◆高瀬(たかせ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「徳佐中」(昭和22.3)を使用したものである
所在:萩市川上(かわかみ)
地形図:生雲中/徳佐中
形態:合流部に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約40m?(水面は約80m) 訪問:2022年8月
旧川上村の中北部、阿武(あぶ)川と佐々連(さざれ)川との合流部付近にある。現在は阿武川ダムの人造湖(阿武湖)に水没。
ダム湖南岸の通称「望郷半島」より現地より望むが、集落は完全に水没しており痕跡は皆無。ただし道路沿いには記念碑や「記念像」「卒業記念」とあるモニュメントが集められた一角がある(写真3)。
阿武川歴史民俗資料館に展示された絵地図によると、岡崎22(うち商店2)・藤本9(うち理容店1)・横山4・藤原2・伊藤・江田・大津・岡本・岸・田中・中村・西川・藤貫・藤山・細田・山下各1、教員住宅2(※1)の計51戸。ほか高瀬小学校・高瀬公民館・郵便局・足王様・厳島神社・観音様・妙音寺・川上中学校高瀬分校が描かれている。なお他の展示や村史でも同様に51戸。
※1 資料館に展示のアルバムには、それぞれの写真とともに「山下」および「加藤」と記されている(撮影時期は不明)
村史によると、当地にあった学校の変遷は以下のとおり。
(小学校)
明治6.3.20 |
高瀬に川上小学開設 |
明治12.7 |
川上小学が筏場に移転。同校の支校となる |
明治13 |
川上小学校高瀬分校となる |
明治20 |
校舎破損。天神通夜堂を仮校舎とする |
明治21 |
高瀬簡易小学校となる |
明治25.11 |
川上尋常小学校高瀬分教場となる |
明治31.5 |
校舎新築 |
明治33.10.20 |
高瀬尋常小学校となる |
明治38.10(※2) |
川上尋常小学校野戸呂分教場を本校の所属とする |
明治45.5(※2) |
野戸呂分教場独立 |
昭和2.3 |
高瀬尋常高等小学校となる |
昭和16.4 |
高瀬国民学校となる |
昭和16.7 |
川上東国民学校と改称 |
昭和22.4 |
川上東小学校となる |
昭和25.9 |
台風により校舎損壊 |
昭和28.3 |
新校舎完成 |
昭和28.4 |
高瀬小学校と改称 |
昭和46.3 |
閉校 |
※2 年月はいずれも野戸呂小学校の沿革より。本文では明治33年10月20日に「野戸呂分教会を付属とする」、同38年10月に「野戸呂分教場を合併」、同45年6月に「野戸呂分教場を廃し、野戸呂尋常小学校を開設」とあるが、野戸呂小学校の沿革や「川上小学校統合のあゆみ一覧図」と照合しても不明な点や齟齬がある
児童数の変遷は以下のとおり(抜萃)。
大正5 |
昭和2 |
昭和5 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和19 |
昭和28 |
昭和33 |
昭和35 |
昭和38 |
昭和40 |
昭和42 |
昭和43 |
昭和44 |
昭和45 |
131 |
135 |
132 |
145 |
128 |
119 |
132 |
179 |
156 |
116 |
102 |
83 |
72 |
62 |
3 |
(中学校)
昭和22.4.1 |
川上中学校高瀬分室開設 |
昭和30.4.1 |
移転。青年学校校舎を借用 |
昭和38.4.1 |
高瀬分校となる |
昭和46.3 |
閉校 |
また、高瀬の地名は「地下上申」(元文5〔1740年〕)・「川上村由来書」(寛延2〔1749〕)・「注進案」(弘化2〔1845〕)に小村(※3)として現れている(「注進案」によると当時67軒〔小名除く〕)。小名(※4)として木津原がある。
明治8年の「山口県大区・小区制村名書」には「字地」として記されている。明治22年の自治村政開始の際には木津原を含めて高瀬区となり、昭和37年の区制改定でも同様だが、行政区域に矢櫃が加わっている。
※3 小村(こむら)は、村(この場合川上村)より下位の区域
※4 小名(こな)は、小村より下位の区域。小字とほぼ同義
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