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◆中須(なかず?)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「森」(昭和22.6)を使用したものである

所在:九重町松木(まつぎ)
地形図:豊後森/森
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約400〜550m
訪問:2023年12月

 

 大字松木の北東部、松木川(玖珠川支流)とその支流沿いにある。
 上の地図画像では「中須」のほか「戸屋(戸谷)」を含めているが、資料『ふるさと中須』ではこれらをまとめて「中須」として扱っていることや、その境界が当方では判断しかねたため、ここでもまとめて「中須」としてレポートを設けた。

 文献『ふるさと中須』によると、明治42年当時原・原・原・原・佐藤・中島・原・滝石・乙津・乙津・松尾・中島・乙津・中島・中島・衛藤・中島・中島・中島・中島・中島・中島の各家(原典での番号順)。ほか大山積神社・諏訪神社・学校・教宝寺がある。
 
昭和42年当時では、集落が現在の松木ダム付近(上の地図画像の「戸屋」表記部分)まで拡大しており、概ね下流より岩下・中島・岩下・勝河・梅木・原・乙津・原・森・山本・秋山・森・森(ここまでダム湖)・上杉・梶原・小野・井上・江藤・黒木・中島・中島・梅木・松尾・原・中島・乙津・原・衛藤・乙津・中島・森本・原・乙津・中島・(記載なし)・乙津・小野・原・乙津・佐藤・中島・乙津・乙津・中島・松尾・滝石・中島・中島・中島・田坂・中島・上好・佐藤・乙津・乙津・衛藤の各家のほか、公民館・神社がある。
 生業は水田の耕作や製炭など。水田では裏作で麦も栽培し、畑では豆類・稗・粟・黍・そば・里芋・野菜類を栽培していた。ほか営林署の仕事や木挽き・シイタケ栽培(明治20年頃〜)・スズ竹の採取(簾・海苔御簾用。昭和初め〜)・スズ竹を用いた海苔御簾の製造(昭和38年頃〜)なども行われていた。
 神社は諏訪神社・大山祇神社のほか、お伊勢様・水神様・山ん神・権現様などといった信仰対象があった。
 また教育関連では、明治7年に「中須学校」が開設。同29年に「田尻学校」と併合し、松木分教場として戸屋(戸谷)に移転。大正元年に田尻へ移転し、のち竜門小学校となっている(昭和43年閉校)。

 町誌によると、現在の日出生台(ひじゅうだい)演習場の開設に伴い、この予定地に居住していた農民が中須に移住させられたとのこと。先の文献から集落が拡大していことが分かるが、これに起因するものであるよう。
 日出生台一帯は明治30年代に旧日本陸軍による調査により演習場の適地として判断され、明治40年より買収開始。立ち退きとなった農民は、当地のほか
井出脇・小野原・車谷にそれぞれ移転させられている(※)。演習場そばに位置していた中須48戸・井出脇12戸の農民は演習による制約を受けるものの、場内の耕地・原野の使用を許可されていた。
 戦後の昭和21年、演習場は国連軍および米軍に接収され、引き続き使用された。
 昭和32年10月、米軍は接収を解除したが、引き続き陸上自衛隊の演習場として使用され現在に至っている。
 中須住民は安全で自由に営農ができるよう望んでおり、米軍の接収が解除されたのを機に防衛庁に住民への解放を要求したが、これは受け入れられなかった。住民は諦めることなく要求を続けたが、昭和37年5月防衛庁を通じて米軍より再度使用の申し入れがあった。住民は危険防止のため「射撃方向の変更」を防衛庁に申し入れ、被害の補償ならびに危険防止対策等について協定を締結。しかし「射撃方向の変更」は地形上の理由などにより実施困難とされた。
 昭和38年2月、これを受諾する旨を回答。この時点で、集落の全体移転の方針が決まった。
 昭和41年、12戸が大分市大佐にある県営伝習農場跡地に移住。また同42年、パイロット事業で開田が行われた町内田尻原に13戸が移住。後者は地名が引き継がれ、現在も中須地区となっている。ほか自由移転者の問題も解消され、現在に至っている。

※ 県史および玖珠町史によると、当時は予定地内に今宿(いましゅく)(推定13戸)をはじめ秋塚(あきつか)(推定7戸)・平山(ひらやま)(推定10戸)・小野(おの)・中尾(なかお)・中畑(なかはた)井出脇(推定7、8戸)・割子谷(わりこだに)(推定2戸)・米山・平谷・松小野・車谷・中須などの集落があったとのこと(「米山」は玖珠町誌の大字・小字一覧では「米ノ山」の表記で、読みは「こめのやま」)


 訪問は、自衛隊の演習場の外にある松木ダム水没地(「戸屋」表記付近)のみ。人家のあった右岸の湖面に到達することは困難が予想されたため、左岸の574mの標高点のある付近から湖面に下降し対岸より現地を望んだ。ただしこの時は完全に水没しており、集落の痕跡は見られず。
 その後演習地へ続く道沿いを一瞥した後、門扉のあるところで引き返した。
 なお1960年代の航空写真では、松木川やその支流に沿って多数の家屋が確認できるが、1970年代の航空写真では全て見られなくなっている。

 


(写真1 松木ダム堰堤)

写真2 対岸の農地跡

写真1 水没地を望む

写真4 演習場へ通じる道。左の看板には「中須道」と見える

写真5 演習場の門扉

 

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