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◆五郎ヶ元(ごろうがもと)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「大根占」(昭和29.10)を使用したものである

在:肝付町岸良(きしら)字五郎ヶ元
地形図:半ヶ石/大根占
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約350m
訪問:2011年12月

 

 大字岸良の中部、六郎館(ろくろうかん)岳の東で、国道448号沿いにある。
 町誌には、平成7年度より人口の減少・町外転出により消滅という記述が見られる。
 現在残る家屋は2軒で、いずれも人の出入りがある。うち1軒は元民家を農作業の拠点にしたもので、訪問時にも元住民ら数人が滞在。ここで伺った話の概要を以下に記す。

明治期、島津(しまづ)(※1)が猟場として永吉氏(※2)から山を購入(町誌によると明治28年。のち社有林となり、製炭と伐採が行われた)
覚えているもので20軒。林業が多かった。昭和50年代には10数軒。無住となったのちも、山林の管理で滞在していた
かつては林業の事業所があり、製炭や伐採などが盛んであった。伐り出した材は木馬道(※3)で船間(ふなま)まで降ろしていた
車道開通以来当地までの通勤がしやすくなったため、家々は分散。通学の問題も重なり転出が連鎖した。4、5年のうちに急に減っていった
旧道はもと奥地林道として開通。のち県道・国道へと昇格。工事の際、数軒分の宅地が道路用地により消失
児童の通学先は船間。五郎ヶ元にも学校を作る話があった。船間に学校ができる前には、掘立小屋で教えていたこともあった。高等科は岸良
電気は昭和30年代
山で焼畑を行い、サツマイモなどを作った。田も多かった

※1 薩摩の大名・島津家の本家
※2 付近の山で製炭業や林業を行った人物。
万久郎のページも参照
※3 木馬道(きんまみち)は、地面に細い木を枕木のように並べ、馬などが牽く橇を滑らせて運搬するもの

 なおこの家屋の裏手は広く農地となっており、地図でも畑や水田の記号が確認できる。もう1軒は旧道沿いにあり、この近くでは屋敷跡や小さな畑が見られる。

 


写真1 国道と五郎ヶ元トンネル

写真2 屋敷跡

写真3 家屋

写真4 農地

 

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