◆ヨラキレ(よらきれ)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「越知」(昭和23.7)を使用したものである
所在:久万高原町黒藤川(くろふじがわ)
地形図:東川/上土居
異表記:よらきれ(新版地形図)
形態:川沿いから山中に家かけて家屋が散在する
標高:約790〜960m
訪問:2015年12月
大字黒藤川の東部、前川(仁淀川支流)の北側斜面にある。
訪問は林道長崎明神山線より。確認できた建物は、林道沿いにある二箆(ふたつの)浄水場(写真2)と家屋2軒のみ。山中でも数箇所の屋敷跡を確認できたが、上の地図画像の西部尾根筋および最近の地形図では建物が記されている前川対岸は訪問せず。
県史によると、高知県から出作農家が入地し定住した集落とのこと。明治末10戸程度、昭和35年10戸、同57年3戸。明治22年の土地台帳では宅地は置俵(おきだわら)までであるが、明治39年発行の地形図では長崎(ながさき)・信木・ヨラキレには数戸の家屋と集落名が記載され、この間に定住があったであろうとしている。生業として焼畑農業を行い、主な作物は換金用のミツマタ、ほか自給用のトウモロコシ・大豆・小豆・ヒエなど。農家は山林の地主に雇われた「山監督」により管理されていた。出作は大正時代に最盛期を迎え、長崎から奥に出作小屋が合わせて70戸程度も点在していたという。しかしミツマタ栽培は昭和に入ると衰退し、戦中には消滅。出作小屋も昭和10年には20戸程度までに減少した。のち高度経済成長期にも離村が相次いだ。
また資料『美川村二十年誌』には、昭和44年度に当時の7戸に対し灯火導入の事業が実施されていることが記されている。これにより村内の無灯火は解消された。
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