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◆葛島(かずらしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「漁生浦」(昭和21.11)を使用したものである

在:五島市奈留町船廻(なるまちふなまわり)字楚里道・馬込・赤崎・口ノ谷(居住地区)
地形図:漁生浦/漁生浦
形態:海沿いから斜面にかけてに家屋が集まる
標高:数m〜約80m

訪問:2015年5

 

 奈留島の北の海上、船廻湾の入口となる市幾良鼻(いちきらばな)(=岬の名)よりおよそ2.3km、観音崎鼻(かんのんざきばな)より1.8kmにある島。集落は東岸の広い範囲に亘って立地。町郷土誌の字図より、居住地は南より楚里道・馬込・赤崎・口ノ谷の小字の領域で、ほか北部の小字に立石・西部に水垂がある。
 以下は
「角川」および町郷土誌より、当地に関する記述を抜き出したもの。

江戸中期大村藩の三重村樫山郷より、長吉・正吉・北平の3人が藩内のキリシタン弾圧を逃れて住み着いたのが始まり。漁と山の斜面の開墾により生活が始まった
明治初期12戸
明治初頭より五島一帯でもキリスト教の迫害が始まる。奈留においてはあまり活発に行われなかったが、葛島においては迫害が伝わる。明治2年に12戸の戸主が奈留の役所に呼び出され、うち3人が拷問を受けた。明治6年には信仰の自由が認められ、葛島でもカトリック信者が復活
住民は沿岸漁業に従事し、最盛期(昭和30年代初頭)には300人近くが居住
昭和43年電気が開通
奈留島との間には、町営船の葛島丸が1日2往復運行していた
昭和48年3月26日、過疎集落再編成事業により23戸120人が町内樫木山(かしのきやま)地区に建設された住宅に集団移転し無住となる
昭和32年263人、同35年278人、同45年102人

葛島教会…明治32年、信徒たちが上五島の飯ノ瀬戸(いいのせど)から瓦葺の家を買ってきて、民家風の聖堂を建設。神父が毎月2回ほど巡回するようになる。昭和26年、ルース台風により破壊されたが同29年再建。昭和48年無人化に伴い廃止

 以下は船廻小学校葛島分校の沿革。

 大正2.8.1  船廻尋常小学校葛島分教場設置
 大正13.4.1  奈留尋常高等小学校の所属となる
 昭和35.4.1  船廻小学校の所属となる。本校に併置

 昭和48.3.31

 廃校

 また奈留中学校葛島分校が、昭和23年11月設置認可、同34年11月廃校。

 当地は現在も船着場が残存し、小型船程度で上陸が可能。ただし防波堤の内側に作られた海沿いの道路も、波による浸蝕で若干の崩壊が見られる。
 集落内は学校や教会が置かれていた海沿い(写真4-11)が開けて明るいものの、住宅が集まっていた山腹は草本や灌木の藪になっている。南部(地図画像で、教会以南)では屋敷跡を数箇所と段々になった農地跡、中部(三角点の右下)・北部(同じく右上)でも複数の屋敷跡や農地跡、そして墓地が見られた。なお島内のやや高い位置を一周する車道もあったようで、現在でもその痕跡を見ることができる(写真18)。
 地元で伺った話では、ほとんどが葛島(くずしま)家であったとのこと。墓地で見られた姓も、確認できるものではすべて葛島であった。

 


写真1 島遠景

写真2 港から南部方面を望む

写真3 港からの眺め(中央やや左、丸い山は市幾良鼻)

写真4 道と平坦地(以下沿岸部)

写真5 建物跡

写真6 建物跡

写真7 建物跡

写真8 建物跡


写真9 何かの槽


写真10 建物跡

写真11 建物跡

写真12 何かの槽(以下集落南部)

写真13 集落内の道

写真14 屋敷跡にて

写真15 覆いのある井戸

写真16 屋敷跡。浴槽

写真17 屋敷跡?

写真18 集落内の車道

写真19 屋敷跡

写真20 道と石垣

写真21 高所からの眺め

写真22 農地跡(以下集落中部)

写真23 道(写真中央手前から奥へ)と石垣

写真24 屋敷跡にて

写真25 屋敷跡

写真26 墓地

写真27 墓地にて

写真28 集落内の巨樹

写真29 写真28の根元

写真30 屋敷跡(以下集落北部)

写真31 平坦地と石垣

写真32 屋敷跡

写真33 屋敷跡

写真34 墓地

 

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