◆中須(なかず?)
所在:九重町松木(まつぎ)
大字松木の北東部、松木川(玖珠川支流)とその支流沿いにある。 文献『ふるさと中須』によると、明治42年当時原・原・原・原・佐藤・中島・原・滝石・乙津・乙津・松尾・中島・乙津・中島・中島・衛藤・中島・中島・中島・中島・中島・中島の各家(原典での番号順)。ほか大山積神社・諏訪神社・学校・教宝寺がある。 町誌によると、現在の日出生台(ひじゅうだい)演習場の開設に伴い、この予定地に居住していた農民が中須に移住させられたとのこと。先の文献から集落が拡大していことが分かるが、これに起因するものであるよう。 戦後の昭和21年、演習場は国連軍および米軍に接収され、引き続き使用された。 昭和32年10月、米軍は接収を解除したが、引き続き陸上自衛隊の演習場として使用され現在に至っている。 中須住民は安全で自由に営農ができるよう望んでおり、米軍の接収が解除されたのを機に防衛庁に住民への解放を要求したが、これは受け入れられなかった。住民は諦めることなく要求を続けたが、昭和37年5月防衛庁を通じて米軍より再度使用の申し入れがあった。住民は危険防止のため「射撃方向の変更」を防衛庁に申し入れ、被害の補償ならびに危険防止対策等について協定を締結。しかし「射撃方向の変更」は地形上の理由などにより実施困難とされた。 昭和38年2月、これを受諾する旨を回答。この時点で、集落の全体移転の方針が決まった。 昭和41年、12戸が大分市大佐にある県営伝習農場跡地に移住。また同42年、パイロット事業で開田が行われた町内田尻原に13戸が移住。後者は地名が引き継がれ、現在も中須地区となっている。ほか自由移転者の問題も解消され、現在に至っている。 ※ 県史および玖珠町史によると、当時は予定地内に今宿(いましゅく)(推定13戸)をはじめ秋塚(あきつか)(推定7戸)・平山(ひらやま)(推定10戸)・小野(おの)・中尾(なかお)・中畑(なかはた)・井出脇(推定7、8戸)・割子谷(わりこだに)(推定2戸)・米山・平谷・松小野・車谷・中須などの集落があったとのこと(「米山」は玖珠町誌の大字・小字一覧では「米ノ山」の表記で、読みは「こめのやま」)
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(写真1 松木ダム堰堤) |
写真2 対岸の農地跡 |
写真1 水没地を望む |
写真4 演習場へ通じる道。左の看板には「中須道」と見える |
写真5 演習場の門扉 |