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◆ユッパー(ゆっぱー



※ この地図は、参謀本部陸地測量部発行の1/50,000地形図「安波」(大正12.3)を使用したものである

在:国頭村楚洲(そす)/安田(あだ)
地形図:楚洲/辺土名
異表記:横芭
(よこば?/ヨコパー・ヨコッパー)・横津波
形態:山中に家屋が集まる
離村の背景:産業の衰退?
標高:約300m
訪問:2011年1月

 

 大字楚洲の南西から安田の北部にかけて広がる集落。
 村史によると、大正時代榑板出しの山仕事に従事する者が20軒あまり暮らしていたという。多くは沖縄市泡瀬(あわせ)・本部町・今帰仁村辺りからの移住者。村内辺野喜(べのき)の県有林事務所の横津巴事務所がここに置かれていた。集落は楚洲と安田に跨っていたが、行政は楚洲に委託。
 なお古い地図やWikipediaの「国頭村」の項目で「横芭(よこば)」という集落の存在が確認できるが、後述の資料よりユッパーと同一のものと分かる。
 林道から山林に分け入って数箇所を探索するものの、往時の名残はほとんど確認できず、山林内に多少の石垣などが見られた程度。平坦地もいくらかあるが、屋敷跡を窺わせるような遺構は見られなかった。
 『野山がコンビニ 沖縄島のくらし』という書籍に当集落を知る人物(楚洲在住)の話が掲載されている。以下は抜萃。

明治末から大正初めころから人が住み始めたが、昭和4、5年にはほとんどが転出。林産物の取りすぎで山(国有林)が荒れてしまい、国から退去命令が出たと聞く。1軒(山城家)のみ戦後まで残っていた
最も多い時期で53軒あったと聞くが、分かる範囲では20軒
現金収入は山稼ぎのみ。伐採した木を斧で角材に加工し、泡瀬や与那原(よなばる)に出荷した。自給用の畑も作っていたが、田はごく僅かのみ
大正4、5年頃、本土の指導員より技術指導を受け、木炭も作り始める

 


写真1 集落内の道

写真2 石垣

写真3 何かの跡?

写真4 炭焼き窯跡?

写真5 平地

写真6 平地

写真7 瀬戸物のかけら

 

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