所在:東村高江(たかえ/タケー)
地形図:安波(内挿図)/国頭平良
形態:海岸から谷沿いの斜面にかけて家屋が集まる
標高:数m〜100m弱
訪問:2011年1月
大字高江の東部、新川川(あらかわ-がわ)の河口付近にある。スキャン画像の右下の家屋群(左上は現住集落の上新川(かみあらかわ/ウィアラカー))。
高江橋より左岸に沿って集落までの車道が延びている。南部はカヤ、北部は灌木の藪に覆われているので一見して分からないが、道脇に確認できる石垣を頼りに斜面を登ると、いくらかの屋敷跡を確認できる。道路上にも僅かながら瀬戸物のかけらが落ちている。岩穴の前に香炉のようなものが置いてある場所(写真5)があったが、何かを祀ったものだろうか。墓のような場所(写真6)までは比較的行きやすい。
以下は村史の記述を要約したもの。
最初の家は、明治20年代後半?(※1)に入植した屋比久屋(ヤビクヤー)(家は後述のNo.4と5の間にあった)。高江の始祖といわれる。屋敷跡は拝所になった
集落には戦前約20戸の家があったが、当時高江で最も大きい集落であった
ほとんどか山林労務の従事者。新川は急湍かつ岩が多いので舟運や木流しができず、林産物は担いで運搬したか、海に落として小船で山原船(※2)まで運搬した。エー(藍)の染料の製造も行っていた
斜面には段々畑を作っていた
飲料用の井戸が2箇所あった。1つは宮里家(後述のNo.1)の敷地内、もう1は金城家(No.12)の東側の山中
屋比久毛小(やびくもうぐゎー)と呼ばれる広場には、豊年祭に用いられる衣裳や小道具を保管しておく小屋があった
※1 本文では「約九十年前」とあり、刊行は昭和57年
※2 山原(やんばる)船は、沖縄で人や物資の海上輸送に用いられた船
各戸の様子は以下のとおり。番号は本文のまま(上流より)。
番号 |
屋号 |
姓 |
転入 |
備考 |
1 |
ナーザトゥグヮー |
宮里 |
沖縄市泡瀬(あわせ)より |
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2 |
トーマグヮー |
当間 |
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3 |
ヒジャグヮー |
比嘉 |
那覇市(首里(しゅり))より |
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4 |
タマンケ屋 |
宮城 |
大宜味村田嘉里(たかざと)より |
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5 |
ジンキ屋 |
照屋 |
上新川より分家 |
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6 |
ドーリン屋 |
比嘉 |
本部町より |
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7 |
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玉城 |
名護市屋我地(やがじ)より |
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8 |
ウィヌヤガジ屋 |
玉城 |
名護市屋我地(やがじ)より |
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9 |
ヤージナカマ |
高江洲 |
沖縄市泡瀬より |
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10 |
フルギン |
平良 |
村内高江(たかえ)より |
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11 |
ヤマチグヮー・上与那原屋 |
上与那原 |
与那原町より |
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崎原 |
本部町より |
昭和20年、大宜味村謝名城(じゃなぐしく)へ |
12 |
カニグー屋 |
金城 |
国頭村鏡地より |
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13 |
シーゾー屋 |
比嘉 |
大宜味村喜如嘉(きじょか)より |
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14 |
ホウエイ屋 |
金城 |
〃 |
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15 |
ヒジャー |
比嘉 |
本部町より |
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16 |
キシモトグヮー |
岸本 |
今帰仁村より城間家(No.18)に居住を経て転入 |
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17 |
サンナン屋 |
新里 |
与那原町より |
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比嘉 |
高江より |
昭和30年、嘉手納町へ |
18 |
グシクマグヮー |
城間 |
那覇市(首里)より |
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岸本 |
城間転出後 |
少しの間居住 |
19 |
ヒジャ屋 |
比嘉 |
北谷町より |
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20 |
スイマタ屋 |
与那嶺 |
本部町より |
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21 |
シチャヌティーラ |
照屋 |
沖縄市泡瀬より |
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22 |
シチャヌヤガジ屋 |
玉城 |
名護市屋我地より |
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23 |
ハマヌティーラ |
照屋 |
沖縄市泡瀬より |
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比嘉 |
照屋転出後 |
戦死 |
※3 空襲による避難
No.1-22は左岸の道に沿ってきれいに並んでいるが、23のみ右岸。河口付近の低地に孤立している(写真7)。海運に深く関与していたのだろうか。