戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆足山(あしやま



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「萩」(昭和15)を使用したものである

所在:萩市川上(かわかみ)
地形図:萩/萩
形態:谷沿いに家屋が集まる
離村の背景:最終はダム建設(非水没地)
標高:約200〜230m?
訪問:2022年8月

 

 旧川上村の北部、足山川(阿武(あぶ)川二次支流)沿いにある。阿武川ダムの建設に伴い離村したが、水没はしていない。
 村史によると、足山の地名は「地下上申」(元文5〔1740年〕)・「川上村由来書」(寛延2〔1749〕)・「注進案」(弘化2〔1845〕)に小村(※1)として現れている。「由来書」では、小名(※2)として上村・中村・弓矢形が見られる。また「注進案」では、小名として上三家(9軒)・久保(5軒)・中村(26軒)・釜ノ元(4軒)・淵ノ上(4軒)・弓矢形(2軒)が見られる。
 明治8年の「山口県大区・小区制村名書」には「字地」として記されており、「小字地」に小原(おばら)・堂ノ本(どうのもと)・高井田(たかいだ)・久保(くぼ)が記されている。明治22年の自治村政開始の際には足山のみで足山区となり、昭和37年の区制改定でも同様

 ダム建設の年表には、昭和45年3月に「足山部落残存者と妥協調印」とあり、集落が最終的にダム建設によって離村したことが分かる。
 伝承では、弓矢形(ゆみやかた)(「弓館」とも)の地名は、当地に落ち延びた平家の落人が、再起を願い密かに弓矢の射場を作ったことが由来という(※3)(阿武川ダム周辺には、川上村・福栄村ともに平家の落人にまつわる逸話が多数残されている)。また唐から帰国した空海(後の弘法大師)が本山を開こうとして諸国を行脚していた際に、当地に来訪。谷を数えたところ999しかなく、1,000に足りないためここを諦め、高野山の地で開山したという。
 なお明治31年6月まで足山分教場が置かれていたが、川上尋常小学校高瀬分教場に併合された(設置時期不明)。

 村としての足山の範囲は不明だが、「由来書」から見ると思いのほか多くの人家があったことが分かる。ただし阿武川ダムの周辺の集落状況の図によると、近年(近代以降か)は18戸であったよう。

※1 小村(こむら)は、村(この場合川上村)より下位の区域
※2 小名(こな)は、小村より下位の区域。小字とほぼ同義
※3 矢櫃
の小字地にも「弓矢形」が見られる。矢櫃の弓矢形の由来も参照


 訪問は谷沿いに開鑿された車道を利用。多少の往来は窺えるものの道幅は狭く、やや荒れておりすれ違いのスペースもごく限られているため走行には注意を要する。
 車道沿いを中心に終点まで一瞥し、数箇所の屋敷跡を確認。道路脇には移設したと思われる墓地が1箇所あり、恩村氏の名が見られた(写真11)。なお
村史では明治22年の足山区の区長が恩村氏である。神社(写真20-23)は集落入口付近の対岸にあるが、簡素な橋が架けてあり容易に渡ることができる。鳥居の扁額には「河内大明神」とあるが、社殿は既になく奥の片隅に何かの祠のようなものが残されているのみ。

 


写真1 足山川と農地跡

写真2 浴槽(以下左岸)

写真3 発動機

写真4 屋敷跡入口

写真5 写真4の遺構

写真6 車道と屋敷跡の石垣

写真7 写真6の遺構

写真8 同

写真9 瓦

写真10 道路沿いの倒潰した小屋

写真11 墓地

写真12 屋敷跡の遺構

写真13 陶器の何か

写真14 貯水槽?

写真15 合流部と農地跡

写真16 車道終点

写真17 屋敷跡の遺構(以下右岸)

写真18 屋敷跡

写真19 写真18の遺構

写真20 鳥居

写真21 鳥居前の池(中央上に鳥居)

写真22 社殿跡?

写真23 神社敷地内の祠?

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ