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《ミナカタ通信10号 (1997.10.12) より》

第一回南方熊楠ゼミナール参加記

松居竜五     

 八月二十三日(土)・二十四日(日)の二日間、田辺市の紀南文化会館で「第一回南方熊楠ゼミナール」が開催された。田辺市の南方邸保存顕彰会と白浜の南方熊楠記念館の共催となったこのゼミナールには、二百五十名前後の参加者がつめかけ、会場には外国人を含む大学など研究機関所属の研究者・学生も多く見られた。南方熊楠に対する関心が一過性のブームではなく、さまざまな方面で根付きかけていることを如実に示す盛況であったと言ってよいだろう。

〔シンポジウムについて〕

 一日目は、午後一時半から『森羅万象の巨人』と『真性粘菌の生活史』の二本の映画が上映され、その後上山春平氏をコーディネーター、飯倉照平氏、小野新平氏、および松居をパネリストとするシンポジウムが二時半から行われた。シンポジウムでは、まず上山氏より南方邸、記念館の調査や新しい全集発行の必要性など、熊楠研究の全体状況について説明があり、続いてそれぞれのパネリストによる話題提供が行われた。

 最初に、小野新平氏は『真性粘菌の生活史』を受けて、熊楠が粘菌研究に傾倒したことの意味について語った。『真性粘菌の生活史』は、変形体の規則的な原形質流動が動物の脈拍を思わせる点など、粘菌が動物と近い性質を持つことに力点を置いて、その姿を映像化したフィルムであるが、小野氏も現在の生物学では以前に比べて粘菌を植物ではなく動物に近い存在とする見方がつよくなってきていることを示した。さらに小野氏は「生命とは何か」という問題に対する現代生物学のいくつかの定義を紹介しながら、その中の一つとして「生命=死にたくないもの(何とかして生き延びようとし続けるもの)」という解釈を取り上げ、この解釈から考えたとき、さまざまに形態を変えながら生き続けようとする粘菌を研究することは、たしかに生命の本質に迫るための有望な方法となり得ると結論づけた。小野氏が最後に示唆したように、この議論の延長線上には、南方曼陀羅と呼ばれる那智時代の世界観を、大日如来=生命がどのようにしてさまざまな形態を現出させるか、という読み替えによって粘菌研究とリンクさせる可能性が見えている。その意味で、今後の展開が非常に楽しみな話であった。

 次に、飯倉照平氏は、現在の南方邸・記念館調査を踏まえつつ、南方熊楠が十代の筆写によって本草学を網羅的に吸収したことについて語った。この時期の筆写は、後の生態学や民俗学などにつながる熊楠のものの考え方の基礎を作ったと思われる部分だけに、最近の調査によって詳細が明かになりつつあることには期待を抱かせるものがあると、飯倉氏は言う。今後は、こうした筆写の過程を年代順に丹念に追うとともに、本草学と西洋科学が当時の日本の中でどのように衝突・融合していたのかという状況をとらえつつ、その中で熊楠の筆写を位置づける作業が必要になってくることを、飯倉氏の話を聞きながら考えさせられた。

 ついで、松居は主にアメリカ、ロンドン時代の熊楠が、これらの国の学者との交流に恩恵を受け、彼らに導かれて自分の学問的関心を伸ばしていった過程を、モース、カルキンス、フランクスなどを例に取りながら話した。熊楠の学問の基礎になったのは東アジアの本草学・博物学だが、彼を受け入れ、その可能性をさらに広げていけたのは、アメリカ・イギリスの先達および同時代の学者たちのおかげである。熊楠の開かれた知性のあり方は、そうした欧米の比較的に開かれた学問的土壌で育てられたことを、今一度思い起こすべきであるというのが、私の話の趣旨であった。まがりなりにも経済大国となった現在の日本に必要なのは、近視眼的に「愛国者」としての熊楠に肩入れすることではなく、むしろ熊楠を受け入れた当時の欧米学界の寛容さに学ぶことなのではないかと、私は最近しばしば考えさせられている。

 シンポジウムはこの後、会場からの質問状を受け付け、それにパネリストが答えるかたちで進められた。質問の内容にはレヴェルの高いものが多く、あらためて熊楠に対する関心の深まりを感じさせた。時間的な都合もあってパネリスト同士で議論をあまり交わすことができなかったのは残念だが、この点はこうした機会を重ねながら、徐々に進展を期待すべきことであろう。

〔研究発表について〕

 二日目午前中は、九時から十一時まで、四人の発表形式で進められた。まず一番手の武内善信氏は「南方熊楠と宗教学序説」という題で、アメリカ時代からロンドン時代にかけての熊楠の宗教、特に仏教に対する関心の推移について語った。「なるほど土宜法竜宛書簡に見られる熊楠の宗教観は独特の知見に達している、しかしそうした宗教観はどのようにして形成されたものなのか」という非常に明確な問題意識に支えられた意欲的な構想であった。『珍事評論』中に見られる渡辺竜聖との対話が仏教研究の出発点であった、あるいはマックス・ミュラーに反発しながらも実はそこから大いに学んでいる、といった指摘はそれぞれこの問題に関する新しい視野を開くものであろう。今後、具体的なテクストに沿った上でこの議論がまとめられれば、従来の土宜法竜書簡の読み方に修正を迫り得るものになることが期待される。

 次に、吉川寿洋氏の「南方熊楠と景勝破壊反対運動」は、大正二・三年頃の熊楠が和歌山城のお濠を埋めることに反対したことに関して、新資料である常楠宛書簡などを用いながら取り上げたものであった。前々日、二十一日付けの『産経新聞』夕刊社会面でこの件が大きく報道されたこともあって発表前から関心も高かったようだが、吉川氏の軽妙な語りとともに楽しく拝聴させていただいた。吉川氏は、常楠を通じて徳川頼倫公に埋め立て反対の発言を促そうとした熊楠の独特の「政治手法」に触れながら、明治政府の「近代化」政策に対する熊楠の反感について論じた。このことは、熊楠が主に江戸期の学問を自らの教養の基礎としたこと、神社合祀反対運動が直接的には「革命政権」としての明治政府に対する抵抗であったことなどと符合する。しかし他方、西洋近代科学への信頼感に基づく「文明開化」への一定の評価など、熊楠は決して一貫した「明治否定・江戸礼賛」論者とは言い切れない側面も持っている。そのあたりの「江戸」と「明治」の間での熊楠の微妙なバランスの取り方は、彼を取り巻く人脈などとともにもう一度詳しく検討されてよい課題であると感じた。

 土永知子氏の「熊楠の植物標本から見た紀南の自然」は、熊楠邸内の植物学標本調査の成果の「中間報告」としてまとめられたもので、実証的な調査成果を生かして熊楠の学問構想の全体像を再現したという意味から、本ゼミナールにもっともふさわしい発表であった。土永氏は、これまで熊楠の植物学研究に関しては、菌類・粘菌に関する面のみが取り上げられてきたが、邸内に残された標本からは高等植物にも大きな関心を払っていたことがわかる、と論ずる。その上で、熊楠が採集した植物の中には、現在では絶滅危惧種とされているものが多いことを指摘し、田辺とその周辺における熊楠の時代から現在までの生態系の変化について論を進めた。実際の標本に依拠しているために説得力に満ちた論旨であり、今後、田辺時代の熊楠を論じる際の必須の研究となり得るであろう。八月二十六日の『讀賣新聞』夕刊社会面は、特にこの発表を記事として大きく取り上げている。

 最後に後藤伸氏は、紀伊半島の「熊楠の森」を数十年調査してきた経験を踏まえて、森林の中で生態系を総合的に把握する方法について語った(「照葉樹林内における南方熊楠研究の試み」)。後藤氏によれば、森林をよく観察すれば、現在残された樹木の状況(種類、生え方など)から、森全体の古さや履歴を推測することができるという。森林という無数の生物個体の集合が織りなしてきた生命活動の時空間を、個々の現象だけでなくその総体としてとらえようとするこうしたアプローチは、たしかに熊楠が独力で切り開こうとしていた生態学的思考法を受け継ぐものであると言えるだろう。熊楠の本領は熊野の森林の中での採集活動にあるのだから、森に入らずして熊楠は語りえない、とする後藤氏の問題提起には、やはり耳を傾けざるを得ないはずである。

 後藤氏や土永氏が今回の発表で示したような、生態系を現在の時点での地理的空間的分布だけでなく、歴史的な時間軸に沿った変遷からもとらえる手法には、熊楠の学問構想を現在的な問題として再生させるための確かな方向性を予感させるものがある。つまり、現在にいたる時間的・空間的連続の中で熊楠の採集活動や神社合祀反対運動をとらえていくことにより、それらを過去の一事件ではなく、我々自身の問題へと必然的なつながりを持ったものとして理解することが可能になるからである。こうした方法論は、実証的になるにつれてやや閉塞化しつつある近年の熊楠研究の状況を、その成果を生かしつつ熊楠思想の全体像を問い直す方向に、転換させる力を秘めているのではないだろうか。

 結局、熊楠の粘菌研究の意味に関して新しい視野を開いた小野氏の発表と合わせて、少なくとも構想力の面では、今回は自然科学系の研究者が人文系を圧倒したかな、というのが正直な感想であった。しかし、そうした構想を熊楠という一思想家の理解へとつなげていくためには、やはりテクストに基づく人文系の研究が欠かせないはずだと、私は考えてもいる。今後の熊楠研究においては、自然科学系と人文系の双方がある時は協力し、ある時は競争しながら、お互いの手法を取り入れて、総合的な把握を目指すことが望まれる。

 研究発表会終了後の歓談、見学ツアー(講師、中瀬喜陽氏・久原脩司氏)などで聞いた参加者の話の中には、生物学系統の研究者と人文学系統の研究者が熊楠を媒介にして同じ土俵で話をしたことがおもしろかった、あるいは、こういう組み合わせで議論が可能になる学会は世界的に見ても珍しい、という声があった。そうした意味で、今回のゼミナールは、将来の南方熊楠研究が、自然科学と人文学がそれぞれの実証性を保ちながら(つまり一部のニューサイエンスのような実証性を欠いた迎合ではなく)確実にリンクしていくという、熊楠自身が目指した学問方向を継承するものとなりうることを示唆している。

 最後になったが、脇村孝三郎実行委員長以下、このゼミナールを企画・実行された顕彰会、記念館の関係者の皆様のご尽力に敬意を表したい。

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