というものが、南紀の、植物を中心に全生物を、双肩に背負った観のある翁の、自然保護の思想を、のっぴきならず具体化し、保護のための闘いという試練に、翁を直面させることになったことが重要なのである。

   神社合祀反対理由の中で、翁は敬神崇祖の念や神社の歴史的な尊貴のほどを繰り返し強調しているが、底流となっている一筋の太い流れは、そういう観念的なものではなく、あくまでも歴史の保存と、植物の荒廃、絶滅がもたらす環境破壊への、身命を賭しての、マテリアリスティックな抗議である。

   (『全集』6―六○六頁)   

 そして杉村は、熊楠が神島について説明した柳田国男宛書簡の一節(前出)に「ecology」の語が見えることを根拠として「ちょっとした言葉からでも、察せられるように、翁はエコロジストの先覚であった」と述べた上で、「日照権の問題も、翁のエコロジストの一面として、自然保護に、深く広い、つながりを持つ」と結論づけている。熊楠の神社合祀反対運動の中心動機として「自然保護の思想」があること、そしてこれと熊楠の(日照をめぐる隣家とのいさかいのような)現実参加的実践とは、「エコロジスト」であることにおいて結びついている、というのである。

 自然保護の思想であり同時に市民的政治参加の実践としてのエコロジー運動の可能性への期待をこの時の熊楠に投影するのは、この文章の時期には自然なことだったのかも知れない。しかし、熊楠が宗教としての神道そのものの意義を説いた部分などは「マテリアリスティック」ではなく、本質は(保護のための)闘いにある、と無根拠に断ずる杉村の論には、唯物史観的な紋切り型の中に熊楠をはめ込む観念的な強引さを指摘せざるを得ない。

 そうした、実存主義風に現実参加的実践を称揚する立場には組みすることなしに、熊楠におけるエコロジー思想を正面から評価しようとしたのが鶴見和子である(鶴見、一九七八)。鶴見は、「エコロジー」の言葉そのものを熊楠が使っていることに依拠するのではなく、「エコロジー」的視点を熊楠の文章に読みとって、彼にその思想が内在していたことを示そうとした。熊楠が神島の自然保全を唱えたことを、後代における観光開発反対の自然保護の先駆と説明する樫山茂樹の文章(4)を肯定的に引用した上で、鶴見はこう主張する(三四九頁)。

   樫山が、(引用者注:神島保全の主張をさして)「環境の全体的保全という着想である」とよぶものこそ、南方の神社合祀反対運動の思想であったと思う。それは、「エコロジー」という言葉によっておきかえることができる。

 そして、熊楠のエコロジーへの言及を挙げた上で、こう議論を展開する(三五〇頁)。

   以上に引用した文脈では、植物相互の関係に限定して「エコロジー」ということばを用いている。しかし実際に南方が神社合祀反対の理由として陳べているところをよむと、エコロジーは「植物棲態学」だけに限ってはいない。植物生態系を破壊することによって、人間の生命と生活とが破壊され、人間性そのものが荒廃する。そのすじみちをつぶさに辿ったのが、「神社合併反対意見」である。

 ここでの鶴見の主張である、熊楠の神社合祀反対運動が「環境の全体的保全という着想」であったこと、それは「エコロジー」思想であって、上に上げたような実際の用例にもかかわらず、熊楠のエコロジーとは人間の存在にとっても基礎となるような生態系の重要性の認識であったこと、彼がその破壊の危険を「神社合併反対意見」で指摘していること、などは、しかしながら熊楠の議論そのものによって裏付けることが困難である。

 まず、神社合祀反対運動における自然保護の位置づけを見てみたい。上の引用箇所で熊楠は、神島(第一の例)や神社の神域(第三の例)のように人間の生活圏ではなかった森林がエコロジーすなわち(植物)生態学の実践の場たり得ることを挙げて、それを保存すべき理由の一つとしている。そこに自然環境内での生物資源保全の要請が含まれていることに異論はない。しかし、そうした「自然保護」的主張が彼の神社合祀反対の議論全体の中心とみなすことは、即断に過ぎる。論点が多岐にわたる熊楠の議論の概観としてしばしば言及される、彼が白井光太郎に書き送った「神社合祀に関する意見(原稿)」(明治四十五年二月九日付、『全集』7―五三○頁以下)での反対理由八箇条を挙げてみよう(ただしこの書簡で熊楠は、これらを一項目ずつ詳論しており、このように箇条書きにしているのではない)。

 これらの八項目のうち最後のもの以外は、すべて人間の社会・文化的活動を論じたものである。ここでの主張は、大別して前半の社会に害が生じること(地域社会と地域経済、民情、道徳への害)と、後半の人間の歴史・文化遺産と自然事物を損なうことの二つである。当然のことのようだが、神社合祀の問題は、熊楠にとってまずは地域の神社の喪失という社会問題だったのである。そして、貴重な人間と自然の遺産を保護することの主張がそれに続くのだが、第七および第八項で論じられるその内容を見れば、これらは学術上の研究対象が失われる危険の指摘を主眼としている。そしてそのなかで、対象としての「天然」の事物は、人間の文化的遺産と対等以上の重みを与えられてはいない。こうした限定された位置におかれた「自然保護」を、このときの熊楠の問題提起の中心ということはできない。しかも、この「原稿」を元にした『日本及日本人』誌の連載「神社合併反対意見」(明治四五年)は、第七項までを論じたところで放棄されてしまっているのである(5)

 熊楠のこうした姿勢は、この時期書かれた多数の書簡において一貫している。前出の川村竹治宛書簡(明治四十四年十一月十九日付)では、海外知識人からの助勢を求めた自分の活動を説明するくだりで、こういっている。

   学問は一人の私事にあらず。只今言うところのごときは、小生一人の損失は、すなわち学者全団の損失なり。されば、神社合祀の濫行は、愛国心の基底たる愛郷心の破壊にて、社殿を破り神林を伐るは、取りも直さず、本邦守護の諸神祇の威を殺ぎ、民に破壊思想を注入するものに外ならざる等、合祀反対の理由は一朝にして述べ尽くすべきにあらず(…)ただただ世界学術開進の上より見て、本県神社合祀と、これに偕い行わるる古蹟、古物、名勝、神林の破壊濫伐は、尋常ならざる罪悪事なる由を縷述し、欧州著名の人士に質し、(…)(『全集』7―五二七頁)

 これに先立つ、『南方二書』として印刷・配布されることとなった松村任三宛書簡(明治四十四年八月)でも、そうした議論の骨子はすでに明確であった。

   当県植物乱滅の件につき、小生より自在に意見を貴下へ申し上ぐれば、必ずお読み下さるべき旨、(…)小生は、これを機会として、植物のみならず、史跡、名所、またことに風俗、里伝の保存、分けては愛郷心より推して愛国心を堅固にすることにまで及ぼせる長き意見書を作り、貴下を経て、大学諸士の一覧を煩さんと存じおり候ところ、(…) (『全集』7―四七七頁)

 「植物乱滅の件」について、岡村金太郎の紹介により書状を出していることの断り書きなのだが、しかし熊楠は、自分の議論はそれ以外にも歴史・風俗研究上の重要性から社会道徳にまで関連があるのだ、と主張せずにはいられない。そのことは、その文面通りに評価されなければならない。植物学者松村に対して彼は、さらにこうもいっている。

   第一に植物保存の点のみより願わしきは、(…)差し当たり当紀伊国は、三好教授の『植物講義』にも見るごとく、上は本州ながら、生物帯は熱帯、半熱帯のもの多き、まことに惜しむべき地なれば(…)、学者の一通りの研究がせめてすむまで(事務行政上、実際何の害なきことなれば)、生物および古物、勝景、史跡(…)土俗、里風を保存するために、(…)

(『全集』7―四九○頁)   

   もし愛国心とか古風俗を観察するとか地誌郷土誌とかのことは閣下らに関係なしとするも、なお(…)当国は海産も山産も野産も、生物が半熱帯と温帯との交錯点なれば、その考究は実に学者に必要なり。

(『全集』7―五一四頁)   

 外の論点も自分にはあることを誇示しつつ、研究対象としての価値のみによっても保全が必要と主張するというこうした彼の姿勢は、ときとして「標本室的保存」ともいうべき学者的独善の気配を示すことすらあった。

   また小生みずからはすでに採集を了えたゆえ、別にさしかまいのなきことながら、那智参詣のついでに、同山中最勝の植物区として観察すべきクラガリ谷(…)は、珍植物、ことに羊歯類、…その他はなはだ多し(標品の一部は牧野氏に去年おくれり)。

(『全集』7―四八一頁)   

   つまりは、かかる学術上の調査の準備成るまでは、神社合祀は厳制されたきことにあるなり。山口主陵頭の話に、奈良県では建内宿禰の墓を滅却せりという。これも記載制図了りたる上その必用ありて滅却せられたらんには、左まで惜しむべきことにあらず

   (柳田宛書簡、明治四十四年六月十二日、『全集』8―四三頁)   

 後者は松村宛書簡に先立つ柳田宛書簡の一節であり、ここでは生物資源ではなく遺跡のことをいっているのだが、「左まで惜しむべきことにあらず」という表現にはやはり戸惑わざるを得ない。これらは、「学者の一通りの研究がせめてすむまで」歴史的遺物及び自然の産物を保存すべき、という彼の「(自然)保護」の主張が、研究者的関心より上位の社会的価値観や「環境の全体的保全」という今日的な目的意識を背景に持つものではなかったことを示している。

 熊楠は確かに生涯を通じて生物学者であったが、同時に民俗学者、考証学者でもあった(ありたかった)。「合祀反対の理由は一朝にして述べ尽くすべきにあらず」と自身語っているように(前出川村竹治宛書簡)(6)、このときの熊楠はむしろ、学者としての自分の能力の限界に挑み、論拠をいくらでも可能な限り列挙しようと試みているようにすら見える。鶴見が「その学力と精力のすべてを傾けた」といっていることには、その意味では同意したい。しかし、熊楠が、その学識の幅を誇るように「生物および古物、勝景、史跡(…)土俗、里風」と委細に論じたなかで、ひとり自然保護の理想のみが特権的な重要性を持っていたと想定することも、ましてそれ以外の主張は本質ではないと切り捨てることも、その議論の評価として妥当ではないだろう。

 こうした研究者の視点(学術的功利性といってもよい)と並び、あるいはそれに先だって、熊楠の自然資源保護の主張には、産業的功利性の側面があることにも注意したい。それは、地域社会にとっての利得の観点からの議論である。前出松村宛書簡の、クラガリ谷に育成する稀少植物などが学術的に価値ある事の指摘にすぐ続いて熊楠は、もくろまれている開発事業を批判してこう指摘している。

   そんなあやふやなことを強行して、このクラガリ谷の勝景、植物を滅却するは、いかにも惜しきことのみならず、せっかく大金かけ岩石開鑿、山林滅徐した後には、その水力果たして乏しく水源は涸れ、数年ならずしてこの電燈会社もつぶるるとせば、実に隋侯の珠を雀に擲ち失うようなことで、つまらぬことと存じ候。 (『全集』7―四八二頁)

 森林の伐採が水源をそこなう危険を正しく指摘しながら、熊楠はその見通しを産業開発の成否から評価して「せっかく大金かけ」ながら「つまらぬこと」になろう、と予言するのみである。珠は失い雀は手に入らないことになろうと嗤う、彼のこの議論は、「勝景、植物」を保全する意義と、産業開発による利益のいずれも価値基準として肯定的に受け入れており、両者の間で選択を行うような上位の視点や統一的価値基準は、そこにはない。

 ここにも現れたような、地域の社会と経済にとっての利得という功利的論点は、熊楠にとっては、柳田との往復書簡の中で「地方経済学」といった観点からのものであった(「『郷土研究』の記者に与うる書」『全集』3―二四八頁以下、及び柳田宛書簡大正三年五月十四日、『全集』8―四三四頁以下)。鶴見はそうした彼の殖産興業的価値基準に立つ指摘をも、「社会生態系」あるいは「地域主義」の用語の導入によって、そのエコロジー思想の一面と位置づけ、そうすることで神社合祀反対運動をこうした「あらゆる関係が収斂する場」と規定した(三五二―三五四頁)。人間の生産および社会活動のすべては生態系のサブシステムという世界観(ないし認識論)に熊楠が立たない限り、これらをエコロジーということばで説明すべき必然性は希薄と言わざるを得ない。そして、そうした現代的な観点が熊楠に内在していたことの議論はなされていない。むしろ、熊楠においてその議論は、観光資源的ともいえる稀少物保全の主張と矛盾を起こすことなく併存しているのである。

 鶴見が熊楠のこの運動について、「植物学、生物学への専念と、民俗学、宗教学への関心と、農民漁民職人等かれが日頃したしくつきあった、人々への共感とが、この一点に集中する」彼の「萃点」だったといっている(三四五頁)ことは失当ではないと思われる。しかし、「植物生態系を破壊することによって、人間の生命と生活とが破壊され、人間性そのものが荒廃する」(三五〇頁)と要約することで熊楠に「エコロジー思想」を指摘したときに鶴見が行ったのは、神社合祀反対運動における熊楠の危機意識を鶴見自身の問題意識によって置き換えることである。そこには、人間性を守り育てる生態系の保全という意味での「環境の全体的保全という着想」、それの破壊がもたらす人類の生存の危機、といった後代の環境意識が投影されている。確かに、珍しい植物、菌類の存在や分布学上の存在価値から産業としての自然資源保全、地域経済上の功利的観点からの損得判断、さらには生態系の損なわれやすさまで、熊楠が言及した論点の多くは、経済学と物理学から多くを取り込み、発展した今日の生態学(そして環境工学)が考察の対象とするものでもある。しかし、熊楠に仮託して語られた鶴見の主張には、人間もまた生物だというにとどまらず、人間の社会が自然環境の生態系の中に不可分に組み込まれていること、人間という種の生存条件としての自然環境の重要性の認識といった、われわれの時代のエコロジー思想の展開の成果が先取りされている。そのとき、熊楠にあってはあくまで植物棲態学であった「エコロジー」の内容もまた、すり替えられてしまった。

 同じ熊楠の行動について吉川壽洋は、簡潔に「一言にしていえば、神社の統廃合を亡国の行為と考えたからにほかならない」といいきっている(吉川、一九七七、三五七頁)。鶴見が「人間性そのものが荒廃」と表現したものは、吉川のいう「亡国」から、実はそれほど遠くなかったのかもしれない。しかし鶴見の描き出した「エコロジスト」熊楠のイメージは、そこから大きく隔たっている。「生命体とその周辺環境、習慣、生活様式との関係」という簡潔で具体的な意味でのエコロジーすなわち生態学をも視野に入れていた熊楠の思想の「翠点」に何があったのかは、さらに検討されるべき課題である。

三 熊楠とソローのへだたり

 前出のヘンリー・デイヴィッド・ソローは、アメリカの超越主義思潮および自然文学における巨大な存在であるとともに、またエコロジー思想の先駆者のひとりとして認められている。そのソローと熊楠との接点は、熊楠がF・V・ディキンズと共訳で翻訳した「方丈記」が‘A Japanese Thoreau of the Twelfth Century’の題で発表されたことなどにあることはあるのだが、ソローを熊楠がどう読み、どう評価していたかは、明白ではない(7)。ディキンズとの事前のやりとりの中で、作品の説明としてこのなぞらえをしたのが熊楠だった可能性は考えられるが、しかしそもそもこの作品ないし作者鴨長明をソローとその著作になぞらえることは、はたして妥当だったのだろうか。

 ソローと「方丈記」とを結びつける指摘は、ソローの主著『ウォールデン』の翻訳者佐渡谷重信もまたしている。高揚感にあふれた同書最終章にある、「われわれの内にある生命は河の水のようなものである。」という一文への訳注(同氏訳『森の生活』四八一頁の注29)で、佐渡谷は「方丈記」冒頭部の名高い文章を引用して「ソローの以下の文章と比較すると人生観の類似が明らかとなる」と述べているのである。

   ゆく河のながれはたえずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、ひさしくとどまりたるためしなし。世中にある人とすみかと、またかくのごとし。

 しかし、氏の指摘に反して、ソローの文章からはその類似は読み取りがたい。方丈記の「人生観」が、源平戦乱の荒れた世相を背景として、ままならぬ人の世への断ち切れぬ執着と、悲惨な世の中をどうにも出来ない無力感とに引き裂かれた「無常」の念をその中心としていることは改めて論じるまでもないだろう。小川のせせらぎのような清冽さをたたえた冒頭部とは裏腹に、長明は「あきらめ」の境地を求めて、しかし得られない。ひるがえってソローはどうだろうか。生命を河の水に譬える前出のくだりの比喩は、この部分だけ取り出すとけっして平明なものではないのだが、この『ウォールデン』最終章全体の一貫したテーマとは、つきつめれば、生命というものの人知を越えた力強さと持続性、そしてとりわけそれが隠れて知りがたいことである。このすぐ後で彼の挙げる、「一匹の強くて美しい虫が林檎材の古テーブルの乾ききった自在板から出てきた話」を引用しよう。

  このテーブルは、初めはコネティカット州、後にはマサチューセッツ州の、ある農家の台所に六十年も置かれていた。年輪をみれば、卵は何年もの間生木の中に産みつけられたままだったらしい。その虫が板を食い破って出てくる音は、何週間もの間聞こえていた。食器の熱で卵からかえったのかも知れない。この話を聞いて、再生と不死についての自分の信仰が強められるのを感じないものがあるだろうか。

(Thoreau, Walden, pp 513-4)   

 乾ききったテーブル板の中で半世紀以上もの間眠っていた虫が、美しくこの世に姿を現すというこの挿話そのものは、杖となった枯枝が再び芽吹くというキリスト教の奇跡譚にも似て、事実であるには美しすぎるかもしれない。ここでソローは、ゲーテ等の彼に先行する世代の文学者やシェリング等のロマン派哲学者達と同様に彼が抱き続けていた、有機的世界生命観の世界像を語っている。ソローの世界は、「より高い法則」志向であり、大きな生命の存在に近づく喜びと生をより高める期待に満ちて前向きであって、「盛者必衰」の方丈記的無常観とは対照的である。河の比喩に先立つ箇所では、「世界には新しさが絶えず流れ込んでいるのに、われわれは信じがたいほどの退屈さをこらえている」と前置きした上で、彼はこう主張していた。

   われわれは、大英帝国も木片のように押し流す大きな潮が自分の背後で満ち干しており、人はそれを自分の内のものとするだけでよいということを信じない。次にはどんな種類のジュウシチネンゼミが地中からあらわれるかを、誰が知ろう。わたしの住む世界の政府は、英国のそれのように、晩餐後のワイン談義の間にできたものではなかった。

(Thoreau, Walden, pp 512-3)   

 世界の法則である大きな潮流に一体化することができたものにとっては、現実の地上の政府などは問題とするに足らない。大きな生命そのものである、その大きな潮流とは、その動きも大きさも測りがたいものなのだ、という世界生命観を述べたあとで、ソローはその大きな生命のうねりが強く、そしてはかりがたいことを、大陸性の雄大な河の流れにたとえたのが、前出の河の水の比喩なのである。

   われわれの内にある生命は河の水のようなものである。それは今年はかつてなかったほど水嵩がまし、乾いた高地を水浸しにするかもしれない。今年は特別の年で、ジャコウネズミがみな溺れてしまうかもしれない。

(Thoreau, Walden, p 513)   

 世界の真理に目覚めたときに、煩悩から自由になるのと卑小な地上世界のしがらみから自由になるのとは似ている、とはいえるかも知れない。しかし、その真理が、一方においては「あきらめ」、他方では有機的世界観における世界生命との喜びに満ちた一体感であるという、ほとんど両極端ともいえる気質上の遠さも明らかであろう。単純に独居遁世の記とひとくくりにするには余りにも大きな懸隔がここにはある。

 「方丈記」の翻訳をおこなった那智時代の熊楠の心情が、人間世界のつらさとはかなさの「方丈記」の世界により親近感のあるものであったことは容易に想像される。実際、土宜法竜宛書簡でイギリスでの日本文学出版計画を語った中で彼は、「方丈記」の世界への共感をはっきりと述べている(明治三十六年六月三十日付、『全集』7―三三三頁以下)。

  来年一世一代の日本の著書のしまいとして、(…)それに小生の『方丈記』の訳(これは小生只今の身に取り実際ゆえ、はなはだよし)、(…)合本にして出板するなり。

 同じ書簡ではまた、自分の境遇を説明して「小生二年間この山におり、記臆のほか書籍とては『華厳経』『源氏物語』『方丈記』、英文・仏文・伊文の小説ごときもの、随筆ごときもの数冊のほか思想に関するものとてはなく、他は植物学の書のみなり。」とも語っている(『全集』7―三二九頁)。長大な華厳経や「源氏物語」と「方丈記」がいかにも不釣り合いに並べられているのも、「小生只今の身に取り実際ゆえ」だったのだろう。さらに彼は、英文自叙伝を執筆してディキンズに送る思惑を語った書簡では、こうもいっている(明治三十六年七月十八日、『全集』7―三五○頁)。

  必ず後に予の伝を尋ぬることが起こる。よって面白く綺語を事実に加えて、「新方丈記」一冊作り(英文)、今度ジキンズに送る。オクスフォードの図書館の石室に収むるなり。その体はルーソーの『自懺篇』にならえるものなり。

 『新エロイーズ』をもじったのかも知れないその題名も、世捨て人の自伝の謂であろう。熊楠が、被害妄想と苦悩に満ちた世界としてルソーの『告白』を受け取っていたことは、後年の神社合祀運動のさなかに、神島伐採差し止めを巡って戯れ言めかして自分の被害者意識を語った柳田国男宛書簡(明治四十四年八月十二日、『全集』8―六七頁)にも現れている。

  ルーソーがケイス大将方におりしとき、普仏の両王は欧州諸国に訓示し、同盟して予(ルーソー)を困迫すとあると、ルーソーの狂人たりし所以と心理学者が論ずるが、実際小生なども田舎におりて気が小さくなったのか、当県の官公吏は公利、行政のために諸処に伐木をゆるし、勝景希物を損滅するのでなくて、ひとえに小生に対する意趣晴らしに、かかる濫行をあえてせしむるかと思う折もあるなり

 心ならずも世に受け入れられない身を嘆き、ルソーと「方丈記」に共感する熊楠の姿は、人生の充実を求めて森での独居生活へと向かい、自然との一体感を確かめて森を去ることが出来たソローとは対照的である。

四 熊楠からソローへ―類似する資質

 ウォールデン池のほとりでのソローに熊楠と相通ずるものがあるとすれば、それはむしろ周囲の自然に向けた視線の科学性に求められるかも知れない。『セルボーン博物誌』もダーウィンの航海記も愛読していたソローは、自分でもまた、目にする動植物の生態を細かに記述している。しかし、それらにもまして彼の態度の科学的客観性が顕著なのは、氷結したウォールデン池の水深測量の逸話(Thoreau, Walden, ch. xvi)である。

 この池はたいへん深く、「この池の底について、あるいは底がないことについては、根拠のない話がずいぶんあった。水深の測量もせずに、人々がいかに長い間、池が底なしだと信じるかは驚きである。(…)多くの人々が、ウォールデン池は地球の反対側に達していると信じていた」。そこでソローは、滞在最初の冬(一八四六年初め)に「鱈釣り用の糸と一ポンド半ほどの重さの石で」測量をおこなった。彼によれば「最も深いところは百二フィートちょうどであった。(…)その小ささに対して驚くべき深さだが、一インチでも想像力によって加減はできない」(Thoreau, Walden, pp 441-2)。結局彼は、五つある入り江の内三つを精査し、湖底の地形や最深部の位置などを精細に測量している。氷に穴を開けては重りをおろして続けられたその地形調査の実証性と徹底性は、その態度においてきわめて科学的である。『ウォールデン』の中のそうしたくだりは、森の生命活動の精細さと力強さを綴った他の箇所の味わいとは異なる性質のものだが、ソローにとっては両者とも、自然のうちにある「より高い法則」との出会いという意味では同じことだった。この調査結果についての彼の考察は、こう展開されていく。

  法則と調和についてのわれわれの考えは、ふつうはわれわれの探り得る事例に限定される。しかし、一見矛盾するが、実は一致している夥しい数の法則を、われわれはまだ探り当てていない。その調和とは、はるかにすばらしいものなのだ。ひとつひとつの法則とは、われわれ人間の視点と同様、山には一つの形しかないのに、旅人の眼には一歩ごとに変化し、無数の姿を見せるようなものである。(…)

   私が池について観察してきたことは、倫理についてもまったく真実である。

(Thoreau, Walden, p 448)   

 ソローは、森林の自然生態に相互関係性ないし体系性があることの認識においても、植物相が遷移するという認識においても、科学としての生態学が対象とした多くの現象をすでに理解していた点で、まさしく生態学の先駆者である。ソローの抱いていた自然像そのものは、自然の生命がひとつの体系に結びついているという、先行する世代から引き継がれたロマン派哲学的世界観に支えられていた。こうした、ダーウィンが拒否した(奥野、一九七八、一四七頁以下)、しかし多くの生態学者を惹きつけ、今日のエコロジー思想にもなお影を落としているそうした有機的生態系生命観は、科学としての生態学においては、一九二○年代、クレメンツとタンズレーの世代まで存続したもので、「ニュー・エコロジー」として生態学が科学性を高めていくにあたって乗り越えるべき思弁性の残滓だった(Worster, 1977/オースター、一九八九、三五六頁以下 奥野、一九七八、一二四頁以下)。しかし、根底においてそうした世界観に根拠づけられ、あるいは動機づけられていたとしても、ソローの「生態学的」自然認識そのものはそうした形而上的立場から演繹され得たようなものではなかった。それはむしろ、観念的な世界観を裏切るような「自然」の小さな断片との出会いの積み重ねがもたらしたものであって、客観的で綿密な観察の途方もない時間にわたる持続にはぐくまれたもののはずである。

   ターンパイクの南側の乾いた岸、エヴェレットの草地のすぐ下で、ミズゴケに隠れて、珍しい、興味深いキノコをみつけた。知ってはいたが見るのは初めてだった。全長六インチと四分の三で、その三分の二はミズゴケに埋まっている。菌傘と柄と基部があるのだが、基部というより陰嚢というべきかも知れない。それは、まったくの陰茎なのだ。impudicus(恥知らず)と名付けられたキノコの一種だろう。あらゆる点でもっともいかがわしいものというべきだが、しかし実に示唆的でもある。(…)こんなものを創造したときに、自然は何を思っていたのだろう。これではトイレで落書きをする連中の水準に身を堕しかねない。 (Thoreau, Journal, 16 Oct 1856)

 ソローの世界観のような形而上性は、熊楠の植物研究にはあらわではない。そして、熊楠の方丈記的無常観は、森の孤独な暮らしに大きな生命との直接の交歓を感じるソローの世界観そのものからは大きく隔たっている。それにもかかわらず、氷結したウォールデン池の上で黙々と測量を続けるソローの姿には、那智山中において黙々と菌類、藻類、そして粘菌の採集・観察・図譜描画を続けた熊楠に重なるものがある。

 松村任三宛書簡における「稀少植物絶滅の原因と現況報告」の科学性を芳賀直哉は「あたかも環境評価をするかのように実例を集めて示していく手法」と指摘し、熊楠のそうした現場主義と帰納法的態度に「熊楠の学問の方法と態度が最もよくあらわれている」と評価している(芳賀、二○○二、一四五頁、一五○頁)。世界観や人生観においては対照的だった両者は、オースターが「陰鬱な学問」と形容したような(Worster, 1977/オースター、一九八九、第三部標題)、あるいは生物学者マイケル・ギズリンが 'brute fact'(厳然たる事実)という表現を使って指摘したような(Ghiselin, 1969 : p195)、むきだしの自然そのものの姿をまず把握しようとするダーウィンの非形而上学的なリアリズムにおいてこそ通じ合っているのである。

 熊楠は、膨大な時間を費やしながら世に問われることなく終わった生物学の探究を続けていた。熊楠のエコロジー思想は、遺された図譜、標本が明かしてくれるはずの、そうした彼の営みのなかにこそ、探求されなければならないのだろう。

【注】

(1)  鶴見和子は、この神社合祀活動を持ち上げるあまり、「南方熊楠の学問一筋の生涯の中で、その学力と精力のすべてを傾けた、そして唯一つの、実践活動であった。」とまでいっている(鶴見、一九七八、三四五頁)が、所期の目的を達成した神島の天然記念物指定運動を「実践活動」として無視するのは正当ではないだろう。また、両運動の間には、植物学研究所設立のために奔走した時期がある。

(2)  熊楠の批判対象には商業および開発事業による私利を図る勢力が含まれ、彼はそれらに対して「民」の字を否定的に用いた例がある。例えば『全集』7―四七八頁、8―七一頁。

(3)  ただしエルトンの用例は一九三○年刊の Animal Ecology and Evolution からでありながら、書名を誤って Animal Ecology として引用している。七二年版補遺では訂正されたが、結局八九年の第二版ではこの用例がそっくり削除された。

(4)  「神島行幸について道を切り開いたことに南方先生は反対された。今日では(…観光開発が)森の調和を破り、植生や動物の生息地の自然破壊をしたことは周知の常識となっている。このことを明治の末年に指摘警鐘されているわけである。(…)つまり環境の全体的保全という着想である。」樫山、一九七六、三七―八頁。

(5)  この「意見」連載中断について熊楠は、柳田宛書簡(大正元年十二月二十九日)の中で、「官民双方憊れて仕舞い、加うるに御大葬の御事ありてより」大勢が自分の願ったとおり合祀中止・伐採中断の方向となったことを述べ、毛利清雅との衝突などにも触れた上で、「小生も永らくかかることに時間と金銭を浪費するは、もっとも学事と家事の妨害に相成り候につき、一切関係を絶ち、例の『日本及日本人』への投書も見合わせおり申し候。」と、あっけないほど冷淡に伝えている(全集8―三四三頁)。この傍観者的ないし冷笑的な姿勢は、別件の朝来村排水工事を告発する文章を執筆する意図を柳田に伝えたくだりにも見える(全集8―三四八頁)。なお、飯倉照平によれば、こちらの告発文も「顛末は不明である」(『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』三二三頁、編者注四)。

(6)  熊楠のこの文は、「といえども、わが国の損は他邦の得にして、此方の隙は彼方の乗ずべき機なれば、それらのことは一切黙して言わず。」と続いている。その時代の思潮に棹さした国家意識である。

(7)  小泉博一「熊楠の英訳『方丈記』の草稿」の記述では、熊楠が自分の那智隠遁をソローにもなぞらえているように読めるが(小泉、二○○二、一二頁)、熊楠はソローに言及していない。本文後出の『全集』7―三三三頁以下を参照。

【文献】

*平凡社版『南方熊楠全集』からの引用は「『全集』1―二三四頁」のように巻数とページ数のみで示した。

*英文文献の引用は、邦訳のあるものは基本的にそれによったが、ソローの引用はすべて引用者の訳によった。

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