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◆信木(のぶき)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「上土居」(昭和43.3)を使用したものである

:久万高原町黒藤川(くろふじがわ)
地形図:東川/上土居
アクセント:ノ
ブキ
形態:山中に家屋が集まる
標高:約850m
訪問:2015年12月

 

 大字黒藤川の中部、信木川(東川支流)の左岸側斜面にある。
 地元の方の話では、下長野と併せて10軒近くあったのではないかとのこと。なお「下長野」の呼称は現地で用いられていないのか、これらを総括して「信木」であるとの認識であるよう(ここでは別個にページを設ける)。
 最近の地図で記載はないものの、集落を林道長崎元井谷線が通過しており車輌での訪問が可能。現地では廃屋1軒、屋敷跡1箇所を確認。地形図から鑑み、宅地の1箇所は林道か土場に埋没してしまったと思われる。
 県史によると、高知県から出作農家が入地し定住した集落とのこと。明治末8戸、昭和35年10戸、同57年3戸(※)。明治22年の土地台帳では宅地は置俵(おきだわら)までであるが、明治39年発行の地形図では長崎(ながさき)・信木・ヨラキレには数戸の家屋と集落名が記載され、この間に定住があったであろうとしている。生業として焼畑農業を行い、主な作物は換金用のミツマタ、ほか自給用のトウモロコシ・大豆・小豆・ヒエなど。農家は山林の地主に雇われた「山監督」により管理されていた。出作は大正時代に最盛期を迎え、長崎から奥に出作小屋が合わせて70戸程度も点在していたという。しかしミツマタ栽培は昭和に入ると衰退し、戦中には消滅。出作小屋も昭和10年には20戸程度までに減少した。のち高度経済成長期にも離村が相次いだ。
 また資料『美川村二十年誌』には、昭和40年度に当時の5戸に対し灯火導入の事業が実施されていることが記されている。

※ 下長野を含んだ数値と思われる

 


写真1 林道の案内板。「信木」の文字が見える

写真2 信木橋

写真3 廃屋

写真4 屋敷跡

写真5 土場(屋敷跡付近?)

写真6 集落内の徒歩道

 

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