趙 恩 馤*(ちょう うね)
*馤 = [香+曷]
熊楠の説話に関する論考は、一つの主題に関連する話を広い地域やジャンルを横断しながら次々と自律的に展開させていく特徴をみることができる。『十二支考』に代表されるこのような論述の方法は論考だけではなく、日記や書簡などからもうかがえる。その対象は、漢籍は言うに及ばず、ヨーロッパやインドなどの神話や民話も含まれるが、それに比べて、朝鮮の記述は少ない印象をうけざるをえない。しかし、熊楠が日本で活躍していた一九〇〇年代のはじめの頃、日本と朝鮮では民俗学が盛んになり、活発に調査が行われた時期であり、朝鮮との学問的交流も確認できる。朝鮮の民俗調査は日本において、植民地政策の一環であったとしても、それによる朝鮮の民俗研究に与えた影響は大きいものがある。政策としての調査や日本人学者たちの研究に対し、崔南善・李能和のような朝鮮の研究者たちが朝鮮の文化を発揚するためのものとして朝鮮民俗学を樹立させようとした時期でもあり、立場や目的が異なる両者の研究者たちであったとしても、実際は互いに協力しあう状況にあった(1)。これは一九三〇年の「青丘学会」や一九三二年の「朝鮮民俗学会」など、主な民俗学会が日本人と朝鮮人が協力して設立し、活動していた例などからもうかがえる。日本においては、一九二〇〜三〇年代は柳田国男による民俗学の確立期でもあり、日本での民俗関係の雑誌などに朝鮮の研究者たちの研究成果をみることも少なくない。このように日本と朝鮮の民俗研究が盛んに行われていた時期、熊楠は朝鮮の民俗をどのように受け入れていたのだろうか。
現在の段階で確認できる熊楠所蔵の朝鮮関係資料をまとめてみると、次のようになる。
朝鮮の説話や博物・医学関係のものが主であるが、その中で、熊楠において朝鮮との接点ともいえる人物が今村鞆(いまむらともえ)という人である。朝鮮関係の殆どの資料が今村の著作であり、本の中には熊楠の自筆で「著者今村鞆より郵着」などと書かれていることから今村が直接、熊楠に送っていることを確認できる。
右の書籍以外に、熊楠宛の書簡がいくつか発見されており、その手紙の内容は熊楠の質問に対する朝鮮の民俗についての問答である。熊楠において朝鮮に関する本来の情報源は今村とのやりとりにあることが明らかで両者の検討が必要であり、本稿では、今村鞆という人物がどのような人であったか、限られた資料ではあるが、当時の今村の活動と熊楠宛の手紙を手掛かりに熊楠における朝鮮を考えてみたいと思う。
年度 | 経歴 | 主な著作 |
---|---|---|
一八七〇 | 日本高知県高岡郡高岡町生 | |
一八九九 | 警視庁警部 | |
一九〇三 | 警察監獄学校卒 岐阜県属兼岐阜県警部 | |
一九〇四 | 法政大学専門部法律学科卒 | |
一九〇五 | 岐阜県警部、岐阜県郡長 | |
一九〇八 | 朝鮮入国、忠清北道警察部長 | |
鶏肋集(自家版) | ||
一九〇九 | 江原道警察部長 | |
民籍調査参考調査資料 | ||
通監部警視 | ||
一九一〇 | 警務委通監府南部警察署長 | |
韓国警察一班 | ||
一九一二 | 朝鮮社会考 | |
一九一四 | 平洋警察署長 | |
朝鮮風俗集 | ||
一九一五 | 済州島司兼警察署長兼検事事務取扱 | |
一九一九 | 朝鮮総督府元山・府尹李王職事務官(宮内官)庶務課長 | |
一九二一 | 朝鮮歳時記 | |
一九二五 | 退官 | |
一九二六 | 逓信局嘱託 | |
一九二八 | 逓信局嘱託解任 | |
歴史民俗朝鮮漫談 | ||
朝鮮放送協会理事 | ||
一九三〇 | 朝鮮史編修会嘱託 | |
船の朝鮮:李朝海事法釈義 | ||
一九三一 | 専売局嘱託(人参史編纂に関する事務)・鉄道局嘱託 | |
朝鮮動乱の歴史的・社会的考察 | ||
朝鮮史編修会嘱託解任 | ||
一九三二 | 朝鮮総督府中枢院嘱託(旧官制度調査事務) | |
一九三三 | 人参神草 | |
一九三四 | 人参史第七卷・参名彙攷篇 | |
朝鮮姓名氏族に関する研究 | ||
一九三五 | 調査 | |
一九三六 | 人参史第二卷・人参政治篇 | |
人参史第四卷・人参栽培篇 | ||
朝鮮工業漫談 | ||
一九三七 | 扇、左繩、打毬、匏 | |
人参史第五卷-人参医藥篇 | ||
一九三八 | 開城府嘱託(開城府史編纂事務) | |
人参史第三卷・人参経済篇 | ||
人参史第六卷・人参雜記篇 | ||
一九三九 | 李朝実録風俗関係資料撮要 | |
人参史第二卷・人参編年記 | ||
内鮮一体回顧資料朝鮮の国名と関連した名詞考 | ||
一九四〇 | 螺炎随筆・妊娠祈願について | |
高麗以前風俗資料撮要 |
右の年譜のように、今村は一八七〇年高知県高岡郡高岡町に生まれ、一九〇八年から一九二五年まで警官として朝鮮に赴任しているが、かたわら朝鮮の風俗に関する研究を続け、退職後も数多くの朝鮮総督府風俗資料編纂を手がけたことで知られている。今村の研究は、本人が自ら「自分は決して世間の所謂る学者先生では無い」というように、個人の趣味から始め、朝鮮総督府の編纂事業としての著作が多い。また、これらの研究は「朝鮮の警察の此創設時代に於いて最も必要な事は朝鮮の風俗習慣を調査して是を知悉する事である」ということがきっかけであった(3)。警官としての立場や今村の著作の目的に、植民地政策との関わりがあることから、今村の研究はしばしば当時の民俗学に対する批判において問題とされてきた。個人の著作として最も知られている『朝鮮風俗集』に「朝鮮人の犯罪」「朝鮮人に対する官命の効果」などの項目が、今村の職務に関係することであったこと(4)や、「今村鞆の姓氏に関する研究は、一九四〇年の創氏改名政策を実施する基礎資料に使用されたに違いない(5)」のような指摘がなされる。これは現在も、韓国の民俗学において植民地時代に研究・調査された朝鮮総督府資料をどう扱うべきかという論争の核となるものであり、当時の資料が政治的な目的や歪曲された観点、調査の任意的修正といった問題点を述べ(6)、民俗資料として認めることを否定する傾向が強かった。このような状況に対し、崔吉城は、
「政治的目的」「強制的行政動員」「間接的調査」などは、調査資料の質の問題であるかもしれないが、「調査の任意的修正」という指摘は、資料の信憑性という本質的な問題となる。任意的修正がなされた報告であるならば、資料として利用出来ないからである。しかし、筆者はいくつかの資料を検証してみたが、その結果としては任意的修正の痕跡を認め難いのである。確かに、一部の資料には当時のプロバガンダ的なものもあったと言えるが、大多数の資料は、政策を立案実施するための基礎資料であり、それらを意図的に歪曲する理由もなく、かつ必要性もなかったようである。確かに、宣伝用の文章などは、事実の歪曲が十分考えられるので、軽々しく資料として利用できない点は注意すべきである。それらを差し引いても、膨大な総督府の調査資料に「任意的修正」という言葉で資料価値全体の信憑性を否定する事は当てはまらないと思う(7)。
と述べている。また、「民俗学は、京城帝国大学の秋葉隆などによって総督府とは独立して行われており、総督府の調査事業と民俗学を直結するのは無理がある」とし、「あくまでも植民地主義の侵略的要素を持った資料であることを認め、そうした統治イデオロギーと切り離して韓国民俗学の基礎資料として資料化することが可能」であると主張している。
確かに、総督府の資料は、政治的な目的から作られていたことは認めざるをえない。しかし、当時の資料は今となっては、その時だからこそ調査できたものもあるし、失われつつある朝鮮の伝統を惜しみながら守ろうとした朝鮮人研究者たちの実績も含まれていたことも忘れてはいけない。朝鮮の民俗学が、植民地政策に対する反動として立ち上がったことであったとしても、それがきっかけとなり、今の韓国民俗学の土台になっていることを認めるべきであると考える。
他方、当時の朝鮮民俗学における日本での評価はどのようなものであるか。一九三三年、『ドルメン』の「朝鮮民俗学界への展望」で岩崎継生は、
ここには、未だ文明の激流に接触しない原始社会の面影が多分に残つてゐる。従来朝鮮に於いては、民俗学の出発点となるべき学問的操作の訓練が全く欠けてゐたために、僅か一部歴史家の好事的題目と観念されて、豊饒なる処女林に鍬を下すことが余りにも少なかった。然るに、近頃民俗学に対する学的関心は澎湃として此の処女林に押し寄せ、今後益々実のり多き将来を約束するかの如くである(8)。
と述べ、今村鞆・村山智順などの「政治の要請は民情に則した政治を行ふにある」ためのものとしての総督府資料を紹介している。また、京城帝国大学を中心とした秋葉隆や赤松智城の研究成果と「朝鮮民俗学会」が組織されたことを述べている。このように、今村鞆、村山智順の研究に続き、秋葉隆、赤松智城のような研究者たちが孫晋泰、宋錫夏などと共に、本格的に学会などを設立し活躍したのが一九三〇年代であり、日本の『民俗学』や『ドルメン』などのような雑誌にも朝鮮民俗に関する論考を投稿していることが確認できる。しかし、数々の著作や論考の発表にもかかわらず、日本の民俗学会ではあまり注目されなかったようである。
ここで登場するのが日本民俗学においての柳田国男の「比較民俗学の否定」という問題である。「一国民俗学の観点から、あくまで国内の民俗事象の比較によって、原始的な日本型を発見しようとした」といわれる(9)柳田国男であるが、川村湊は柳田が行った比較民俗的論に注目している。熊楠への書簡(10)で巫女やクグツが朝鮮の被差別民の渡来として述べていた柳田が民俗比較の排除のような「転向」をしたきっかけは、当時の政治的立場によるものであり、
戦後の騎馬民族征服説を予想させるような、朝鮮半島からの異民族の渡来ということを導き出すものであり、天皇家の祖先神としての天照大神を一種の巫女的な存在であったと考えると、それは天皇家が朝鮮半島からの渡来人の系譜を引くという結論にも達しかねないものだった。(中略)そこには皇室と被差別部落の起源の問題、そして渡来人と皇室の関係という日本史の最も微妙で複雑な問題が揺曳しているのである。比較民俗学の否定、一国民俗学の成立と山人論の放棄、非常民論から常民論への展開(転向)は、それぞれに絡み合い、重なりあいながら「柳田民俗学」を形成していったのである(11)。
と述べる。そして、柳田の「比較民俗学の否定」は「一国民俗学」に収斂され、今でも当時の今村や秋葉などの研究が認められないという状況に至ったと指摘している(12)。このような柳田の「比較民俗学」への否定的な態度は、一九三四年の今村古稀記念論集の文章からもうかがえる。
個々の民族が各々自分の民俗学を持ち、それを持寄つて全世界の比較をする時が、いつかは到来すべきことを私などは夢想して居ますが、それは手を空しうして待つて居てもよいほどの、近い未来のこととも思はれません。さうすれば言語もよく解せぬやうな白人たちの観察記でも、やはり無いよりはましといふ心持で、間接に之を利用しなければなりませんが、それには一方の自ら識り自ら学ぶ能力を具へた者が、割前以上の努力をすることが更に必要であります。少なくとも自分たちの資料の比較の基礎になるものだけは、十二分に精確にし又判り易く分類整理して、いやしくも臆説独断の入込む余地の無いやうに、且つ双方の一致の双方限りのものか、はた又遠くの縁の薄い異民族にも、或程度の共通をもつて居るものかを、尋ね究めて行く途を開けて置かなければならぬと思ひます(13)。
と、柳田は民俗の比較に先だって自国の民俗をより確立させることを強調している。そして、今村に「朝鮮半島にも今までの調査の周到なる記録を留め、その要領を一目で見渡して、後々人が無益な重復の為に、時と精力とを徒費することの無いやうに、さうして又外部の誰にでも簡単に知ることが出来るやうに計画せられてはどうか」と勧めている。ここには、柳田と熊楠の比較民俗学に対する見解の差であるといわれてきた根本が現れているのである。そして、今村と柳田の関係には、熊楠と柳田の関係を思い出させるような印象を受ける。柳田と熊楠における朝鮮の問題と比較民俗学の問題とは、今村という人物を軸にして解明できるのではないかと考えているが、今後の課題にしたい。
それでは、今村と熊楠の関係はどのようなものであったか。現在の段階で熊楠と今村の関係を探る手がかりになるものは、熊楠邸に残っている今村が送った朝鮮関係の資料と書簡のみである。今村に送ったはずの熊楠の手紙など、より詳しく調べる必要があるが、まずは熊楠の論考と今村の手紙から確認してみたい。
熊楠宛の今村書簡は、一九三〇年から一九三七年にかけての一四通(の内一通は年度不明)が確認できる。しかし、もっとも日数の早い手紙が「御問合に対する愚答」で始まるので、どういった経緯で熊楠と今村が知り合ったのかは不明である。発信の住所が「京城宮井洞八九」となっていることからもわかるように、今村は朝鮮に在住していたことが確認できるが、一九三〇年代は、今村が退官した後、朝鮮総督府の嘱託で朝鮮風俗関係の編纂事業に関わっていた時期であり、今村の生涯、もっと力を注いだ『人参史』を著述していた時期でもあった。
1 | 一九三〇・十一・二十三 | 一通三枚、封筒有 |
2 | 一九三〇・十一・二十七 | 一通二枚、封筒有 |
3 | 一九三〇・十二・四(消印)☆ | 一通三枚 |
4 | 一九三〇・十二・十七(消印)☆ | 一通一枚、封筒有 |
5 | 一九三〇・十二・二十五(消印)☆ | 一通三枚、写真二枚 ※切抜、封筒有 朝鮮の「男社党」の写真。雑誌切抜「新羅の花郎を論ず」 |
6 | 一九三二・二・二十五 | 一通一枚、封筒有 |
7 | 一九三二・八・二 | 一通一枚、封筒有 |
8 | 一九三二・十二・三十一 | 一通二枚、封筒有 |
9 | 一九三三・二・六 | 一通一枚、封筒有 |
10 | 一九三三・ 六・十九 ☆ | 一通一枚、封筒有 |
11 | 一九三三・七・九(消印) | 一通一枚 |
12 | 一九三七・六・二十八 ☆ | 一通三枚、封筒有 |
13 | 一九三七・七・九 ☆ | 一通一枚、封筒有 |
14 | 不明・一・二十八 | 一通一枚、封筒有 |
☆は「千疋狼」に関する意見
[図 1] |
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手紙は、熊楠が今村に質問したものに対して、「金銭花ノ件」「虎の件」のように答える形式で書かれ、熊楠も内容に合わせて、封筒に自筆で「……ノ件」と見出しとして書いている。例えば、また、岩田準一宛の一九三三年一月三日の書簡に「今朝、朝鮮今村鞆氏より来信あり、御訊問の件詳報ありたるに付き、左に全文写しだし御覧に供し上げ候(15)」として、引用しているのは8の手紙で、封筒には「朝鮮使行記二種ノ解題」と書いてある。手紙の内容は、ほとんどが朝鮮の植物や動物についてのもので、質問に対する説話や朝鮮文献の写しなどであり、『人参史』に関するものも互いに問答している。その中で、実際、南方の論考から確認できる今村からの手紙を確認してみたいと思う。
一九三〇年十月の『民俗学』に投稿している「千疋狼」は、熊楠が小学生の頃、同級生から聞いた「千疋狼」が、どれほど広がっていたかを知人に問い合わせていることから始まる。狼に襲われそうになった人が木に上って逃げると、集団で行動する狼が次々と肩に乗って人を襲う話であるが、これに対する宮武省三・寺石正路などの返事から「土佐野根山の狼」の話を書き写している。そこで、当時の論考には紹介されず、後に加えたところに今村から送られてきた朝鮮の話を、写している。朝鮮では、狼ではなく虎であることを伝える虎の話は、4の手紙によるものであるが、その前の3の状にすでに、「唯虎が泥棒をねらつた話は小生『風俗集』の虎の話の部にあり」といい、図1の絵を描いている。
しかし、『朝鮮風俗集』にはなかったので、次の手紙に改めて泥棒と虎の話を送ったようである。また、今村の場合は、南方からの質問に答えたものではなく、野根山と産杉に関して今村が実際に経験したことなどを述べていることなど、『民俗学』論考を見てから意見を送っているようである。さらに、今村はその後も「千疋狼」に関する話を何度も続いて送っているが、5の一九三〇年十二月二十五日の手紙には、
[図 2, 3] |
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○虎ノ話ノ件
本件ハ文献ニハ無之。民間ニ伝ハツテ居ル話デ小生二十年前ニ耳ニシタルモノ。確ト覚エス。其時ノ話ニ虎ガ虎ノ背ノ上ニ乗リ順々ニ高ク上ヘ届イタト云ヒント覚ヘ居リ。而シテ一番下ノ虎ガ笛ガ好キデ其音ニ聴キ惚レ前足ヲ折タツ云々……トノ話ニ有之。以上ノ話ノ節カラ小生ハ(1)[図2]此ノ方法デ無ク(2)[図3]此ノ方法ナリト考候次第。
と述べている。虎から逃げようと木の上にのぼった泥棒が、「泥棒に似げなく風流気ある」男で「今生の思い出に腰より笛を取り出し一曲を吹奏する」と、音楽が好きだった一番下の虎が動いて「虎やぐら」が崩れた時の虎の動きに関するものである。4の書き写しには、虎が「首を傾ける拍子」とあるが、今度は「前足ヲ折タツ」との話があることから図3のように、やぐらを組んだだろうという。また、土佐の伝説と同じ話を「小生幼時(明治十五六年頃)話ヲ聞」いたと述べ、その後日譚として3と12では(16)、
[図 4] |
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小生明治二十二年此野根山ヲ通行セリ(中略)此時ニ産杉ト称する彼ノ飛脚ノ女ト共ニ上リシト称スル杉ヲ実見セリ其形面ノ如シ[図4]通行ノ人此杉ノ皮ヲ剥ギ取去ル故(産案シト称シ)枯レ居タリ
と書く。これは、宮武が友人で高知出身の小野梼次に聴いたという、
右に申す小野氏若年、山林役人勤めし時、野根山を通り、件の大杉を見しに、むかしの面影なく、株ばかり残り、しかも安産の禁厭にとて、産婦にかきとられ、見る形もなかりしとのことに有之候(17)。
と同じ内容で、小野と同じく今村も高知県の出身であったことによるものとみられる。続いて、老婆に化けた狼の子孫は現在も絶えていないが、「その血縁の者、男女とも一体の毛逆さまに生える」という言い伝えに対して、
其後小生明治二十四年田野村(当時町)ニ勤務セシコトアリ宿ノ主婦ノ話ニ彼ノ伝説中ノ前浜ノ家ノ子孫ハ何レモ背中ノ一部ニ長キ毛生ヘテ居ルト伝ヘラレ居レリ。現ニ先年其子孫ノ収税吏トナレルヒト自宅ニ宿泊センガ風呂ニ入ル時僅カニ覗キシニ果シテ背ノ一部分ニ毛ヲ剃シ跡アリタリ云々ト語レリ。
と、その子孫の毛は逆さまの毛ではなく一部分の毛が長いということ、実際その子孫を見たという人の話を伝える。熊楠はこの「千疋狼」の起源には、人が「獣装して兇行する多少の団体があった痕跡が残った」とも推論している。次々と肩に乗るのは狼ではなく、獣装をした人間であることだが、肩に人がのることについて、今村は10の手紙で触れている。
△ヒーソーノ件
右在留宣教師等ヨリヒーソーの語ヲ覚ヘ、之レヲ跳板戯ニハイカラ的ニ流用シタルモノニテ、今日デハ右ノ如キ名称ヲ唱ヘズ本来ノ名ハ漢字デ跳板又ハ跳板戯、土語ニテ
널뛴다 (ノルハ板)ニ為之候△人櫓ノ件
右ニ該当スル土語無之木馬即
목말탄다 (乗ル)ト言フ言葉為之又발판 발ハ足、판ハ板ノ意、高イ処ヘ物ヲ生シ入レノ為使フ家具 日本ノフミヅケニ有之 木馬ニノル、又フミヅケニスル等ノ言葉ノ外ニ無云々
今村の言う、朝鮮語の「モクマル」(木馬)は「肩車」のことであるが、シーソーを跳板としてとらえた時、その板と同じく人を足で踏む行為から「バルパン」(足板)を連想したものである。手紙にはここまでしか触れていないが、「千疋狼」に関連するものとして、今村は書いているものであるのは確かである。それは、5の手紙で虎が背に乗る場合は図3のようにのっただろうと想像しているのに対して、もし獣装の人が背にのるとしたら「肩車」のようにして、即ち図2のようなものと考えられることを伝えたかったのではないだろうか。言葉や動作など次々と気になることを書き送っている今村の手紙は、「千疋狼」という伝説から「動物の合成本能と知恵」「人間世態」「想像として作られる民譚」としてその起源をまとめる熊楠の論考と類似しているように思われる。「千疋狼」に関する熊楠と今村のやりとりは書簡の一部分にすぎないが、一つの「もの」に対する姿勢は同じであり、互いに意見を述べ、確かめ合うような形式で書簡が往来していたことが確認できる。
以上、今村の書簡にみられる「千疋狼」に関する話題を確認してみたが、他にも「マンダラ人形ト人参ノ関係」8や「花郎ノ件」に続く「男色ノ件」5など、興味深い内容のものが多く残っている。そして、熊楠の質問に対する返事のみではなく、今村が『人参史』を執筆するにあたって数々の意見を熊楠に求めていることなども確認できる。今後は、これらの各項目においての手紙の内容ごとに総合的に検証することによって、「熊楠における朝鮮」の課題をさらに追究していきたいと思っている。
(1) 川村湊は朝鮮の民俗学の成立に対する日本の「影響」は、必ずしも肯定的なものだけではなく、日本の植民地政策に対する反発としての反日のナショナリズムを規範として形成されていることを指摘している。講談社選書メチエ『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社、一九九六)。
(2) 表1 林慶澤「植民統治とアカデミズムの間: 朝鮮総督府嘱託の研究調査活動 ―今村鞆を中心に」[フォーラム]日本の植民地主義と東アジア人類学(ソウル大学比較文化研究所、二〇〇二・十一)、「今村鞆先生古稀記念特輯」『書物同好会会報』第九号(書物同好会、一九四〇・九)による。今村の没年については確かではないが、一九四三年二月十九日、第六十一回の書物同好会の例会が「故今村鞆氏追悼座談会」であったことが確認できる。「例会記事」『書物同好会会報』第十九・二十合併号(書物同好会、一九四三・十二)。
(3) 引用文は今村鞆「民俗学と小生」『朝鮮民俗』今村翁古稀記念 第三号(朝鮮民俗学会、一九四〇・十)による。影印『朝鮮民俗一ー三』(民俗苑、二〇〇二)。
(4) 川村湊 『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、一九九六)。
(5) 崔吉城「日帝植民地時代と朝鮮民俗学」『植民地人類学の展望』(風響社、二〇〇〇)。
(6) 印権煥『韓国民俗学史』(悦話堂・一九七八)。
(7) 崔吉城「日帝植民地時代と朝鮮民俗学」『植民地人類学の展望』(風響社、二〇〇〇)。
(8) 岩崎継生「朝鮮民俗学界への展望」『ドルメン』第二巻四号(岡書院、一九三三・四)。
(9) 宮田登「南方熊楠」『日本民俗学のエッセンス』(ペリカン社、一九七九)。
(10) 柳田国男から南方熊楠へ 大正元年十二月十日夜「クグツの中代の帰化なることは、小生においてほぼ立証の拠有之、遠からず公表の上御批評を甘ない申すべく、この仮定当たれりとすれば、韓地に同型の巫民を求め候は自然の順序に有之べく候。」飯倉照平編『柳田国男・南方熊楠 往復書簡』下(平凡社、一九九四)。
(11) 川村湊 『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、一九九六)。
(12) その他、村井紀は柳田が「日韓合併」に加わったことの負い目から、朝鮮への関心や研究を「隠蔽」させることになったという指摘があるが、今村のことは触れていない。村井紀『増補・改訂 南島イデオロギーの発生 : 柳田国男と植民地主義』(太田出版 、一九九五)
(13) 柳田国男「学問と民族結合」『朝鮮民俗』今村翁古稀記念 第三号(朝鮮民俗学会、一九四〇・十)。影印『朝鮮民俗一ー三』(民俗苑、二〇〇二)。
(14) 「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠邸資料目録」による。
(15) 昭和八年一月三日「岩田準一宛書簡」『南方熊楠全集』巻九(平凡社、一九七三)。
(16) 今村書簡、3と12、4と13には同じ話を二度も書いているが、理由は不明。
(17) 「千疋狼」『南方熊楠全集』巻四(平凡社、一九七一)
* 本稿において、今村の経歴など現在韓国での民俗学については、韓国全北大学の林慶澤氏、許浚『増図東医宝鑑』については飯倉照平氏の御教示を得た。